三段目 違和
西の空に煌々と赤い夕陽が落ちて行き、残照がまだ山の端を染める頃。染み出した夜と溶け残った昼の名残が渾然一体となる僅かなひと時、そんな境界の空が窓からは覗いている。外の景色がしめやかであるからか、場の喧騒がより賑やかに感じられた。
見るとはなしに外へと投げていた視線を手元へと戻す。先ほどまで満ちていた杯はほんのもう一掬いだけであり、室内の灯りと混じり合って底にとろりと溜まっている。流通量が少ない小さな酒蔵から直接仕入れているらしく珍しい銘柄で、扉間も初めて飲んだがなかなか美味い。舌に乗せると刺すような辛さの後から花の蜜のようなみっしりとした甘さが追いかけてきて喉へと広がる。良い酒だ。
日頃は酒など飲む時間も惜しい。その為に遠ざかってはいるが、飲むこと自体は好きである。蟒蛇なので飲んだところで酔いを実感することがほとんどない、それが多少虚しくはあるのだが。
銚子を取り上げようと手を伸ばしかける。近くに座っていた男が声を掛けた。
「お、早いですね。良ければお注ぎしますよ」
「構わん、自分で注ぐ。そもそも他人に主導権を握られること自体が非効率だ」
「飲みにまで効率を持ち込まんでくださいよ」
軽く笑いながら、男も杯を干す。教え子であるヒルゼンの父、猿飛一族のサスケだ。忍はみな基本的な代謝として酒の分解も早く強い者ばかりだが、この男も例外ではない。
「それなら、柱間様みたいな一気飲みが一番効率が良いということになる」
「……あれは効率とは真逆だろう」
まあ何に重きを置くかだな、という扉間の言葉を向かいの男は聞いているのだか聞いていないのだか微妙な範囲で受け流す。座の中央付近に陣取る柱間が何事かを仕出かしたらしく、俄かに場が沸いたのだ。どうせ馬鹿なことを言ったか、あるいは馬鹿なことをしたのだろう。つられて扉間もそちらを見遣り、思わず溜息を零した。
そもそもは扉間を含めた慰労に近い打ち上げとして催された酒宴である。滞っていた業務がひと段落付いた、外交情勢も安定している、里内の行事もしばらく何もない。それならば、――まあ一杯やりますか、そんなことになったのだ。扉間も気心の知れた戦友等とであれば大いに乗り気だった。そこに、気を利かせた誰かがイノリにも声を掛け、成り行きで加わることとなる。酒の席には滅多に顔を出さないイノリの参加は扉間にも想定外だったが、無理に止める道理もない。そういった、羽目を外し過ぎない、程良い集まりだ。
イノリは酒が吞めない。呑まないのではなく、吞めない。例え一杯であっても下手をすれば翌日に持ち込んでしまう。その上、小食で食に関する嗜好も薄い。酒宴の生々しい喧騒と離れた、隔絶された一室で注意深く息を整えているのが似合うような存在だ。持ち前の丁寧さと人当たりの良さで今も明らかに浮いている訳ではないが、馴染んでいるというより存在を希薄にして極限まで薄めている。空白が少しだけそこにある。
「イノリよ、お前ももうこんなところへ来れる歳になったのかあ。ほら共に飲め!」
「あ、いえ私は――」
――そこにこれだ。完全に事情を理解した集まりだったところに、どこからか聞きつけたらしい柱間が闖入した。勿論はじめのうちは平穏なひと時を死守しようと扉間も奮闘した。したのだが――。奮闘などしたところで、易々と追い払われる男ではない。居ろと言われたところに居らず、来るなと言われたところには転がり込んでくるような男だ。勝手に座り、勝手に飲み、勝手に喋り、いつしか堂々と収まって盛り上がってしまっている。
毎度のことだ。普段であれば扉間も慣れていることだから、またか、といった呆れと諦めで飲み下せる範囲である。ただ、本来であればいないはずのイノリがいるものだから、収まりが定まらない。――で、こういうことが起こる。
「強要するな、兄者。そいつは体質的に無理だ」
「なんだ、そうなのか」
「すみません。少しでも頂くと心臓に負担がかかってしまうので、お気持ちだけで」
「おおそれはいかんぞ、すまんかったな」
悪気はないのだ。むさ苦しい男ばかりの紅一点かつ一番の年下だ。構いたくなるのも無理はない。結局酒ではないなら何が好きだ、などあれやこれやと世話を焼いている。
「この間うちに来た時も思ったが、本当に綺麗になったなあ。扉間と手習いだったか何だかをしてた時は小枝みたいだったのに」
「ありがとうございます」
「それにだ、健やかに働けているのなら何よりぞ。なあ、扉間」
「……ん、嗚呼そうだな」
成り行きを聞き流していたところに急に水を向けられたので一拍反応が遅れた。――何に対する同意だ。健やかさか、綺麗さか。
「なんだ、もう酔っとるのか。それか見惚れていたか」
「馬鹿なことを言うな、下らん」
一蹴され、あからさまに沈痛した顔が鬱陶しいので視界から強引に叩き出す。そのまま、扉間はもう一度酒を注いだ。
「確かによく見ると綺麗な子ですよね、静かで落ち着いている」
「まあ、言われてみればそうかもしれんな」
「俺なんて周りがこんなんばっかりでしょ。羨ましいですねえ」
「嫁に聞かれてどうなっても俺は知らんぞ。大体羨ましいのならお前が火影になればいい」
継ぐように続けたサスケの言葉に、扉間は改めて視線を遣る。確かに、イノリは出会った頃から整った顔をした子どもだった。今は来し方の線上にある。人目を引く華はないが美人なのだろう。
とはいえ、世間の言いたいことも分かるが、扉間には実感が伴わない。イノリはイノリだ、病弱で静かな娘でしかない。仲を勘繰られたこともあったが、情はあれど欲など沸く筈もなく。イノリがこういった男同士特有の卑俗な話に直接上げるのも扉間にとって初めてだった。俎上に載せる理がない。故に盲点に近かった。
「そういえば、うちの倅が扉間様とイノリさんがご一緒のところにお会いしたようで」
「……それだ。サスケ、お前あの馬鹿の躾はどうなっとる。開口一番デートかと聞いてきたぞ」
「すみませんね、どうもそういうのが気になる年頃のようで。それにまあ子どもは正直ですから」
「どう見ても親と子どもだろう」
杯を傾けていたサスケの手が一瞬止まる。
「どうした」
「いやあ、どうなんでしょうね。え、おいくつ離れてるんでしたっけ?」
「二十は越える位だが」
「ああ、ならまあ確かに。そもそも扉間様がお若く見えますからね。それよりこっちも美味いですよ、どうですか」
促されるままに杯を満たしたそれを口に含む。なるほど、確かに上品だ。するすると喉に落ちていく。染み入るように馥郁とした香気が腹の底を染め上げていく。どんどんと杯は重なる。
いよいよ酒宴は盛況である。騒めきは渦を巻き、鼓膜を圧迫する。咽せ返るような熱気が隙間無く満ちていく。喧騒と呼気、酒精が境界を無くし、混ざり合う。――最早、それは空気ではない。凝縮され形を成した何かのように、じっとりと肺腑へと絡み付いてきた。
ふう、と扉間は息を吐く。漏れた息には僅かに酒の色が移っている。
視界の端に、イノリが立ち上がるのが見えた。中座でもするのだろうか。顔色が悪い。弱く、頼りない足取りだ。
――眩暈だろう。眉を寄せ、耐えるように目を細めている。
「大丈夫か」
「はい。でも少しだけ、疲れてしまって」
「脈を診せてみろ」
握った手首が驚くほど冷たい。陶器のようだ。いつものことである。ただ、それが――。
熱い何かを内包した、陶磁器のように。
ぞわ、とした。
思わず手を放す。顔が強張っていた。
「先生、――」
不安げな、どこか縋るような声だった。空気が僅かに揺らいでいる。所在なげに浮いた指先が圧し留められ、堪えているのが見えてしまった。
「……すみません、子どもみたいに。ご迷惑でしたね」
「いや、……用が済んだら席に戻って大人しくしていろ。脈なら今のところ問題は無い」
「イノリさん、席変わろうか? 良かったらここ座りなよ」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
自分でも何を続けたいのか分からなかった。続ける必要があった気はする。そもそも慣れない席だ、隣にそのまま座らせればよかったのではないか。せめて落ち着くまで手くらいを握らせてやるべきだろう。普段ならばそうしている。それが何故か出来なかった。
だが、わざわざ席を変えさせるほどでもない、というのもある。こういった場にイノリが慣れていないように、扉間もまたイノリという夾雑に対処しきれていないのだ。誰に指摘されたわけでない、腹の奥底から染み出した据わりの悪さだ。
思いのほか、酔いが回っているせいなのだろうか。
「イノリさんって扉間様の前だとあんな感じなんですか」
「あんな、とは?」
「なんて言うんでしょうね、俺等にはもっと距離があるというか……。あの子、別に余所余所しい訳じゃないけど崩さないでしょう。人当たりはいいのに絶対に踏み込んでこないというか。だからまあ、驚きまして」
「……場慣れしてないからだろう。大勢の場に放り込まれれば誰であれ一番近しい人間に寄る」
ふふ、と笑いながらサスケが元の席へと戻ったイノリの方へと視線を投げる。
「でも可愛いでしょう、ああいう子が自分にだけ頼ってくるのは」
「付き合いは長いからな、それなりに情はわく」
「それなりですか。まあいいもんですよね、師弟ってやつも」
ただ頷き、杯にある残りを飲み下す。味も濁ってきた。場の盛り上がりももう最盛を越し、あとはぐずぐずと崩れていくばかりだろう。
「イノリ、お前は先に帰れ。家まで送る」
「そうですね、そろそろ……。ありがとうございました、お先に失礼させて頂きます」
「おお、気を付けてなあ。扉間よ、もう遅いからしっかり送ってやれ」
無言で歩き出した扉間を追うように会釈しながらイノリが続く。夜気はひっそりと冴えわたっている。騒めきが引き波のように遠くなる。熱気で高揚した頬を花冷えの夜風が浚う。
「夜は冷えるな」
「そうですね、でも風が気持ちいいです。先生、お酒美味しかったですか」
「嗚呼、悪くない。今日はまだ兄者も大人しいから味も分かる。……おい、転けるぞ」
「転けません、最後に転けたのなんてもう何年も前ですよ」
「さっきふらついていたのは誰だ」
話しかけてくる声に少しだけ膜が張ったような生ぬるい籠もりがある。
花風が通り抜けた。すう、と首筋を掠める冷気にイノリが小さく肩を竦める。
その拍子に、肩の線が目に留まった。こんなにも、か細かっただろうか。冴えた月明かりに晒された輪郭がやけに頼りなく、目が離せない。
――酔いのせいだろう。今日は久々に呑んだ。
掌に蟠る感覚を溶かすように、扉間は風へと晒した。
二日酔いか、とまずは思った。頭の芯は痺れていない。倦怠感も無い。そもそも昨夜は吞んだとはいえ扉間が翌日に持ち越す量としては圧倒的に足りていなかった。少し酔いはしたか、という程度であるはずだ。
ならばどうした、という話になる。なるのだが、――。
ふ、と万年筆の音が途切れる。はらり。微かな音。ちょうど髪の毛を耳にかけ直すところだった。細い指が亜麻色の髪を数筋かき上げる。
首筋の白さが、嫌に網膜に張り付く。
自分の不調でないのなら、イノリの方ではないのかとも思った。顔色は月の光のように仄白いがそれは元々である。特段気になるほどではない。昨日の疲れが出るかと思っていたが、むしろ平生よりか血色が良い。
「二代目様、今よろしいですか」
「……なんだ」
「こちらの書簡ですが、どちらの表記に合わせましょう」
「先方のものに合わせろ」
「承知しました」
呼吸の乱れもない。唇の色も。扉間の視線に気づいたのか、イノリが僅かに首を傾けた。はさ、とやわらかな髪が溢れ掛かる。
細い首筋が僅かに緊張する。
「……どうかされました?」
「いや」
矢張り、思っていたより吞んでいたのだろうか。思考が散漫である。
「体調は問題無いのか」
「はい、お陰様で。お気遣いで先に帰らせて頂けたからだと思います」
「そうか」
ならいい、と手元に意識を戻そうとする。イノリは動かない。
「あの、先生の方こそ大丈夫ですか。昨日はあの後も遅くまで続けられたんですよね」
「……多少吞み過ぎたかもしれんな」
「薬湯でも貰ってきましょうか」
「そこまでではない、頭が重いだけだ」
「でしたら、お茶をお淹れしますね。少し濃いめにしましょうか」
「頼む」
顔を上げずにそう答える。ふ、とイノリが離れる時に空気が揺らぐ。目線は鹿爪らしい文書を追いながら、手綱の緩い意識は中空を彷徨っているようである。
丁度よく手に収まる場所へと湯呑が置かれた。ふわ、と掠める煎茶の清香が芳しい。
「昨日は柱間様、無事に帰られたんですか」
「……そうだな」
「先生?」
「どうした」
「いえ、お茶の温度は大丈夫でしたか」
「いつも通りだ」
また漫ろな気持ちになる。時間の進みが僅かに鈍く感じる。
昼過ぎのことだ。昼食を食べ終えてすぐに重い案件を片付ける気にもなれず、扉間は軽い文書を流し読んでいた。白昼は時間が抜けたような静寂の降りる一瞬があるが、まさにそのひと時だ。
ふう、と幽かな吐息が聞こえた。
次の間ではイノリが僅かに体勢を崩して目を閉じている。花弁を透かしたような白い目元に、吹けば消えてしまいそうな睫毛が淡い影を落としている。
食後は身体への負担がかかるため、彼女はよくそうしてうつらうつらと舟を漕ぐことが多い。業務時間ではないので扉間も口を出す範疇ではない。出すつもりもなかった。むしろ体調を整える上で理に適っている。その筈である。
――僅かに呼吸が早い。血液の奔流を整えているのだろう。
いつも通りだ。何も変わらない。気にならない筈である、気にならないのだと考えることそれ自体が何故か無性に意識の底に爪を立てる。読んでいるのは平易な文字列であるのに、深遠な幾何学でも紐解いているような気分である。
――散漫だ。思わず舌打ちが漏れた。僅かに苛立ちのような何かが喉の奥底に潜んでいる。
「いつまで寝ている」
「……え、あれ、ごめんなさい。時間もう過ぎていましたか」
「急ぎだ、午後の資料について暗号部に確認しておきたいことがある」
「承知しました」
夢の淵から一瞬で切り替えたらしい補佐の顔を見ながら思う。――頭を振った。今は、仕事だ。
合議を終えて書庫に寄ると、整然と並ぶ書架に寄り添うようにイノリがいた。忍の習いとなって消している足音をわざと立てる。まだ気付かない。戸を開ける音も聞こえたはずだが没頭しているのだろう。
「イノリ」
「……あ、二代目様。気が付きませんでした、どうかされましたか」
「こんなところで何をしている」
扉間が声を掛け、ようやく夢から醒めたようにこちらを向いた。
「管理規定の旧版を念のため確認しておきたくて。勝手に離席して申し訳ありません、お席に書置きは残しておいたんですけど」
「別に構わん。合議から直接来たから見ていないだけだ」
「そうでしたか、何かお手伝い出来ることはありませんか」
「今はいい。そのまま続けていろ」
「はい」
元より静かな声は重々しく沈黙する書物たちの隙間に吸い込まれ、より静寂が深くなる。やわらかな衣擦れの音が聞こえた。
扉間が探しに来た資料はイノリが立つすぐ近くの書架にある。僅かに空いた余白が妙に気にかかる。今日は朝からことごとくがこの調子だ。執務室に戻る気にならず書庫に来たのが裏目に出た。感知すれば分かったのだろうが、まさか火影邸の最深部にある厳重な書庫を前にしてやる馬鹿がどこにいる。完全に無駄である。
ほぼ使い物にならない脳髄に内心呆れつつ、手早く済ませようと扉間は資料に手を伸ばす。意識の端にイノリがいる。光に舞う埃の一片すら息を潜めているような無音の中で、そこだけが空白のように浮いている。
白が揺れた。
す、と手を伸ばして上の棚にある資料を取ろうと背伸びしている姿が見えた。しなやかな布が張り詰め、身体の輪郭を描いている。華奢で折れそうで、――たおやかだ。
柱間の声が蘇る。
いつの間に、こんなに大人になっていたのだろう。
鼓膜が吐息を拾う。苦しげに零した声に扉間は我に返る。後、ほんのひと差し分といったところで指先が彷徨っていた。
「取れるのか」
「大丈夫です。もう、少しなんですが」
「これか」
後ろに立つ。彼女の頭頂が真下に来る。生き物としてのあたたかな気配。ふ、と冷えたようなインクの匂いが鼻を掠めた。執務室の、変わりない静謐な匂いだ。彼女そのものから滲んでいたのか。
件の本を取る。一歩下がった。大した手間ではないのに、こういった時のイノリは随分と嬉しそうに顔を綻ばせる。居心地が悪いような、妙な心地だった。
「すみません、ありがとうございます」
一瞥し、先ほどまで立っていた書架へと扉間は戻る。すれ違い様に、微かなインクの匂いが後を引く。
「……横着せずに踏み台を使え」
「仰る通りですね、以後気を付けます」
何度となく吐いてきた叱咤がやけに硬く尖っていた。イノリが気にしているのかは知れない。
けほ、と乾いた咳が控えめに響いた。反射的にそちらへと意識が移る。脈でも診るか、と咄嗟に伸ばしかけた手を扉間は押し留めた。
――ただの咳だ。咽せただけだろう。相手は神のうちであった頃の子どもでもない、とうに大人だ。
「此処は空気が悪い。一区切りついたなら先に戻れ」
「そうですね。失礼します、取って頂いてありがとうございました」
いつの間にあれ程大きくなったのだろうと思った途端に幼子のような無邪気さを見せられる。その不釣り合いさが据わりの悪さに繋がっているのだろう。毎日隣に置いていたから成長に疎くなってしまっていた。それだけだ。それ以上に何があるのか。
彼女が去った書庫の沈黙が重く感じる。執務室に戻る気には未だなれない。
書庫から戻った頃にはもう日が落ちていた。相変わらず執務室には万年筆の音が充満している。常日頃ならばイノリはもう帰り支度を終えている頃である、今日は少し残るつもりらしい。
心地良いはずの静寂が重く、それでいて鋭く肌を刺す。万年筆の音が虫の羽音のように纏わりつく。背筋を、臓腑を直接撫でられているかのように、離れない。耳が追う。無視できない、意識を逸らしても端にある。ざり、と跳ねを切る音が心臓を踏み荒らす。
じりじりと、炙られているような焦燥感。沈黙が五月蝿い。
「――っ、う」
にわかに万年筆が止む。無音。がた、と椅子が軋む。
不規則な呼吸音。脳髄に喘鳴が侵食する。
「イノリ」
「っ、すい、ませ……、急に――」
「喋るな。息を吐け」
断続的な呼吸を繰り返しながら、伝えようとする声を扉間は遮る。呼気が浅い。元より白い顔はいよいよ真白い。発作だろう、久々に見た。昼間の休息が不十分だったせいか。
椅子から崩れようとするその身体を、床へ座り込む自分の胸元へと引き寄せた。背を預けさせ、逃げ場を塞ぐように囲い込む。
有無を言わせず、躊躇無く詰襟のボタンを外す。痙攣を繰り返す、細かな震えが指先に伝わる。
同時に、鼻腔を衝いた。
噎せ返るような、熟れた果実に似た匂い。変質したインクの、その奥に滲み出す熱。
脈拍を測るため首へと触れた。
ふ、と露わになった首元が見えた。胸元近くまで露呈している。薄い皮膚の下では青い静脈が透けている。
――白い。
視線が、外れない。何が気にかかる。合理的なはずだ。
指先から、早鐘を打つ脈動が伝わってくる。酷く、熱い。押し当てた指の下は、壊れそうなほどの熱を孕んでいた。
脈拍を測り終え、扉間は手を放す。何も言わなかった。言う必要も無い。
呼吸の乱れが耳について離れない。浅く、喘ぐ不協和音。その乱れを正すために、一定のリズムで繰り返す指の音が執務室の薄闇に重なり合う。
酷く、長く感じた。
落ち着いた頃合いを見計らい、身を離す。密着していた肌が汗ばんでいた。
「立てるか」
力無くイノリが頷く。幾分かは落ち着いたようだが、消耗が激しい。全身が弛緩し、ほとんど凭れ掛かるように身体を預けている。長椅子までは数歩に満たない距離だが、歩けるのか果たして怪しい。
歩き出したところで体勢を崩したので、扉間はそのまま抱き上げる。細く、少しでも均衡を乱すと折れてしまいそうだった。
あまりに、軽い。
腕にかかる重みは驚くほど軽いというのに、身体は燃えるように熱を帯び主張している。行き場がなく、暴走する血液の熱量だ。
吐息が首筋を撫で上げる。熱を帯びて湿っていた。
「せんせ、い……」
爪を立てられた服に皺が寄る。呻くように漏らした声は無意識だろう。切迫している。縋り付くような声だった。
息が乱れている。浅い呼吸に合わせ、不規則に胸が上下する。収まったとはいえ、発作直後だ。
熟れ切った果実と、熱。そして、生々しい
発作により微細な血管が損傷し、彼女の喉筋が、肺胞が粘膜が充血している。生と死が入り混じった呼気が鼓膜を、肺腑を、意識を侵す。
衣擦れの音が鼓膜を突く。
長椅子までの距離が長い。時計の秒針がやけに大きく聞こえた。長椅子の模様が暴力的に迫ってくる。衣擦れの音。轟々と皮下を流れる血流。時間が膨張している。沈黙に脳髄が食い破られそうだ。
は、とイノリが重く息を吐く。
色付いた血色の呼気が首にかかる。脊髄が軋む。全ての感覚が砕けた。
一体の肢体が横たわっている。
青磁のような影を帯びた肌。発光しているかのような。青褪めている。鎖骨の窪みに淡い影が宿っていた。
汗ばんだ額。張り付く髪。苦しげに、――悩ましげに顰められた眉。
ぐ、と喉が鳴る。
これは、――毒だ。
「……薬を取ってくる、鞄の中だな」
返事も聞かず、扉間は踵を返す。
呼吸が荒い。彼女のものではない。この喉から漏れる、自分のものだ。
――何に、対してだ。
思わず口を覆う。それ以上は、続かなかった。