毎日少しだけどメッセージを送りあって、たまに電話もするけど、友達でも恋人でもない私たち。名前を付けられない曖昧な関係だけど、私は確かにクロくんのことが好きで、クロくんの気持ちもたぶん同じ。何も確かなものなんてないのに、あの日の言葉を胸に私は真っ直ぐ前を向いていられる。

東京都代表決定戦予選。3セットマッチのトーナメント戦で、今日は準々決勝まで行われる。つまり、11月の準決勝に進む4校が決まる。優勝候補の井闥山学院で1枠は決まりだろう。残り、3枠。梟谷も弱くはない、他校からは強豪とも呼ばれるチームだ。それでも、もし木兎の調子がすこぶる悪かったら、それをカバーできるはずのチームメイトが何かの弾みで怪我でもしたら。何がきっかけで負けるかは、分からない。

「苗字は本当に心配性だな!」

試合前のこの緊張感、嫌いだ。手のひらにじわりと滲んだ汗を力強く握りしめたとき、背後からあっけらかんとした声が聞こえてきた。

「ほんとほんと。選手よりマネージャーの方が死にそうな顔してるってどうなのよ。」

呆れたように笑うかおりと、屈託のない笑顔を浮かべる木兎。私はそんなにひどい顔をしていたのか、慌てて口元を手で隠した。前の試合が長引いており、廊下での待ち時間。準々決勝に向けて精神統一をしようとしていた私の背後に、いつの間にか二人がいた。物思いに耽っていて、周りの状況に意識を向けられていなかったようだ。そのすぐ傍らでは木葉と小見も壁に寄り掛かって座り込み、談笑している。かおりと木兎はいつものようにこんな感じで、木葉と小見もどうせその様子では会場で見掛けた他校の女子の話で盛り上がっているに決まっている。その隣では赤葦と尾長、鷲尾と梟谷の良心メンバーが普段の調子で他愛のない話を繰り広げている。雪絵と猿杙は飲み物でも買いに行ったのかな。私だけが緊張して、意味もなく心配して、勝手に追い込まれている。みんながいつもの様子であればあるほど、落ち着かない。

「木兎は緊張とかしないの?」
「緊張?するぞ!」

あまり意味のない質問かな、とも思ったけれど、返答は意外なものだった。「え、するの!?」という驚きの声は、なぜか胸を張った木兎の自信満々の大声に掻き消された。

「赤葦が俺にトス上げてくれなかったらどうしようってな!」
「…ですよね。」

驚いて損した。木兎はいつも真っ直ぐだ。戦う前から負けるなんて想像、微塵もしていないんだろうな。彼の単細胞を羨ましく思っていると、木兎の声に釣られたのか、赤葦がこちらに歩み寄ってきた。

「せいぜい頑張ってくださいね。俺が木兎さんにトスを上げ続けられるように。」
「おう!任せとけ!」

別に嫌味でもないんだろうけど、赤葦の淡々とした声色に、木兎は何の深読みもせずにドンと胸を叩いて大きく頷いた。彼らのこういうところを見ていると、私もだいぶ落ち着いてきたのか、さっきまでのような無駄なネガティブ思考は消えかかっていた。

「って言うか、あれだろ?」

二人の様子を見ながらかおりと一緒に「やっぱりバカだね」なんて笑い合っていると、今度は座っていた木葉が会話に入ってきた。盛り上がっていた女子の話題はどこに行ったのやら、木葉と小見は揃ってニヤニヤしながらこちらを見上げていた。

「苗字は音駒に勝ってもらわないと気が気じゃないもんな。」
「えっ、ちがっ!」
「あ、そういうことか。」
「違うっ!」

かおりも同じようないやらしい笑みを浮かべ始め、慌てて否定を重ねた。だが時すでに遅し。木兎の「俺のおかげだ」とでも言いたげな得意げな笑みと、それ以外の馬鹿にしているのやら楽しんでいるのやら、ニヤニヤといやらしく浮かべた笑みに囲まれ、居場所を失う。本当に音駒のことなんて考える余裕もなかったのに、何故かみんなに私の心中を『音駒の勝敗が気になっていた』と決め付けられてしまった。

「違うのに〜!」
「あ、そういえば音駒の試合もうすぐ終わるんじゃないですか?」

音駒の試合は私たち梟谷の一つ前の別コートでの試合。赤葦だけは味方だと思っていたのに!彼は馬鹿にしてそうでも楽しんでそうでもなく、ただただ事実を告げる。確かに、言われてみれば音駒の試合は一つ前の時間帯。私たちの前の試合が長引いているだけなのだから、別コートの試合なら終わっているかもしれない。クロくん、大丈夫かな。お互いがお互いの部活に集中する。そう約束はしたし、気にしないようにしていたものの、周りから言われてしまうと急にそちらに思考を奪われてしまう。辺りに赤いジャージの集団は見当たらない。まだ、終わっていないのかも。

「あ、名前〜!」

音駒が負けるはずがない。何故か梟谷よりも自信を持ってそう言える、けど。急激に不安に駆られ、目を伏せて頬に睫毛の影が落ちたとき、不意に名前を呼ばれた。雪絵と猿杙が手にペットボトルを持ってこちらに歩いてきている。

「音駒勝ったって〜!」
「お!あいつらやったか!」

隣で木兎が嬉しそうにガッツポーズを決めている間に、雪絵は私たちのところまで来て、肩をポンと優しく叩いた。

「自販機のところで山本に会ったんだよ。」
「名前、良かったね〜。」

話題がタイムリーすぎて頭が一瞬フリーズしたけれど、新しい情報を飲み込んで理解する。音駒が勝った。良かった、本当に良かった。胸を撫で下ろし、溜まっていた不安を息と一緒に吐き出した。朗報を聞くと急にクロくんに会いたくなる。けれど梟谷は試合を控えている身。私のメンタルもそんな余裕はない。帰ってから、おめでとうメッセージでも送ろう。そう心に決めると、みんなのおかげで不安が解消されたからか、お手洗いに行きたくなってきた。前の試合は3セット目の序盤。どちらかがT.O.を取っており、まだ時間は掛かりそうだ。

「まだ時間あるよね?私ちょっとお手洗い行ってくる!」
「黒尾に会いに行くのか?」
「そんな余裕ないです!」

からかってくる木葉に嫌そうな顔を作って対抗し、鞄からハンカチとポーチを取り出してその場を離れた。本当に、そんな余裕はない。音駒が勝ったのはそれはそれで良いことだけれど、私にとっての一番は梟谷だ。集中しないと。壁際にエナメルバッグを並べ各学校が縄張り争いをしている廊下を突っ切り、黙々とお手洗いへと向かう足を前へと動かした。

いつも通り、私がいつも通りにしないと。練習試合だと思えば。みんなのところへ戻る途中、負けたのか涙を流す選手を何人も見た。私はみんなのそういう姿を、もう見たくはない。強気で、強気でと心の中で念じていると、歩く先に見知った顔が見えた。

「お、苗字ちゃんじゃん。」
「あ、大将くん。」
「梟谷は試合これから?」
「うん。戸美は?帰るの?」

大将くんは鞄を持ってはいるものの、目は腫れていないし赤くもない。周りの戸美学園の面々も特に暗い様子もなく、試合に負けた後のようには思えない。

「おう。決定戦で会おうぜ。」
「…うん。会おう!絶対!」

強く頷くと、大将くんは満足げに「じゃあ、またな」と言ってひらひらと手を振った。大将くんは戸美学園のキャプテンで、東東京大会や地区予選なんかで何度か戦ったことがあり、クロくんたち音駒とも仲が良さそうだし、擦れ違えば挨拶をするくらいの仲ではある。決定戦で会おうなんて、当然のように言われ、なんだか元気が出てきた。このまま一直線にみんなのところへ戻ろう。小走りで廊下を掛けていると、再び見知った顔が現れた。その人は私が会いたかった赤いジャージを身に付けていたけれど、残念ながら会いたい本人ではなかった。

「あ、夜久くん!勝ったんだってね!やったね!」
「サンキュー!梟谷は次だろ?」
「うん、次。頑張るよ!」
「おう、代表決定戦じゃ負けねえぞ?」

大将くんのときと似たような受け答えをして、また元気をもらえる。男の子って同じこと言うんだな。くすくすと笑っていると、夜久くんは不思議そうに僅かに首を傾げた。

「あー、でもこんなとこで苗字さんに会うとか、黒尾に自慢できるわ。」
「えっ…じ、自慢?できないできない。」
「いやいや、あいつ本当に苗字さんのこと好きだからな。鬱陶しいくらい。」

慌てて胸の前で手を左右に振って否定の意を示すと、夜久くんは何を思い返しているのやら腕を組んでうんうんと自分の言ったことに勝手に納得していた。鬱陶しい?そんなところ、全然想像つかないけど。夜久くんの思い過ごしだろうと、私も一人で納得する。

「帰り道とか苗字さんの名前聞かない日ないし。両想いになった途端嫌味ったらしく上から目線だし。ほら、いつかの大会見に来たときとか海と三人で約束してたのに苗字さんと二人きりになるチャンスだからとか言ってドタキャンするし。基本的に頭の中苗字さんと研磨の世話と魚しかないんだよ。オッサンか。」

何か不満でもあったのか、まくし立てる勢いで愚痴をこぼす。けれどそれは私にとってとても嬉しい愚痴だった。梟谷の私が、クロくんの音駒での様子を伺うことは出来ない。初めて聞いた、想像していなかったクロくんを、一番側にいるチームメイトから聞いて、胸がいっぱいになる。顔も信じられないくらい熱い。先ほど水で洗って少しは冷えている手で、頬を包み込んだ。

「試合の後と言ったら焼肉じゃんか、なあ!」

それは私の意見を聞いているのだろうか。なるほど、今日の祝杯を夜久くんは焼肉で、クロくんは焼魚定食で上げたいと意見が分かれたのだろう。それで夜久くんは若干のイラつきを見せているのか。けれど私はさっきの夜久くんの言葉で頭がいっぱいで、あまり考えずに「そうだね」と答えた。すると夜久くんは味方を見付け嬉しそうに「だよな!」と声を上げた。そして満足したのか「試合がんばれよ!」と言って半ば一方的に別れを告げてきた。瞬きを繰り返していると、再び顔の熱が戻ってくる。前に近所の大会を見に来たとき、私がかおりや雪絵と一緒に行く約束をしていたように、クロくんもそうだったんだ。二人きりになるチャンスって、全く同じことを考えていた昔の自分を思い出す。私たち、似たもの同士なのかもしれない。高鳴った胸を抑えるために深い息を吐く。今日は不安や緊張、色んな理由で心臓が騒がしい日だ。全国で音駒と戦うために、次の試合は勝たなければならない。これ以上ない元気をもらって、私は今度こそみんなの元へ戻るために駆け出した。