あ、好き。触れたい。待って、手を繋ぎたい。こっち向いて。笑って。名前を呼んで。色んな感情が頭を過る。一歩先を歩く大きな背中とか。お腹が空いているのかキョロキョロと周りの屋台に奪われている人より少し小さめな瞳とか。他愛のない話をする度にニヤリと笑って光る白い歯とか。なんでだろう、久しぶりに会えたからかな、胸が締め付けられる。帯なんてしてないのに、ぎゅうって。周囲の喧騒の中、仲睦まじげに手を繋ぐ浴衣姿のカップル達が四方八方を行き交っている。私も、その空いている手を握れたらいいのに。
「おーい、どしたー?」
「…え?」
「え?じゃねえよ。疲れたか?」
私よりも大きな男の人の手。ぼんやりと見つめていたその手を持ち上げて、クロくんが目の前で左右に振っていた。あ、ぼーっとしてた。暑さにやられたか?なんて心配してくれるクロくんに、大丈夫と答える。暑さにはやられているけど、それは今に始まったことじゃないし、この熱の原因も夏だけじゃない。
「クロくん、お腹空いてるんじゃない?何か食べたら?」
「あー、食いたいかも。苗字は?」
「私はかき氷食べたいかな。」
会場に近付くと次第に屋台の数が増えていき、同じ料理でも色んな場所で出していて屋台によって値段や味が違ったりする。並んだ屋台を吟味して、クロくんはこれに決めたとでも言うように人差し指で一つのお店を指した。無造作な黒髪の向こうに、焼きそばの文字が見える。じゃあ私はその隣のかき氷にしようかな。そう告げようとした時、クロくんの視線が私から逸れていくのが見て取れた。
「あれ、黒尾じゃん!」
聞き慣れた名字を呼ぶ、私よりも高い声。振り返ると浴衣の女子が二人、驚いた様子でクロくんを指差していた。露になったうなじに揺れる髪飾り。私がしたかった姿そのものを具現化したような姿に、目を奪われる。私よりも少しだけ背が小さく、仲が良いのかクロくんの二の腕辺りに手を添えている。
「あれ、何してんのお前。」
「それこっちのセリフ!なになに?カノジョ?」
クロくんに話し掛けながらも、チラチラと突くような視線をこちらに向けて、一人の女子が言った。二人ともからかうようにニヤッと口元を歪ませている。二の腕に添えた手で、バンバンと叩いて「いつの間に!」なんて続ける。単なるボディータッチ。私だって日常会話で「ちょっと止めてよー」なんて言いながら木葉にやったりするもん。だから別に何も特別なことじゃないのに。私にはそこがスポットライトに照らされているように見えて、ぼんやり見つめることしかなかった。
「カノジョじゃねーよ。」
そうこうしている間に、クロくんの呆れたような声が上から降ってきた。叩かれていた手を持ち上げて困ったように後頭部を掻いている。やっと離れた手に、私も視線をクロくんに移す。クロくんは何でもないように、そう言ってのけた。でもそうだよね、彼女じゃないもんね。じんわりと瞳に膜が張るのを自覚して、意図的に瞬きを抑えた。
「えーうっそ!」
「…部活のだよ。」
そう言われて浴衣の女子たちは私のジャージ姿に一瞥してから「ふーん、そっか」と納得していた。部活の、何だろう。よくよく考えれば、私とクロくんとの関係なんて有って無いようなものだった。私は彼に好きだと言った。あの日、合同合宿の最終日、西日に照らされながら、待っているだけじゃダメなんだと思って自分の気持ちを告げた。でも結局、クロくんの気持ちは今でも聞けていなくて、ただ待っていろって。何を待ってればいいの?クロくんの気持ちも分からないまま、不確かな未来の何を楽しみに待っていればいいの?部活が終わって引退をすれば、クロくんの気持ちが私に向いてくれるって、彼女になれるって、なぜか勝手に思い込んでいた。けど、カノジョじゃねーよって、部活のだよって、彼の言葉一つ一つが甦っては胸を抉る。
「ってかお前彼氏は?なんで女子二人?」
「うっせ!一週間前に振られましたー!」
学校の友達なのかな、とても仲良さげにそんな話を繰り広げている。クロくんはいつも私を小馬鹿にするようなのと同じ表情を見せていて、泣きたい気持ちでいっぱいになった。
そっか、私クロくんが他の女の子と話してるの見るの、初めてなんだ。梟谷グループのマネージャーの中でクロくんと一番仲良いのは自分だって、心のどこかで感じていた。でもクロくんのコミュニティはバレーだけじゃない。同じクラスの子とか、廊下ですれ違う隣のクラスの子とか、同じ体育館を使う女子バレー部の後輩とか、私が知らないところにもクロくんの友達はたくさんいることだろう。その中にきっと、彼のことを好きな子とか、昔付き合っていた子とかだって、いるんだろう。私はクロくんのこと何も知らなくて、学校が違うっていうだけでこんなにも、こんなにも遠く感じるなんて。
「じゃ、楽しんで!また学校で。」
「おう、そっちも。」
私も音駒だったら。なんて数えきれないほど思った。それでも今更変えられない事実の中で、学校が違っても頑張ろうって、少しでも彼の支えになって応援してあげようって、前向きに考えたりもして。現実を突き付けられる。鈍器で頭を殴られるような衝撃。私はクロくんのカノジョでもなければ、クラスメートでも無い。今ここに二人で立っているのに、花火を見に来ているのに。私は彼が好きなのに、好きで好きで仕方ないのに。全くの無関係なんだ。せっかく二人で花火に来ているのに、どうしてこんな気持ちになってしまうんだろう。どうしようもない現実に、瞬きなんてしなくたって呆気なく涙がこぼれた。
「え、苗字!?」
「ごめ、ちょっと砂、目、入った…」
珍しいくらい切羽詰まったクロくんの声。締め付けられた胸から嗚咽が込み上げてくる。ぼろぼろと止めどなく流れ落ちる涙を砂埃のせいにして、私は目をごしごしと擦りながら彼に背中を向けた。
「砂入ったのか?」
「ん、ちょっと洗ってくる…。焼きそば買ってて」
痛い。擦りすぎた目も、クロくんのせいで高鳴った心臓も、全部痛い。ぼやけた視界の端っこでクロくんは心配そうに覗き込もうしたけれど、私がそれを許さなかった。こんな自分を見られたくない。醜い嫉妬に駆られて、素直に『待ってる』こともできない私は、クロくんに釣り合う女性からは最も遠い場所に立っている気がして、涙が止まってくれない。噛み締めた歯の隙間から嗚咽が迸り出るのを必死に堪えながら、近くの公園に駆け込んだ。
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駅から花火大会会場の河原までの道にある、小さな公園。ここからでは生い茂った木が邪魔で花火が見えないからか、手にフランクフルトや綿飴を持って楽しげに談笑しながら歩く人々はこっちを見向きもせずに通り過ぎていくだけだ。いくつかあるベンチの一つには出店で買った夜ご飯を並んで頬張る浴衣姿のカップルが一組いるだけだった。
早く元に戻さないと。水飲み場で出しっぱなしにした水で赤くなった目を冷やしては鏡で確認を繰り返す。けれどそう簡単には治ってくれない。薄く膜を張り続けている瞳から水分を吸収するため、ハンカチで上からぽんぽんと軽く叩いた。
「ひっ!?」
目元をいじるのに必死になっていて、背後に近寄った影に全く気付かなかった。突如頬を襲ったピリッとした感覚。それが『冷たい』と気付いたのは、視界にクロくんの顔と一緒にラムネの瓶が映り込んでからだった。意図が汲み取れずぽかんとしていると、「あげる」という低い声と共に半ば強引にラムネを渡された。
「あ、ありがと…」
「どーいたしまして。砂は取れたのか?」
「うん、もう大丈夫!ごめんね。」
腰を屈めて顔を覗き込みながら私の瞳をじっと見つめるクロくんの鋭い視線。泣いていたことまで見透かしてしまいそうで、思わず視線を地面に落とした。そして話題を逸らそうと思って、クロくんの手にはない焼きそばのことを尋ねた。買ってこなかったのだろうか。するとクロくんは公園の隅っこにあるベンチの一つを指差した。浴衣のカップルがご飯を食べている隣のベンチだ。上にプラスチックのパックとクロくんのエナメルバッグが置いてある。
「花火までまだ少し時間あるし、食べてこうぜ。苗字もかき氷買ってきなよ。」
「うん…、私はいいや。ラムネあるし。」
かき氷、さっきは食べたかった。クロくんと、何味が好きかとか話しながら買って、シロップの色が付いた舌を見て笑い合って。でも残念ながら今はもう、そんな気分にななれない。最後に一度目元を拭って顔を上げる。大丈夫、もう元通り。泣いたことには気付かれていない。そう言い聞かせて、ベンチに向かって歩くクロくんの後ろを追った。
「お前も食うか?一応箸もらってきたけど。」
「ううん、大丈夫。ありがと。」
少しだけ距離を空けて、並んで座ったベンチ。木々が風に揺れてざわめいている。部活が終わってから何も食べていないのか、隣でクロくんは焼きそばを勢いよく口に運んでいた。お箸を持つ手とか、大きな口とか、男の子なんだなぁ、なんて当たり前のことを考えてしまう。もともと量が少なかったのか、あっという間に食べ終わってお箸を簡単にボキッと折ってパックにしまった。そして「ごちそーさまでした」と合掌してから、エナメルバッグからスポーツドリンクを取り出して喉を鳴らしながら流し込んだ。うちの木兎なんかもコンビニ弁当を食べ終わったときって、こんな風だった気がする。男子高校生どこも同じなんだな、なんて思っても、やっぱりクロくんだけが特別な気がしてしまう。でも、クロくんにとっての私は…。ああ、また。ネガティブな思考を紛らわすように、彼に向けていた視線を両手で持っていたラムネに落とした。
「あ、ラムネのお金…」
「いいって。さっきのお詫び。」
「さっき?」
「嫌な思いさせたかなって。」
ペットボトルから口を離して、彼は瞳だけこちらに向けた。ドクンと、心臓が嫌な音を立てる。さっき、って。再び目を伏せて、彼の方を見ないようにした。
「さっきのクラスメートなんだけど、この花火大会彼氏と行くって言ってたからさ。」
きゅっと、無意識のうちに唇を結んだ。どうしてわざわざそんなことを言うんだろう。心底どうでもいい。そう思ってしまう私は、なんて心が狭い女なんだろう。たぶんクロくんと両想いで、ちゃんとカノジョだったら、もっと心に余裕もあってクロくんの友達の話を聞いてあげられたかもしれない。でもね、違うんだ。私、今そんな余裕ない。
「…うん、嫌だった。」
「え、おう、わりぃ。」
「……違うよ。私が嫌だったのは、クロくんだよ。」
泣きたい私の代わりに結露の涙を流すラムネの瓶から顔を上げて、クロくんの目をじっと見つめる。嫌だよ、私。クロくんからどんなに嬉しい言葉をもらっても、それが不確かな未来には繋がっていかない。クロくんの気持ちが見えない。霧の中を顧みずに走り続けることは、私にはできない。
「…俺?」
至極驚いたような表情を見て、下唇を噛み締めた。膝の上に肘を置いて両手でペットボトルを持つクロくんは一度視線を落として考える素振りを見せた。身体の表面は暑いのに、内側が冷え切っていくような感覚。もしかしたら、もう終わりになるかもしれない。毎日連絡を取ったり、電話までしてしまった夢のような数日間が、これで終わってしまうかもしれない。確かに私たちはバレーが最優先で、彼氏彼女なんて作っている暇も余裕もないけれど。でも、それでも、こんな曖昧なのは嫌だ。せめてクロくんの気持ちだけでも、聞いておきたいなんて。私はいつの間にこんなにも欲張りになっていたんだろう。
「私、クロくんのことが好きだよ…」
好きなんだよ。溢れ出てくる気持ちをそのまま舌に乗せたら、必ずこの言葉が出てくる。もう顔は見れない。瓶の表面を覆う結露を、すっと親指の腹で拭ってやった。
「だから待つよ。待つけど…、けど、待って待って、待ったら、そしたら私たちは、どうなるの…?」
心の中に巣食う不安の全てだった。待ってていいの、なんて言ったくせにね。本当は不安だった。俺のことだけ考えながら待ってろなんて言ったくせに、待った挙句に「はいさよなら」なんて、笑えないでしょ?たった一言でいい。一言でいいから、この不安を取り除く言葉が欲しい。縋るような視線を、彼に向けた。
「……俺が待ってろって言ったのは、」
何を考えているのか、クロくんは真っ直ぐに手の中のペットボトルを見つめながら、小さく口を開いた。
「たぶん、離してやれなくなるから。」
ゆっくりと顔がこちら側に向く。切れ長な目が私を捕える。突き刺すような視線の糸がぐるぐると身体を縛り付けていくような感覚。彼の本気が伝わってきて、もう目を逸らすことが出来そうにない。
「今ならまだ間に合うぞ、って警告だよ。」
「…警告?」
「俺がバレーに夢中になってる間なら、これからもし他に好きなヤツができたって離してやる。…我慢する。苗字の好きにすればいいよ。……本当はすっげー嫌だけど。でも春高が終わったら」
初めて聞く彼の本音に、全ての神経を集中させた。随所に挟まれる彼の言葉が一つ一つ心に響いては喜色の波紋を呼ぶ。一語一句も聞き逃したくなくて、内側から胸を叩く鼓動の音も、夏を叫び続ける蝉の鳴き声すら煩わしく感じた。
「苗字のこと、絶対離してやれない。」
いつもの意地悪な方じゃない。面倒見がよくて、優しくて、そんな頼れる存在のような朗らかな笑み。息をするのも忘れて見入ってしまう。けれどそんな穏やかな表情は一瞬で終わってしまい、それに、と続ける彼の唇が、次第に吊り上がっていくのが見て取れた。
「苗字が思ってるよりずっと、俺お前のこと好きだよ?」
心を巣食っていた不安を全て打ち砕き、空っぽになったそこに温かい何かが流れ込んでくる。さっきのような、からかいの延長線上のものではない。たった一言で良かった。十分だった。胸がじんわりと温かくて、内側に感じた冷気が嘘のように消え去った。これをきっと、愛っていうのかな。なんて照れくさくて言葉には出さないけど。
「…ありがとう……」
クロくんの気持ちを、やっと彼の口から彼の言葉で聞けた。それが私と同じもので、安心と喜びとが入り混じる。だからこの溢れ出る涙も、嬉し涙だ。
「ごめんな、不安にさせて。」
ぽんぽんと小気味良く頭に感じる重み。握れたらいいのにと思いながらずっと見つめていたその手が、私に触れている。優しい温度と大きな手の平が愛おしい。この手が音駒のバレー部を率いて、ボールを操って、相手のスパイクを弾き飛ばしているんだ。でも今だけは、全部私のもの。クロくんの気持ちも視線もこの手も全部、私にだけ向いている。それが今日だけと分かっていても、充足感には抗えない。クロくんがいてくれることによって、こんなにも満ち足りる。
「ねえ私、離れないよ…」
一筋の涙が、ラムネの瓶に落ちる。この結露は、決して悲しい涙ではなかったようだ。
「離れてって言われても、離れてあげないから!」
クロくんが頭に載せていた手を左右に動かして、わしゃわしゃと髪を掻き乱す。頭上に延びる逞しい腕とか。私を見つめる人より少し小さめな瞳とか。「そりゃどーも」とニヤリと笑って光る白い歯とか。そんな些細なことに、どうしようもなく胸が締め付けられる。ああ、好き。もっと触れて。私だけを見て。もっと名前呼んで。もっと笑って。色んな感情が頭を過る。頭の中全部がクロくんに染められていく。
からからに乾ききった口を潤すためにラムネを含むと、しゅわしゅわと刺激が口内全体に広がっていく。それは甘くて切ない、夏の恋の味がした。