おかしい。こんなのおかしいと何度も思った。この私がヤキモチなんて絶対にやいてないし、そもそもこんなに夜久のことで頭がいっぱいになっている今この状態が、おかしい。

「朝から難しい顔してんなー。若いうちからシワできるぞ?」

そんなに険しい顔をしていたのか、黒尾が隣の机に学バンを置きながら、至極面白そうに私の顔を覗き込んできた。

「うるさい。」

昨日、体育館に行った時に目が合ってしまった手前、どうにも気まずい。でも奴はそんなのお構いなしに、いちいち突っ込んでくる。本当に、なんだ、こいつ。海みたいな仏のような懐を見習えよって心底思う。

「おいおい。元気出せよ。」
「ほんと、うるさい。」

朝練からバレー部が戻ってきてから、ホームルームのために先生が来るまでの時間が、最近苦痛である。黒尾が隣でがちゃがちゃ言っているのは全部聞こえない振りをして、教室の斜め後ろの方の様子を窺うと、そこにはやっぱり、夜久が前の席の女子と談笑している姿があった。いつもいつも。視線を前に戻すと、ちくりと何かが痛んだ気がした。

「妬いた?」

そう言って口角を上げて意味ありげに含み笑いを見せた夜久の表情が、脳裏に浮かんだ。私はムキになって、咄嗟に否定した。でも、それは正しかったのか。もやもやと胸を覆う黒い感情が、自分に追い打ちをかけてきているような気がした。

「黒尾。」
「なんだよ?」
「私、間違ってないよね?」
「…何が?」

首は突っ込んでくるくせに、肝心なところで答えを導いてはくれないのか。何も言えなくなって、机に突っ伏して、口を噤んでしまった。さっきまでがちゃがちゃ言っていた黒尾も、もう飽きたのか何も言わなくなり、なんだか妙な沈黙が漂ってしまった。

「苗字。聞いてい?」

学バンをごそごそと中身をいじりながら、すぐに黒尾が口を開いたが、いつもの煽ったような雰囲気ではなく、ただのクラスメートとして、友達として、という感じがした。なんだか調子が崩れる。

「なに?」
「夜久のこと、好きじゃねーの?」

本人は無意識のようだけど、学バンから視線を移し、射抜くような細い目に、何もかもが見透かされているような気がした。やめて、そうやって私の虚勢を、崩さないで。私は、夜久のことなんて、好きじゃない。嫌な汗が背中を走る。口の中がどんどん乾いていく。私は、夜久のことを、どう思っているんだろう。

「好きじゃないなら、まあ、あんま期待させないでやってくれな。」

ずしりと重みのある言葉は、深く深く胸に突き刺さった。黒尾は再び鞄の中をあさり始め、何もなかったような、そんな態度。ドクンドクンと耳に張り付いた音が、不快感を与える。からかうんじゃなくて、ただ夜久を思って、夜久の友達としての言葉が、こんなにも身に染みるなんて。

「好きじゃなく、ないけど…。」

もごもごと、なけなしの否定。好きじゃなくはない。むしろ好きなんだ。だって友達だから。優しくて、いい人だから。

「じゃあなんでダメなんだよ。小さいからか?」
「そんなの、関係ないよ。」

夜久は男子の中では小柄な方だし、その上バレー部の中では群を抜いている。けれど女子からしてみれば、自分より大きければ、みんなそんなに変わらないし、何より高身長の威圧感がなくて、むしろいい。黒尾はいつになく真剣な様子で、私もそれに応えなければならないような気がした。

「…夜久は、いい人。」
「いい人止まりってこと?」

そうだ、いい人止まりだった。確かにあの日、夜久が好きだと言ってくれた日、彼のことを、いい人、いい友達以上に考えられなかった。だから、その答えを出した。夜久はいい人だけれど、でもそれだけだったら、あの胸の高鳴りも、罪悪感も、黒い感情も、生まれる物ではないんじゃないかな。

「……違う。」

違う。夜久の気持ちに応えられないのは、今はそんな理由じゃない。夜久は優しくて、クラスのみんなからも、部活の後輩からも慕われる存在だということを、ずっと知っていた。いい人だな、すごい人だなって、ずっと思っていた。そんな夜久を、私が。

「あの人を、私が独占していいはずがない。」

たぶん、今の本音はこれだ。前の席の女の子と楽しげに喋る彼に対する感情を、きっと独占欲というのだろう。先日、委員会の後輩と話したことだ。でも、これは明らかに卑怯だ。好きでもない相手に、独占欲を抱くなんて。あの女の子が知ったら、どう思うだろう。彼女だけではない。クラスの人だって、部活の人だって。突然出てきた私が、夜久の声も、笑顔も、時間も、独占していいはずがない。出来るわけがないんだ。

「ふーん?」

意味ありげな相槌に、居た堪れなくなった。この一言で、黒尾に私の今の複雑な感情は理解できないだろう。黒板の上に掛かった時計の秒針が、やけにゆっくり動いている気がした。先生、遅いね、って話を逸らそうとした瞬間、その言葉は喉から、すとんと落ちて行った。

「…だってさ、夜久。」

ニヤリ、といつもの歪んだ笑みが、一瞬見えた気がしたが、黒尾の言葉に思考は全て持って行かれてしまった。

「え…」
「苗字ちゃんは夜久くんのことを独占したいそうでーす。」

軽やかに放たれた言葉は、今までのシリアスな雰囲気を一気に破壊した。黒尾がニヤニヤと歯を見せて笑っている横で、私は冷や汗を垂れ流していた。恐る恐る後ろを振り返ると、そこには思った通り、私と黒尾の間の通路に夜久が立っていた。

「いや、私は別にっ、」

まさか本人がいるなんて思っていなかったから。慌てて弁解しようと言葉を探したが、黒尾の嫌な笑みが見えるだけで、何も出てこなかったから。もしかして、黒尾は夜久がいることを知っていたのか。それでいて、あんなことを聞いてきたのか。どこから聞かれていたのか。もう思考が乱れてしょうがない。

「あ…いや、うん。」

小さな声で頷く夜久に、正直、驚いた。だって、顔だけじゃなく、耳まで真っ赤になって、片手を鼻に添えて顔を隠しているような仕草。視線も泳がせていて、まるで照れているような、そんな夜久に、言葉を失った。「身長じゃなかったんだ…」って小さな呟きに、私は思わず、えって聞き返してしまったが、夜久は慌てて何でもないと言うように首を横に振った。そして泳がせていた視線を真っ直ぐに私に向けた。

「俺は苗字に独占されたいし独占したいって思ってるぞ!黒尾、部日誌!」

真っ赤になりながらも、真っ直ぐに私を見ながら早口でそう言い、最後に持っていたノートを黒尾に押し付けて早々に踵を返した。去っていく後ろ姿が、その背中がやけに大きく感じた。ああ、やっぱり彼はすごい。たった一言で、私の心を彼に縛り付けることができる。そういえば、最近ずっと夜久のことばかり考えていた。委員長にもそう指摘された。なんだ、もしかして、私が夜久に独占されていたのかな。心も、思考も、言葉も、感情も。ああ、痛い。夜久の真っ直ぐすぎる好意が、突き刺さる。でも、なんでかな。この痛さが、なんだか心地良くも感じられた。