会社には着て行かないようなフレアスカートに、A4の書類なんか入りっこない小さなバッグ。休日昼間の駅前は人で溢れ返っていて、少し背伸びして履いたヒールも人の中に埋もれてしまう。指定されたのは改札を出てすぐの売店の前。気付いてもらえなかったらどうしよう、と小さな悩みを抱えた胸を、ストールと一緒にきゅっと抱き締めた。

午後1時40分。腕時計を見て時間を確かめる。スマホのディスプレイを付けたり消したり、手持無沙汰な時間を過ごす。ついにこの日が来てしまった。仕事が大量で辛くなった日も、上司に嫌味を言われて嫌になった日も、土曜日に向けた夜の何回かのメッセージのやり取りで元気を出せた。それが、ついに当日を迎える。実際に約束をした場所に来て、一通り赤葦くんの姿を探したけれど見付からず、同じように待ち合わせをする人々の隙間を通り抜け、売店の脇にポジションを定め、ここに至る。

「すみません、お待たせしました。」

内心、合流する前から心臓はバクバクだった。今日の服は変じゃないかなとか、初めての休日を一緒に過ごすのに、会話はちゃんと弾むかなとか。私らしくない問いかけが脳で繰り広げられている。そんな中現れたのは、暗めのネイビーのデニムパンツ、白とグレー系のパッチワークTシャツの上に黒のジャケットを羽織った赤葦くんで、なんだか大人っぽく、いつもより眩しくて直視ができない。14時集合で、現時刻は13時45分。「早いですね、名前さん。」と若干驚きを見せる赤葦くん。遅刻魔とまでは行かずとも、待ち合わせ時間ぎりぎりで行動する私が、20分も前に到着することがまず、奇跡だ。

「よ、用があって駅で買い物してたの!」
「そうなんですか。てっきり俺とのデートが楽しみで早く来過ぎたのかと思いました。」

咄嗟の口から出まかせを赤葦くんは真に受けたんだか信じていないんだか、口の端を僅かに持ち上げて、少しだけ楽しげにこちらを見下ろした。これは多分、後者だ。「違ったんですね、残念です。」なんて少しも残念じゃなさそうに追い打ちをかける。合流早々彼のペースに飲まれ、悔しいことに一人で勝手にドキドキしてしまう。

「ちっ、違うよ!?本当だよ?本当だから!」

ムキになって否定を繰り返すと、赤葦くんは今度は「ふふっ」と小さく声を上げて笑った。見たことのない格好に、見たことのない表情。そんな楽しそうなの、ずるい。本当に赤葦くんはずるいよ。急激に身体が熱を持ち始め、オシャレと思って羽織ってきたストールを思い切り脱ぎ去りたくなった。「分かりましたよ。ほら、むくれていないで行きますよ。」とまだ少し笑いながら歩き出す赤葦くん。私は慌ててその隣に並ぶけれど。出会ってまだ5分も経たずして、今日はもう心臓がもちそうにない。

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どこに行きたい?という抽象的な質問に「俺は名前さんと映画か水族館に行きたいけど」と具体的な回答例を付けてくれたのは、いつかの夜に届いたメッセージだった。しかも意外と映画も水族館も調べてくれて、今ならこれが評価良くて面白そうとか、水族館なら今ここでプロジェクションマッピングのイベントをやっていて綺麗だとか、調べる手間を省いてくれた上で、他に案ありますか、と付け加えられた。人にもよるだろうけど、私は面倒くさがりなところがあるから、個人的には何とも有難い提案だった。

私も赤葦くんもどちらかと言えば水族館に興味が傾いており、結局意見は割れることなく行先は水族館に決まった。

「名前さん、こっち。」

休日の地下鉄は割と混雑しており、満員とまでは言わずとも自然と距離が近くなってしまうくらいの混み具合だった。場所が悪く周りの人でちょうど吊革が埋まっており、足先だけで揺れに耐えていると、赤葦くんに名前を呼ばれ手を引かれた。釣られて人の隙間を抜けると、電車のドア付近に行くように軽く押し付けられた。手を離されても壁にもたれることが出来て、さっきよりもだいぶバランスを取れる。

「あ、ありがとう。」

赤葦くんは私の前に立ち、自然と庇うような体制になる。いつものワイシャツではなく、Tシャツの丸襟から白い首筋が覗き、慌てて視線を逸らした。本人は不本意なんだろうけど、揺れに耐えるためにドアに手をつけているのが、ちょうど私の耳の左上辺りで、一人で緊張してしまう。赤葦くんとドアに挟まれ、傍らに突き立てられた腕。こんな状態なのに涼しい顔して立っているから、なんだか自惚れているような気がして、それがまた恥ずかしくて耳まで熱を持ち始めた。赤くなっていたらどうしようと思い、俯きざまに髪でそっと隠す。混雑を理由にカップルが近くでイチャイチャしていて、ますます居た堪れなくなる。視線を逸らすように窓の外へと意識を移すと、ちょうど窓に反射する赤葦くんと目が合った。

「……なに?」

窓越しの視線は逸らされることがなく、我慢できなくなって背後を振り返った。電車の中に視線を戻しても、彼の視線が途切れることはない。ずっと見られていたのだろうか。小声で恐る恐る尋ねると、赤葦くんは無表情のまま「もうすぐですね」とだけ言った。

水族館は腕を組むカップルやたくさんの家族連れが目立ち、想像以上に人で溢れ返っていた。なんでも、イルカのショーもリニューアルしたばかりらしく、タイミングが良いのだか悪いのだか、混雑日に来てしまったようだ。並ぶ水槽に群がる子供たちの上から、中を覗こうと爪先立ちになる。

「おんぶしてあげましょうか。」
「結構です!」

赤葦くんて、ちょいちょい人を小馬鹿にしてくるところがあるな。振り返ると、爪先立ちする私の更に上からこちらを見下ろしていた。私の方が大人だぞ、と思ったところで、まずその考えが子供じみていることに気が付いた。

「…赤葦くんって、身長何センチなの?」
「185です。」
「ええっ!大きいんだね!」

ヒールを履いても全然届きそうにない身長に、なんだか距離を感じた。「でも平均くらいでしたよ。」なんて言ってしまうから、私は内心これ以上大きくなくて良かったと胸を撫で下ろした。そうこうしている間に、群がっていた子供たちは次の水槽へと移動しており、前が開けていた。開いたスペースに入り込むと、やっと水槽の中が見えた。色とりどりの小さな魚たちが気持ち良さそうに泳いでいる。

「可愛い!」
「どれが?」
「これ!この紫色のやつ!」
「ふーん。俺はこっちの方が好きです。」

一緒に水槽を覗き込み、紫色の魚が泳ぐガラスを指でなぞる。すると赤葦くんも同じように、丸い小さなフグみたいな魚を指差した。可愛いかな、破裂しそうじゃん。

「丸いじゃん、これ。」
「丸い方が可愛いじゃないですか。」
「そうかなー?」

絶対、こっちの方が可愛い。まあ、人の好みはそれぞれだし。そもそも赤葦くんが魚に対して可愛いという感情を持つこと自体驚きだ。水族館を候補に出していた時点で、そこは心配なかったんだろうけど。改めて未知の赤葦くんの生態系を垣間見ることが出来た喜びに浸っていると、さっきの私の呟きに対して、彼は隣の私にしか聞こえないくらいの大きさの声で「名前さんに似てるし。」と囁いた。

「なっ!?」

弾かれたように魚から赤葦くんへと視線を移すと、彼は何食わぬ様子で水槽の中の魚を目で追っていた。その横顔が思った以上に近い距離にあり、私はもう一度声を上げてしまいそうになった。慌てて手の甲を口に押し付け、言葉にならない感情が口から飛び出すのを防いだ。赤葦くんはそんな私には目もくれず、丸い魚が泳ぐ水槽のガラスを白くて細長い人差し指でゆっくりとなぞっていた。その所作が色気に溢れていて、くらりと眩暈を感じてしまいそうだ。合流早々感じたように、やっぱり今日はもちそうにない。暴れ回る心臓に我慢ができず、深呼吸をしようと赤葦くんをおいて一度水槽から離れた。ストールの上からでも分かるくらいの鼓動を発する胸に右手を置き、大きく息を吸って酸素を取り込んだ。

「丸いって言ったこと、怒りました?」
「怒った!怒ったよ!」

赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、わざとらしく背中を向けて次の水槽へと向かった。そんなことで怒るわけがないし、むしろ思っていなくても、可愛いと言ってくれたことが嬉しくて、耳にこびり付いて離れてくれない。「丸いなんて思ってませんよ。」と背後から聞こえてくる。今日の赤葦くんは、今までに見たことないような表情ばかりするし、今まで言ったことないようなことばかり言う。でも全部がかっこよくて、可愛くて、嬉しくて、楽しくて。今までは客観的に赤葦くんはかっこいいなあ、女が放っておかないだろうなあ、なんて思っていたのに、こんなの初めてだ。ペースを乱されてばかりで心臓が疲れるけど、赤葦くんのせいで騒がしくなる鼓動は、嫌じゃない。

「名前さん、はぐれないでくださいね。」

カップルたちで賑わう中、突然掛けられた声に、手を、繋げばいいのにと、思った。いつか握られた手。いつか引かれた腕。あの時の体温を、私はしっかりと記憶している。だからかな、そう思ってしまったのは。

「…子供のくせに、子供扱いしないでよ。」

小さく嘲笑がこぼれた。何を錯覚していたのか、私たちは手を繋ぐような関係性じゃない。キスも、告白もされている。だから、手を繋げないことはないと思う。私が差し出せば、きっと握り返してくれる。繋げないことはない。でも、手を繋ぐ、理由もない。私には、その手を握る理由がない。こんなに楽しくて、こんなにドキドキしてて、こんなに幸せなのに。終わってほしくないと願う時間の中で、赤葦くんの細くて綺麗な人より少し体温の低い手と、室内の冷気で温度を失いかけているこの手を繋ぐ理由は、存在しないんだ。