自殺幇助

04

「あ」

 ――やっちまった、と、まさにそんな声と一緒に、小銭が散らばる音が聞こえた。
 アリーチェはその音につい、振り向いた。別に助けてあげようだとか、拾うのを手伝ってあげようとか、そういう明確な気持ちがあっての行動ではない。なんとなく、あぁ、トラブルかな……なんて気軽な気持ちで振り向いた。

 すぐ近くで、男の人が溜息をついていた。
 ころん、ころん、と無情に転がっていく小銭たちを眺めて、アリーチェが思い描いていたような表情をしている。まさしく、「やっちまった」といった顔だった。
 アリーチェは、この年の――アリーチェはこの付近にあるサ・ピエンツァ大学に通う二十一歳の学生である――女子にしては、とことん人見知りをするタイプの人間だった。だから、小銭が自分の足元に転がってこなければ、わざわざ拾おうだなんてことはしなかった。けれども、足元に転がってきた小銭を無視して歩いて行くような心の強さも持ち合わせていなかった。アリーチェは、自分の靴にぶつかって止まった小銭を拾い上げる。
「あの、これ」

 男が、顔を上げた。
 きょとんとした顔で彼はこちらを凝視しており、アリーチェは、「もしかして、余計なことをしてしまったんじゃあ」と、差し出した手を引っ込めようとした。それでは盗っ人である。
「あぁ、ありがとう。拾ってくれたんだな」
 しかし、男はきょとんとした顔から一転、ほがらかに笑って手を差し出す。アリーチェは、その笑顔にびっくりして、そしてホッとして、彼の手のひらの上に小銭を置いた。触れていいのか迷ったものだから、手のひらに落とした……と言った方が正しいのかもしれない。
 
「財布を持ったままペットボトルを開けるなんてしなければよかった、と思ったよ。ほんと、どんくさくてダメだな」
 くす、と笑った男はしゃがみこんで、散らばった小銭を拾い集める。アリーチェは、最初は足元に転がってきた一つを渡すだけのつもりだったのに、こうやって突っ立っているのはなんだか居心地が悪くて、彼の小銭広いを手伝うことにした。アリーチェにとって幸運だったのは、この男が出会い頭にシニョリーナだとか、ベッラだとか、イタリアーノにありがちな口説き文句を垂れ流さなかったことだ。アリーチェはまったく見知らぬ他人から、そうやって――思っているかもわからないようなことを言われるのが苦手だった。

「君は、サ・ピエンツァ大学の学生さん?」
「え?あぁ、そう、です」
「そっか。じゃあちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」
「はぁ…………」
 しゃがんで、小銭を拾いながらする会話なんて不思議だ。そう思いながら、アリーチェは彼の言葉に耳を傾ける。

「実は、妹に頼まれてコル……コル、なんだったかな。とにかくコルなんとか教授に渡さなきゃあいけない資料を家に忘れたとかで、俺がわざわざ車を飛ばしてきたんだけどさ」
「あ、もしかしてコルタッツィ教授ですか?」
「そう、それだ!君、知ってるの?」
「授業とかで結構お世話になっている方なので……」
「へぇ、そうなんだ。それでさ、大学って俺行ったことないから、勝手に入って大丈夫なのかわかんなくてね」
「多分、大丈夫だと思いますよ。なんか、勝手に構内のトイレとか使っていく近所の人とかいますし」
「あぁ、そうなんだ。大学って結構そこんところ緩いんだね。ありがとう、小銭も拾ってもらって」

 ――俺もトイレ借りていこうかな、なんて冗談を言って、その男の人は笑った。
 拾い集めた小銭を渡すと、「ありがとう」とちょっと高そうな財布にその小銭をしまう。何となく丁寧に、高級そうに見えるのは、財布だけではなく身なりもだった。清潔で、嫌な印象をひとつも与えないような、そういう所に気を使っているような人。そんな人が妹の我儘に振り回されているというのだから、ちょっと、かわいい――なんて、アリーチェはあらぬことを思った。

「兎に角本当にありがとう。助かったよ」
「いえいえ。それじゃあ、私はこれで」
 財布をしまった男は、もう一度深く礼をする。アリーチェは、この人は本当に丁寧な人だな、と感じていた。アリーチェは普段、積極的に他人と関わるようなことをしてこなかったから、こういうちょっといいことした、という実感は心地がいいものだった。家にでも帰れば、鼻歌を歌っていたかもしれない。上機嫌なまま、アリーチェは男に背を向ける。
「あ、ちょっと待って」
 アリーチェは男を信用していた。多くを話しかけてこなかったことも、彼の身なりが清潔だったことも、礼をキチンをする男だったことも。全部、アリーチェが信用する要素しかなくて、彼が自分に危害を加えるなんて予想は、これっぽっちもしてやいなかった。だから、急に手を掴まれて、驚いた。
 目を見開いて、アリーチェは振り向く。

 目の前の瞳は、うつくしい、薔薇の色をしていた。
「頼み事があるんだけど、聞いてくれるね?」

 ほとんど命令のような口調だった。
 アリーチェは、半ば茫然自失で――しかし、ゆるりと首を縦に振った。彼とアリーチェの手には、お揃いの指輪が嵌っていた。

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