Long Story|Short Story|Anecdoteやけあと【完結】
エピローグ
小学校の教師という仕事をしている中で、夏休み明けの生徒達の表情を見るのは楽しみのひとつだ。
真っ黒に焼けた肌、クラスメイトと1ヶ月ぶりに再会する彼らの少しはにかんだ笑顔。宿題を終えていない子はやや浮かない顔をしているものの、僕の目の及ばない間にも彼らの心身が成長しているのだと実感してしみじみしたりする。
僕の受け持ちのクラスの中で、この夏の間の変化において特別目を引いたのは歩夢だ。
教室の中ではおとなしくて、いつも他の子供達の顔色を窺って挙動不審気味に縮こまっているような印象だったが、新学期が明けるとその表情からしてどこか大人びた風情があった。発言が極端に増えたわけではないが、他人の目など気にしないとでも言うかのように、どこかしなやかな余裕のようなものを醸していた。
一方で、不可解な変化が見られる子もいる。クラスのムードメーカーとも言える陸──歩夢とは幼馴染みで親しくしている。
もともと、彼らの関係はどちらかというと陸の方が歩夢をリードするようなところがあり、同級生でありながら兄貴分と弟分とでも言おうか、多少なりと上下関係があるように僕からは見えていた。
と言っても、陸は歩夢との関係性だけに留まらず、クラス……いや、学年の中でも一目置かれるような生徒だったから、別に歩夢を子分のように従えていたわけではない。勉強も運動も同年代の子供達より達者にこなす陸は、視野が広く他人の面倒まで見る心の余裕があった。
まだ11歳という年齢ながら凛々しい面差しは少女達の目を惹きつけてやまず、バレンタインともなれば他のクラスから出張してまで届けがあったほど。
しかし、その溌剌としていた陸の表情は、夏季休暇が明ける頃には見る影もなくなっていた。
新学期の初日から、様子がおかしいことには気づいていた。「おはようございます」の挨拶どころか、僕と目も合わせようとしない。もともと少し長めにあしらっていた前髪は手を入れていないのか、休みに入ってから1度も切っていないかのように長く目元に濃い影を落としていた。
夏休みの思い出を作文にして書いてくるという定番の宿題も、陸は白紙だった。今まで宿題をやって来ないことなんて、1度だってなかったというのに。
僕は今日、授業であえて陸を指名してみた。国語の教科書の一文を音読するように言うと、陸はノロノロと立ち上がり教科書を手に取る。
陸の不審な変化にはいかな子供であっても、クラスメイトには十分伝わっていた。怪訝な視線が教室を彷徨い、黒板前の席の生徒も窓際最後列の陸をちらりと盗み見ている。
そんな視線に気づいているのか否か、陸は顔を伏せたままボソボソと教科書を読み上げた。しかしその言葉は小さく不明瞭で、読み上げているのが他の生徒だったならどこかから「聞こえませーん」と不満の声を飛ばされているところだ。
どこか調子でも悪いのかと訝しんだ僕は、陸の席まで歩いて行ってその薄い肩を掴んだ。まるでここに心がないかのような虚ろな陸の表情を覗き込もうとしたその瞬間──陸はガタン、と椅子を倒して床に尻餅をついた。それから真っ青な顔で僕を見上げ、パクパクと口を開くと大きな双眸から涙を流しはじめた。
これには教室中、何より僕が1番パニックになった。陸の異様なリアクションは見た者を緊張させる効果があり、さすがに「あー、先生泣かせたー」などと囃し立てる声も出ない。
ただ控えめな不安の喧騒に包まれながら、僕は咄嗟にまた陸の腕を掴もうとしたが、陸は泣き叫んで僕のことを突き飛ばした。陸は壁際に蹲ると、まるで自分の身を何かから護るかのように自身の肩を抱いて身体を震わせた。
呆気に取られる僕を尻目に、陸の前に割って入ってしゃがみ込む生徒がいた。歩夢だ。
「陸、大丈夫だよ。ぼくがいるからね」
そう言って、陸の手をぎゅっと握る。止まらない涙を拭ってやりながら、歩夢は僕に振り返ると微笑んだ。
「先生、ぼくが陸を保健室に連れて行きます」
「あ、ああ……じゃあ、頼んだよ」
僕は状況が掴めないままやっとのことでそう応えると、陸の背中を支えながら教室を出て行く歩夢を見送った。
歩夢は陸を保健室まで送った後、教室に戻って来た。僕には「陸、怖い夢でも思い出したのかなぁ」と冗談めかしていい、保険医が何と言っていたか訊ねても嘯(うそぶ)くような素振りで躱されてしまった。
休み時間にすぐにも様子を見に行こうかとも考えたが、陸の様子はまるで僕に怯えていたかのようだったことが思い起こされて、胸がざわりとした。
教育の現場に対する世間の目が厳しい昨今、妙な誤解を受けたくはない。行き過ぎた指導をした覚えはまったくなかったが、最近は本当に、何が槍玉に上げられるか見当がつかない時代だ。陸の気持ちが落ち着くのを待ちたい気持ちもあり、僕は放課後まで時間をおくことにした。
授業と掃除を終えると、まだ保健室にいるだろう陸の様子を見に保健室へと向かった。外廊下の窓の隙間から、ベッドの前にカーテンが引かれているのを見ると、まだ陸はあそこで横になっているらしい。ドアの取手に手をかけた時、室内から微かに少年の声が聞こえてきた。
「陸、大丈夫だよ。次に行く時には、もっと好くなるよ」
それは歩夢の声だった。
先ほど、陸の症状を明確に答えてくれなかったことが引っかかっていた僕は、咄嗟にドアから手を離し、窓の隙間から部屋の中の様子を伺う。カーテンで姿は見えないが、そこには丸椅子に腰掛けているらしき小さな人影が見えた。その影こそが歩夢だろう。
歩夢の呼びかけに対する陸の返答はない。しかしまだ泣いているのか、スンスンと鼻をすする音だけが聞こえてきた。
「一馬の分まで自分がするって決めたんだよね。ぼくも一緒に行くから、今日も友だちのところに行こうよ」
「う……、ふぅ、ううっ……、ひぐ、うっ……、」
歩夢の言葉を聞いた陸は、声を出して泣きはじめた。
陸は歩夢の誘いを断るような言葉は発していなかったが、その泣き方はどうしようもない辛苦を滲ませていて、断ろうにも断れない究極の問いを突きつけられているかのように哀しげに響いた。
聞き分けのない子供をあやすように、歩夢が「そんなに泣かないで」と優しく苦笑する。
「──陸らしくもない」
そう、陸らしくない。彼はこんな風に身も世もなく泣いている姿を人に見せたことはなかった。
それにしても、カズマという子は僕のクラスにはいないが、一体誰のことだろうか? 「友だち」というのは──そこで僕は、歩夢が提出した作文の課題を思い出した。
夏休み中、川遊びをしている時に知り合った3人の青年と友だちになった。彼らとはその後も同じ場所で何度か会い、一緒に遊んでいる──そんな話だ。
その友だちは歩夢に、歩夢が他の人より上手にできることがあること、自分で気づいていない自分のよさについて教えてくれたという。それが具体的に何なのかは書かれていなかったが、自然の中で遊んでいたというのだから、泳ぎや木登りといったところだろうか。
新しい友人ができたという、取り立てて珍しくもない内容だったから気にしていなかったが、そこに陸やカズマという少年の名前は出てこない。けれどいつも金魚のフンのように陸に連れ添っていた歩夢のことを思うと、この2人の変化はその友だちとの出会いと関係があるのだろうか──ふと、そんな疑念が僕の中に浮かんだ。
その時、「ほら、行くよ」という声がして、保健室からガタガタと音がしだした。僕は慌てて廊下を少し戻ると、さも今歩いて来たかのようにわざと足音を立ててからドアをノックした。
「……陸ー、まだいるか?」
少し待ってドアを開けようとすると、内側からドアが開かれた。手前には歩夢が、陸の盾になるかのように立っていた。こうして見ると、ひと夏の間に歩夢の身長も少し伸びたように思える。
歩夢の目は以前のように人の顔色を伺うものではなく、むしろこちらの心を見透かすかのように真っ直ぐに僕の目を見返してきた。今日の出来事や先ほど脳裏をよぎった作文のこともぐるぐると頭を駆け巡り、僕は思わずどぎまぎとしてしまう。
「だ、大丈夫そうか? 今日はもう帰るんだよな。2人共、先生が送って行こうか?」
「ぼくがついてるから大丈夫です。ね、陸」
陸は相変わらず俯いたまま鼻を鳴らして黙っていたが、歩夢は半ば強引に陸の手を握ると歩き出す。
僕は歩夢が「今日も友だちのところに行こう」と言っていたのが気になったが、盗み聞きしていたとも言い出せず、「家に帰ってよく休むんだよ」などと宙を滑るような言葉を吐くことしかできなかった。
廊下の角を曲がる間際、陸の手を引いていた歩夢がピタと止まり、僕の方に振り返った。夏の間によく日に焼けた歩夢は、影に入ると肌の色が薄闇に同化して白目だけが妙にギラギラとして見えた。
「先生──ぼくのことを、どんな生徒だと思いますか?」
唐突にそんなことを言われて、僕は面食らってしまう。何も言えずにいると、ふっ、と鼻から息を漏らすように笑った。光る白目が、半月を描く。
「ぼくのことをちゃんと見ててくれるなら、いつかぼくの得意なこと、先生にもしてあげますね」
やはり薄闇に映える整った白い歯列を覗かせると、歩夢は言った。隣で俯いたまま、力なく佇む陸は引き摺られるようにして闇に溶けていく。その背中はほとんど影法師のように真っ黒に見えた。
2024/08/27
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