簡単なことだったのかもしれない。夜久はどっちかと言うと、恋人より友達って感じなのは確かだし、かっこいいより可愛いっていうのも、きっと全会一致の意見であると思う。でも、わあっと会場が盛り上がる度に、私はどんどん惹き込まれていく。まるで蟻地獄のように、吸い込まれていく。その中央には、確かに夜久がいて、でも落ちていく私に向かって両手を広げ、嬉しそうに顔を綻ばせていた。

「凄いね、夜久。」

観客席の手すりに寄り掛かりながら、委員長はそう呟いた。それは本心からの言葉のようで、特に何の感情も持っていない夜久に対して、珍しく感嘆が入り混じっているような気がした。

「なんであの小さい3番の人、何度もコート出入りしてるのかな?」

隣で観戦していた女子の集団からそんな声が聞こえてきて、それは夜久がリベロだからだよ、と思わず答えてしまいそうになった。もちろんバレーボール初心者の私も、一週間前のあの日まではルールもポジションも何も知らなかった。けれど、あの日を境に、興味本位でバレーボールに関して色々と調べてしまい、ついには黒尾に夜久のポジションは何だと聞いてしまう始末。あの時黒尾が浮かべた嫌味ったらしい黒い笑みを思い出すだけで、恥ずかしくて堪らなくなる。

「でもまさか、苗字からバレーの試合見に行こうなんて言ってくるなんて。」
「うん。委員会活動の一環だよ。」
「どーだか?」

委員長に突っ込まれる度に、今度の放送で使えるからと言って誤魔化し続けている。実際、試合結果を淡々と伝えるよりも、実際にこの目で見た感想を盛り込んだ方が良い放送になるに決まっている。けれど、私の心にとってそんな目的はついででしかない。

何度も相手の力強いスパイクを床につくぎりぎりのところで拾い上げ、セッターの孤爪くんの上へ返す。その度に会場が盛り上がる。私も無意識のうちに手に力を込めて、声を上げて応援していた。

「凄い!凄いね、ほんと!」

見事に相手を圧倒し、本日の一試合目を突破した。この大会は都内の予選を決めるための大きなものだそうで、音駒高校バレー部はなかなかいいところまで勝ち進んでいるみたい。と言っても、昔はとても強かったらしいから、彼らにとっては当然のことなのかもしれないけれど。でも、応援をしに来た私たちにとっては、どんな試合でも勝ったらとても嬉しい。次の試合のために荷物を置いてあるベンチのところに戻って、移動の準備をするバレー部を見つめながら、喜びを隠せないでいると、委員長は隣でふっ、と小さく笑った。

「なに?ねえ、今のなに!委員長!」
「別に?」

すました様子でそう言われ、思わずムッとしてしまう。委員長は自分の高校の部活が勝ち進むこと、嬉しくないのかな。

「黒尾とかさ、あのモヒカンくんとかさ、凄い目立ってたね。相手のブロック弾き飛ばすようなスパイク打ってたし。」
「えっ?あー、ね。うん。」
「なのに、あんたは夜久のことばっかり見てたね。」
「そんなことは、ない。」

そう。決してそんなことはないんだ。教室ではいつも怠そうにしている黒尾が、バレーではあんなに俊敏に動いて敵を圧倒させるなんて。本当に驚いたし、かっこいいなって素直に思った。でも本当に凄いって、心の底から感じたのは、敵のミサイルみたいなスパイクを、その小さな身体で受け止めて、柔らかいレシーブに変えて味方に繋いでいた夜久だ。なんと言うか、夜久の優しさとか、心の広さとか、そういう性質だからリベロを努めているんじゃないのかって、そう思えた。

「一番かっこよかったのは?」
「……もう委員長、やだ。」

エナメルのスポーツバッグを斜めに掛けて、タオルで汗を拭く夜久に、目を奪われる。きゅって締め付けられるような心臓。なんだか泣きたくなる、形容し難い感情。きっとこれを、好きって言うんじゃないのかな。

「でも、うん。かっこよかった。」

言葉にしたら簡単で、次第に口元の筋肉が緩まっていく。かっこよかった。一番きらきらしていた。地味なポジションでも、それを誇りに思い、自信に満ち溢れて、精一杯頑張る夜久は、私の目には一番輝いて映る。

「じゃあ、それ、本人に言ってやんな!」

トン、と小さく肩を押される。一歩、足が前に出た。驚いて彼女の方を振り返ると、ニカッと笑っていた。夜久が私のことを待っていてくれてるとは思わない。でも、私が今すごく夜久に会いたい。他の誰でもなく私が、かっこよかったよって告げたい。大きく頷いて、私は観客席を出た。

会場から出ると廊下は無駄に大きい選手たちで溢れ返っていた。準備体操をしていたり、ミーティングを開いていたり、多種多様なユニフォームでカラフルな空間となっていた。そんな中、向こうから数人の赤いジャージの集団が来るのを発見した。もう次の試合まで解散になったのか、3人しかいなかった。その中で一際小さい人に目を奪われる。隣の黒尾と海と、何やら談笑しながら歩いてくる。彼が一歩一歩、こちらに向かってくるだけで、次第に鼓動が高まるのを感じた。おかしいな、前はこんな感じじゃなかったのに。この1ヶ月くらいで、著しい変化だ。そんなことを思いながら、彼に向かって足を一歩、踏み出そうと。

「夜久っ!」

明るく弾けるような声に、足が止まった。夜久に対して高まった鼓動が、嫌な音に変わっていく。夜久に駆け寄った彼女は、前の席のあの子だった。別に、応援に来ていても何もおかしくはない。私たち以外にも、黒尾や夜久の友達とか、一二年生の応援とか、直井先生の同僚とか、勝ち進むバレー部を応援しに来ている人はたくさんいた。でも。

「夜久、お疲れ!凄かったね!」

どろどろと得体の知れない汚い感情が沸き起こるのを感じた。私が一番に会いたかった人に、一番に言いたかったことを言っている。いいなあ、なんて思ってしまって悔しいのに、負けるかって踏み込むよりも、引っ込んでしまうのはきっと、私の悪い癖。嬉しそうに、少し照れたように、ありがとうって返す夜久を見て、足は完全に止まってしまった。

「ひっでー顔。」

ぼんやりと夜久と彼女を見つめていると、上から降ってきた声。それは予想通り黒尾のもので、隣には海もいた。

「黒尾、海…。お疲れ。」

二人の方を見ないように、黒尾たちに視線を移してにこりと微笑んだはずが、口角がうまい具合に上がってくれない。その歪な笑顔も、その理由も痛いくらい分かった。そのせいか、海は何も言わずに擦れ違いざまに肩にポンと手を載せ、そのまま通り過ぎて行った。無言の優しさに、涙腺が緩む。

「どうだったよ?試合。」

肩の次は頭。いつも憎まれ口しか言わない黒尾が、純粋な笑みを浮かべて、私の頭に軽く手を載せていた。あ、だめ、泣きそうだ。

「……かっこよかったよ…。」

一番に言いたかった。誰よりも先に夜久に駆け寄りたかった。泣きに来た訳じゃない。私は今日バレー部を、夜久を応援しに来たんだ。世界が引っ繰り返るんじゃないかと思えるような黒尾の笑みを見ても、浮かんでくるのは夜久のことばかりだった。私が言った言葉の主語も、黒尾には一瞬で分かるんだろうな。

「そうかよ。」

珍しく素直な私に、黒尾は本当に純粋に喜んでいて、もう一度頭に手を載せてから、海と同じように通り過ぎて行った。身長の大きな二人がいなくなって、急に前が開ける。未だに楽しげに話す夜久と彼女を前に、足は全く動こうとはしてくれなかった。けれど次の瞬間、背中への衝撃で動かなかった足が一歩、前へ踏み出していた。

「く、黒尾?」

後ろを振り返ると、口元をニヤリと歪めたいつもの黒尾が、私の背中を押すためだったのか、こちらに向かって右手を突き出していた。

「好きなように、やれよ。」

黒尾には色んなことを言われ、からかわれ、茶々を入れられた。けれどそれはいつも夜久を思ってのことか、軽口の裏の友情が感じられていた。黒尾があまりに頼りあることを言うから、私は困ったように笑った。もう、進むことしか出来ないじゃん。一度だけ大きく頷いてから、私は黒尾に背中を向けた。

「夜久!」

ゆっくりとこちらに向けられる顔。彼女から私に移る視線。次第に明るくなる、表情。そして、私に向かって駆けてくる夜久。

「苗字!」

他の何にも目をくれず、私だけを見てくれるその大きな瞳に、まるで心が浄化されていくような気がした。真っ直ぐに私を見つめてくれるから、今なら私もそれに答えられる。

「見てたよ。」
「え、マジで?うわー、恥ずかしいな!」

本当に恥ずかしそうに、少しだけ頬を赤く染めながら、私から視線をそらした。ああ、やっぱり可愛い。でも夜久は、それだけじゃない。

「凄く、凄く凄く…、本当に、かっこよかった。」

素直に思ったことを言えたのに、それを聞いた瞬間に、夜久は私の方を見て驚いたように目を見開き、そしてみるみるうちに真っ赤に染まっていくのを見たら、私の方こそ恥ずかしくなってしまう。二人して真っ赤になって視線をそらし合っている光景は異様なものだろう。

「来てくれて、ありがとな。」

小さくはにかんだように笑うから、胸が熱くなる。夜久は、私を待っていてくれたんだろうか。そんなことは分からないし、考えるのはおこがましい。ただ私が、夜久に会いたかったから。言いたかったから。だからここに来たんだ。

「次も、勝ってね!」

私にはそれしか言えないけど、心の底から応援することしか出来ないけど。それで夜久が凄く凄く嬉しそうに笑って頷いてくれるのが、何より嬉しいんだ。でも返ってきたのは、「おう」でも「ありがとう」でもない、何の脈絡もない彼の気持ちだった。

「俺、本当にお前のこと好きだ。」

そう言って大きくニカッて笑った。どうして夜久はそうやって簡単に、嵐のように私の心を乱して、攫っていくんだろう。当たり前のようにそう言って、私の胸を焦がしていく。突然のことに動揺と喜びと、色んな感情を表情に出した私に、夜久はしてやったりと言うように、ニヤリと、でも今までで一番嬉しそうに笑った。

「もう行かなきゃ。じゃあ次も応援、よろしくな!」

何でもなかったように、夜久はそう言って私の横を通り過ぎて行く。本当は照れ隠しだったのかもしれないけれど、その時の夜久の気持ちは全然想像もつかなくて。初めて見せた夜久の表情に胸が高鳴って、私はただただそこで呆然と立ち尽くしていた。

夜久が優しくて良い人なんて、きっと嘘だ。本当はきっとずるくて、人の心を掻き乱す確信犯。脳裏には夜久のあの大人びた表情が焼き付いている。目を瞑ればそこで夜久が笑っていて、しばらくは離れそうにない。離れてほしくも、ないかな。