就業時は絶え間無く鳴り響く電話のベルや人の声で溢れている通信室内も今は物音一つせず、広々とした空間はガランとしている。

「まるで図ったかのような時間だな」
扉近くの壁に掛けられている時計の針はそろそろ二時になろうかとしていた。感嘆とするロイとは逆にエドワードは微妙な顔つきになる。
第五の噂は"深夜二時になると通信室の奥の第二通信室から男性の声が聞こえる"というもの。この噂は少し特殊で毎年この時期になるとこぞって皆が口にするらしい。思いだし溜め息を吐くと繋いだ手の先の人物を見上げる。相変わらずこの状況を楽しんでいる男に、果たしてこいつに怖いものなんてあるのかと疑念が生まれる。
「どうした?」
「べつにー」
恨めしげな視線を受け止めても尚、怯む様子のない男にエドワードはそれ以上考えることを止めた。
噂の時間まであと少し。ぐるりと室内を見回していると、突如けたたましい音が部屋中に響いた。


──リリリリリン、リリリリリン
鳴り出したベル音にエドワードの身体はビクッと揺れた。思わずロイとエドワードは顔を見合わせ、音の発信源を辿る。どうやらそれは窓際の右端のデスクから鳴っているようだ。鳴り止む様子のないそれに痺れを切らしたロイはそのデスクまで進むと電話を取った。
「はい、こちら東方司令部。……………もしもし?」
一拍どころか二拍置いても返答はない。悪戯かと溜め息を吐き、受話器を耳から離そうとした時、電話口で微かな息遣いが聞こえた。
「もしもし?」
思わず耳を澄ませ、電話口の相手に注意を向ける。
すると───
「…………あ……ぅあ、……う…あ゛、あ゛あ゛あ゛」
徐々に聞こえてくる呻き声に眉を顰め、何か事件かと声を荒げる。
「どうした!しっかりしろ!」
「う、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…て、…か…て」
呻き声は絶叫へと変わり最後に何事か呟くと、やがて電話はプツっと切れてしまった。
「おい!」
切れてしまった電話に顔をしかめ、受話器を見つめていると繋いだ手がくいっと引っ張られる。
「………なあ、今のって」
強張った表情で自分を見つめ、手を介して伝わる微かな震えに、どうやら電話越しの呻き声はエドワードにも聞こえていたらしい。ロイは厳しい顔を緩め左手に握られたままの受話器を置いた。
「何か事件…か?それにしては随分、その」
どこか言いずらそうにもごもごと口を動かす少女に苦笑する。恐らく自分と同じ気持ちだろう。
「異様、だったな」
ロイの言葉にエドワードは小さく頷く。
「女の人の呻き声だったよな?最後、何か言ってたし」
「ああ」
難しい表情で考え込んでいるロイに、エドワードはあることを想像してしまい、恐る恐る口を開く。
「…なあ、ほんとに生きてる人だったのかな。…もしかして、」
「さあ、どうだろうな」
言い淀むエドワードの先の言葉を想像し、ロイは肩を竦めると現時点で引っかかっている点を上げた。
「それが何者かは分からないが、単純に変だな」
「何が?」
エドワードは神妙な顔でロイの言葉に耳を傾ける。
「電話のベルだ。私が出るまでそれなりの時間があったが、途切れること無くずっと鳴り続けていただろう?それがおかしいんだ。日中はこちらで取り次いでいるが、この時間司令部へ繋がる連絡は全て司令室にいる者が取ることになっている。今日は中尉とファルマン、それから君の弟が司令室にいるはずだから電話に気づかないなんてことはあり得ないし、電話に出られないほど業務が多いわけでもない。アルフォンスを残して二人同時に席を外すとも考えられないしな」
「それって………」
「もしかすると外部からの連絡ではなく、この部屋でだけ鳴っていたのかもな」
エドワードはゾッと身体を震わせると恐怖を振り払うように声を上げる。
「へ、変なこと言うなよ!」
「ははは、もしかしたらと言っただろう。あくまで私の予想だよ」
「この!!」
男の脇腹を機械鎧で思い切りつねると笑い声はたちまち悲鳴に変わった。
「いっ!!いきなり何をするんだ!!」
フンっとそっぽを向くエドワードに、痛む脇腹を摩りながらロイは諭した。
「しかしね、色々と考え推測しながら進まないと解明には至らないだろう」
「……そりゃそうだけどさ」
正論に返す言葉が見つからずエドワードは何とも言えない表情を浮かべた。
その時
───カタ
エドワードは弾かれたように微かに聞こえた物音の方へ視線を向けた。視線の先は今立っている窓際右端のデスクの目の前、第二通信室へと繋がる扉。
「大佐も聞こえた?」
「ああ、いよいよ本命登場だな」
声を潜める少女に合わせ、ロイも小声で答えると時計を確認する。
「二時になったな。行くぞ」
エドワードは自身を鼓舞するようにロイにむかって大きく頷いてみせた。
ロイは左手で取っ手を掴むとゆっくりと扉を開け足を踏み入れた。エドワードもそれに続く。

室内には長机が一つ、そしてその長さに合わせ六つのパイプ椅子が並んでいる。長机の上にはいくつかの大型無線電信機が置かれていて、その壁の隅にはカレンダーがかかっている。先ほどまでいた通信室とは違い中は狭い空間となっている。
「これ、随分でかいな」
「これで遠征等に出向いている自軍と交信を取ったりしているんだ。といってもそんなに出番はないんだがな」
無線機の前で好奇心に震える少女を眺める。物珍しげに一つ一つ食い入るように見つめる様は微笑ましい。ロイはそんな少女にふっと頬を緩める。
「あっ」
一番右の無線機の前に差し掛かった時、エドワードは突如声を上げた。
「どうした」
「この無線機のランプ、光ってるぞ」
エドワードから彼女の目の前にある無線機へ視線を移すと確かに無線機に設置されているランプのボタンが 緑色に点灯していた。
どういうことだ。
その事実に首を捻る。
訝しげな表情を浮かべまま一向に動く気配のない男にエドワードは首を傾げた。
「なあ、何か受信してんじゃねえの?取らなくていいのかよ」
「鋼の、さっきも言っただろう。これは主に遠征、つまり戦地に赴任中の自軍と連絡を取るためのものだ。しかしね、今この東方司令部で遠征に出ている部隊などないんだよ」
えっ、と固まる少女にロイは続ける。
「仮にそれに限らず無線を交信する、又はその可能性がある場合必ずここに人員を割くようにしている。誰もいないということは、そういうことだ」
「じゃあこの無線の相手って………誰なんだよ」
息を呑むエドワードを目に止め、その問いに何とも言えぬ微苦笑で返すと、取り敢えずこの無線の向こうにいる相手を確認しないことには始まらないとロイは操作レバーに手を伸ばした。
その時
二人の目の前の無線機からノイズ音が流れ始めた。
「………っ!!たいさ、まだスイッチ…押してねえよな?」
「……ああ」
操作レバーを上げるより先に、独りでに作動した無線機に行き場をなくした手を下ろす。
荒く、断続的なノイズ音に耳を傾けると、その音に微かにだが、何か別の音が混じっていることに気づく。
「……なんだ?」
二人、顔を見合わせているとその異音はだんだんと大きさを増し、しっかりと聞き取れる音にまでなった。
「──め、───ん」
ノイズ音に混じり聞こえた音は、若い男の声だった。
「──めん、─ごめん。約束、守れなくてごめん。やっぱり、帰れそうにないんだ。だから……もう、待たなくていいよ。 ………本当に、ごめん」
──ブツッ
それだけ言うと、音は途絶え受信信号のランプも消えてしまった。
「……なんだったんだ、今の」
ぽつりと溢すエドワード。
ロイは聞こえた言葉と壁にかけられたカレンダーを見て、ああそうか、と納得した。
「ちょうど、今日だったな」
冷たく肌寒い風が暖かなものへと変わり、青々とした若葉が映える。そんな時期だった。そう、あれは四年前の今日だった。
「南のアエルゴと小競り合いが絶えないのは知っているだろう?それは今も昔も変わらないんだが、より昔の方が激しくてね、ある時国境付近での小さな小競り合いが、大きな戦争へ変化したんだ。我が軍も大きな損失を被り、多くの犠牲者が出た」
「…そんな大きな戦争があったなんて知らなかった」
「君はそれどころではなかっただろう」
ロイは苦笑し、続ける。
「犠牲者の中には妻子あるものもいたし、婚約中のものもいた。その婚約者の相手が同じ軍に属する女性軍人、職員という者も少なくなかったんだ。そして、その中にこの通信室に勤めるある一人の女性と婚約中だった者がいた。彼女は、芳しくない戦況に気をもみながらも、ただただ戦争の終結と男の帰りを待ったそうだ。そんなある晩、一つの無線を受信した。それは出兵した例の婚約者からだった。内容は、さっきの通りで、偶然夜勤だった彼女は耳にすることが叶った。その翌日ようやく戦争が終わった。そして、帰還者の中にはやはり彼の姿は無かったそうだ。それでも終結から数日、一月立ってもひたすら無線機の前で彼からの連絡を待ち続ける彼女を皆は気の毒に思い、誰も声をかけることができなかったそうだ。そのうち彼女は体調を崩し、軍を辞め終結からちょうど一年後のこの日に息を引き取ったそうだ。」
「………そっか」
「軍人となったからには常に死は覚悟の上だが、それでもやはり………怖いな」
「怖い?」
この男のイメージとはあまりにかけ離れている言葉に思わずエドワードは聞き返した。
そんな少女の反応に普段の自分がどう思われているか察したロイは苦笑する。
「怖いさ。自分の大切な者を残し、一人逝くのはとても苦しく、身を裂かれるような思いだろうな。……強く思いあっているほどに。だから、どうしても伝えたかったのだろう。自分のことは忘れて、幸せになってくれと」
何か通ずるものがあったのだろう。目を伏せ、口を閉ざしたエドワード。彼女の過去を思えば分からなくもない。
「出ようか」
エドワードは静かに頷いた。

「なあ、さっきの電話の声ってさ」
第二通信室を出て、先ほど電話がかかってきたデスクの前でエドワードは立ち止まった。
「その女の人だったのかな。………最後の言葉、かえってきてって聞こえた」
同じ言葉が聞こえていたエドワードに同意を示す。
「きっとそうだろうな。私にもそう聞こえたよ」
エドワードはデスクを撫でるとぽつりと呟いた。
「ちゃんと、届いてるといいな」



「それよりあんたにも怖いものってあるんだな」
さっきの物憂げな様子なんてなんのその。からかうように自分を見上げてくる少女に、ロイは顔を近づける。
「な、に」
突然距離をつめてきたロイにエドワードの勝ち気な表情が一変、困惑に彩られる。その変化を見届けたロイはニヤリと口角を吊り上げる。
「私にも怖いものくらいあるさ。それこそ色々とね。知りたいか?」
この男の怖いものには物凄く興味があるがそれよりも醸し出す不穏すぎる雰囲気にエドワードは首を横に振った。
「いや、別にいい!」
「どうして?気になるだろう?私の弱点を知るまたとないチャンスだぞ」
「いいって!気になるけど!気になるけど、聞きたくない!」
必死に首を振る少女にクツクツと喉を鳴らす。
「おや、おかしなことを言うな」
妖艶な目つきで至近距離に迫る男の顔に、エドワードは頬を染め目を逸らす。
「……っほら!時間なくなるから、早く行くぞ!」
ロイは仕方ないと顔を離すと再び少女の左手を取る。
珍しく諦めの早い男にほっと胸を撫で下ろしたエドワードには、ごく自然に繋がれた手に気をやる余裕は無かった。いや、あったとしても渋ること無く自然に受け入れていただろう。ロイの手を引っ張る形で扉へ向かう少女を満足げに眺め、ふと考える。
もしも、自分が死んだらこの少女はどんな反応をするだろうか。
悲しんで泣いてくれるだろうか、簡単には死ぬなと怒るだろうか、それともせいせいしたと鼻で笑うだろうか。
突如くるりと振り返ったエドワードはロイをじっと見つめた。
「もし、同じ状況になったら、きっと俺も待ってると思う。あの女の人と同じように、ずーっと。そう、思ってたんだけど」
言葉を区切ると、照れ臭そうに続けた。
「迎えにいく。待ってるだけは性に合わねえ。それに、あんたが簡単にくたばるなんてあり得ねえしな」
「言ってくれるな」
ロイがふっと口元を緩めるとそれに合わせ、エドワードも笑った。
頼もしい少女の頭を撫で、ふと後ろを見やると窓際デスクに二つの影のようなものが浮かんでいるのが見えた。それは寄り添いやがて大きな一つの影へと変化した。それを見届けると今度こそ通信室を後にした。



一つ階を下り、訪れた場所は西棟二階の女子トイレ。その前でロイとエドワードは何とも言えない攻防を繰り広げていた。
「私はここで待っているから。一人で行ってきてくれ」
「何でだよ!あんたも来いよ!」
自分の腕を掴んで放さない少女に深い溜め息を吐く。
「考えても見てくれ。もし私が女子トイレに入ったことが誰かにバレたら明日から出勤できなくなる。君は自分の後見人が変態扱いされてもいいのか?」
「あんたが変態なのは今に始まったことじゃないだろ」
事も無げに放たれる辛辣な言葉にガクッと肩を落とす。
「俺だって男性用のシャワールーム入ったし大丈夫だって!人の気配もないし!」
そういう問題ではないとロイは頬をひきつらせる。
「君はまだ子供だし、男性用のシャワールームに入ったところでさほど問題は無いが、」
「だーれが年端もいかないガキだってえ!?」
「……そこまで言ってないだろう。ちゃんとここで待ってるから」
「やだ!あんたも来い!」
両者譲らずしばらく均衡状態の言い合いが続いたが、最終的に折れたのは子供に甘い大人の方だった。正確には、己の腕をぎゅっと掴んで放さず潤んだ瞳で自分を見つめ、いつもとは違い弱々しい声で縋ってくる。そんな惚れた相手の姿に白旗を挙げたロイの方であった。
目の前でガッツポーズをとるエドワードに苦笑する。確かに狭い室内といえどエドワードを一人にするのは不安がある。幸いこの階に人の気配はなく女子トイレからも物音は聞こえない。
「あまり長居はできない。早く済ませるぞ」
「分かってるって!」
エドワードはロイを引き摺るように女子トイレへ足を踏み入れた。
「第六の噂は…鏡に浮かび上がる赤い文字、だっけ。こう暗くちゃ見えねえな。電気はどこだ」
室内の照明スイッチを探すエドワードに慌てて声をかける。
「馬鹿者!つけてどうする!君は私を変質者にしたいのか」
「あっ、そっか。ごめん」
エドワードは気を取り直して懐中電灯で室内を照らす。入ってすぐの場所に縦に並ぶように設置されている手洗い場。その目の前の鏡は想像していたより大きい。四つある鏡を順番に確認していく。一つ、二つ、三つと確認するも赤い文字は見つからない。さて、これで最後だと四つ目の鏡を照らす。上から順に照らし右下付近に差し掛かった時、エドワードの腕が止まった。
「これ……」
一緒になって見ていたロイも気づく。そこには噂通り、赤い文字が浮かび上がっていた。
「なんて書いてあんだ?」
小さな文字は懐中電灯で照らしているといえ見えにくく、二人で鏡に顔を近づける。
「なになに、あな、たが…ほ、し…い?」
その文字を読み上げ、理解すると同時にエドワードの肌が粟立った。
関係ない、関係ないとは思うのだが…どうしても書庫での出来事を思いだし、身体が震えてしまう。
ふと、ロイが確かめるようにその文字に触れる。するとその文字は意図も簡単に掠れ消えかかってしまった。
「……一体いつの間に書かれたんだ」
乾ききっていないということは書かれてまだ間もないということ。ロイは汚れた指を鼻に近づけると微かに顔を歪めた。赤文字を目にした時、何となく予想はしていたがげんなりとする。この錆びた鉄のような臭いは自分にとって嗅ぎ慣れたものだが、あまり好ましいものではない。
「血だな」
「血!?」
危険な旅暮らしのエドワードにとってもそれは同様で、今更血を見たくらいで怯えるようなことはないのだが状況が状況なため、それを聞くと更にその身を震わせた。
その時
────コツコツコツ
廊下から聞こえる足音に思わず二人の身が固まった。
次第に足音は遠のき完全に聞こえなくなると強張った身を解いた。
「とりあえずしばらくは出れねえな」
ふーっと息を吐くエドワードにロイは眉を顰め、考え込む。
「しかし変だな。誰の気配もなかったのに」
そのまま動かないロイを置いてエドワードは入り口の扉をそーっと開ける。周囲を確認しようと顔を出した瞬間。思わず声を上げそうになった。
十メートル先で後ろ向きに女が立っていた。
確かに遠のく足音を聞いたのに。
その女は徐々に徐々に振り返る。顔の半分が見え全体の姿形を認識した時、背筋が凍りついた。
赤いワンピースを着た長い黒髪のその女は確かに、先ほど渡り廊下にいたあの女だ。しかし一つ違うのは、その口元が異様なまでに吊り上がっているというところだ。
エドワードは女が完全に振り返る前に顔を引っ込め女子トイレに戻った。
「…た、いさ」
声に気づいたロイがエドワードに視線を向けるとその様子にぎょっとした。
「どうした!」
「さっき、渡り廊下で見た…女の人がいた。……やっぱり普通じゃねえよ、あの人」
───コツコツコツ
再び聞こえた足音は段々と大きくなっていく。
「やべえ、気づかれたかも!」
「取りあえず隠れるぞ!」
ロイは懐中電灯の灯りを消し、エドワードの左手を掴むと一番奥の個室に駆け込んだ。鍵をかけ個室の隅に身を固める。エドワードの見たという女の姿にやはりかとロイは思う。シャワールームでの奇妙な違和感、そしてそれは渡り廊下でじわじわと広がり、そして今繋がった。
あの女はやはり───この世のものではない。
そして"あなたがほしい"というあの血文字。
既に一度その身を狙われている少女にとてつもない危機感を覚える。
あなたがほしいだと?笑わせるな。
ロイはその口元に嘲笑を浮かべると小さな体をきつく抱きしめた。
「ちょっ!大佐!?」
「いいから、じっとしていろ」
その時
──キィ、コツコツコツ
扉を開ける音とあの足音が女子トイレ内に響く。
エドワードは動きを止めると思わず男の胸元に顔を押し付ける。広がる男の匂いに二つの意味で胸の鼓動が速まるのを感じた。
コツコツコツ、と足音は止むことなく続く。そして一番奥、二人の入っている個室の前にたどり着くとその音はピタッと止んだ。
エドワードは背後、扉の向こうに感じる寒々しい気配にぎゅっと男にしがみついた。ロイもまた、その腕の力を強める。
個室の上部の隙間から黒く長い髪の毛がずずずっと扉の内側を這うようにして侵入してくる。
そして、二メートル以上ある扉の上からあの女がこちらを除きこんでいた。白身の部分がなく黒で塗り潰されたような瞳はギョロと見開いていてその口元は異様なまでに吊り上がっている。
ロイは動揺することなくその瞳と目を合わせる。すると女はカリカリと扉上部に爪をたてた。上半身だけ個室内へ身を乗り出すような体勢になるとそのまま腕を伸ばした。細く痩せ細った腕は明らかにエドワードに向かって伸びている。
その事実にロイは先ほどまで抑えていたストッパーが吹き飛ぶのを心のどこかで感じた。しかしそんなことはどうでもいい。
並々ならぬ気配を漂わせる男にエドワードは恐怖を忘れ、思わず顔を上げる。そして目に飛び込んできた男の顔に言葉を失った。
この男のこんな顔は見たことがない。書庫で見せた怒りに打ち震える顔とも違う。もっともっと強烈で、怒りすら通り越して──。
視線に気づいたであろうロイと一瞬目が合う。
「……っ!」
その瞬間大きく身体が、心が震えた。
凶暴でいて妖艶で、どこかうすら寒くすら感じる笑みを浮かべ自分を見つめるロイ。その男の瞳には、確かに獣が見えた。自分に異様なまでの執着心を持つ独占欲という名の獣が。
ロイは固まったエドワードから視線を外し、再び女へ向ける。
この世のものであろうがなかろうが知るか。大切に大切にしてきた黄金を一度ならず二度までも自分から奪おうというのだ。一片たりとも残さず焼き尽くしてくれる。
発火布を擦り合わせようと右手を掲げた時、女の動きが止まった。それに合わせ、擦り合わせようとしていた指の動きを止める。相変わらず禍々しい表情でギョロっとした瞳でこちらを見る女。しかし自分も相当凶悪な顔をしている自覚はある。お互いが牽制し合うように動きを止め、見つめ合う。
時間にして僅か数秒。すると、エドワードに向かって伸びていた腕がゆっくりと遠ざかっていき、女の身体も個室の外へ消えていった。

「鋼の」
ロイに呼びかけられ、エドワードははっと顔を上げた。
「もう行ったぞ」
「……ああ」
見上げた男の顔にもう先ほどのような激情は見受けられない。
「大丈夫か?」
ロイの指がエドワードの頬に触れる。エドワードは思わずその身をビクッと揺らした。その様子にロイは苦笑する。
「私が怖いか?」
少し寂しげな声色で訊ねる男に首を横に振る。
見たこともない恐ろしい男の顔に最初は言葉を失い素直に恐怖を覚えた。けれど、目があった瞬間そんな恐怖は吹き飛び、身体全体がまるで心臓になってしまったかのように大きく高鳴った。
そして、男の瞳の中に潜むものに気づいてしまった。
「怖くない。それよりさっきのあんた、その…ちょっと…………」
言いづらそうにもごもごと口を動かすエドワードにロイは黙って言葉を待つ。
「……かっこよかった」
「………え?」
にわかには信じがたい少女の言葉にロイは思わず疑問符を返す。
「だから!かっこよかったって言ってんの!それと、……守ってくれてありがとな」
ポカーンと口を開けたまま動かない男に焦れたエドワードは軍服の襟を掴み揺さぶる。
「おい!聞いてんのか!?」
「あっ、ああ……聞こえているよ」
揺さぶられ、ようやく脳が正常に動き出す。
まさか礼を言われ、誉められるなんて思ってもみなかった。
気恥ずかしそうな少女を見つめる。
「なんだよ」
口を尖らせ険を含む物言いは明らかに照れ隠しだろう。そんな少女にニヤリと口元に笑みを浮かべる。
「惚れ直したか?」
「なっ!!」
エドワードの頬にカッと熱が集まる。
「ほ、惚れ直すって、どういう意味だよ!」
目に見えて慌て出した少女が可愛くて微笑ましくてクスリと笑みが溢れる。
「私は君が好きだよ」
ロイはエドワードの熱のこもった頬を包むと、真っ直ぐにその瞳を見つめる。
エドワードは確信した。やはり、この男は本気で自分のことが好きなのだ。男の言葉と眼差しに嘘偽りなど感じない。冗談で言っているのではなく、本当に自分と同じ気持ちなのだ。
最もあんな独占欲と異様なまでの執着心にまみれた瞳を向けられておいて今更疑いようもないのだが。
「君は?」
頬を包んでいたロイの指がエドワードの唇をそっと撫でる。促すような仕草にエドワードはその身を小さく震わせた。
「鋼の」
「…っ、俺も、大佐が………好き」
溢れた少女の言葉を最後までしっかりと聞き、この上なく幸せそうに破顔するロイに、エドワードはこれは夢ではないのだと、半ば諦めていた想いの成就に目の奥に熱を感じながらも同じように破顔した。