↑ Aha, but that's just my imagination ↑
06
「あ、ネルおかえりー」
「あと十分くらいでカレーできますんでー」
キッチンからメルと顔を出す。すると、コートを脱ぎかけていたネルが目を見はった。きゅるり、天井の明かりが作る瞳のひかりが回転して、驚きを、訴える。
「…………――――――…………」
それから、ネルの小さなくちが、何かを呟いた。
「ネル、辛いのダメだっけ」
「……いや、特に」
「じゃあやっぱり普通のにしようよ」
「ん?あぁー、そうね。個人的には蜂蜜リンゴも捨て難いけど」
「それ、椿が辛いの苦手なだけじゃないの?」
ふは、と笑うメルを横目に、椿はちらりとネルの顔を見た。ネルは、メルのことを――少し、訝しげに、静かに見ていた。
「(なんで=c…って、何だ?)」
メルの「もう人参やわらかいよー」という報告が聞こえて、椿は意識をキッチンに戻す。メルは鍋を覗き込んでいる。ネルの態度がほんの少しばかりおかしい事には、きっと気づいていないのだろう。手を洗いに洗面台に向かうネルの姿を見ながら、椿はカレーのルゥを割った。それから結局は、よくわからない、と思考を閉ざした。
――食欲があると、生きている実感が湧きます――
いつか、自分が書いた一節を思い出して、椿はカレーを飲み込んだ。ほろほろになるまで煮込んだジャガイモは、どろりとしたカレーのルゥと溶け合って、唾液と一緒に無くなった。口の中にはスパイスの香りだけが残る。椿は、カレーで熱々になった息をほぅと吐いて、『なるほど、生きている』と、おかしなことを思った。
「美味しい」
ぽつりと呟いたのは、ネルだった。
スプーンで熱々のルゥをかき混ぜながら、彼は言った。その瞳があんまりにも揺れていて、椿は少し、硬直してしまった。
「でしょー。椿がね、野菜切るのすんごい速くてビックリした」
「そ?」
「うん。僕より三倍は速いよ」
「それ、多分私よりメルが丁寧なんだと思うなぁ」
だから、メルが喋り初めてくれて助かった。もう一度カレーを口に含むと、今度は上手く飲み込めず、つっかえる。椿は、コップに注いだ麦茶を三口、ごくごくと、飲んだ。
ネルの表情は変わらない。口角が上がることも、下がることも無く、切れ長の目もいつも通りだ。けれどもその奥にある瞳が、きっと動揺で揺れていて、何か、強い感銘を受けた時のように、張り詰めていて。メルは、それに気がついていなくて。淡々とカレーを食べながら、楽しそうに今日のことを話す。
「またガガーリン通りの喫茶店行ったんだけどね」
「……あぁ、ヤロは元気にしていたか?」
「いつも通り適当に配膳してたー。普通に元気してたよ。僕ね、ドラゴンフルーツソーダ飲んだ」
「あれ、舌の色が変わるだろう」
「それが面白いんだよ。ね、椿」
「ん?ごめん聞いてなかった」
「あ、ヒドイ!僕よりカレーのが大事?」
「食欲に勝るものはねェなぁ」
煮込んだ人参はやわらかくて、ルゥの味の奥に野菜の甘みがあった。咀嚼していると人参と歯の間に玉ねぎが滑り込んできて、食感がしゃく、しゃく、としたものに変わる。その音が、やけに大きく感じた。また椿がスプーンからカレーを一口さらって、顔を上げた瞬間に、ネルと目が合う。
「………………」
――どうしてか、
「椿さん」
「ん、んぐ、……はい」
「すまない、口に入れたばかりだったな」
「いいえ、大丈夫っす」
「口の端にカレーついてるよ」
「うっそ」
「そっちじゃない、右」
「サンキューメルたん」
「何その呼び方」
ネルが自然に差し出したハンカチがあまりにも真っ白くて、思わず椿は目を剥いた。けれどネルは頷いて、「汚してもいい」と、促す。強い躊躇いを感じながら、それでも好意を無下には出来ず、椿は口元のカレーを拭った。少し情けなくて、恥ずかしさで足の指が丸まった。
「海軍の方に話は付けてきた。明日には出発できる。リューンまでは暫くかかるが、客人を無下に扱うような輩ではないので安心して欲しい。道中の安全は保障しよう」
「あ、ありがとうございます。一応戦えるっちゃあ、戦えるんですけどね……」
「海上戦は不慣れだろう。それに、ここらの海域ではな。気にしなくていい」
「…………軍人って、忙しくは、ないんですか?」
これは椿の悪い癖。
気になったことを、ぼろりと落っことしてしまう癖。
「………ライアールは、平和な国だっただろう」
「…………」
「そういえば、最近乱闘騒ぎとか滅多にないよね。僕がなりたての頃は酷かったんだよ?反バロック派っていう国賊がいて、毎日どっかで爆発が起きてる、みたいな、さ」
――反バロック派。現在のライアールの政権を支配している『カレルヴォ・デ・バロック』に反旗を翻した集団のこと。彼らは椿が執筆した『ジェノグラムの解釈』にも登場する。というより、主人公であるナツキとイグノラスはストーリーの後半に反バロック派の仲間に入ることになる。目的は、打倒バロック政権。
だから椿は聞いたのだ。
「軍人は忙しくないのか?」と。
抵抗はあった。ネルが何かを隠しているように見えるだとか、メルが時折悩む様子を見せた事とか、特にネルが帰宅した時の様子が普通では無かったことだとか。けれども、椿の好奇心と頭の奥で鳴っている警告が言葉の背を押した。
ネルは、瞬きを、ひとつ。
メルは、ふたつ。
「もう三年は、何も問題は起きていない」
加速的に。
「ほんと、そうだよね!毎日平和になったなぁ」
加速的に。
「何も、問題は起きていないさ」
加速的に。
「建物も壊れないし、誰も怪我もしないし、誰も泣かないし」
加速、的に。
「――――なぁ、椿さん」
異様、だった。
まるで、メルとネルの間の歯車がどんどんとズレていくような、そんな光景だった。会話も噛み合っていない。視線も合っていない。雰囲気もズレている。まるで互いの言葉も姿も視界に入っていないような。
どちらも軋んで壊れているような。
「明日には、ここを出るんだな」
それから、椿は一言も喋らなかった。ネルも同様で、ネルや椿が黙っていると、メルも嘘みたいに喋らなくなった。黙々と作業を進めるようにカレーを平らげて、椿が「ご馳走様です」と言うと、パッと顔を上げて笑った。
ネルが皿を洗うというので「作ったのは自分だから」と椿はそれ押しのけて残った鍋と皿とを洗い、夏なのに酷く冷たい水に――何かを感じることも無く。ただザァザァという心地よい音を聞きながら、淡々と皿を洗った。
この家には、その音しか存在しなかった。
「明日、朝の七時に家を出る」
風呂と着替えを済ませたあと、寝る直前にネルはそう言った。あんまりにも背が高く、椿が思い切り顔をあげなかったので、彼の表情は見えなかった。
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