二度目の入浴を終え、蛍光灯があっても薄暗い渡り廊下を一人で歩く。自主練の後、食堂が閉まるぎりぎりにみんなで駆け込み、急いで夕食を済ませた。マネージャーに割り振られた部屋に戻ると、ちょうど布団を敷いてお菓子パーティーが始まるところだったから、思わず私も参加してしまった。その後、やっと離れのお風呂に行けて、だから随分遅くなってしまった。自主練をしていた他の部員も、もう入り終わったのか、向かう時も誰も見かけなかった。体育館ももう全て電気が消えていて、夏の夜を感じられる。騒がしい部員もいない、虫の鳴き声だけが聞こえる、日中の暑さを忘れられるような涼しさが、お風呂上りの熱を冷ましていく。そんな私の熱を、一気に上昇させらことができる人物がいる。

「音駒の主将さん。」

体育館棟から校舎に入ったところにある自動販売機の前に、その人がいた。遠くから見つけただけで、知らず知らずのうちに足が軽やかに動く。乾かしたばかりの髪が跳ねた。

「まだ寝てなかったのかよ。」
「そっちこそ!」

隣に並んで、自販機の明かりに照らされるクロくんを見上げた。彼もお風呂上りなのか、髪は濡れっぱなしで、いつもの寝癖もついていなかった。当の本人は何を買おうか迷っているらしく、お金を入れたまま指をボタンの上で滑らせている。

「苗字は何飲みたい?」
「うーん、炭酸かな。」

お風呂上りだしなあ、と思ってそう答えると、クロくんはコーラのボタンを押し、出てきたペットボトルをプシュっと開けてごくごく飲み始めた。私とは違う喉仏が上下するのを見て、男の人なんだなあ、と当然のことを考えていた。

「飲むか?」

掛けられた声に、我に返ると、先ほど買ったばかりのペットボトルをこちらに差し出しながら、クロくんは楽しげに三日月形に口元を歪めた。分かっているんだ、私があたふたするの。からかわれるだけなんて悔しいから、素知らぬ顔で「うん」と答えて受け取ると、クロくんは目を丸くしていた。口を付けるのが、一瞬迷った。でも、クロくんが飲むかって言ってくれたということは、それを許してくれたということだと思ったから。プラスチックの飲み口が唇に触れたとき、それを持つ手は震えていた。

「…や、やっぱりお風呂上りの炭酸は最高だね。」

炭酸の粒が喉を刺激するのを感じて、私は自分がしたことを理解した。ペットボトルを返すと、クロくんは「お、おう」と気押されたように受け取った。頭がついてこないのか、目をぱちくりさせている。珍しい表情を見れて、私もしてやったりという顔で笑って見せた。

「やられたわ。」
「私だってからかわれてばかりじゃないんだよー!」

からかいがいがある、なんて言われても嬉しくないんだ。いつまでもそんなのだったら、いつになっても私はクロくんの対象には入れない。最後の夏なんだ。一緒にいられるのは今だけなんだ。そう考えたら、もう立ち止まっている時間なんてない。

「言うねえ〜?」

と思ったが矢先、クロくんは上から私の顔を覗き込んで心底楽しそうに微笑んでいた。待って。何が彼のスイッチを入れてしまったのだろうか。そんなことを考える余裕も暇も与えてはくれず、クロくんはニンマリ笑いながら距離を詰めてきた。咄嗟に足が後ろへ動く。自販機の明かりから離れ、クロくんの顔は次第に影に覆われて見えなくなっていく。

「うわっ!?」

急に足場が悪くなって身体が後ろに傾いた。ここが校舎の入り口で、渡り廊下とは段差があったことを今になって思い出していると、暗闇の中から手が伸びてきた。

「あぶねーな。」

掴まれた腕。頭を支える手。一瞬にして熱が戻ってきた。顔中が熱い。ありがとう、と出てきた声は掠れていた。足場にも安定感を取り戻し、もう大丈夫だと伝えた。だがクロくんは何も言わずに、後頭部を支えてくれた手に力を篭めて、引き寄せられた。

「ちょ、ちょっと…?」
「お前、さっきからいい匂いする。」
「は、はあ!?」

頭頂部に感じる気配に、見上げるとクロくんの顔はもう数センチ近くまで迫っていた。頭の中は真っ白に染まっていって、言葉なんて何も出てこない。ドクンドクンと、耳の奥で心臓の音がした気がした。クロくんの言ったように、どちらのか分からないシャンプーの匂いが鼻をかすめた。

「…ち、近い。」
「近づいてんだよ。」

至近距離で視線が交わる。その黒い瞳に、自分が映っている。私だけが独占している。この時間がずっと続けばいいと、そう思った。気を許せば、鼻だって触れそうな距離。ちらりと視線をずらせば、乾燥を知らなさそうな綺麗な唇が視界に映った。ああ、触れそうだと、どこか冷静に考えていた。好きだと、気持ちが溢れそうになる。好きで、もっと一緒にいたくて、離れたくなくて、そんな自分勝手な願いばかりが心を支配していく。クロくんが、好きだ。でも、クロくんは?同じ気持ちだったら嬉しい。でも、本当に私の独りよがりだったらと、そう考えると怖くて、踏み込めない。

「…戻ろっか。明日も早いし。」
「苗字…?」

この距離を自ら手放した。クロくんを想う心は止まらないのに、頭は冷静に動いていた。純粋に友達だと思っていた頃に戻ることも、この距離を跳び越えて進むこともできない。時間があれば、もっと何か変われたのかな。冷めない熱だけが一晩中私を蝕んでいた。