終業のチャイムが鳴り、今日から本格的な勉強が始まろうとしていた。まだ中間試験前ということで、学校の図書室は比較的空いているだろう。E組でもなければ、席の予約は取れるだろうし、余裕を持って向かうことができる。

ホームルーム直後の教室で渚くんと赤羽くんが話していたのを横目に、廊下へ出た。私には分からないゲームの話で盛り上がっていたから、その間にお手洗いに行っておこうと思ったからだ。廊下ではまだ下校しない生徒たちが隅々で集まって話に花を咲かせていた。お手洗いから出てB組の前に差し掛かったところで、見慣れた姿が前方の扉から出てきた。右手には珍しくテニスラケットを持っている。

「あ、磯貝くん!今日は部活行くの?」
「おう、緋月!今日は用事ないからさ、久しぶりに出れるんだ。緋月も最近見掛けないって聞いたぞ?」

磯貝くんはクラスは違うけれどテニス部が一緒の友達だ。でも彼は多忙の身のようで、事あるごとに用事があると言って部活の参加率を下げていた。今日は珍しく用事がないみたいだけれど、残念ながら私は参加出来ない。

「うん…、ちょっとね!」
「今日も?」
「残念ながら…」

磯貝くんも赤羽くんには敵わずとも非常に優秀で、しかも学級委員でクラスで慕われているとよく噂を耳にする。女子からの人気も高いのも、「そっかー、残念だな。久しぶりに緋月と打てると思ったんだけど」と爽やかに言ってのけてしまうから頷ける。イケメンだなーと素直な感想を抱きながらあははと軽い笑い声で返事をすると、今まで視点が合っていたはずの磯貝くんが私の背後に視線を移した。

「緋月さん、行くよー。」

掛けられた声に振り返ると、D組の前で赤羽くんが鞄を二つ持ってこちらを見ていた。少し遅れて渚くんも出てきた。

「あ、じゃあね、磯貝くん。部活頑張って!」
「おう!緋月も!」

軽く手を振って駆けて戻ると、赤羽くんは私の鞄も持ってきてくれたみたいで、教室の中まで取りに行く手間を省いてくれた。「ありがとう」と言って受け取って、三人並んで図書館へと向かった。

▼ ▲ ▼

西に傾いた日は極めて低く、三つの影を東に向かって大きく伸ばしていた。図書室で約二時間、集中に集中を重ねて久しぶりに吸った外の空気は清々しく感じる。渚くんの状況は把握していないけれど、私は基礎から出来ていないと言われ、定義の部分から詳しく説明してもらった。優秀な彼のことだから高度な説明かと思いきや、馬鹿な私にもちゃんと分かりやすいものだった。少しは理解も深まったのかな、関数の問題も基礎中の基礎はかろうじて自力で解けるようになった。

「渚くんも緋月さんも明日までに言ったとこちゃんと解いてきてよ。」

確認するように赤羽くんが言う。そう、次の中間で危機しかない私たちは大量の宿題を出されてしまった。本来なら自分でやるべき事なんだろうけど、重要な問題だけピックアップしてくれて、本当に感謝しか出て来ない。量はえげつないけど。

「あーあ、しばらく部活行けないのかー」
「でも一ヶ月も前から勉強してたら、今度の中間はきっと大丈夫だよね!」

憂う私に渚くんがポジティブな言葉を掛けてくれる。確かに、今までは直前に詰め込んだ付け焼き刃な記憶で試験に臨んでいたけれど。今回は一ヶ月も前から、しかも基礎からじっくり学んでいる。一ヶ月後の結果に、今までよりは自信が持てる。

「赤羽くんのおかげだよー!ありがとう!」
「初日に何言ってんの。これからじゃん。」

渚くん越しに赤羽くんを見やると、退屈そうに後頭部で手を組んでいた。全くその通りでぐうの音も出ない。これから毎日、こんな数学漬けな日が続くのかと溜息を漏らしたが、それは私が言えたことではない。あんまり面倒見が良さそうではない赤羽くんは、どうして私たち二人の勉強を見てくれるのだろうか。ふと疑問が浮かんだ。

「よう、カルマ。」

しかしそれを尋ねる前に、ビルに挟まれ日が届かない路地裏から現れた巨大な影に思考が奪われた。赤羽くんを超える身長に見慣れない学ラン。それらが高校生だと気付いた瞬間に、腹部に衝撃を受ける。

「あれ?俺あんたらに名乗った覚えないけど?」

先程の痛みは臨戦態勢に入った赤羽くんが、邪魔だと判断したのか鞄をこちらに投げて寄越したものだった。落とさないように慌てて抱え込み、周囲の様子を伺う。さっきまで並んでいた三人のうち赤羽くんが前へ歩み出ていた。浮かべる表情は、いつもと同じで相手をからかうような楽しげな笑みだった。ぞわり、と言い知れぬ感覚が背中を走る。

「な、渚くん…」

聞いたことのないような、人間の身体が傷付く音を聞いて、正直に恐くなった。隣で傍観を決め込む渚くんに助けを求めるように名前を呼ぶ。でも彼は何を考えているのか、切なげな表情で赤羽くんが高校生相手に暴力を振るう背中を見つめるだけだった。これが噂に聞く、赤羽くんの暴力沙汰。ボコボコにやられてしまうんじゃないか、なんて不安は赤羽くんが相手を蔑む言葉を吐きながら勢いよく拳を頬にめり込んだ時点で消え去った。圧倒的な体格の差にも怯まず、赤羽くんはまるで楽しむように相手に攻撃を仕掛けていた。高校生のあらゆる攻撃を回避し、その間に腕を振りかざし無遠慮に振り下ろす。その表情は普段の彼のものだからこそ、今この状況が猟奇的なものに思えて、途端に逃げ出したくなった。

「渚くん、緋月さん、お待たせー。」

軽やかな面持ちで私が預かっていた鞄に手を伸ばす。そんな赤羽くんの背後で高校生たちは蹴られた腹部を抱え込みながら地面に這いつくばっていた。

「カルマくん、大丈夫?血ついてるよ…」
「あー、これ?俺のじゃないから大丈夫。」

渚くんが指を差した頬を、赤羽くんは何ともないようにごしごしと擦った。たった今高校生たちに暴力を振るってきたばかりなのに、「馬鹿だよねー、あいつら」なんて無邪気な笑顔を浮かべる彼は、いったい誰だろう。渚くんは見慣れているのかもしれないけれど、私は人が血を吐いて地面に横たわっているのも、友達が笑いながら人を殴るのも、生まれてこの方見たことなんてなかった。平静なんて保っていられない。

「どうしたの、緋月さん。」
「えっ……いや…」

心配してくれたのか、笑みを浮かべながら私の顔を覗き込んでくる赤羽くんが、怖くて怖くて仕方がなかった。