本気で勉強をするつもりなら、あの時点で校内に引き返して図書室へ向かうのが正解だった。市の図書館は勉強スペースがかなり狭く、他校の生徒で席は埋まっていた。とりあえず今日は二人の苦手箇所を把握するという名目で、駅前のファーストフード店へ足を運んだ。本当に勉強を教わるのは明日からになりそうだ。

私と渚くんが四人席を取って教科書やらテストの答案用紙やらを開いて準備する間に、赤羽くんは三人分のジュースを購入してきてくれた。二人はよくこの店に立ち寄るのか、「渚くん、いつものでいい?」なんてなんだか慣れた会話を交わしていた。

「はい、お待ちどー。」
「ありがとう。」

渚くんと並んで座っていると、彼の前にバニラのフローズンドリンク、私の前にグレープジュースが置かれた。そして私の向かいの椅子にどかりと鞄を投げ捨て、渚くんの向かいに腰を下ろした。

「準備できたー?」

一口ストローを吸ってから、赤羽くんは鞄から筆箱を取り出して机に置く。こうやって彼が親身になってくれていることに感激をしながらも、やはり数学の圧倒的バツが多い答案用紙を見せることは恥ずかしく、劣等感が私の丸まった背中をつついてくる。そうこうしているうちに右隣で渚くんは素直に小テストを広げ、分からないところを聞いていた。

「で、緋月さんは?この間の小テスト持ってる?」

渚くんへのアドバイスが終わったのか、今度はこちらに注意を向けて言いながら手元にあった答案用紙を奪っていった。取り返そうと思った時にはもう遅く、赤羽くんは緋色の瞳を右左と紙面の上を滑らせていた。

「マジで基礎から出来てないじゃん。」

言われてしまった。彼みたいに優秀な人はきっと今まで生きてきて、こんな底辺な点数は見たことがないんだろうな。信じられない、とでも言うように一度紙面から顔を上げて私を見た。しかし当の私は向き合うことが出来ず、取り返そうと伸ばした手を引っ込ませ、椅子の上で小さく縮こまった。

やれば出来るって、昔は思ってた。まだ本気を出す頃合じゃないからって遊びに部活に明け暮れて、気付いたときには手遅れだった。顔文字みたいな式や呪文のような証明に頭を悩ませては放置して、ここまで来てしまった。

手遅れだって言われたらどうしよう。大野先生みたいにお前はE組行きだって突き放されたらどうしよう。顔を俯かせてじっと彼の反応を待っていると、脱力したように答案用紙を机の上に置いた。

「一次方程式は?」
「へ?」
「だから一次方程式。理解してる?」

顔を上げると、赤羽くんは特に蔑む様子も馬鹿にする様子もなく、数学の教科書をペラペラと捲っていた。該当の章を開き、私の方に向ける。一年生の復習という題名が頭を鈍器で殴ってくる。そして目立つように丸で囲まれた基礎という文字を指差して顔を覗き込んできた。

「こういう問題は解ける?」
「えっと、うん、それくらいなら…?」
「なんで疑問形なんだよ。ほんとに理解してる?」
「うん。大丈夫だと思う…」

指を差された基礎問題は、一次方程式の最も単純な問題だった。x=の形になるように移項すればいいだけの。この基礎中の基礎みたいな問題が出題されたから、小テストでは30点も取れたようなものだ。でも中間や期末ではこんな難易度の低い問題、まず出題されないだろう。赤羽くんは私の返答を聞くと、教科書を自分の方に戻してまたページを捲った。

「じゃあ関数にしてみたら?」
「関数はちょっと…あんまり…」
「だよね。全然取れてないもん、点数。」

分かってるならわざわざ聞いて傷口を抉らないでくれ。一人で傷付いていると、赤羽くんは考え込むように答案用紙と教科書を見比べ始めた。手持ち無沙汰になって右に視線を送ると、早くも渚くんが頭を抱えているのが見えた。

とにかく本格的な勉強は明日から、ということになって、ジュースを飲み終える頃には勉強とは関係ない話で盛り上がってしまっていた。中途半端に開かれた教科書を見ないようにして、談笑を弾ませる。

「そういえばソニックニンジャの続編、来年公開みたいだね!」
「あ、それ私も聞いた!でも来年はアメリカとかだけって聞いたけど?」
「アメリカかぁ…」

昨年の今頃、初めて三人で映画を見た。渚くんの情報に私の情報を付け足すと、彼は残念そうに肩を落とした。アメリカなんて簡単に行ける距離じゃないし、何より字幕も無い本場の洋画を理解できるはずがない。

「日本公開は再来年かな?」
「また三人で見に行けたらいいね!」

渚くんの提案に私が含まれていることに嬉しく思いながら、黙ったままの斜向かいに視線を送ると、赤羽くんは何を考えているのやら、じっと机を見つめながら空になったジュースを吸ってズコズコ音を立てていた。そして不意に悪巧みを思い付いたようにニヤリと笑って、ストローから口を離した。

「そのためにはE組に落ちないようにしなきゃだね?」

途端に心臓が凍り付いた。赤羽くんは流されやすい私とは違って自分の中に確かな正義を持っている人だ。周りの女子に合わせてE組の悪口を言ってしまう私に対して、赤羽くんの口からそんな低俗な言葉が出てくることはまずなかった。きっと彼には関係ないし、興味もない集団なんだろうとは思っていたけど。

今の言い方からすると、もし本当に私や渚くんがE組に落ちてしまったら、そこで今まで築いてきた関係は解消されてしまうということなんだろうか。E組に落ちたら、好きな映画を一緒に見に行くこともないと、そういう。それもそうか、あの劣悪な環境に染まって、それでも友達でいてくれる人なんて、いる訳が無い。今クラスで仲良くしてくれている女子たちも、手の平返しだ。

「…そ、そうだね…」

物思いに耽っている間に、渚くんがどういう反応を返したのかは見ていなかった。少し遅れての私の返答が見当違いだったのだろうか、赤羽くんは不思議そうに首を傾げていた。