会社にいる7時間は時計の針が止まったかのような錯覚に陥るくらい長くて重たい時間なのに、赤葦くんと過ごす時間は、なんで一瞬で流れてしまうんだろう。太陽が沈んだ後なのにビルの明かりのせいで狭く感じる夜空を見上げる赤葦くんの傍らで、気付かれないように腕時計を確認すると、水族館のお土産コーナーで遊びすぎたせいか、18時を過ぎていた。
さて、これからどうするんだろうか。解散にはまだ早く、オーソドックスなパターンでいくなら、この後ディナーに行ったりするんだろうか。確かにお腹の空き具合も頃合いだ。
「どうしよっか?」
「帰りましょうか」と言われたくなくて先に口火を切った私を、彼は静かに見下ろす。そして少しだけ考える素振りを見せ、「お腹空きました?」と聞き返してきた。初デートという言葉がぴったりな流れに、むず痒く感じてしまう。
「うん。」
「俺、行きたいお店あるんですけど。付き合ってくれませんか?」
赤葦くんが行きたいお店って、どういうところだろう。バーで働いてるんだから、やっぱりカクテルの種類が豊富なオシャレダイニングとかだろうか。よく合コンで選ばれるような、そんなお店を想像した。まあ、どんなお店にもビールはあるだろうと高を括り、赤葦くんの趣味も興味あったし大人しく首を縦に振った。
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見慣れた構内。慌ただしく行き来する人々。どこに向かうのだろうかと考えながら赤葦くんの後に続き、電車に揺られ、到着したのは平日の朝と夜に二度踏み付ける、いつものホームだった。
「え?和音に行くの?」
「今日は行きませんよ。」
それじゃあ、帰るつもりなのだろうか。それとも、もしかして赤葦くんの家に連れ込まれるのだろうか。なんて。そんな馬鹿げたことはもう考えないけれど。まさか行先が最寄駅だとは思わず、自然と身構えてしまった。
「こっちです。」
改札を出て左を指差す。細長い指の先を見ると、私の家や和音の方向とは逆だったから、恐らく赤葦くんの家の方向だろう。あまりこちら側に降りる機会もなく、新しい景色に胸が躍る。これが、いつも赤葦くんが見ている景色か。
「赤葦くんの家、こっち側だったよね?」
「そうですね、ちょっと方向は違いますけど。」
細い裏路地のような、地元感あふれる道に先導しながら赤葦くんは少し外れた方角を指差した。長年この駅に住んでいるけれど、そっちの方は行ったことがなかった。赤葦くんは普段どんな場所で暮らしているんだろう、と少し興味を持ったとき、彼は「それで」と続けながら差している指を斜め下に持っていった。
「ここです。」
足を止めた赤葦くんに連れられて、私も立ち止まる。店先に紺色の暖簾が掛かった居酒屋。ずっと想像していたオシャレダイニングとは程遠い。
「ここの焼鳥が美味しいんですけど、いいですか?」
「焼鳥!全然いいよっ!」
本当に予想外だった。絶対にカクテルが美味しいお店とかに連れて行かれると思っていたから。暖簾をくぐると、狭い店内にカウンターとテーブル席が並んでいて、壁には店長が書きなぐったような焼鳥のメニューがぎっしり貼ってある。いつも和音でシャカシャカと格好よく金属製のシェイカーを振っている赤葦くんからは、結びつかない内装だ。
「意外でしたか?」
「うん、正直ね。赤葦くんでも、こういうお店来るんだね。」
「前に先輩と来たんですよ。焼鳥が美味しかったので、いつか名前さんを連れて来たいと思ってたんです。」
確信犯なのか、そんなことを言われてしまえばこちらも胸が締め付けられる。嬉しいことは嬉しいのだけど、そろそろ心臓がもちそうにないから勘弁してくれと思っていると、壁際のテーブル席に案内された。予備の椅子もない二人席で、鞄を背もたれと背中の間に挟んだ。荷物カゴもないような狭い居酒屋。和音に通っている割に、こういうお店は好きだ。何より、好物のビールにはやはり焼鳥が合うから。ほかほかのおしぼりを渡され、手先をあたためていると、赤葦くんは流れるようにドリンクのメニューを開いてこちらに見せていた。入店した時点で薄々勘付いてはいたけど、生ビールの横にはサワーや日本酒の名前が並んでおり、合コンでは定番の甘ったるいカクテルは見当たらない。
「生でいいですよね?」
「え、あ、はい。」
「生二つで。」
対応が素早い。聞いてくれた割にはほぼ間違いないとでも言うように決め付けてしまっているが、残念ながら異論はない。店員に向かって人差し指と中指を立て、注文を告げる。何度見ても、やっぱり綺麗だと思う。そんな様子を見つめていると、店員から視線を戻した彼とバッチリ目が合う。なぜか一方的に気まずくなり、慌てて壁に貼られたメニューへと視線を流す。何か食べたいものを、と手頃なおつまみを探していると、赤葦くんは続けざまに開口した。
「あ、あと枝豆。食べますよね?」
「はっ、はい。」
「じゃあ枝豆も。とりあえず以上で。」
たぶんこれが赤葦くんじゃない、他のチャラチャラした大学生だったら、なんだコイツと思って即刻帰るくらいだ。普段から和音で「ビールと枝豆と焼鳥」って言いすぎたせいか、何でもお見通しのようだ。
「勝手に決めてしまって、すみません。焼鳥は名前さんが食べたいの決めていいですよ。俺、何でも食べれますので。」
赤葦くんは決して自己中でも、自分を押し付けてくるタイプでもない。今日の行先でもそうだったけど、私が行きたい場所や食べたい物を先読みして、提案してくれる。それが寸分の狂いもないから、逆に怖いくらいだ。私にメニューを渡し、一段落ついたかのように一息ついておしぼりで手を拭いている様子を伺って、思わずメニューで顔を隠した。なんであんなに平常運転なんだろう。私はいつまでたっても鼓動が静まってくれなくて頭を抱えているのに。
「そ、そういえば赤葦くんって、梟カフェとか行くんだね。意外!」
平静を取り戻すため、不意に頭に浮かんだ赤葦くんとのトークを思い出す。彼がアイコンにしている梟の写真。この話は、話題に困ったときに出そうと脳内にストックしておいて、まだ使ってはいなかったはずだ。
「ああ、あれは先輩たちに無理矢理連れて行かれただけです。」
まるで自分は行きたくなかったけど、と言いたげだけれど。それなのに自分で写真撮ってアイコンにしちゃうんだから可愛いと思う。でも、梟カフェに行きたがるくらいなんだ。その先輩っていうのは、女子なんだろうか。そうだうね、赤葦くんって年上からモテそうだし。一瞬でもそんな考えが過ってしまったことに、また一人で恥ずかしくなる。私は赤葦くんのこと、全然知らない。その先輩っていうのは、きっと私の知らない赤葦くんを、たくさん知っているんだろうな。
「…先輩と仲良いんだね。」
「そうですね。腐れ縁みたいなものですけど。」
赤葦くんが何食わぬ様子で頷いたところで、ビールと枝豆が一緒に運ばれてきた。そこで話は中断され、私はもう二度とこの話を出したくないと思った。この乾杯の後に掘り返されないことを祈って、赤葦くんとジョッキを軽くぶつけた。
先輩って言ったって、彼とは多くても2つか3つしか違わないんだろうし、私から見れば彼も先輩もみんな丸ごと年下だ。なんでそんなことで、私がモヤモヤしないといけないんだ。胸を覆う葛藤を、ビールの泡と一緒に飲み込んだ。今日は楽しかった。知らなかった赤葦くんの一面をたくさん見ることができたし。それで満足のはずなのに。思えば思うほど、ビールがいつもより勝手に喉の奥へと進んだ。
「名前さんも梟カフェ、気になるんですか?」
ジョッキを机に置いたタイミングを見計らってか、赤葦くんは間髪入れずに先ほどの話を続けてくる。どちらかと言うと先輩ではなく梟寄りの話で安堵するけど。
「うーん、まあ行ったことないからね。」
でも、気になる。赤葦くんの仲の良い先輩っていうのがどんな人なのか、気になる。やっぱりモテるんだろうか。女性からアプローチを受けているのだろうか。自分からは聞けないのに、そんなこと考えたって仕方がない。自分から梟カフェの話を振ったにも関わらず興味も無さげに答えたせいか、赤葦くんは怪訝そうにしながら、ポケットの中からスマホを取り出して視線を落とした。
「…これ、俺の高校のときの部活の先輩たちです。」
一人で勝手に落ち込んでいると、赤葦くんは突然スマホの画面をこちらに向けてきた。初めて見る赤葦くんの端末に引き込まれる。5インチもないディスプレイの上で、楽しげにピースを掲げる男性が4人と、それに囲まれた赤葦くんが少し不満そうに顔をしかめていた。
「無理矢理連れて行かれたけど、梟は可愛かったです。」
一度こちらに伸ばした腕を引っ込ませ、指で左右に操作をしてから、再び画面を私の方へと見せる。そこには丸く切り取られたアイコンではなく、背景にお店の内装や赤葦くんの腕まで映った写真だった。
「男性だけって、浮きそうだね…」
「はい。とても恥ずかしかったですね。俺は行かないって言ったんですけど、あの人たち容赦ないから。」
思わず感想を告げると、赤葦くんも苦い思い出のように、溜息混じりに話す。でも、一気に私の気分は軽くなっていた。アルコールのせいだって言い聞かしても、本心では分かっている。こんなこと一つで、本当に、私は何を。
子供染みた、嫉妬だった。私の知らない赤葦くんを、異性の先輩が知っているのだと思ったら、まるで暗雲のような気分が胸を覆い、少しも晴れてはくれなかった。彼の気持ちに応える努力も覚悟もしていないのに、これで何度目だ。自分が、どんどん嫌いになるのに。
「名前さんの話も、聞かせてください。」
こんな私の何を知りたくて、何が好きだと言うんだ。ジョッキを片手にそう微笑んだ赤葦くんの顔があまりにも優しくて、滲んだ涙が零れ落ちそうになった。