↑ Aha, but that's just my imagination ↑

04

 俺が件の炎上騒ぎを知ってから、二ヶ月間。俺は一作品たりともまともに完成させることができなかった。自分の書いた文章が、どこからどう見ても陳腐に感じた。毎日苛立ちのような坩堝から抜け出せなかった。最初の一ページなんて擦り切れる程読み返したし、読み返せば読み返すほど色んなところが気になってきた。いつまでも最後まで書ききれなかった。友人はそんな俺に、「スランプだねぇ」なんてポロッとこぼしてみせやがった。俺がスランプなのだと気がついたのは、その時だ。炎上騒ぎから二週間のことだ。

 その時の模索は、俺の周りにずぅっと『世間の目』が張り付いているような感覚だったと思う。あの漫画を読んだ時の虚無感が、眼球の形になって、俺のことをジロジロと睨んでいた。アルバイトの最中も執筆のことを考えていて、一万円札と五千円札を間違えて過不足を五千円も発生させてしまった失敗は、いつまでも忘れない。
 
 俺は俺の文章が書きたかった。俺は俺の表現でいたかった。あの漫画にはそれが何よりも欠けていた。それが、虚無感の断片のひとつ。

◆◆◆

 失敗した、と椿は思った。
 ただの数分の会話ひとつで、ここまでメルを悩ませるつもりは無かった。

「メル、あの……なんか、大丈夫?」
「うん?……うーん………………うん……」
「すっごい信用ならない『うん』だな」
 来た道を、メルの隣を歩いて帰る。空模様は夕焼けに変わっている。椿は、その赤色のまぶしさに目を細めた。
「自分でもちょっとわかんなくてさ。多分、気のせいだと思うんだけど」
「そか」
「うん」
「ネルさんにお土産買って帰る?」
「あ、そうだった」
 ――珍しい。そう思う。
 椿は、真剣に悩むメルの背中を見ながら、窓ガラス越しに目のあった店主に軽く会釈をした。

 メルがネルのお土産に選んだのは、硝子の専門店で買ったオルゴールだった。螺子を巻くと鉄筋のやわらかい音が耳慣れない音を奏でる。メルは「これ、どっかで聞いたことあるなぁ」と言っていたので、ライアールが何かの形で日常的に使っている曲なのかもしれない。椿は、何となくそう思った。

「あのね、椿にも買ったんだよ」
「ん?なにが?」
「お土産」
 帰り道の続きを歩いている時、メルが徐にそう言った。

「えっ、返せるものないよ」
「いらないよ。椿、明日帰っちゃうかもしれないんでしょ?だから、もらって」
 段差を登って、二人で並ぶにはちょっぴり狭い道を歩いて。メルは、ラッピングされた箱を椿へ渡した。白い箱に、深い青のなめらかなリボン。白と青は、ライアールを象徴する色だ。こんなに、町に散りばめられている。
「今日ね、ほんとに楽しかったんだ」
「………………メル、」
「新鮮だって言ったの、嘘じゃないよ。わかんないけど、いつもよりずぅっと心がワクワクしたんだ。歩いてる町並みは一緒なのに、君と一緒だとこんなに新鮮に見えるんだもん。不思議だね」

 ともすれば、愛の告白とも捉えられるような言葉。メルは、それを恥ずかしげもなく、惜しみなく渡してくる。
 あるいは椿が椿ではなく、別の、誰か他の女の子であれば。きっとあらぬ勘違いをしたかもしれない。ほんとうの喜びを、ひとつの紛いもなく表現する彼の声に。けれども、椿は椿であった。

「ふしぎ、ね」

 本当にそうだと、思う。椿からすれば、自分がずぅっと昔に書いた小説の登場人物が、こうやって目の前で喋ったり、動いたり、歩いたりしていることの方が不思議。それでも声を上げたり怯えたり、慌てたりをしなかったのは、夏目やビスマルクという前提があったからだ。だから、ある種の生物として、椿は彼らを見ることができた。
 彼らのひとみは海のいろ。強くてやさしい命のいろ。彼らは生まれてからずっとこのあおいろを眺めて、そのうつくしさを、瞳で一身に受け取った。

 きれい、だった。
 いきているのだ。
「椿、いっこね、お願いがあるんだけど」
「ん?」

 メルが、ちょっと大きく足を広げて、ほんの少しばかり先を行く。くるんと椿の前で回転して、椿の目を真っ直ぐに見る。

「椿はさ、明日、帰っちゃうと思うんだけど」
「うん」
 メルは、くちびるをきゅうっと噛んで。夕焼けのうちがわでもわかるくらい、頬をぶわっと染めて。そのバツグンにきらきらした目を大きく見開いて、言った。その感情の喘鳴が、溢れてやまない、かたちのない言葉が、どうしても、きれいだったので。

「――おれ、きみのこと、友達だって、思っててもいいかな」

 『俺はこれがみたかったのだ』――と。
 そう、思い出した。

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