誰もいない、静かな部屋。パチンと音を立てて照明のスイッチを入れれば、物が溢れるテーブルが視界に入った。いつもは鞄をその場にぶん投げて即お風呂に向かうのに、今日は違う。散乱する化粧品のボトルやスタンドミラーをどかして、ゴミと勘違いしてもおかしくはないルーズリーフの欠片を手にする。これが鞄の中に入れられていたのも、随分前の出来事のように思える。

『昨日のこと覚えてたら連絡してください』

流れるような文字。規則性のない11桁の数字。あの頃これを見たとき、私は何を思ったんだろう。年下のイケメンから若干のアプローチを受けて、でも傷付くのが恐くて、どうせ大学生の遊びだ暇つぶしだって言い聞かせて、だったら年上らしく付き合ってあげようじゃないか、なんて。馬鹿の極みだったな。呆れて半笑いがこぼれ、親指と人差し指で摘まんでいた紙切れが僅かに揺れる。でも、今は違う。赤葦くんの気持ちは本物だって心から信じられるし、それに応えたいという私の気持ちも、きっと本物。そうじゃなかったら、こんなに週末を心待ちにするのも、この紙切れ一つで胸が騒ぐのも、変でしょう?膝を折って座った脇に置いた鞄からスマホを取り出し、メッセージアプリを起動する。あの頃使うことのなかった電話番号を、ようやく使うことができる。赤葦くんの元から離れて私の元へとやって来たこの紙切れも、役目を全うする訳だ。検索画面に、ゼロ、ハチ、ゼロを順に入力していく。番号一つで検索できるんだから、便利な世の中になったもんだな。なんてオバサンじみたことを考えているうちに、アプリが検索結果をこちらに告げる。

赤葦京治。

丸いアイコンの下に映し出された、見慣れない漢字の羅列。赤葦くんの名前を文字として認識するのは、これが初めてかもしれない。アイコンは丸く切り取られた梟の写真だった。赤葦くんの指なのか、嘴に添えられている。背景からして、もしかして流行りの梟カフェだろうか。赤葦くん、こういうところ行くんだと意外に思いながらも、そんな彼の姿を想像すると胸の奥がキュッと締め付けられた。可愛いな、なんてね。

しばらくその写真を見ていたが、ハッと我に返って慌てて追加ボタンを押した。これは完全に心を奪われている。赤葦くんに想いを馳せていた数秒を棚の上の隅っこに押し込み、最初に送るメッセージの内容を考えた。こんばんわ、を打って消す。苗字です、を打って消す。どれもしっくり来ず、頭を抱える。誰かに送るメッセージでこんなに頭を悩ませるなんて、いつぶりだろうか。うだうだ考え込んでいる間にテレビの横の置時計が非情にも針を進めていて、これ以上こうしていても明日に響くと判断し、『バイトお疲れ様です。先ほどはお誘いありがとうございました。土曜日楽しみにしております』と他人行儀な文をポチポチと打ち込み、一度も読み返さないまま送信ボタンを押した。

赤葦くんのお客さんにヤキモチをやこうが、赤葦くんと週末遊ぶ約束をしようが、明日も変わらず仕事だ。重たい腰を持ち上げて、下着と着替えを衣類ケースから取り出してお風呂へと向かった。

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今日も疲れた。今すぐにでもベッドに潜り込みたい眠気を抑えながら、火照る顔にぺちぺちと化粧水を塗りつける。眠いけれど、この時間に寝てしまうのはもったいない。ベッドに腰掛けてBGM代わりに流した録画のバラエティ番組をぼんやりと眺めていると、お尻の辺りから鈍い振動を感じた。テレビの横の置時計は日付を跨ぐ数分前を差していて、一瞬明日の同僚の勤怠連絡かと思った。けれど、すぐに思い出す。お風呂に入る前に、返事が待ち遠しくなるような相手に送ったメッセージ。化粧水に濡れた手を慌ててティッシュで拭いて、ベッドに埋もれていたスマホを持ち上げる。

『ありがとうございます。俺も楽しみです』

何の絵文字もスタンプもない、簡潔な一言。赤葦くんらしいなと思って胸がじんわりと熱を持つ。こうやって夜にウキウキしながらメッセージをやりとりするなんて、本当にいつぶりだろう。随分前に流行った、星の夜に願いを込めて指先でメッセージを送る歌を思い出して、誰も見ていないのに一人で恥ずかしくなった。何歳になっても同じだ。すぐに既読は付けちゃダメって言うけれど、駆け引きなんて出来ないね。社会人の夜は大学生とは違って短い。時間も置かずにトークを開き、その短いメッセージに対する返信を考えた。どこに行くの?を打って消す。どこか行きたいところある?を打って消す。さっきの赤葦くんの言った「デート」という単語が甦って、期待で頭がいっぱいになる。でも、私は何を期待しているんだろうか。

『番号捨てられたかと思ってました』

何も文字を打たずにカーソルだけが点滅している中、一番下に最新の吹き出しが追加された。彼の声で再生される内容に加え、無機質な真っ黒の文字が私に追い打ちをかける。不安にさせてしまったのかな。待たせてしまったのかな。私には連絡する義務も義理もなかったけれど、こうして結局自ら連絡をしてしまっているのだから、何かしらの内情の変化があるのだろう。すぐに付く既読のマーク。赤葦くんも同じ時間にこのトーク画面を開いていることに、なんだか嬉しく感じてしまう。

『捨てる訳ないよ』

期待をさせてしまっているのだろうか。私が彼の気持ちに対して前向きになっているとは言え、応えてあげる保証をした訳ではない。今の状況に少なからず喜んではいるくせに、罪悪感で胸が痛む。

『良かった。ずっと待っていたので』

でも、嬉しい。赤葦くんから私だけに向けられた言葉が、とっても嬉しい。待たれていたことにだって、嫌な気なんて全くしない。違うよ、嫌いな訳じゃないんだよ、と伝えたくて急いで『ごめんね。タイミングが分からず…』と返信をする。次の言葉を心待ちにする。どうしてかな。なんでかな。

好きになっちゃったのかな。私が?5歳も年下の大学生を?そうでないと、日常生活でなかなか感じることはないこの胸の高鳴りについて説明し切れない。けれど、流されているだけなのかもしれないとも思う。赤葦くんの大学の話とか、私の会社の話とか、世間話を繰り広げながら指先で会話をする相手に想いを馳せる。一人の男性の返信をこんなに待ち遠しく思ってしまうなんて。すぐにでも赤葦くんに飛び込んでいきたい気持ちと、大学生なんかに妥協してはダメだという相反する気持ちが存在する。妥協?私は、赤葦くんで妥協しているの?答えなんか見付かりっこない問い掛けが頭の中を巡る。目をそっと瞑ると、落ちないように、落ちないようにと必死に崖っぷちで踏ん張っている自分が見えた。

結局僅かに残っていたアルコールと仕事の疲れに容赦なく夢の中に引っ張り込まれ、気付いた頃には枕元のスマホがけたたましくアラーム音と振動を発していた。眠たい目を擦ってアラームを消すと、画面に映し出された新着メッセージの通知。突如脳が覚醒する。そうか、昨晩はメッセージを送り合いながら、途中で寝てしまったんだ。赤葦京治の四文字に、寝起き直後から心が躍っている。逸る気持ちを抑えアプリを起動すると、スクロールもできない量のトーク画面に彼から送られたメッセージが浮かんだ。

『明日も仕事頑張ってくださいね』

妥協か。昨晩意識を失う前に頭に浮かんだ言葉を思い返す。妥協で、こんなメッセージ一つに温かな気持ちになれるのかな。言葉一つで、朝から幸せな気分になれるのかな。どちらにせよ、赤葦くんの言動に楽しんだり喜んだり、心が救われているのは確かだ。私の味気ない生活に色を添えてくれた赤葦くんに内心感謝しながら、出社の準備のためいつもより軽く感じる身体を起こしてベッドから下りた。