高校一年、初夏。あの日は、朝ごはんは食べ損ねるし、朝の集合時刻には遅刻するし、先輩には怒られるしで散々だったんだ。初めてのマネージャー業に、うまくいかないことも多くて。バレーのルールだって、先輩たちのポジションだって、全然覚えられなくて。
「おい、苗字!水ねぇぞ!」
強めな言葉尻と共に投げられたボトルを慌てて拾い上げ、謝罪の言葉で声を張って応える。梟谷にも、優しい先輩がいれば厳しい先輩もいるわけで。一年生から見た三年生は、たった2歳しか違わないのに凄く大人で、絶対的な存在だった。
梟谷グループの週末合同練習試合。この時は確か、中間試験が近いとかで合宿ではなく、1日だけ実施したんだっけ。それは梟谷対音駒で、僅差で負けてしまい1人の先輩が珍しく苛立ったいた時だった。かおりも雪絵も他の仕事に従事していて、でも私だって暇だった訳じゃない。多分一番近くにいたから、矛先が向いただけ。私が悪い。試合後に水をちゃんと準備できていないなんて、早くもマネージャー失格だ。でも、なんだろうな。うまくいかないことばっかりだ。
運動場の脇の水飲み場。蛇口から勢いよく出てくる水の中に一滴、落ちた。ダメだ、こんな所で泣いちゃダメだと必死に言い聞かせ、ボトルを持つ逆の手で、目元の水分を拭った。
「…もしかして、泣いてる?」
私しかいないと思ったいた空間に、私以外の声。今度こそ泣いてはいけないと思い、今度は目を掻いてる振りをしてから、顔を上げた。特徴的な黒髪に、切れ長な目。先程まで先輩たちと試合をしていた真っ赤なTシャツに身を包まれた知らない人物に、私は咄嗟に身構えた。
「いやー、さっきのはキツかったねー?」
まるで旧友のようなフォローの言葉に、意図が汲めず思わず目を丸くした。さっきの、見られてたんだ。名前も知らない人に掘り返されて恥ずかしい気持ちになりながら、すぐに顔を俯かせた。今目を合わせると泣いていたのは明確だし、向かいの彼の細められた目も怖いし。切れ長の瞳が優しげに細められたような、でも奥の瞳は笑っていないような。流れっ放しの水道の音が、余計に身体に緊張を走らせている。
「君も一年でしょ?」
タオルで口元を拭きながら、世間話のように話を振られ、私は吃りながら首を縦に振る。興味もないのに沈黙を埋めようとしているのがとても分かる。君も、ということは、きっと彼も。さっき先輩たちと混ざって試合に出ていたし、身長も大きいし、大人っぽいと言うか胡散臭いと言うか、とにかく同い年には見えなかったけど。次の言葉を考えあぐねていると、彼は簡単に次の言葉を継げた。
「じゃ、マネージャー頑張ってー」
ひらひらと力なく手を振りながら、彼はすぐさま立ち去ろうとしていた。本当に、何のために来たんだろうと首を傾げた瞬間、運動後には水分補給が必要だという至極当然のことを思い出した。音駒にはマネージャーいなかったもんな、と考えていると、不自然に髪を尖らせていた彼の姿は見えなくなっていた。
マネージャー頑張って、か。何でもない月並みな一言が、その時はじんと胸に響いたのをよく覚えている。
「…よし、頑張ろう!」
無意識のうちに溢れ落ちた独り言。嵐のように現れ、あっさり姿を消した名前も知らない他校の彼。それがクロくんと初めて言葉を交わした、たった数十秒の出来事だった。
▼
じめじめと張り付くような湿気に、身体を蝕む気温。初めての合同合宿は、前日は眠れなくなってしまうくらい楽しみだった。生川高校の英里ちゃんに、森然高校の真子ちゃん。新しく仲良くなった同い年のマネージャーと夜は何を話そう、とまるで修学旅行前夜の浮かれ具合だったな。
「お、梟谷の泣き虫の子。」
朝一発目に掛けられた声。合宿会場である森然高校の昇降口で靴を脱ごうとしている時に背後から聞こえた声は、紛れもなくあの時の人のものだった。向こうは音駒を体現するかのような真っ赤なジャージに身を包み、機嫌が良いんだか何だか知らないけど、口の端を片方だけいやらしく吊り上げていた。
「泣き虫?名前、知り合いなの?」
入部して以来の何ヶ月間か、何回か合同練習試合をしているが、私が他校の誰かと話しているのを見掛けるのは初めてなんだろう。横でかおりが疑問を飛ばしている。向こうの隣にいる小さな男の子も「知り合いか?」なんて言っている。でも私は。
「知らない。」
あの時のこと、私は多分結構傷ついていた。先輩は厳しい時もあるけど、数ヶ月間マネージャーをやってきて、あんなに怒鳴られたのは一度きりだった。もうあんなことがないように、って毎日頑張ってて、名前も知らない他校の人の有り触れた「頑張って」って言葉も少しは糧になってて。それなのに一方的に面白がられているようにニヤニヤされて、それにすごく憤りを感じたのも、今となっては良い思い出かな。
「あんな変な髪の人、私知らない!」
馬鹿みたい、って思った。やっぱりあんな、その場の出任せみたいな言葉を鵜呑みにするんじゃなかった。まあ、そんなにしてないけど。そして朝一から気分を害され、私のウキウキを返せって。精一杯の悪口を張り上げたら、一触即発な雰囲気を感じ取ったのか、隣でかおりが心配そうに私と彼を交互に見ていた。
考えなしに発してしまった中傷は取り返しは付かず、沈黙が漂う不穏な空気に胸が痛んだ。向こうが立ち去る気配も感じられず、恐る恐る視線を上げて様子を伺うと、二人して突然の暴言に言葉を失っているようだ。でもそれも束の間、ようやく言葉の意味を理解できたのか、彼の隣にいた小柄な人が笑い始め、次第に息も出来ないくらい声高くなっていった。
「おい、黒尾!言われてんぞ!」
可笑しくて堪らないとでも言わんばかりに声を上げながら、終いにはまだ何も喋らない彼の背中をバシバシ叩き始めていた。男の子同士の煽り方って尋常じゃないな、と少し毒気を抜かれる。すると彼はついに口火を切った。何を言われるかとヒヤヒヤしてたけど。
「この髪はオシャレなんですー!」
まるで拗ねた子供のように口を尖らせながらそんなことを言うから、先程の苛立ちなんて忘れてついつい小さく笑ってしまった。でもやっぱり何だか悔しいから、口元を丸めた人差し指で隠しながら、私は思ったままの感想を告げた。
「それ、オシャレだったんだね。」
「ちげーぞ。これ寝癖だぞ。」
間髪入れずに突っ込みを入れてきたのは、隣の小柄な彼。そっちの彼は癖っ毛をベージュに染めていて、確かに比較すればオシャレっぽいかも。そして想像していなかった事実に、「寝癖…」と復唱してしまった。
「あ、こら夜っ久ん!ネタバラシ早すぎだろ!」
その間にもじゃれ合うような二人に、なんだか心が和んだ。彼の突っ込みで一区切りついたようで、「ほらほら、準備しよーぜ。」なんて言いながら小柄な彼の背中を押して体育館の方へと向かって行く。「おい、俺の後ろに立つな!背中を押すな!」なんて本当に嫌そうに声を荒げる小柄な彼。仲良いんだか悪いんだか…。そして最後に一度だけ振り返って彼は再び、先程と同様に薄い唇を吊り上げた。
「じゃ、引き続きマネージャー頑張ってくださいネ。」
「い、言われなくても!」
反射的に言い返すと、何故か満足げに笑いながら二人して体育館の中へと姿を消していった。前回も思ったけど、やっぱりまるで嵐のようだ。でも思ったより普通の人で安心した。ただちょっと意地悪で嫌なところもあるヤツだけど。
今思えば、あの頃からクロくんは何だかんだ私に絡むようになっていったような気がする。彼のことを”クロくん”と呼び始めるのも、きっとあれからすぐ。名前も知らないまま煽られて嫌な思いをして、そして言い返して。やってることは今も昔も変わらないんだな。もう二年以上も前のこと。でも、今でも鮮明なまま胸に残っている、私の大切な思い出。