Long StoryShort StoryAnecdote

イノセンス


つめたい手首


 ウリってヤツ――そう言って、和希は笑った。
「……何で、」
「男でも買うって変態がいるんだよ」
「違う、何でそんなこと」
「そんなの、金が欲しいからに決まっ、」
 言い終える前に、敬(たかし)は和希の左頬を強かに打った。
「ざけんな!」
 張られた和希の頬はみるみる紅葉の形に赤くなっていく。俯いた横顔、その唇はゆっくりと弧を描いた。
 急激に上がった気勢に肩を上下させながら、敬は掠れた声を絞り出す。
「何、笑ってんだ」
 敬の問いに、和希はゆっくりと顔を上げた。
「だって、万引き犯のお前に売春を咎められるとは思わなかったから」
 幼い面差しに浮かぶ無邪気な笑みに、敬はぞっとする。
「どうして……」
 どうしてもっと早く、気づけなかったんだろう?

 小さな古書店で、敬は1冊の美術書を手に取った。決して欲しかったわけではない。単価が高いからだ。
 見るともなしにページを捲る素振りをして、周囲に気を配り顔を上げると、書棚の向こうに学ランの少年が立っていた。並べられた本の隙間から、敬のことをじっと見据えていたのだ。
 それが、三枝和希との出会いだった。
「何だよ、」
「……別に」
 和希は童顔の割りに大人びた笑いを笑った。自分の幼稚な犯行を馬鹿にされた気がした敬は、半ば見せつける気で本を学生鞄に滑り込ませた。
「万引きです!」
 思いがけず発された大きな声、涼しい顔を敬が睨みつけると、和希は不敵な笑みを閃かせる。それからすっと腕を伸ばすと、駆けつけた店員に店の出入口を示した。
「今、出て行った紺のパーカーの人」
 店員は和希に礼を言うや、血相を変えて店の外へと走り出て行った。
 紺のパーカー? そんな人、いただろうか。
 敬が呆気にとられて外を見つめている間に、和希は書棚をぐるりまわって敬の鞄から本を取り出し、元の棚に戻した。
「何す、」
「こんなことして面白い?」
 和希は敬の手首を掴んで乱暴に引いた。おい、と咎める敬を無視して店から連れ出すと、その足で近くの図書館まで引っ張っていった。
 何をするのかと思えば、和希は敬のことなど無視して読書を始めた。敬はしばらく不思議にその姿を見守り、和希が本を閉じるとやっと、名前を名乗った。和希もまた名前を言って、何でもないことのように笑う。その笑顔に絆されるようにして、敬はぽつぽつと自分のことを話し始めた。
「さっきの……万引き、しようとしたの。初めてじゃない」
「ふぅん」
「何であんなことしたか、聞かないのか?」
「別に……興味ないし。聞いて欲しかった?」
 敬の顔を覗き込むように頬杖をついて、和希はケラケラと笑った。敬の肩に入っていた力が、ふっと抜ける。
 教育熱心な両親と出来の良い兄姉。期待を裏切り続ける自分の不甲斐なさが腹立たしく、その重圧が敬に取らせた行動が万引きだった。
 最初は文房具屋の消しゴム1つ。スーパーのお菓子、ドラッグストアの化粧品……どれも欲しかったわけじゃない――俺は、誰かに話を聞いて欲しかったのか。
 敬は小さな声で礼を言った。和希はその時もやはり笑っていたと思う。

 異なる制服を着た2人は、学校が終わると時々この図書館で落ち合うようになった。
 そこで敬は和希に勉強を見てもらい、成績も上がった。敬にとって和希はほとんど救世主みたいなものだった。和希にとっての親友になれたらいいと思った。対等になれないなら、子分のように扱われても構わない。できるだけ長く、一緒にいられたら――そう、思っていたのに。
 敬は見てしまった。和希が中年の男とキスを交わすところを。
 初めは自分の目を疑った。見間違いかもしれない。でも、舌を絡めた深いくちづけを最後まで見ていることができなくて、敬はその場から逃げ出した。
 次に見た時にはその男とは別の、大学生くらいの若い男のワゴン車に乗り込むところだった。胸騒ぎを感じた敬は車に近づいた。何か危険な事件にでも巻き込まれたんじゃないかと疑ったのだ。しかし、車はそこから動かなかった。路地裏、人気はない。
 窓はシェードがかかっていて中の様子は伺えなかったが、少しして車がギシギシと揺れ始めた。それから聞こえてきた、少年の掠れた喘ぎ――中で何をしているかは明らかだった。
 ねぇ、もっと……奥まで来て――甘えるような声は男を誘うもので、無理強いされている様子もない。そしてその声は、和希のものに間違いなかった。

 和希の頬を打った手の平が熱い。
 何かの間違いだと思いたかった。もしかしたら脅迫されているのかもしれない、と。しかし和希は、敬の望む答えを与えてはくれなかった。
 赤くなった頬を右手の甲で軽く庇いながら、和希は薄く微笑む。
「人のを盗むよりはいいだろ? 俺の身体は俺のものだ」
 その笑みが妙に艶っぽく見えるのは、「あの声」を聞いてしまったからだろうか。敬はゾクリと背を這う感覚、下腹に溜まる熱を覚えたが、拳を握ってそれを追い払う。
「俺はもう万引きなんかしない! お前が……お前が声をかけてくれたからやめたのに」
 学校の友達とも違う和希の存在は、敬の鈍色の日々の中で唯一輝いていた。光――太陽のような人だと、思っていた。
「……だから?」
「え?」
「別に俺、お前に万引きをやめろなんて言ってない」
 淡い笑顔のまま、明るいトーンで続ける和希の声を、敬は呆然と聞く。
「お前が過去に何回万引きしたか知らないけど。俺のこの商売だって、別に今始まったことじゃないし」
 受け入れ難い話に、敬は自分の心臓がギュッと竦むのを感じる。一方で、あっけらかんと話す和希は今まで1度も自分に対して心を開いていなかったのではないかと思い、戦慄する。
 和希は心底不思議そうに首を傾げる。
「何で俺、ぶたれたの?」
「だって……俺、俺は」
 ――お前のことが好きだったから。
「お前は、俺と違っていろんなもの持ってるのに……頭もよくていいヤツで、何でそんなことするんだよ。人生棒に振るようなもんじゃないか」
「敬は何で万引きなんかしてたの?」
「何でってそれは……言ったろ、家族に成績のこと言われるのがストレスで……憂さ晴らしさ」
「面白かった?」
 ふっ、と嘲笑され、再び敬の中の血が沸騰する。
「面白くなかったよ! お前はどうなんだよ、こんなことして面白いか!?」
「だから言ってるだろ、金のためだ。仕事だよ。面白いかどうかは関係ない」
 そんな、そんなのって――非難したいのに、乾いた口からは言うべき言葉が出てこない。ただ嫌なんだ、誰かがお前をそんな風に扱うの。誰にも触らせたくない、耐えられない、助けたいのに!
「悪いけど、俺はもう、とっくの昔に助からない」
 胸中を見抜かれたかのようにピシャリと言われて、緊張に頬が強張る。
 和希の黒い瞳が、ふっと遠くを見つめた気がした。
 一体いつから、どうして。頭の中に浮かんでは消える問いを、敬は口にすることができない。
「もう会わないよ。客としてなら別だけど――なんてね」
 そう言ってひらりと振った和希の右手首には、白い包帯がちらりと見えた。
 左利きの和希。白く細い手首に、冷たい刃物が当てがわれる映像。あの手を、離しちゃいけない――思うのに、敬の手は、すい、と虚しく宙を掻いた。

2017/06/08


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