せめて気付くのがもう少し早かったらな。そんなことを考えながら、夜の廊下を一人で歩いた。教室に戻れば華やかな女子会に参加せざるを得ない。何となく一人になりたくて、コンビニでも行こうかと財布を手に、教室を出た。外からは夏特有の虫の鳴き声が聴こえ、涼しげな夜を演出している。ところどころ明かりのついた教室は、各校が寝泊りしている部屋だ。だけど今日は、一週間の折り返し地点でもある三日目の夜。各校の主将と副主将が集まってミーティングが開かれている。何も考えたくなくて外に出たのに、前を通った教室から聴こえてきた笑い声に、自然と肩の力が入った。たくさんの声が重なっている中で、クロくんのものはすぐに判別がついた。それは私に向けられたものではないのに、胸が張り裂けそうになった。私に向けられたのは背中。好意どころか、嫌悪感さえ抱かれているのかもしれない。どうして彼が、私と同じ気持ちを持っているかもしれないと愚かな期待をしてしまったんだろう。
明かりのついていない玄関口。非常口の緑色の電灯だけがかろうじて歩けるほどの小さな光を放っている。その暗闇の中で赤いジャージが動いた。一瞬ドキッとしたが、今は主将会議中だ、クロくんじゃない。恐る恐る近付いてみると、音駒の黒いTシャツに赤いジャージを履いた犬岡くんだった。
「犬岡くん?」
「あ!梟谷の…」
1年生との合宿は初めてだが、前の練習試合の時に会っている。名前は分からずとも、顔くらいは覚えてくれたのだろう。
「梟谷の苗字です。こんな時間にどこか行くの?」
「えーっと…、コンビニに行こうと思いまして!」
確かに、ロードワーク用の外履きが彼の手にはあった。行き先は私と同じか。一緒に行こうか、と誘ってみると、犬岡くんは元気に何度も頷き、名前の通り犬のように尻尾をはち切れんばかりに振ったような気がした。
「何買いに行くの?」
「猛虎さんにブラックコーヒー頼まれたんです。」
森然高校を出て階段を下り、暗い夜道を二人で歩く途中、気まずくならないよう話を振った。山本くんがコーヒー?ちょっと違和感を感じ、詳しく聞くと、今山本くんが烏野の教室に遊びに来て、同じ2年生の西谷くんや田中くんと、騒いでいるとのこと。なんでも、潔子ちゃんの気を引く特訓をしているそうで。なんだか楽しそうだねって言うと、犬岡くんは少し困った表情を見せながらも、そうですねと笑った。
「あの、俺まだ1年なんで分からないんですけど!苗字さんってクロさんと付き合ってるんですか?」
目的の物を購入し、コンビニから出てもうすぐ学校に着くというところで、犬岡くんは興奮気味に目を煌めかせた。タイムリーな話題に一瞬たじろぐと、それを肯定だと受け取ったのか、彼はやっぱりそうなんですね!と一人で納得し始めてしまった。ああ、ここで付き合ってるよと言えればいいのに。私に向けられた背中を思い出して、ぎゅっと拳を握った。
「違うよ、付き合ってないよ。」
「え、そうなんですか?猛虎さんとかが言ってたから、てっきりそうなのかと…」
本気で申し訳なさそうに眉を垂らす犬岡くんに、大丈夫だよと言った。
「なんか色々勘違いされてそうだけど、ほんとは全然違うんだよ。」
違うの。クロくんは全然、私のこと何とも思ってなくて、私の独りよがりで。そう言って否定しているうちに、どんどん目頭が熱くなってきた。ここで泣く訳にはいかない。上を向いたり目を掻く振りをして、なんとか涙が溢れてこないようにした。そんな私の隣で何も気付かない犬岡くんは「そうなんですか!でも、お似合いだな〜って思ってました!」って笑った。ずるい。涙の膜を張った目をごしごし擦って、「そうなんだ」って言って誤魔化して。お似合いだっていうその言葉に救われた気がした。
学校に戻り、やっぱり明かりのついていない玄関。犬岡くんは靴を脱ぎながら、「まだやってんのかなー…」と教室で繰り広げられている情景を思い出したのか、小さくぼやいた。そんな彼を見上げ、微笑んだときだ。真っ暗だった玄関に突然明かりがついた。誰か来たのかと顔を上げたとき、空気がぴしりと凍りついた気がした。
「クロさん…」
鈍感そうな犬岡くんでさえ分かるほどの怒気を放って仁王立ちしているクロくんの姿があった。気がしたのだけれど。思い過ごしだったのか、クロくんは少し怠そうに、こちらに向かって歩いてきた。確かに、顧問や主将に何も言わずに学校を出てコンビニに行くのはまずかったかもしれない。
「犬岡、何勝手に外ほっつき歩いてんだ。」
「す、すいませんでした!」
怒鳴られるのかと思ってびくびくしていたが、隣で犬岡くんが軽く小突かれただけだった。
「お前、コーヒー飲むのか?」
「あ、これ猛虎さんに頼まれてたんです!渡してきます!」
うまい具合に犬岡くんはこの場を去る理由を出し、脱いだ靴を持って走って校舎に入って行ってしまった。ぽかんとその後ろ姿を見つめていたが、すぐにこの状況を理解した。クロくんと二人。一昨日の夜からこれだけは避けてきたのに。喉の水分が失われていく、この感じ。私も靴を脱ぎ、クロくんの前を俯いたまま通り過ぎ、教室に戻ろうとした。
「気分、いいだろうな。」
ぽつりと掛けられた言葉に、足が止まった。それは紛れもなく、クロくんが私に浴びせた言葉だ。それをどんな感情で発したものなのか分からないし、分かりたいとも思えない。先ほど押し込めた涙が、再び簡単に膜を張る。気を抜いたら今すぐにでも零れ落ちそうだ。
「うちには女子マネいないし、ちやほやされていい気分なんだろ。」
「…なに、それ。」
クロくんがこんなことを言うのは、初めてだ。いつもしっかりしていて、人をおちょくるのが大好きで、でも何だかんだ優しい。今のクロくんは怖くて、まるで知らない人の前に立っているみたいだ。いつもみたいに、馬鹿にしてもいいから、からかってもいいから、笑ってよ。なんでこんなに機嫌が悪いのか、全然分からないし。嫌いなら、構わないでと、そんな意地を張っても意味のないことは、もう知ってる。
「思わせぶり女。」
その言葉に、悲しみよりも何よりも、怒りが沸き起こった。どっちが。マネージャーの中で私にだけ構ってきたり、他校の生徒に絡まれていたところをあんなふうに助けてくれたり、一緒にご飯食べに行ったり。クロくんの気まぐれに振り回されて、私はこんなにクロくんでいっぱいなのに。もう我慢なんて出来ない。両方の頬を、幾筋もの涙が流れた。
「それはクロくんでしょ!」
二人しかいない玄関口に、私の悲痛な声が響いた。突然怒鳴ったし、涙もぼろぼろと零れてきたからさすがに驚いたのか、クロくんの表情から一瞬気が抜けたように見えた。けれどすぐに元に戻って、再び不機嫌オーラが漂い始める。
「はっ!?苗字の方だろ!」
「クロくんです!」
「俺は…っ!」
なんでこうなっちゃったんだろう。友達でいるだけで楽しかったのに。好きだって思ってしまって、私を意識すればいいのにって欲が出た。私があの夜、逃げ出したから?あのとき、クロくんに背中を向けられたから?後悔だけが今に残る。
「俺は思ってんだよ!」
声を失くした。息をするのも、涙を流すのも忘れて、クロくんの言葉でいっぱいになる。何を?何を思っているの?もし、一緒だったらと、期待が胸を高鳴らせる。クロくんの頬は微かに赤みを帯びていて、握った拳だって少し震えている。でも、臆病な私は、聞けない。
「…私だって、思ってるんだよ…。」
何を、とは言わない。言えない。好きなのに、好きになってほしいとは思うのに、告白する勇気がないなんて滑稽だ。クロくんの言葉には、そう小さく返答するのが、精一杯だった。