ついに最終日を迎えてしまった。校舎の廊下の大きな窓から見える朝日はとても清々しいもので、なんだかそれに溜息がこぼれた。そんな私の横を、元気にドタドタと足音をたてて木兎たちが駆けていく。
「苗字!今日も頑張るぞ!」
擦れ違いざまに掛けられた声に、小さく微笑みが浮かんだ。今日は午前で練習が終わり、その後は部員全員が待ちに待ったバーベキュー。最終日ということもあり、梟谷は今日も意気込んでいる。それをサポートするのが、私の仕事。でも、彼を想うことも、許してほしい。
「朝から木兎はうるせーのな。」
廊下を走ってきた木兎の後ろから、クロくんが欠伸を噛み殺しながら歩いてきた。三日目に大規模な寝坊をしてから、音駒は他校からも目覚ましを借りて朝に備えるようにしていた。そんなにか、と思ってはいたが、それから寝坊することもなくなったのだ。
「おはよう、クロくん。」
「はよ。」
窓際に立つ私の隣に来て、一度足を止めてそう言ってくれた。たったそれだけのことで、こんなに嬉しく思ってしまう。私の心はこの合宿で、前よりも素直になった気がする。態度はそうはいかないかもしれないけれど。今では素直に、好きだと思える。
「最終日、お互い頑張ろ!」
明るく、明るく、笑って。今日が終われば、またしばらく会えなくなる。終わらなければいいって思ったって、あと数時間でお別れなんだから、せめて今だけは楽しい時間を過ごしたい。練習が最優先だけど。クロくんは短く「おう」と答えてから、私の横を通り過ぎて行った。
梟谷対烏野の最終戦が終わり、合宿の全試合が終了の笛が響いた。25対23と意外とぎりぎりな結果となった。最後に木兎が持ち直してくれてよかった。俺最強!と豪語する木兎に呆れながらも、内心では感謝もしているし、尊敬もしている。
「アレが単細胞ってやつか…」
へいへいへーい!と騒ぐ木兎を見て、マネージャー三人で頷き合った。今回の合宿も、梟谷は好成績を残している。ペナルティも14回と、今までで一番少なく抑えられている。この7日間、なかなか良い練習になった。
「さーて、私たちはバーベキューの準備行かなくちゃ。」
先に終わっていた生川と森然の真子ちゃん英里ちゃんはもう準備に取り掛かっているのだろう、体育館に姿はなかった。準備と言っても、網や炭運びなどは先生たちがやってくれたから、野菜を切って鉄串に刺すだけだけど。その間、彼らは自主練の時間となる。お腹を空かせている部員たちのために、少しでも早く終わらせてしまおうと、私たちは外の手洗い場に急いだ。
切った野菜を次々と焼き始めていると、モップ掛けを終えた部員たちがぞろぞろと体育館から出てきた。一人一人に紙コップと紙皿を配り、ジュースを注いでいく。「ありがとうございます!」とキラキラした笑顔で日向くんに言われ、眩しすぎて思わず目をつむってしまいそうになった。本当に太陽みたいな子だな。注いであげたジュースを持って、木兎の方に走って行った。
「1週間の合宿お疲れ諸君!」
音駒高校の猫又先生が前に出て、威厳ある声でそう言った。今回の合宿で烏野高校が参加できたのは、猫又先生の計らいあってのことだと聞いた。だから先生の話をみんなが真剣に黙って聞いている。のかと思いきや、隣からはグゥと空腹を訴える音が聞こえた。雪絵は食いしん坊だからな、と内心笑っていると、すぐに先生からいただきます!の号令が発せられた。と、同時に部員たちは一斉に肉に飛び付いた。
「すごい争奪戦…!」
そう呟いた私の隣で、雪絵は早くもおにぎりをぺろりと平らげていた。私も端っこから恐る恐る野菜を取り、そそくさと女子マネの集団に戻った。
「楽しかったねー!合宿!」
「本当に。でもちょっと、寂しい。」
紙コップを両手で持ったまま、寂しげに言ったのは潔子ちゃんだった。烏野は今日の夕方、バーベキューが終わったらすぐに仙台に帰るのだ。せっかく仲良くなれたのに、東京に残る私たちも寂しい。
「また遠征のとき、お菓子パーティーしよ!」
潔子ちゃんも3年生だ。これが最後の夏になるし、遠征があるとしてもあと数回しかないんだろう。元気づけるようにそう言うと、潔子ちゃんは嬉しそうに頷いてくれた。
「苗字!」
女子の中でキャイキャイやっていると、不意に名前を呼ばれ、声の主の方を見ると、木兎が大きく手招きしていた。隣には今回の合宿で仲良くなったであろう、烏野1年の月島くんと赤葦が二人して呆れた顔をしていた。何か面倒なことにならないといいけど、と思いながら渋々そちらに向かった。
「苗字、黒尾のコップが空いてるぞ!」
そう言いながら強引に渡してきたのはお茶のペットボトルだった。中にはまだたくさん残っていて、突然受け取ってしまったから、重くて落としそうになった。
「は?」
「だから!黒尾にお茶持ってってやれって!」
木兎の指さす方を見ると、体育館の出入り口の石段に座って、クロくんと孤爪くんが二人で話していた。
「…やだよ。」
たぶん木兎にからかうとかそういうつもりはなく、きっと木兎なりに気を遣ってくれたのだろうけど。赤葦が隣で「すいません。言うこと聞かなくて」と親みたいなことを言っている。
「いいから!行けっ!」
背中をバンッと強く押され、縺れたまま足が勝手にそっちの方に向かってしまった。慌てて引き返そうとした時にはもう遅く、クロくんは座ったまま「何やってんだ?お前」と少し呆れたように聞いてきてしまった。
「あ………、お茶、いる?」
石段に置かれた紙コップを指差すと、「さんきゅー」と言いながら紙コップを差し出してきた。孤爪くんもいる?と言おうとしたら、さっきまでいたはずの孤爪くんの姿がなくなっていた。
「あれ?」
「研磨、猫みたいなやつだろ?」
なぜかクロくんが得意気にニヤリと笑った。あ、そっか、幼馴染みなんだっけ。どこか羨ましく思いながら、クロくんの隣の石段の腰を下ろした。視界の端では木兎が何だか騒いでいるけれど、知ったことか。
「早かったな、一週間。」
少しだけ西に傾いた太陽の光を浴びながら、クロくんはぼそっと呟いた。色んなことがあって、色んなことを考えて。本当に、あっという間に過ぎていった。でも、私の生活の中心には、いつもクロくんがいた。いつでも姿を見ることができて、話すことができた。また、別の学校に戻るんだ。
「本当に、楽しかった!」
当り障りのない会話だけれど、心からそう思っている。クロくんとも、たくさん話せた。連絡先だって交換してしまったのだ。今までにないくらいの進歩だ。だから、欲張ってはいけない。いけないのに。
「なんだかんだ苗字がこっちの手伝いもしてくれて本当に助かったよ。ありがとな。」
クロくんの優しい言葉は、私の涙腺を簡単に刺激する。これでおしまいなの?私はもっと手伝いたい。近くで見守っていたい。隣で応援していたい。叶いもしない願いに、嫌気がさす。思い残しがあるとすれば、それはあの言葉の意味。
「クロくんはさ、何を…思っているの?」
待ってるだけじゃダメなんだと、言われた。その通りだと思ったから、私は最後にそれを尋ねた。顔は俯かせ、髪で表情を隠す。真正面からは聞けない。伝われ、伝われと心の中で何度も何度も唱えた。周りの喧噪の中、耳の奥で心臓の高鳴りを感じながら、ただひたすらクロくんの答えを待った。
「…苗字のことを思ってる。」
そのままの答えだった。私のことを、思っている。それは、私と同じなの?口の中がからからになりながらも、必死に次の言葉を考えた。
「おーい、どっかお茶残ってねえ?」
そのとき、タイミング良くも悪くも、近くで森然の主将の小鹿野くんがきょろきょろとお茶のペットボトルを探していた。お目当ての物は、ここにある。まだ話の途中だし、きっと今ここでクロくんから離れたら、それっきりになってしまう。私が迷っている間も、小鹿野くんはお茶を探していた。きっとこれが潮時なんだ、と言い聞かせて。ペットボトルを持っていこうと立ち上がり、足を一歩、前に出す。背中を向け、立ち去ろうとした身体が、思うようには動かなかった。
「行くなよ。」
掛けられたのは、低くて、どこか切羽詰まったような、そんな切ない声だった。