幸福に包まれひとしきり笑い合う。ロイは今しがた手に入れたばかりの少女を見つめた。すると、ピタリと止んだ男の笑い声とどこか含みをもった視線。そして、二人の間に漂う甘い空気を感じ取ったエドワードは先ほどの告白も相まってか恥ずかしそうに伏し目がちにロイから視線を逸らした。そんな愛らしい少女の様子にロイは悶絶し、今すぐにでもその唇を奪ってしまいたい衝動に駆られるが、ここがどこかを思いだしグッと堪えた。恋愛経験が少なそうなエドワードは恐らくファーストキスもまだだろう。そこまで場所やシチュエーションに拘りはなさそうだが、さすがにファーストキスが女子トイレというのはどうだろう。こういったことは案外覚えているものでふと思い返した時に、「そういえば初めてキスしたのは女子トイレだったな」だなんて言われたら複雑な気持ちになるし、何か嫌だ。そっと少女の両頬から手を離す。
「……大佐?」
突如離れていく手に緊張していたのだろうエドワードの顔に微かな安堵が広がる。しかし、その表情とは裏腹に声色に滲む困惑がどこか落胆しているようにも感じさせる。無意識に男を煽る無垢な少女にロイは苦笑するとその耳元で囁いた。
「ここでは何もしないよ。……ここではね」
意味深長な言葉の後にそっと親指で小さな唇を撫でる。エドワードは直接注ぎ込まれた甘さを多分に含んだ声と自分の唇を撫でる淫靡な指の手つきからその意味を理解すると真っ赤な顔で硬直した。暗がりでも分かるその初々しい反応にロイは口元に弧を描くと再びエドワードの左手を握った。
「さあ、次で最後だ。さっさと終わらせてしまおう」


廊下に出て、左右を見渡すとやはりロイの言った通り先ほどの女の姿は無くエドワードはほっと胸を撫で下ろした。ふと視線を感じ、そちらに顔を向けると優しげな表情で自分を見下ろす男と目があった。ロイは口を開くことはなくそのままエドワードの手を引き、歩きだした。自分の手を引く逞しく力強い手はエドワードに余計に男を意識させた。先ほどまでは脈がないと思い込んでいたからある程度平静を保っていられたが、ロイの気持ちを知った今は違う。ただ手を繋いでいるだけだというのに胸の鼓動は激しさを増し、顔には異様なほど熱が集中しているのが分かる。仕返しにベタベタとくっついてやろうなどと考えていた数分前の自分が信じられない。この暗がりでなければ相当情けない顔を晒すはめになっていただろう。エドワードは薄気味悪さを感じていたこの暗闇に初めて感謝した。
「鋼の、最後の噂は何だったかな。…………鋼の?」
思考が完全に飛んでいたエドワードは反応が遅れロイにもう一度名を呼ばれるとようやく顔を上げた。
「…な、なんだ?何か言ったか?」
どこかぎこちなく自分の話などまるで耳に入っていない様子のエドワードにロイはほくそ笑む。先ほどから様子がおかしいのも全て自分を意識しているからであってロイにとっては嬉しいばかりである。
「最後の、第七の噂の発生源はどこだ?」
「えーと、確か……仮眠室。部屋の中に消えていく人影、だってさ」
「では、階段まで戻ろうか」
二人は先ほど下りてきた階段まで戻るとまた一つ下の階へ足を進めた。階段を下り、一階廊下へ出るとエドワードは思わずぶるっと肩を震わせた。
「なんか……寒くねえか?」
「そうだな…」
男の同意にどうやら感じる肌寒さは気のせいではないらしい。歩みを進めるにつれ、エドワードの眉間にも皺が寄る。もう何があっても驚かない。そんな気持ちだったから、最初は急激な気温の変化でも起こったのかと思った。しかし、そうではない。異様に空気が重く冷たいのだ。思わず繋いだ手に力を込めるとぎゅっと力強く握り返された。この手の先にはロイがいる。その事実がたまらなくエドワードを安心させた。
一直線の廊下を半分ほど進んだところでロイは足を止めた。つられてエドワードも足を止める形となったがその理由にすぐに気づきロイ同様前を見据える。
「鋼の、見えるか」
「おう」
前を向いたまま問いかけるロイにエドワードも視線はそのまま返事をする。二人の視線の先、遠すぎてはっきりとは見えないが何か影のようなものが一つの部屋へすーっと入っていく。影が扉の中へ消えて数秒、開け放たれた扉は誰の力を借りることもなくバタンと閉まった。廊下を進み、扉の前までやって来るとやはりそこは例の仮眠室であった。
部屋へ足を踏み入れると仮眠室も廊下同様冷たい空気が流れていた。しかし、二人以外の気配はない。
「なあ、確かにこの中に入ってったよな?」
「ああ」
きょろきょろと視線を動かすエドワードにロイも大して広くはない室内を見渡すとふむ、と呟いた。
「まあ、嘘ではないな」
「何が?」
一人納得したような反応のロイにエドワードは首を傾げた。
「仮眠室に"消えていく"人影だ。本当に消えただろう?」
消えていくという単語を強調し事も無げに言い放つロイにエドワードは呆れたように顔をしかめ声を上げた。
「確かに消えたけど、そういうことじゃなくてさあ」
少女の頭をぽんと撫でると、ロイは繋いでいた手を離し、入り口付近のベッドへ腰を下ろした。エドワードも当然のようにその隣へ腰を下ろす。
「なんか最後がこれって、ちょっと拍子抜けだな」
未だ不満げなエドワードを宥めるようにロイは口を開く。
「また危険な目に合うよりはいいじゃないか」
右手で少女の頬を撫でると擽ったそうに反対側へ身を捩る。その反応につられて今度は左手も頬に当てると逃げ場がないと悟ったのかやがて大人しくなり気持ち良さそうに目を閉じた。こうしていると彼女の普段の気性の荒さが嘘のようである。甘えるように無意識にすり寄ってくる姿は、以前アルフォンスがこっそりと司令室へ連れ込んできた猫に似ている。まあ、エドワードの方が格別に愛らしいのだが。でれでれと鼻の下を伸ばす大人には気づかず、エドワードは頬を撫でる骨ばった男の手に自分の手を重ねると意を決したように口を開いた。
「大佐、あのさ……今回のことが終わったら言おうと思ってたんだけど。………あんた色々と俺のこと助けてくれただろ?」
えっと、だから、と言葉に詰まるエドワードにロイは優しげな表情で微笑む。それに答えるようにエドワーも言葉を振り絞った。
「さっきも言ったけどさ、その…ありがとう。誰かにあんな風に守ってもらったのなんて初めてで、俺………すごい嬉しかった」
誰かに守られるのは嫌だった。そんな弱い存在にはなりたくなかった。自分の身くらい自分で守れなければ目的を果たすどころか弟すら守れない。そう思っていた。けれど書庫で怪異に遭遇した時、体は恐怖で震えその一瞬の隙をつかれ危機的状況に陥ってしまった。得体の知れない力の前に為す術なく、あのビスクドールの冷たく赤黒く濁った瞳に体だけでなく心までもが凍りついた。そして己の非力を呪い死に直面した時、現れた男に途方もなく安堵した。どす黒いオーラを放ち一歩一歩近づいてくる姿に凍りついた心が溶けてゆくようだった。そうしてかけられた慰めの言葉と優しい手つきにとうとう我慢できなくなった。強がらなくていいのだと、抑えていたものが溢れ男の腕の中へ身を委ねた。一瞬、温かく優しかった柔い母の腕の中を思いだしたが、似ているようで全く違う。がっしりとした体躯、服越しに伝わる温もり、匂い。そして優しく頭を撫でる大きな手。それら全てが心地好くて気持ちよかった。手を繋ごうと言われた時だって己の胸に残る恐怖心を見透かされたのかそれともただの男のきまぐれだったのかは分からないが、それでも繋がる先の存在に恐怖心が薄れていったのを覚えている。女子トイレで女の霊に狙われた時はまるで全てから守るようにきつく抱き締めてくれた。
「そう……だから、色々とありがとう」
一つ一つ思いだすたび、心に温かいものがじわりと広がっていく。
「そんでさ、お願いなんだけど」
もじもじと恥ずかしそうに体を揺らし、視線をさ迷わせた後、エドワードは再び口を開いた。
「たまに…たまにでいいから、またさっきみたいに抱きしめてほしいんだけど」
本当は、この男の腕の中が自分だけのものならいいのに。なんて思うけど、そんな贅沢な我儘は言わない。
伺うように瞳を揺らしなんとも可愛いらしいお願いをする少女にロイは暴れそうになる心臓を抑え、努めて平静に口を開いた。
「たまにと言わずともいつでも大歓迎だよ。それに私の腕の中はとっくに君専用だ」
まるで心の内を読んだような言葉にエドワードは瞳を丸くさせた。
「私と君は恋人同士なんだから当然だろう」
「へ?…こ、こここ恋人?!」
カアッとエドワードの頬に熱が集まる。それはエドワードの頬を包んだままのロイの手へも伝わった。
「なにをそんなに驚いているんだ。君に好きだと告げ、君も私を好きだと言ったんだ。私はとっくにそのつもりでいたんだが」
君は違うのかい?と言う男に、そういえばそうだったと思いだす。叶わないと思っていたから。この男も自分のことが好きだったということが嬉しすぎてすっかり忘れていた。しかしそうか…両思い、恋人、ロイと恋人同士……。
「ちがわない、……へへ」
自分には縁の無いと思っていたもの。その言葉の響きはどれも甘くエドワードをふわふわと幸せな気持ちにさせた。
ロイは掌の中でふにゃりと笑う少女に年甲斐もなく胸を高鳴らせる。
「さっきの仕切り直しだ。鋼の…エドワード、好きだ」
「……うん、俺も」
近づいてくるロイの顔に合わせエドワードも瞳を閉ざす。ロイは小さな唇に己の唇を重ねた。そっと触れ合うように重なったエドワードの唇は想像より甘く柔らかい。唇を離すと閉じられていた瞳からそっと黄金が顔を覗かせた。それはゆらゆらと揺れてただロイだけを見つめている。
「……たいさ、………んっ!」
甘えるように自分を呼ぶ声と瞳にロイは衝動的に目の前の唇をもう一度奪った。
「んんっ、…ん、…はぁ」
先ほどの触れ合うような口づけとは違う長い口づけにエドワードは息が持たず思わず口を開くと、それを待っていた男はすかさず少女の舌に己の舌を絡め、小さな口内へ侵入した。
「んん!、んっ…ふ、ん…ふぁ」
エドワードはいきなり侵入してきた異物にびくっと肩を震わせる。ロイは水音を立て、少女の口内を犯していく。聞こえる音が恥ずかしくてロイへちらっと視線を向けるとエドワードの心臓はドキンと一際大きく高鳴った。男の漆黒の瞳は欲に濡れ、凄絶な色気を放っていた。
「んんっ!、ふぅっ!…んっ!」
口内を這いずり回る男の舌に再び限界を迎えたエドワードはどんどんとロイの胸を叩いた。
「ん、ふっ!……はあっ、はあっ」
二人の混ざりあった唾液がエドワードの口内から溢れ口端を伝うとロイは舌でそれを舐めとった。
「あ、んた、長いんだよ!」
ぜえぜえと肩で息をし抗議するエドワードにロイはにこやかに笑った。
「すまない。君が可愛くて中々止められなかったんだ。それと、こういう時は鼻で息をするんだよ」
「初めてなのにそんなこと分かんねえしできねえよ!」
「はははっ、それもそうだな」
恨めしそうな目でロイを睨みぷりぷりと怒るエドワード。しかしその目は潤んでいて怒っているというより照れを隠しているようである。その姿はロイにとって可愛い以外の何物でも無い。
尚も笑い続けるロイにエドワードは靴を脱ぎ、ベッドに上がるとロイの両肩を掴みのし掛かった。
「この、馬鹿にしやがって!」
ベッドがぎしりと軋む。しかし、少女の体重を難なく受け止めた男の体はびくともしない。
「馬鹿にしたわけではないんだ。ただ怒った君も可愛くて」
優しげに笑うロイに言葉に詰まる。ただただ愛おしいとばかりに注がれる視線にエドワードはそれ以上何も言えなくなった。
「それにしても中々悪くない体勢だな。君に甘えられているようで気分が良い」
「へ?あ、いや別にそんなつもりじゃ!」
言われてはっとする。膝立ちでロイの両肩を掴み、もたれ掛かっている体勢は確かに甘えているようでもある。慌てて離れようとするとぎゅうっとロイの腕の中に閉じ込められてしまった。
途端大人しくなった少女にロイは満ち足りた気分となり、口元を緩める。しかし、目に飛び込んできたものに顔をしかめた。目前にあるエドワードの細い首には何かに掴まれたような痕が残っていた。
「鋼の、首はもう痛まないのか?」
「首?」
「そうだ、書庫で首を絞められただろう?痕が残って
いる」
言われてエドワードは自分の首に触れる。危うく死にかけるほど強い力で絞められたがあれから痛みを感じることは全くなかった。
「それならもう全然平気」
「そうか」
痩せ我慢をしているようには見えずロイはほっと息をつく。首筋に顔を埋め状態を確かめる。今まで薄暗い室内のせいで気づかなかったがこうして間近で見るとやはり目立つ。エドワードはもう平気だと言っていたがくっきりと浮かぶ絞首痕は細く白い首にはアンバランスで余計に痛々しく心が痛む。
「なあ、痕そんなに酷いか?」
「ああ、これは結構目立つと思うぞ。痣にならなければいいが」
エドワードは大きな溜め息を吐いた。この痕を見たアルフォンスの反応など簡単に想像がつく。また小言を聞く羽目になるのかと思うと少々気が滅入るが、適当に聞き流そうものなら余計に面倒なことになるのは経験済みなので大人しく反省するかしおらしい態度でもとるしかない。最近の弟は分かりやすく大きな傷を作ると煩いのだ。とは言っても心配してくれているからこその言葉だと分かるから自分もあまり大きく出れないのだが。
「あーあ、またアルに怒られちまうな」
兄弟のやり取りを想像したロイはクスリと笑った。
「最近あいつ俺が怪我するとうるせーんだよ。この間だって」
しかし微笑ましい気持ちでいれたのも束の間、続くエドワードの言葉にロイはピクリと片眉を上げた。
「この間?君、また怪我をしたのか?そんな報告聞いていないぞ」
男の険しく変化した声色に気づきながらもエドワードは言葉を返す。
「だって言ってねえし。傷ならもうすっかり治ったから平気だよ
。ったく、アルもあんたも傷の一つや二つで大袈裟なんだよ」
何でもないことのように半笑いを浮かべる少女にロイの目はだんだんと据わっていく。
「ほう、大袈裟か。それでその傷とやらはどこにあるんだ」
「は?」
「言いなさい。どこを怪我したんだ」
口元は笑っているが目は全く笑っておらず、有無を言わせない口調にエドワードの心臓はドキリと音を立てた。
これは完全に怒ってる。
エドワードは若干冷や汗をかくとぼそりと呟いた。
「……右の脇腹」
「そうか、右か」
ロイは口元に笑みを浮かべると少女の赤いコートの中へ手を差し込みタンクトップの上から右の脇腹を右手でさすった。
「…っ」
びくっと肩の跳ねた少女に目を細め、優しく撫でるように触れていた手を止めると、今度は指先でつーっとなぞっていく。
「んっ」
脇腹から上へたどり、機械鎧の付け根へ差し掛かると少女は堪らず身を捩った。
「ちょっ、大佐…それ、やめろっ」
暴れる少女の体を左腕で囲うように押さえ付けると、今度は指をさわさわと動かながら体のラインを往復する。
「ひっ!あははっ、くすぐったい!」
手の動きはそのままにロイはエドワードの首元に顔を埋めると目に映る手形を忌々しげに睨んだ。少女にこのような傷跡を残したあのビスクドールに沸々と怒りが込み上げる。ロイは手形の上に唇で触れると舌を這わした。
「ひゃあ!」
エドワードは首筋を這う生暖かい感触に思わずカン高い声を上げた。
「なに、してんだ!」
「何って、治療だよ。早くこの痕が消えるようにってね」
「何が治療だ!そんなんで消えるわけねえだろう!ひっ!」
エドワードの抗議を遮るようにロイは再び右手を動かし、手形に舌を這わした。
少女は首元から聞こえる生々しい音に顔を赤く染め、男の責めに身を震わせる。
「んっ、やあっ…も、ほんとにやめろって!…あははっくすぐったいってばあ!」
「くすぐったいだけか?」
「……?……いっ!」
突如首筋に感じたピリッとした痛みにエドワードは思わず顔をしかめた。
「あ、…なに今の。んっ!」
ロイは手形に対抗するようにその周辺に吸い付き赤い痕を残していく。
「は、あっ…ん!…はあ」
何度も何度も与えられる甘い痛みに膝の力が抜け、少女は全体重を男に預けると掴まっていた男の肩章に爪を立てた。
耳元で聞こえる少女の甘い吐息にこれ以上はこちらが持たないなと苦笑すると一際強く吸い付いて顔を上げた。うっすらと唇を開き頬を上気させ、くたっと寄りかかる少女の姿は艶やかで堪らず唇を重ねた。
「ん、ちゅ…ふっ…んんっ」
これ以上は本当に歯止めが効かなくなりそうで名残惜しくむも少女を解放する。
「は、ぁ……この、変態」
「今回の件は仕方がないが、これに懲りたら無駄な怪我はしないようにもう少し慎重に行動しなさい」
「………」
「鋼の?」
「うっ、分かったよ」
渋々と言った様子だが了承を得られロイは満足げに少女の頭をぽんぽんと撫でた。先ほどの自分を思いだし苦笑する。自分の体を顧みない少女に説教も兼ねて少し悪戯するつもりがあまりに魅惑的な姿に当てられ完全にやりすぎた。ここが職場でなかったら間違いなくあのまま襲っていただろう。本当に自分はこの少女のことになるとどんなことだろうと途端に抑えが効かなくなるらしい。いい年をして全く情けない。
軽く自己嫌悪に陥っているロイに何を思ったのかエドワードは口を開いた。
「あのさ、さっき口ではやだって言ったけど別に本気で言ったわけじゃねえから」
「ん?」
「だから、あんたにああいうことされるの嫌じゃないって言ってんの」
不意打ちでとんでもないことを言うエドワードにロイは頭を抱えた。
その言葉はこちらとしてはとても嬉しい。嬉しいのだが。
「…鋼の、これ以上私を煽らないでくれ」
「煽る?」
「いや、なんでもないよ」
小首を傾げるエドワードは愛らしくロイの葛藤などまるで分かっていないようだ。

ふあ、と腕の中から聞こえる欠伸に壁に掛けられた時計に視線を移す。時刻は既に四時を回っていた。
「鋼の、少し眠ろうか」
幸い今日は非番のためこの後は一日自由に過ごせる。夜が明けたらエドワードとアルフォンスも誘って自宅に招くのもいい。
うとうととしていたエドワードはロイの声に顔を上げた。普段だったら徹夜などなんてことはないのだが今日は色々あって疲れてしまった。それにロイの腕の中はとても心地好くて何だか力が抜けてしまう。
こくんと頷いたエドワードにロイは軍服の上着と靴を脱いだ。
「君も脱いだらどうだ、そのままじゃ暑いだろう」
ロイの言葉に倣い赤いコートを脱ぎ捨てたエドワードは早々にベッドの中へ入った。どうやら相当眠かったようだ。とはいえ流石の自分も少し疲れたなと息を吐くと同じベッドへ入り、小さな体をすっぽりと包むように抱きしめる。
「鋼の、予定がなければ今日は私の家で過ごさないか?もちろんアルフォンスも一緒に」
「たいさの、いえ?……うん、いいよ」
うとうとしながら舌ったらずに話すエドワードはとても可愛くて口元が緩む。
「決まりだな。……おやすみ、エドワード」
ロイはエドワードの前髪を掻き上げ額に口づけを落とす。
「ん、…たいさも、おやすみ」
少女はふにゃりと笑うとそのまま瞳を閉じた。
エドワードの頭を撫でるともう一度抱きしめ直してロイも眠りについた。


「……ん」
目蓋の奥、靄がかかったような意識の中。エドワードは何やら聞こえてくる騒がしい物音にゆっくりと、瞳を開いた。
物音っつーか話し声?
「おや、起きたかね。おはよう鋼の」
「ん……はよう」
頬を撫でる手が気持ちよくて思わずすり寄ると頭上で男が笑う気配がする。それがなんだかくすぐったいのとあまりに心地好いのとでこのまま再び眠ってしまいたい、そんな気持ちになる。しかし、彼女の意識は無情にも茫然とした弟の声により現実に引き戻されるのであった。
「…………姉さん?」
ポツリと、だがはっきりと聞こえたその声にカッと瞳を開きガバッと起き上がる。腰元までベッドに入った状態で隣を陣取っていた男は少々驚いたように自分を見つめていたが知ったことか。ギギギと首をゆっくり捻るとそこにはやはり鎧姿の弟が立っていた。しかも立っていたのは弟だけではなくその回りには何とマスタング組の面々までいるではないか。皆反応は似通っていて驚愕、困惑、茫然とした様子でこちらを見つめている。ふと、その内のフュリーと目が合うと彼は頬を赤く染め、気まずいとでも言うように目を逸らした。
その反応に自分の置かれている状況を理解したエドワードは徐々に徐々に頬を染めると廊下にまで響き渡るほどの絶叫を上げた。


遡ること数分前、時刻は朝八時半。
中央棟資料室で事件の捜査資料を纏めていた男は一晩中膨大な量の書類とにらめっこしていて凝り固まった体を解すため、左棟の仮眠室に向かっていた。先ほどすれ違った早番の同僚と軽い挨拶なんかを交わして、やっと終った業務にほっと息を吐き、少し休憩をとってから帰路に着こうと考えていた。
そして、仮眠室の扉を開くと目に飛び込んできた光景にぴしりと固まった。

一番扉に近い場所に位置するベッドで眠っていたのは、この東方司令部で実質頂点に立つ男、ロイ・マスタングその人であった。それだけなら別段そこまで驚きはしない。ただ少し佐官用ではなくここの仮眠室を使用する彼は珍しいと思えどまあそういうこともあるか、とその程度であった。
問題は彼が誰かと同衾しているということだ。共に寝ているだけではなく、同衾相手の肩を抱くように回った彼の腕が布団からはみ出ており、その様子から相当良い仲なのだと察することができる。その相手は扉側のこの位置からでは微かな後頭部しか見えず金髪だということしか分からない。
ふと床に落ちている赤いコートが目に入った。乱雑に
脱ぎ捨てられたようなそれに下世話な想像をしてしまうのも仕方がない。しかし他に衣類は落ちておらず、強いて言えばその隣のベッドにある、恐らく彼の物だの思われる軍服の上着だろうか。
もう一度コートへ視線を移す。背中にはフラメルが描かれており、独特なデザインだ。そこで首を傾げる。
はて、このコートどこかで見たような。
扉を開け突っ立ったまま、しばし考え込んでいるとその異様な姿に、丁度出勤してきた者達から声がかかる。そして部屋の中を覗くと、男性達は皆一様に固まり、女性達は嘆いたり色めき立ったりと様々な反応を示す。
「ねえ、このコートって……」
ざわつく中、一人の女性が声を上げた。その時、ベッドで眠る片割れが動きを見せる。皆その動向に釘付けになると、注目の的となっているその人物はむくりと起き上がり観衆を見据え困ったような笑みを浮かべた。人差し指を唇の前で立て、シーッと小声で呟くその動作に場もピタッと静まり返る。すると彼は傍らの金色に視線を移すと、その頭を優しく撫でた。その何とも言えぬ甘い眼差しと手つきに目を奪われる。そして皆の視線は、その先をたどるようにして金色へと行き着いた。彼が上体を起こしたことにより布団が捲り上がりその姿が明らかになったのだ。
相変わらず背を向けるように眠っているため顔立ちは分からないが、肩幅は狭く女性の中でもだいぶ小柄な部類であると知れる。いや、むしろ女性というより少女と言った方が適切かもしれない。先ほど見えていた唯一の手がかりでもある彼女の髪は、そのうなじから一つのおさげとなってベッドの上に垂れており、白いシーツに綺麗な金が映えている。
その時、頭の中で何かが繋がった。
床に落ちている独特なデザインの赤いコート、子供のような小柄な体、金髪のおさげ。そして何よりロイ・マスタングが猫可愛がりしていて、尚且つこの東方司令部に出入り出来る人物。
そんな人物元々一人しかいないではないか。
「…もしかして、鋼の…錬金術師?」
先ほどの女性が発した小さな呟きは妙に響き渡り、それをきっかけに再び観衆がざわめき出す。むしろ、双方の人物が確定したことにより先ほどよりもざわめきが強まった。仕舞いには興奮して声を上げながら走り去る者、それを聞きつけ押し寄せる者などちょっとしたお祭り騒ぎである。

沸き立つ観衆に渦中の人物の一人であるロイ・マスタングは苦笑する。
随分とえらいことになってしまったな。
隣で眠る少女を見下ろす。この騒ぎにも目を覚ます気配がないところを見るとどうやら相当疲れていたのだろう。頭を撫でていた手を止め今度は頬を撫でると、少女の口元が緩み、ふっと笑ったような気がした。その様子に自然と笑みが溢れる。
このような騒ぎになってしまった以上、おそらく未だ夜勤中である己の副官の耳に入るのも時間の問題だろう。どうかそれまではゆっくりおやすみ、と再び少女の頬を撫でた。

それから、少し休憩を取るため、司令室の外へ席を外していたホークアイはその報告を受けるとすぐにファルマン、アルフォンスと共に仮眠室へ向かうこととなる。途中で出勤してきたハボック、ブレダ、フュリーと出くわすと挨拶もそこそこに彼らも引き連れ、こうして揃ったマスタング組面々は仮眠室の前の人だかりに呆然とし、ホークアイの一声で何とか人を散らせることに成功するも飛び込んできた光景に更に言葉を失うこととなる。



「………姉さん」
ひとしきり絶叫した後、もう一度聞こえた弟の声にエドワードはハッと我に返ると何かを誤魔化すように声を上げた。
「アル!これは違うんだ!お、俺別にやましいことなんてしてない!うん、してない。何もないから!」
真っ赤な顔で大袈裟に否定する少女にロイは苦笑する。それでは何かあったと言っているようなものだ。
「姉さん、違うって何が違うの?僕まだ何も言ってないんだけど」
「……へ?」
「それと、"やましい"ことって?姉さん何を想像してるの?」
「な、ん……それは」
言葉に詰まるエドワードに今度はホークアイが訊ねる。
「それは、貴女の首にある痕と関係があるのかしら?」
氷のような微笑を浮かべ二人のいるベッドへ近づくと、ホークアイは目を細め、少女の後ろにいる上官へ視線を向ける。その鋭い視線にロイはすかさず両手を上げた。
何やら怒っているホークアイと観念した様子のロイにエドワードは事態が飲み込めずおろおろと困惑する。しかし、ロイが責められているということは確かなようで慌てて声を上げる。
「中尉、待って!大佐は悪くないんだ!」
エドワードは目の前に立つホークアイの軍服の上着の端をぎゅっと握り、考える。理由は分からないが彼女はロイに対して怒っているようだ。言葉の通り自分の首を見るなり顔をしかめたように見えたから、何か勘違いしているのではないだろうか。とりあえずどうにかその誤解を解かなければ。
エドワードはくっきりと浮かび上がっているだろう絞首痕に触れると言った。
「この痕な、書庫でやられたんだ。噂は本当で、大佐が助けてくれなかったら……多分駄目だったと思う。それだけじゃなくて、…他にもいっぱい俺のこと守ってくれたんだ。だから、あんまり大佐のこと責めないでやって」
その言葉に皆目を見開いた。上官限定で口を開けば暴言ばかりのこの少女がよりにもよってその上官を庇うなど前代未聞である。
「そう、それは怖かったわね…」
ホークアイは痛ましげにエドワードを見つめると労るようにその頭を優しく撫でた。
「うん、他にも色々あったけど…」
そこで言葉を切ると背後にいるロイをちらっと見て、エドワードは頬をほんのりと赤らめた。
「大佐がいてくれたから、大丈夫」
そう言って照れくさそうにはにかむ少女は大層愛らしい。そして、そんな少女を後ろから愛しげに見つめる男。
二人の間に漂う何とも言えぬ空気に皆目を剥いた。昨日の午後からたった半日でこの二人は一体どうしてしまったというのだ。戸惑いを隠せず、ハボックにいたっては口をあんぐりと開いて二人を凝視している。
そんな中一番立ち直りが早かったのはやはりというかホークアイで、件の噂と先ほどの少女の言葉から何があったのか大体のことは理解した彼女であったが、それで誤魔化されるほど鈍くはなく、二人を包む甘い空気ともう一つの証拠にそれは確証へと変わる。
「エドワード君、その痕のことは分かったわ。でもね、私が気になっていたのはそれだけじゃないの」
少女を見据え、ホークアイは続ける。
「その周りの痣はどうしたのかしら」
「え?周り?」
エドワードの白く細い首に残る痛々しい手形の絞首痕。その周りには執拗とも言えるほどの鬱血痕が散りばめられている。
「自分じゃ見えないものね。気づかないのも無理ないわ」
「俺の首、他にも何かついてんのか?!」
突如不安にかられたエドワードは咄嗟にロイへ助けを求めるよう視線を送るが返ってきたのは曖昧な笑みだけである。
ホークアイは、少女の背後にいるどんな化け物よりもたちの悪い男を見やると目を細める。どうせ嫉妬にかられ対抗するようにわざと周りにつけたのだろう。それほどこの上官が少女に執着していることなど知っている。
「ええ、それはもう無数の鬱血痕が」
「……鬱血痕?」
ホークアイの言葉に室内中に気まずい空気が流れる。あえて見ないようにしていたブレダは何で言っちまうんですか、と目元を手で覆い盛大な溜め息を吐いた。
そんな、何とも言いがたい空気には気づかずエドワードはひとり首を傾げた。無数の鬱血痕とはどういうことだろう。首に痕が残るほどの襲われ方をしたのは書庫での一件だけで、他に記憶にはない。それとも知らない間に怪我でもしたのだろうか。
考え込む少女にホークアイはヒントというより答えを教えることにした。
「キスマーク、と言った方が分かりやすいかしらね」
「…キス、マーク?」
言葉の意味を理解できていない様子でポカンと見上げる姿は年相応かそれよりも幼く見える。だからこそ首を彩る朱が倒錯的で、この痕の意味も知らないいたいけな少女を簡単に手中に収めた男に若干の怒りを感じるホークアイであった。
「貴女、悪い虫に首を吸われたんじゃなくて?」
「…俺、別に虫に刺された記憶なんて、」
「悪い虫、というより悪い男ね。……例えば、今貴女の後ろにいる男…とかね」
ホークアイの鋭い視線の先をたどり、エドワードは後ろを振り返る。そこには相変わらず曖昧な笑みを浮かべたままの男の顔があった。
エドワードがそっと確かめるように首筋を撫でると、男は途端に甘い顔で、微笑んでみせた。
「……っ」
その笑みに甘く執拗に責められたほんの数時間前の出来事を思いだす。そして、先ほどのホークアイの言葉を理解すると、たちまち少女の顔はボンッと真っ赤に染まった。
「あ、う………」
耳まで真っ赤に染め言葉を紡げなくなってしまった少女にこれ以上は不要とばかりに更にきつい眼差しを男へ向けホークアイは口を開いた。
「私は"守って"あげてほしいとお願いしたはずですが?」
ゆらゆらと纏う怒りのオーラに男の甘い顔は一転、一瞬にしてひきつり米神には冷や汗が伝う。
「ちゅ、中尉少し話を聞いてくれ」
すうーっと息を吸うと、男の言葉を遮り雷を落とす。
「誰も襲えなどとは一言も言っていません!」
空気が震えるほどの怒声と般若のごとき形相は正に鬼の副官に恥じぬ迫力があり、ロイは思わずヒッと肩を震わせた。
「やはり貴方に頼んだのは間違いでした」
そう言ってホルスターから愛銃を取り出す姿にロイは慌てて再び両手を上げる。
「待ってくれ!少しは話を、」
「問答無用!」

響き渡る銃声と上官の悲鳴。そして、そんなやり取りを繰り返す二人の間で、少女は変わらず赤い顔のままぼーっとしている。
「しっかし、なんつーか」
ハボックはボリボリと頭を掻いた。
予兆はあったのだ。我が上官がこの金色の少女のことを常々気にかけているというのは周知の事実で、少なくともこの面々の中にそれを知らないものはいない。彼女達兄弟が中々定期報告に訪れない時などは、なぜ報告に来ない、全くどこで道草を食っているんだ、とぶつぶつ小言を漏らしていたのを思いだす。これはまだ良い方で、それから更に日が空くと得意のポーカーフェイスを崩し、情けない顔で何かあったんじゃないかどこかで倒れているんじゃないかと喚き周囲を呆れさせたものだ。まあ、心配になる気持ちも分かるが上官のそんな姿は少し、いやかなり異様である。彼は一度懐に入れた人間には甘く、尚且つ後見人も務めているからその気持ちは強く、自分達とは違い父性のようなものも感じているのだろうと一時は納得していた。しかし、久しぶりに訪れた少女をからかい怒らせ、その反応を楽しむ姿に引っ掛かるものを感じ、彼女達の旅の話を皆で聞いている時などもその話の途中で若い男が出てくると途端に機嫌が悪くなる姿に疑念が生まれた。
そして、彼女達兄弟へ向ける視線の違いにもしやと思った。ただ行く先を心配し、純粋な慈愛に満ちた眼差し。弟のアルフォンスへ向けるものはそんなもののように見えた。対して姉のエドワードはどうだろう。勿論、彼女へ向ける眼差しも似たようなもので全く違うと言うわけではない。しかし、それだけでは足りない。彼女へ向ける視線の中に確かな熱が存在していたのを知っている。
彼女も憎まれ口を叩きながらも本気で嫌っているわけではないということはいつもの二人を見ていれば分かることなので遅かれ早かれこうなるのではないかという予感はしていた。しかし実際目の当たりにすると嬉しいやら寂しいやら複雑な心境だ。上官とは違い父性ではないが、年の離れた妹のように思っていた。それはここにいる皆も同じであろう。
「まあ、良かったんじゃないですかね」
ここにいる誰よりも複雑な心境であろうアルフォンスのどこかホッとしたような言葉にハボックは思わずその鎧を凝視した。
「お前は…いいのか?」
「良いも何も姉さんが選んだ相手ですから」
それに、とアルフォンスは続ける。
「姉さんがあんなに可愛い顔するのって大佐のことに関してだけなんですよ」
ふふっと笑うと、あれで今まで隠してるつもりだったっていうんだから可笑しいですよねーと呟いた。
「収まるところに収まってくれて僕としては一安心です」
おっとりとしながらもどっしり構えるその姿勢に、さすがあの少女の弟であると皆ある種尊敬の念を込めてアルフォンスを見つめた。



すぐに済むから待っていてくれ。と優しく金色の頭を撫でる上官と、それに対し少し照れた様子で、ん。と短く返事をする少女。もう一切隠す気のないやり取りを眺めてから、ホークアイを除く部下達面々は通常業務へ戻るべく姉弟共々部屋を後にする。その顔には若干の疲弊の色が浮かんでいる。鎧の弟も生身であれば恐らく同じような顔をしていただろう。こうして上官と副官のみとなった仮眠室はいつもの静けさを取り戻した。

「大佐、この後はどうするおつもりですか」
「家へ帰る。あの子達も誘ってね」
「くれぐれも無理をさせるようなことは」
「分かってるよ」
眉根を寄せるホークアイにロイは苦笑混じりな返事をする。
「しかし、今回は肝が冷えたな」
珍しい上官の言葉に少女の首にあった絞首痕を思いだす。
「中尉、件の噂の人形について今一度詳しく調べる必要がありそうだ」
「エドワード君も言っていましたが、噂は実在したと?」
少し疲れたような顔で頷くロイへ労るように声をかける。
「こちらで調べておくので、今日はゆっくりとお休みになって下さい」
「ああ、ありがとう」
そんな部下の言葉にロイもホッと息を吐いた。
ふと、部屋の奥の窓から入り込む涼しげな風に気づいたホークアイは窓辺へ歩み寄る。
閉め忘れだろうか。
視界に入った窓際のベッドに思わず眉を顰めた。
ベッドの掛け布団の上には異様に長い黒髪の束が落ちていた。
「他にもたちの悪いのがいてね。それは後で燃やしておくからそのままにしておいてくれ。それから、窓は閉めてくれて構わない」
もう消えたようだから、と付け足された言葉に従いホークアイはそっと窓を閉めた。
「まったく、私からあの子を奪おうなどとんだ不届き者もいたものだ」
そう思わないか、と呟くロイの瞳はどこまでも暗く冷たい。冷笑と共に微かな殺気を放つ上官の姿に、まだ幼い少女を思うと思わず溜め息が溢れそうになる。
あの子も厄介な相手に好かれたものだ。何しろ怪異にまで嫉妬する男なのだ。
しかし、この人なら本当にどんなことからも守ってしまいそうで安全といえば安全なのだろう。別の意味では全く安心できないのだが。
「結局のところあの子にとって怪異と貴方、どちらが脅威なのかしらね」
「何か言ったかね」
「いえ、何も」
答えは分からずじまいね、とホークアイはクスリと笑った。


「ところで大将、噂の方はどうだったんだ?」
「どうって?」
「だから、その………本当にいたのか?」
恐る恐る伺うようなハボックに言葉の意図を察したエドワードは微妙な表情で返した。
「あー…まあ、うん」
「おい、マジかよ!錬金術師はそんなもん信じないんじゃなかったのかよ!」
エドワードの肯定にハボックは一気に青ざめた顔となり信じられないとばかりに目を見開く。その反応に思わずエドワードは唇を尖らせた。
「仕方ねえだろ、ほんとに見たんだから。実際にやられそうになったし」
そう言って首を擦るエドワードにハボックは申し訳なさそうに頬を掻いた。
「あーそうだよな。大将は危ない目にあったんだもんな。悪かった」
「別にいいよ。それより噂の方だけど、納得できるものもあれば、なんつーか腑に落ちねーのもあったな」
「どういうことだ?」
「んー、具体的に言えば最後の」
エドワードが言いかけた時、ファルマンが口を開いた。
「そういえば、なぜ仮眠室にいたんですか?」
「なぜってほら、最後の噂、仮眠室だろ?噂通り入っていく人影見て追いかけたんだけど、誰もいなくて。部屋ん中も調べたんだけど、やっぱり何もなくてさ。それで、疲れたからちょっと休もうってなったんだ」
言葉尻になるにつれ、なぜか頬を赤らめるエドワードへ白けた目を向けるハボック。
一晩で一体どこまで進んでしまったのだろう。少女の首筋に散らばる朱に、やはり全部か?丸ごと食べられてしまったのだろうか?何しろ相手は大佐だしな、と邪推する。
そんな二人とは対照にファルマンは一人困惑していた。
「…エドワード君、それは一体誰から聞いた話ですか?」
「え?誰ってそりゃ、ファルマン准尉が」
「私はそんな噂教えていないし、聞いたこともないですよ」
瞬間、和やかだった司令室の空気が変わった。部屋中の視線がエドワードとファルマンに集まる。
「…え、何、言ってんだよ」
強張った顔つきでファルマンを見上げるエドワード。だが彼は、困惑しながらもしっかりと否定の言葉を口にした。
「一から六までの噂を再度確認した時、第七の噂は存在しないと言ったはずですが…」
「エドワード君、僕も一緒に聞いてたけど…第七の噂は無いって、そういう話だったはずだよ」
遠慮がちに口を開いたフュリーにファルマンの話を思いだす。
司令部内を探索する前に、ファルマンとエドワードはもう一度噂の確認をしていた。最初の方は、皆それに付き合っていたが、ハボックやブレダは途中で仕事に戻り、ロイとホークアイも執務室へと消えていった。アルフォンスはブラックハヤテ号と遊ぶことを再開したため、結果最後まで話に加わっていたのはファルマン、エドワード、フュリーのみだった。
エドワードは慌ててポケットから確認作業中に記したメモを取り出す。
「…………っ!」
メモを開き、上から徐々に視線を落として、息をのむ。上から順に記した噂。第六の噂の下は空白だった。
「でも、俺……」
そこでエドワードの思考は停止した。
確かに第七の噂を書いた記憶は無い。空白なのは当然だ。だって、そんな話ファルマン准尉もフュリー曹長もしていないのだから。そうだ、あの時ファルマン准尉は七不思議なのに第七の噂が無いなんて、と残念がっていたじゃないか。
───じゃあ、俺は一体誰から聞いたんだ?
エドワードの背を冷や汗が伝う。

その時、司令室へ風が流れ込んできた。それは涼やかというよりは重く冷たく、あの西棟一階で感じたものに似ていた。
エドワードはゾッと肩を震わせた。

あの黒髪の女がどこかで笑っているような、そんな感じがしたのだ。