エドワードはすっかり忘れていたメモの存在を思い出しポケットの中から取り出して確認する。あらかじめ忘れないようにと皆から聞いた噂を大まかに書き写しておいたのだ。
「えーと次は、第三の噂……ひとりでに流れるシャワーか。ってことはシャワールームだな」
「シャワールームはこの上だ」
エドワードとロイは東棟地下から階段を上り一階へ向かう。


「ここか?」
「いや、そこは女性専用のシャワールームだ。噂のシャワールームは男性専用の方じゃなかったか?」
「そうだったな」
「その隣だ」
ロイは隣の部屋の扉を懐中電灯で照らした。
「入るぞ」
「な、なあ俺も入るんだよな?」
目を泳がせどこか躊躇している様子のエドワードにロイは首を傾げた。
「…?どうした、嫌なのか?」
「嫌とかそういうんじゃなくて!俺も入っていいのかなーってさ」
少女の言葉にようやく察したロイは苦笑する。
「こんな時間に使用するものなどそうそういないよ。今は大規模な演習もないし閑散期だしな」
「そっか」
「それにもし誰かいたとしても相手は男性だ。私もいるし問題ないよ」
軍人という職業上、仮に女性に裸の一つや二つ見られた所で何とも思わないだろう。それにエドワードはまだ少女だ。
目の前の金色を見下ろす。
但し、逆は絶対に許さないが。
途端厳しい表情で自分を見つめたまま動かないロイにエドワードは首を傾げた。
「……大佐?どうかしたか?」
「いや、なんでもない。行くか」
ロイはエドワードの声に小さく首を振り扉を開け、足を踏み入れると照明のスイッチを押した。
中は比較的広めの脱衣所がありその先にシャワールームへの扉がある。
エドワードも部屋の中へ入ると、二人奥の扉へ進んでいく。扉に近づくにつれ少女の顔は段々と強張っていく。
「なあ、何か聞こえないか」
「……ああ」
微かに聞こえる音は普段の生活でもよく耳にし、そしてこの部屋においては何の違和感も感じないシャワー音だった。
───それは、誰かがいる場合に限るが。
「…………やっぱり誰か」
「こんな時間に電気もつけずにか?」
「……だよな」
微かな希望的観測をばっさりと切り捨てられエドワードは項垂れる。
「まあ万が一ということもある。君は後ろをついてきてくれ」
こくんと頷く少女にロイはシャワールームへ繋がる扉へ手をかけた。
左右五箇所で計十箇所ものブースがあるシャワールームは縦に広い作りとなっている。
今度ははっきりと聞こえるシャーッという水音にエドワードは唾を飲み込んだ。
二人、音の聞こえる方へ歩を進め、右の一番奥のブースの前で立ち止まる。
どうやら原因のシャワー音はここから発しているようだ。
「誰かいるのか?」
ロイは薄く白い板でできたパーテーションをコンコンとノックし、少し大きめの声で呼び掛けるが中から返答はない。
ロイは思い切りパーテーションを押した。
「………」
がらんと無人のブースにはシャワーだけが流れ続けている。
「…大佐?誰かいるのか?」
反応のないロイにブースの入口を塞ぐ男の隙間からエドワードも中の様子を伺う。
「……、誰も…いない」
エドワードの背筋に冷たいものが走った。
ロイが声をかけた時、返答がなかったことからなんとなく予想はしていたがそれでも噂通りの展開にエドワードは薄気味悪さを感じずにはいられなかった。
「誰かが閉め忘れたんだろう」
ロイは溜め息を吐くとシャワーのレバーを引き水を止めた。ふと足下に視線を向ける。
──なんだ?
さっきはシャワーに気をとられて気づかなかったが暗いシャワーブースの床に確かに存在する黒い物体に不審に思いしゃがみこむ。目を凝らしその物体の正体を探る。
そしてそれが何なのか気づくと眉を寄せた。
白いタイル張りの床、そこには長く黒い大量の髪の毛が存在していた。
ここは男性専用のシャワールームだ。男性でも髪の長いものはいるがこの東方司令部にここまで髪の長い男の軍人などいただろうか。実質の司令官であるロイとて全員の顔を把握しているわけではないが黒髪で髪の長い男など今まで見たことがなかった。
「大佐ーどうかしたのか?」
シャワーブースから中々出てこないロイにエドワードから声がかかる。
「……いや、なんでもないよ」
ロイは顔を上げると何事もなかったかのようにエドワードと共にシャワールームを後にした。


「結局なんだったんだろうなー。やっぱり閉め忘れか?」
両腕を頭の後ろで組みながら歩くエドワードは言葉とは裏腹にどこか腑に落ちないといった様子である。
「まあそういうこともあるさ」
ロイはそう返しつつもシャワーブースで見たものを伝えようか迷う。
ただ奇妙な違和感を感じただけで確証があるわけじゃない。それにもしかしたら本当に誰かが使用したあとうっかり閉め忘れたのかもしれない。それこそ顔も見たことのない長い黒髪の男性が……。
───やはり少し無理があるだろうか。
ロイは自分の仮説に微かに苦笑を浮かべると隣を歩く金色の少女を見下ろす。
書庫での一件からすっかり調子を取り戻したと思われるエドワードだがその振る舞いや仕草には未だ拭えない恐怖が見て取れる。それは並んで歩く時、無意識なのだろうが自分に身を寄せてくる姿だったり普段と比較すると驚くほど従順な態度であることから予想がつく。今回の七不思議の件でエドワードとの距離がぐっと縮まったのは自分の気のせいではなく直接言われたわけではないが少女の気持ちも確認できた。しかし急激な態度の変化はそれだけが理由ではないだろう。確証もないままこれ以上いらぬ不安や恐怖を与えたくなかった。

「取り敢えず次へ行こうか」
「第四の噂は…西棟三階の渡り廊下に佇む女の霊だ」
メモを読み上げるエドワードにロイは提案する。
「ではこのまま三階まで上がろう。中央棟、西棟と行けば目的地だ」




階段を上り三階の渡り廊下の前までやって来たエドワードは思わずその歩みを止めた。東棟から中央棟、西棟とを繋ぐ一直線の渡り廊下はとても長く先が見えないほどだ。大きな窓ガラスから差し込む月明かりに晒された廊下は、先ほどいた東棟よりは僅かに明るいがその道の先はとても暗い。目の前の奥深い闇は知らずエドワードの不安を煽り、飲み込まれそうだと足が竦む。
───おかしい。
エドワードは生じる感情に戸惑わずにはいられなかった。確かに人気もなく闇に包まれた静寂な廊下は薄気味悪いものがある。しかし旅の最中を思えば可愛いものだ。調査のため立ち寄った街がいわくつきのゴーストタウンだったなんてことや、不気味な森で一夜を明かしたり、真っ暗な炭坑内を歩き回ったりだとか割りと色々な経験をしている。多少の恐怖心はあれど足が竦んでしまうくらい怖いと思ったことはなかった。だからこれくらいのことに怯えるような精神は持ち合わせていない。しかもここは馴染みある東方司令部なのだ。恐怖を感じる要素などどこにもない。だというのに自分は一体どうしてしまったんだとエドワードは途方に暮れる。

足を止めたエドワードに気づきロイが振り返る。
「どうした」

おかしいといえばこの男もだ。
最近どこか自分に対する距離感がおかしく接触してくる頻度も多かったが今日はそれが顕著だ。先ほどの書庫での出来事を思い出し羞恥が込み上げる。
てっきりあの嫌味ったらしい笑みを浮かべて馬鹿にしてくると思っていたのに頑なに強がる自分を待っていたのは、酷く心配げな顔と自分を包み込む大きな体と優しい言葉の数々で、そのあまりの温かさに胸が軋み悲鳴を上げた。おかげで箍が外れ思い切り泣き縋ってしまった。おまけに色々と恥ずかしいことまで言ってしまった気がする。
しかしそのおかげで大分晴れやかな気持ちになったのも事実である。何とも言えない気持ちで目の前の男に恨めしげな視線を送る。
「そんなに怖い顔をしないでくれ」
口元に笑みを浮かべいつもの余裕のある男の様子にエドワードはますます面白くないと口を尖らせた。
一方、突然拗ねてしまったエドワードにまったく理由が分からないロイはふむと、しばし思案すると少女に向かって右手を差し出した。
「なんだよ」
そんなロイをエドワードは怪訝そうに見やる。
しかしロイはその問いには答えず黙って小さな左手を握った。
「…なっ!急に何すんだ!!」
「なんだ、違うのか?ずいぶん不満げにこっちを見つめるものだからてっきり」
エドワードは男の言葉の先を想像し、頬をカアッと熱つくさせる。
「はあ!?俺がいつあんたと手ェ繋ぎたいって言った!!どんだけめでたい頭してんだよ!!はなせっ」
検討違いの読みをするロイに思わずエドワードの口から暴言が飛び出る。しかしその読みもあながち間違いではない。エドワードの速まる心拍数と胸に広がる甘い疼きがそれを如実に顕している。
しかしそのまま素直に受け入れることなんてできず振りほどこうと暴れると、その手はいとも簡単に離れてしまった。
「あっ………」
思わずエドワードの口から小さな声が漏れる。
自分から振りほどいたというのにあっさりと離れてしまった手にショックを受けた。

「鋼の」
「……っ」
耳元で囁くように名を呼ばれエドワードの体はびくっと揺れた。顔を覗きこまれロイの瞳と目が合う。じーっと何かを探るような瞳にこちらも負けじと見つめ返す。
するとロイはふっと笑い言葉を紡いだ。
「じゃあ私が繋ぎたいから繋ごう」
その言葉にエドワードは堪らず目を見開いた。自分の気持ちを見透かされたのかと、ドキンと心臓が大きく音を立てた。
「駄目か?」
眉を下げこちらの反応を窺うような男の仕草にエドワードは思わず首を小さく横に振る。その反応にそうかと喜色の滲む声を上げた男は再びエドワードの左手に自分の右手を重ねた。嬉しそうなロイの様子にエドワードの胸はキュウと締め付けられた。
人の気も知らないで。
溜め息の一つも吐きたくなる。本当はこんな気持ち早々に捨ててしまうはずだった。しかし、その度にロイの優しさや温かさに触れ口では暴言を吐きながらもロイに対する好きは募っていくばかりでどう頑張ったって嫌いになんてなれそうになかった。捨てるどころかどんどん膨らんでいく気持ちに恐怖すら覚える。
今の発言や反応も思わせ振りな態度も自分をからかっているわけではないが恐らく他意はないのだろう。
ロイにとって自分という子供は恋愛対象外なのだから当たり前なのだが。
証拠に色恋を得意とする男なのだから自分の男に対する気持ちなどとうに気付かれていてもおかしくはない。しかし何も言ってくる気配がないということはやはりその可能性すら排除しているということだ。思いを伝える気など毛頭なかったがそれはそれで腹が立つ。こうなったら気付かれるまでベッタベタにくっついてやろうか。そもそも思わせ振りなこの男がいけないのだ。いずれ膨らみすぎてどうしようもなくなってしまうのだからこうして少しずつ小出しにしていくのはいいかもしれない。どうせ気付かれることはないのだ。自嘲気味な笑いが漏れる。自分と同じようにこの男も少しくらい動揺すればいいのだ。
細やかな仕返しを開始した少女は手始めに繋いだ左手に力を込めた。



繋いだ手はそのまま長い渡り廊下をゆっくりと進む。
先ほど仕返しだと繋いだ手をぎゅっと握り返したエドワードだったが、男はそんな少女に何が嬉しいのかでれでれと顔を崩すばかりでエドワードはますます困惑した。
エドワードはちらっとロイを見上げる。月明かりに照らされた男の顔はやはり上機嫌だった。
するとすぐに自分の視線に気づいたロイと目が合う。
「どうした」
「…っ、なんでもねえよ」
優しい眼差しと柔らかい声色に思わずぷいっと顔を逸らす。繋いだ手の感触と伝わる体温にエドワードの心臓はドキドキと忙しなく鼓動する。男に対する仕返しのつもりが自分の方が振り回されている現状にいささか落胆する。エドワードはそんな自分を愛おしげに見つめる男に気づくことはなかった。そして、この道を進む前に感じていた恐怖心などすっかり吹き飛んでしまっていることにも気づかないのであった。

中央棟と西棟を繋ぐ渡り廊下に差し掛かった時、ふと前方に人の気配を感じた。エドワードは知らず繋いだ手に力が入り、思わずロイと顔を見合わせる。
ゆっくりとゆっくりと近付いていくと徐々にその相貌が明らかになる。
───そして
「……っ!」
暗い闇の中に浮かび上がる姿にエドワードは息を飲んだ。赤いワンピースを着た長い黒髪の女が窓ガラスの方を見つめながら立っていた。
そして、女は自分達に気付くことなくそのまま前方へ歩みを進めるとふっと暗闇の中へと消えていった。

「……なんだったんだ、今の」
ぽつりと少女の口から言葉がもれる。
「ここで働いてる人…とか?」
「そんな訳あるか」
「……だよな」
東方司令部には正規の軍人ではない事務職員の者もいる。ロイ達軍人と制服のデザインが少し違い女性は下がスカートだったりするのだが、基本的には同じである。また軍人である者もそうでない者もしっかりと制服の着用が義務付けられている。(エドワードは特例だが)
女の佇んでいた位置まで進むとエドワードは何かに足を取られた。予想もしていなかったことに当然反応が遅れ悲鳴と共に思いきり男の手を引いた。
「うわあ!!」
しかし転ぶより先に男の力強い手に引っ張られる。エドワードの力を受けてもびくともしなかったロイは少女を抱き寄せた。
「大丈夫か?」
「な、なんとか」
バクバクと煩い心臓を宥めつつロイに返答する。
「なんか分かんねえけど、すげー滑ったんだよな」
エドワードの言葉にロイは足下に視線を移すがそれだけでは分からずしゃがみこむ。
「………水?」
エドワードが滑り転びそうになった場所には小さな水溜まりができていた。
「なんでこんな所に水溜まりなんてあるんだよ」
一緒になってしゃがみこんだエドワードが苛立たしげに声を上げる。
ロイは何かが頭に引っ掛かっていた。
そうだ、シャワールーム。
シャワールームでの一件を思い出す。さっきの消えた女も長く黒い髪をしていた。それが自分には全く無関係とも思えず、そしてこういう時のカンというものは大体当たるのだ。しかしだからと言ってどうすること
もできず今は頭に置いておいて先に進むしかない。
「取り敢えずこの噂は本当だったということか」
ロイの言葉にエドワードはハッと顔を上げる。
どうやらさっきの出来事ですっかり忘れていたらしい。その様子にロイは小さく笑う。
それを馬鹿にされたと勘違いしたエドワードはふくれっ面になった。
「ほらほら、次に進もう」
エドワードはふくれっ面のまま渋々とメモを取り出し確認する。
「……通信室」
ぼそっと呟いた言葉を聞き逃さなかったロイは、立ち上がると再びエドワードに手を差し出した。