最高気温32度の真夏日。花火を控えた昼間の天気としては申し分ないけど、さすがに暑すぎる。午前練を終え、一年生がネットやポールを倉庫に運び入れるのを目で追いながら、全開にした下小窓の付近でうちわをパタパタと仰がせている部員たちにタオルとドリンクを配る。
「今日何時に集合なの〜?」
「うーん、5時とかかなぁ…」
「せっかく午前練だけなんだから、昼間っからデートすればいいのに。」
部員たちにありがとうと声を掛けられながら、二人のマネージャーに挟まれ何故か攻撃を受ける。昼間からデート、も心躍るイベントではあると思うけれど。それは付き合ってもいない私たちには少し筋違いな気もしてしまう。花火だけで、十分。
「浴衣着るの?」
「う、うん。着ようかなって…。気合入りすぎかな?」
恐る恐る尋ねると、二人は揃ってそんなことない!と強く否定してくれた。昨日の夜、電話の後にお母さんに頼んで出してもらった淡い紫色の浴衣。友達としか着たことのない浴衣を、初めて男の人のために、好きな人のために着れるなんて。今日のことを考えたら胸が弾んで夜も眠れず、部屋のクローゼットの取っ手にハンガーに掛けて、横になりながらずっと眺めていた。付き合ってないけど、これくらいはいいよね。でも、気合入ってるって思われちゃうかな。そんな板挟みな思考を掻き消すように、二人は背中を押してくれた。あと数時間後のことを考えると、自然と頬が緩まっていたようで、両隣から顔ニヤけてるよと指摘を入れられた。
「あっちーな、ほんと!」
「ただでさえ高い気温を、あのバカが更に上昇させてるな…」
次々とドリンクを配り、最後に下小窓のそばで集まっている木葉と猿杙、小見の三人に近付いたところで、その会話が聞こえてきた。彼らも常備しているうちわを暑そうにバタバタ勢いよく仰いでいる。三人の視線を追うと、遠くではしゃいでいる木兎の姿があった。
「苗字たちも行くか?」
座っている猿杙にボトルを渡すと、ありがとうと垂れた目でこちらを見上げ、そう続けた。何の脈絡もない発言に、私たちは揃って首を傾げる。その間もよく聞き取れないが、木兎は何やら大声で赤葦に絡んでいた。それを鬱陶しそうにあしらう赤葦も、今となっては部の日常茶飯事だけど。
「どっか行くの?」
「バレーすんだよ!お前らも来るだろ?」
背後から掛けられた突然の声に三人揃って驚きを隠せず、わっと小さく声を上げてしまった。赤葦の番が終わったのか、汗のせいかキラキラ輝く屈託のない笑顔を浮かべた木兎が立っていた。そんな彼にタオルとドリンクを渡して、かおりは「まだやるの?ほんとバレー馬鹿だね」なんて呆れたように笑っている。
そんな彼女たちを余所に、脳裏に過ったのは、浴衣。家帰って、お風呂入って、髪の毛セットして、浴衣着付けして。それでちょうど5時に間に合う、はずだった。「しょうがないな〜」なんて承諾している雪絵達を見て、高揚していた気分が冷たく凍り付いていく。
「苗字は?行くだろ?」
木兎の純粋無垢な瞳を見れなくて、咄嗟に視線を逸らした。首を横にも縦にも振れない私の代わりに、かおりが午後に用事があることを告げてくれる。あからさまに肩を落とす木兎に、胸が痛む。しょうがないね、なんて口を揃える仲間たち。一人マネージャーが行かないくらい、体育館を借りての自主練に支障は来たさない。でも、そういう問題じゃない気がする。真っ直ぐ春高への目標に向かって練習しようという仲間を差し置いて、私だけ浮かれてなんて、いられないじゃない。浴衣を着ていくなんて約束はしていないし、少しでも可愛く見られたいっていう、ただの自己満足だから。あーあ。部屋で帰りを待っている浴衣が、今頃私を想って泣いてるよ。
「…私も行く。」
クロくんは3割、部活が7割。そう言ったのは私だし。自分に出来ることなんて大したことはないけど、みんなと一緒に全力でやりたい。不安そうに私を見るかおりと雪絵に、待ち合わせに間に合うように出るから大丈夫だよ、と笑って見せた。
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少し考えれば分かることだったのに。ボール出しをしたり、練習の記録をしたり、時間はあっという間に過ぎていき、次に時計を見たときには本来乗るべき電車が出発した20分後だった。音駒の近く、ということは梟谷からは一時間ほど掛かってしまう。慌てて待ち合わせの時間を一時間遅くしてもらい、汗だくになりながら駅まで走った。せめて一度家に帰ってシャワー浴びて着替えたかった。時計を一切見なかった過去の自分を悔やむ。花火に向かう楽しげな人々に揉まれながら、電車の窓に映る冴えないジャージ姿の自分の顔をぼうっと眺めていた。
一応、学校を出るときに制汗スプレーはかけた。駅のトイレで前髪を整え、少しだけチークを上塗り。最後にリップを付けて、足早に待ち合わせの改札に向かった。待ち合わせ時間を遅くしたせいか、もう駅は人で溢れ返っている。きょろきょろと辺りを見回してみても特徴的な髪形の長身は見付からず、券売機の近くの壁際に寄った。
会うの、久しぶりだ。それに二人でなんて、よくよく考えたらすごいことだな。心中は全く落ち着かなくて、さっき整えたばかりの前髪を指でいじってみたりする。そんな前髪の隙間から見えた、声を弾ませながら通り過ぎた腕を組む浴衣姿のカップルに目を奪われ、見えなくなるまで視線で追ってしまった。いいなぁ…。
「わりぃ!待った?」
それからすぐにクロくんが現れて、素直にドキンと胸が鳴る。見慣れた赤のジャージ姿が眩しい。久しぶり、と控えめに言うと、クロくんは歯を見せて笑った。
「苗字もジャージかよ。」
「クロくんだって!」
「午前練の後、結局自主練だったからなー」
そう喋りながらクロくんは慣れたように歩き出したから、私も慌てて彼を追った。こうして並んで歩くのは、あの大会を見に行った日以来だろうか。自主練の後バレー部で近所の体育館を借りてバレーをした、というどこかで聞いたことのあるような今日の話を楽しげに話すクロくんを見上げる。どこもかしこもバレー馬鹿ばっかりだなぁ、と頭の片隅で思いながらも、バレーに一心不乱な彼を魅力的に思う。
「ってかお前は?てっきり浴衣で来てくれるものかと思ってたんですけど?」
話を聞きながら隣でくすくすと笑っていると、今度はクロくんがニヤリといやらしい笑みを浮かべながら、腰を折って私の顔を覗き込んできた。そのワードに、目を伏せてしまう。彼が本気で言っているわけではなくて、からかっているだけだって分かるけど。私だって、着たかった。少しでも可愛いって思ってもらいたかった。
「悪かったねー、芋くさいジャージで!」
伏せた目には、真っ白な梟谷バレー部のジャージが映り込む。可愛いことが言えないから、姿だけでも可愛くしたいと思ったけど。結局、私は浴衣よりもバレーを取ってしまったのだ。そういう考えも、可愛らしくはないんだろう。はあ、と小さく溜息をこぼすと、クロくんは新しいオモチャを見付けたように隣で喉を鳴らしながら笑い始めた。
「なんでよ?俺、苗字のそういうとこ好きよ?」
ひゅ、と自分の息を飲む音が耳に響いた。突然の発言に呆気に取られていると、クロくんも自分の発した言葉の重大さに気付いたのか、大きな手の平で口元を隠していた。いや、分かってる。クロくんはきっと、そういうつもりで言ったんじゃない。いつものからかいの延長線上。そう言い聞かせても、理解はしているつもりでも、高鳴る鼓動が止まらない。緩んでしまいそうになる口をきゅっと結んで些細な一言の喜びを噛み締めていると、さっきより少し離れたクロくんが、あーつまり、と言葉を続けた。
「部活一生懸命なお前も、いいんじゃねえの。」
クロくんは私を喜ばせるのが本当に得意のようだ。今日の選択が正しかったのだと慰めてくれるような言葉に、思わず目頭が熱くなった。毎日部活部活って、たまに嫌になることもある。早く全部終わってしまえって。電車に乗る浴衣姿の女性たちも、駅を行くカップルも、楽しげな様子を見て心から羨ましいと思った。でも今、私とクロくんを繋ぐものは確かにバレーであって、お互い同じ場所を目指して頑張っている仲間のような、ライバルのような、そんな関係。私は選手じゃないけれど、彼がそう言ってくれたことで、クロくんの仲間でもライバルでもいられるように、もっともっと頑張りたいって思えた。
がしがしと頭を掻いているのは、彼なりの照れ隠しなのだろうか。「ありがと」と小さく口ごもると、「どういたしまして?」といつもの調子を取り戻した、少し小馬鹿にするような声が届いた。