四段目 蓄熱


 ひそやかな朝だった。
東の空が白んでいく。夜明けまでにはまだ早い。夜の闇が息を潜めて青褪めた白へと音も無く塗り潰されていく過程を、扉間はただ見ていた。今日も当たり前に日は登り、当たり前のように一日が始まる。あと数時間もすれば、いつもの静謐な沈黙の中で火影という椅子に座るだろう。
座らなければならない。
億劫だった。帰り支度を整える気にもなれず、ただふかした煙草ばかりが淡々と積み上げられていく。
また、火を付ける。吸い込んだ煙が乾燥した肺の奥をゆっくりとなぞる。ほどけた紫煙が四隅に凝る夜の名残へと溶けていく。

普段扉間はあまり煙草をまない。意識して禁煙している訳ではなく、気が付けばそうなっていた。何事もそうだ。嗜好の類に頓着し過ぎないだけで、本来はそれなりに酒も好むし煙草も嗜む。
ただ、何事も溺れすぎることはない。扉間にとっては女もそうだった。古参ではない部下達からすれば意外であろうし、潔癖だか、下手をすれば不能の類かと思われている可能性すら十二分にある。不本意である。
他の嗜好と同様にその手の欲が無い訳ではない。寧ろ多寡で言うならば強い方だという自覚があった。扉間とて健全な、健全過ぎる千手の肉体をもつ男子である。火影という立場上花街に入り浸る体たらくを晒すわけにもいかず、そもそも多忙から出来るわけもなく。
だからこそ、そういえば足が遠のいていたか、と幾分か冷静になってから思ったのだ。合理主義を突き詰めた思考を持っているので手も早い。決めた時の判断は誰よりも迅速だ。花街へ向かう判断に使われていると思うと果たして合理的なのかは首を傾げるところではあるが、そこはある程度割り引いていいだろう。

――そもそも。弱り切った部下、それも子どもの頃から目に掛けてきた教え子を前にして、あまつさえ欲情した、など。
ぞ、とした。
正気の沙汰ではない。正気なのか狂気なのかなど自分では判断のしようがないのだから、それならば身体の問題か、と思い至った次第である。
自覚がないうちに溜まっていたところへ密着してしまい、飢えた脳が妙な方向へと処理をした。生理現象だ。処理さえすれば正しく機能する。

「これはご無沙汰。相変わらず好い男だこと」

久々に訪れた馴染みの店で、何度か買ったことのある女を扉間は選んだ。豊満で、大輪の花の香気を吸い込んだかのような、骨に堪えるような色香を纏わせた極上の女だ。肉付きのいい婀娜な身体もだが、むやみやたらと媚びずに、押し倒しても睨め付けてくるような気の強さが扉間好みである。取り澄ました顔が快楽で歪んでいく様が堪らずそそられる。
薄暗がりの中で暴いた肌はぬらりと白い。濡れたように妖しげで艶やかだ。行燈の揺れる灯りの中で浮かび上がる様は、まさに匂い立つように情欲を掻き乱す。
乱れた息に色が混ざる。漏らした声が熱を帯び、湿っていく。淫猥な音が鼓膜を染め上げ、情動を滾らせる。その全てを食らい尽くしたい。
耐えるように、悩ましげに顰められていた顔が潤み、崩れるように蕩けていく。柳腰を掴む掌に汗が滲み、知らぬ間に力が籠もった。
――白い。
剝き出しの首筋が目に留まった。喘ぐ度に引き攣り、蠕動を繰り返すさまが堪らなく淫らだ。噛みつくように吸い上げれば、うねる粘膜が一層締め付ける。口の端が上がった。
柄にも無く。溺れるように貪った。飢えた渇きを潤すように。
しばらく交わり果てた後、荒い呼吸を整えようともせず、女に覆いかぶさったまま扉間は息を吐く。大抵は余韻もそこそこに帰ることが多いのだが、今日は動く気になれなかった。女の湿った首筋に顔を埋め、鼻先で探るようにまさぐる。汗と、噎せ返るような甘い雌の匂い。
は、と色付いた吐息を零した女がいささか驚いたように続けた。

「あら珍しいこと、どうなさったの」
「……無粋だな」

それが再びの合図だった。
何度絶頂へと導いたのか、何度頂点を迎えたのか扉間自身にも分からない。
動けば動くほど、嬌声を浴びれば浴びるほど。胸の底に巣食う洞へと何もかもが吸い込まれていくような心地がする。
満たされない。渇いている。欠落が埋まらない。

ふ、と我に返る。
指に挟んでいた煙草がいつの間にか灰になりかけていた。炙るような火熱を指先に感じ、灰皿へと押し付ける。もう一本吸うか、と惰性で手を伸ばしかけた。
女は気を失ったように横になっている。酷く静かだった。夜が明けるまで行われた淫靡な交わりが嘘のように、朝まだきの静謐さが全ての熱を浚っていく。
白々とした光に照らされ、肌が血色を失い、仄かに発光したかのように網膜を刺す。扉間は辿るように眺めながら、白い首筋に赤い痕が浮かんでいるのに気が付いた。目が留まる。
白い。だが、違う。
足りない。
違う、否――そもそも違うのだ。
血の気が引く。内臓が反転する。胃の腑を直に掻き乱されたかのような不快感に、扉間は溜まらず口を覆った。
戦慄ではない。これは、吐き気だ。

「ん、……。まあ驚いた、まだいらしたの」

凝視していた視線に気が付いたのか、女が気怠げに起き上がる。甘えるように側へとにじり寄る。夜もすがら嗅いでいたはずの香と、生々しい女の匂いが酷く重い。纏わりつくように絡み付く。
あれほど気にならなかったのに。気付かないふりでもしていたか。

「――もういい」

振り絞るように放った言葉が低く掠れている。
何を求めていたのか、何に満たされなかったのか。その瞬間、扉間にはほぼすべて分かっていた。


眉間に入る力が抜けない。
今更ほぐすように指先で押し戻すことさえ億劫だった。粘つく重力に任せて、扉間は平生よりも深く上体を椅子へと預ける。身体が疲れているわけではない。夜通し耽った倦怠感は多少ある。だが、扉間の体力からすれば児戯に近い疲労である。
精神の摩耗だ。

「おはようございます」

いつもの調子で入ってきたイノリが静かな声でこちらに告げる。思考の縁を無遠慮に触らない、控えめで思慮深い声だった。普段ならば頷くだけか、精々一言答えるだけで扉間は目も遣らない。何も変わらない静寂を構成する一部であるからだ。
イノリは定められた手順を忠実に再現するかのような慎み深さを持って支度を整える。そこに漂うのは厳粛な秩序だ。書類の束を崩さないように揃え、必要な道具を整然と並べる。愛用の万年筆を取り上げて愛おしむように、あるいは機嫌を取るかのように軽く揺する。インクがペン先まで染み渡る音が聞こえてきそうなほどの静謐さだった。
陽の光を浴びた螺鈿が虹色に閃く。光紋が咲き溢れる。軸を傾けた時に露わとなった、痛々しいまでに白い手首に爛漫の文様を施している。虚像の刺青が花開く。
目を離せなかった。
イノリは手元へと注がせていた視線を不意にこちらへ向ける。

「何か御用はありませんか、二代目様」

扉間が見ていたことに気付いたというより、彼女にとっては単なる儀礼の一部であった。要件を確認し、急ぎが無ければ与えられた案件を慎ましくこなす。補佐としての役目である。ただそれだけだ。それだけのことが何もかもを見透かされているようで、今の扉間にとっては酷く居心地が悪い。

「……兵糧の予算案はどうなっている」
「あちらですか、既に各部門からの返答の取りまとめは終わっています。試案と共にいつもの棚に置かせて頂いたのですが、お探しましょうか?」
「いらん。今あるものを進めろ」
「承知しました」

幾分か不思議そうにこちらを見詰めている気がしたが、それ以上深入りすることもなくイノリは手を動かし始める。さり、と万年筆がいつもの調子で文字を刻む。耳ざわりの良いはずの音が沈黙を彩り始める。
女を抱いた翌朝に仕事へと戻ることなど今まで何度もあった、それこそ数えきれないほどである。その過去ですら、今や酷く醜怪に思えた。
――どんな顔をして向き合えばいい。
扉間が欲を持っていること自体ではない、この静謐に劣情が混ざったことに対する嫌悪である。

決裁印と共に何度目かも分からない溜息を落とした時。す、と淡い湯気の立つ湯呑みが置かれる。いつもなら迷いなく添えられるそれが、今日は酷く遠慮がちに見えた。細い手首から顔へと辿れば、少しだけ困ったように眉を下げてイノリはこちらを伺っている。

「今日は早いな」
「すみません、なんだかいつもよりお顔の色が悪く思えたので。ただの勘違いかもしれませんが」
「……よく見ている」
「私は先生の補佐ですから」

驕るわけでもなく、へりくだるわけでもなく。イノリにとっては当たり前であり、それでいて彼女にとっての矜持である。
イノリは自身の繊細な身体を丹念に調律し、自分を軽んじるところがない。補佐として働き続ける誇りが彼女をそうさせる。偏に幼いころに扉間がそう教え込んだからである。その誠実さが一等好ましく、扉間も側に置いてきた。
手放しがたい部下であり、可愛い教え子だ。
――そこに。今まで積み上げてきた日々に、合理の枠組みからはみ出した私情がどれほど含まれていたのか。枠組みすら違っていたのなら。
ただ女として侍らせていただけに過ぎないのだとしたら。
気遣わしげに見つめていたイノリが覗き込むように身体を傾ける。潤いのある目。微かに開いた唇から戸惑うような吐息が漏れる。赤く、湿っている。華奢な鎖骨は痛々しいほど影が深く、深いからこそ白が際立つ。その影を、啜り取りたい。
嗚呼。
まただ。見た。見てしまった。

「あの、良ければ肩揉みでもしましょうか」

添えられかけた細い指先を見る。その指先を、手首を、身体へ手を伸ばしかけた。
熾火のような焦燥。抗いがたい衝動だった。

「――触るな」

弾くように手を払った。しまった、と思った時にはもう遅い。イノリが息を呑む。

「……ごめんなさい」

途方に暮れた、子どものような声だった。

「出過ぎた真似でした、ご不快にさせて申し訳ありません」
「……もういい、下がれ」
「承知いたしました、失礼します」

違う、と言いかけた。形を成さない言葉が喉の奥にべとり、と張り付いている。
正しくは間違えた、だろう。固辞するならば他に言い様があったはずである。事実、今まで要るか要らないかの返答しか扉間にはした覚えがない。
拒否ではない。あれでは、――忌避だ。
肩を揉ませた事など今まで数え切れない程にあった。言い付ければ大層嬉しそうに張り切るものだから、大して心地良くもないのに扉間から頼んでいた時分すらある。小さな壊れ物のような手で拙く叩いてきたことから始まり、幾分か掌の大きさが変わっても尚。当たり前の地続きである。
欲が混ざったから、全てが歪む。積み上げた均衡が崩れてしまう。
――触るな、と。あれは己に向けた言葉だ。



「おはようございます」

翌日からのイノリは一層ひそやかだった。存在を淡く、希薄にしようと心掛けているのだろう。全ての音が僅かに遠い。注意深く耳を澄ませないと沈黙に紛れてしまいそうだった。彼女そのものが空白になったかのようだ。
その静けさが扉間の内腑をきざきざと刻む。
仕事ぶりは平素と何も変わりはない。慎ましく万年筆を走らせ、扉間の意思を丁寧に汲み取り文字へと移し替える。媚びるように伺うことも、怯えたように目を背けようともしない。ただ、全てが遠い。
昨日よりも一寸遠くへと置かれた湯呑を扉間は見る。
イノリは拗ねも委縮もしていない、忠実に弁えただけだ。恐ろしいほどの厳格さで。自分が及ぼす範囲を測り直し、注意深く境界を整えた。扉間が投げた言葉を撤回でもしない限り、その領域を再び侵そうとはしないだろう。

「二代目様、お時間頂戴してもよろしいですか」
「なんだ」
「先の会談の議事録です、ご確認頂きたい要点は別途こちらの書付にまとめてあります。不備等あればお申し付けください」
「……ご苦労」
「ありがとうございます、失礼いたします」

自席へと戻る華奢な背中を目線でなぞる。口頭で済まされていた体温のある確認は、整然と紙面に並べられてより精緻に機能している。彼女の振る舞いは補佐として完璧である。全く正しい。だからこそ、それを崩すのは私欲でしかない。
扉間が強引に引き摺り込むことなど造作もない。だが、それをしたところでどうなる。――空しいだけだ。
朝露のようだ、と思った。花街で抱いた女が咲きこぼれる大輪の花であれば、イノリはそこに降りる一滴の朝露だ。静謐で透き通るように美しい。だが、消えてしまう。触れない。触ると、壊れる。
触らずとも、やがては光に溶けて跡形も残らない。


暗部への指揮を終え、廊下を歩いていたところ、収蔵庫の前でイノリと若い忍が談笑している姿が見えた。二人の腕に巻物が抱えられている、恐らく収蔵庫の整理をしているところに居合わせたのだろう。イノリが何事か言い、男が笑う。中身など聞こえなくとも分かる、年若い同僚同士の気安い会話だ。
男がひとつ冗談を返したらしい、イノリが控えめに目元を綻ばせた。伸びやかな手が華奢な肩を軽やかに叩く。そのまま彼女が抱えている分の巻物を請け負った。何気ないが、少しだけ労わるような手つきだった。イノリは固辞するでもなく、丁寧に礼を返している。
その姿を、僅かに立ち止まって扉間は眺めていた。残響を背にして、踵を返す。
いつの間にか詰めていた息を、深く、細く吐く。
去来したのは嫉妬ではなく、妬け付くような羨望だった。
あの平凡で何の枷も負わない男なら、イノリに想いを抱いたところで何のしがらみも無い。ただ真っ当に恋慕を抱くだけで何も壊れない。知らぬ間に他の女の肌に影を重ね、懊悩することなどしないだろう。欲を持ったところで全てが対等だ。
あの男にあったのは、透き通るような純粋な思慕だった。
何も持っていないからこそ、何もかもを持っている。扉間に持ちえない全てのものを持っていた。
皮肉だった。火影という地位も、重責も、肉体も年齢も、扉間が積み上げてきたもの全てがイノリにとっては耐え難い重荷である。扉間と釣り合いが取れる女は歴然と他にいる、大名の姫君や名家の子女だろう。あの男が何の気も無く手に入れられる対等な関係など、今の扉間がどう足掻いたところで望めるべくもない。
扉間がイノリへ情を向けたなら、それは全てを崩すだけの凌辱に過ぎない。余りに不釣り合いな均衡だ。
――それでも。眩しいほどに軽やかな残響が、鼓膜から離れない。


執務室へと戻り、一人淡々と堆積する案件を片付ける。イノリが戻ってくるのはまだ当分先だろう。頁を繰る、承認印を押す、筆を滑らせる。無音の静寂は余所よそしい。イノリがこの場にいないことへ安堵していた、同時にいないからこそ空白が際立っている。
――矛盾している。
らしからぬ思考を持て余している現状に、扉間は僅かに自嘲した。
出し抜けに、遠慮のないノックが膠着する静寂を破る。入れ、とだけ短く返した。

「失礼するよ。二代目、少しいいか」
「お前か。珍しいな、どうした」

入ってきたのは奈良一族の男、連絡部を束ねている能吏だった。先日の巡察時に会ったきりである。この男とは合議で済ませる案件が多いため執務室へと直接立ち寄ることは稀である。手に持っていた書類を扉間は脇へと置いた。
かさり、と一枚の紙きれが机上へと置かれる。

「イノリの転属に関してだ。先のは軽口だと思われたかもしれんがな、正式に届けさせてもらう」
「連絡部へ、か。理由を聞こう」
「手放すには惜しい人材だろう、ただ、うちに欲しいのも事実でね。連絡部ならあの卒の無さと正確さが活きるし、機密文書の扱いや決裁の流れを熟知しているからこそ即戦力になる」
「……妥当だな、筋は通っている。なかなか補充に足るものがいないのも事実だ」
「それに、あの娘は確か心臓が弱いんだろう。火影直属の今より負担も軽くなるはずだ。ご一考願いたい」
「いいだろう、預かっておく」

平生の即断即決を旨とする扉間を知っているからこそだろう、意外そうに男は片眉を吊り上げる。何事か言い掛けてたようだが、結局は黙って部屋を出て行った。その姿を見届け、扉間は溜息を吐きつつ腕を組む。静止した静けさがまた降りる。先ほどまで読んでいた書類を再び取り上げる気にはなれなかった。
無造作に置かれた書面へ、扉間は視線だけで目を通す。先ほどの弁は確かに通っていた。紙面に連ねてある文言も理路整然として隙無く並んでいる。連絡部とはいわば里の神経系のような役割を担っている部署であり、慢性的な人不足を抱えていることは長年の課題ではあった。それでも直属補佐よりも遥かに融通が利く。確かにイノリには適任であり、彼女にとっても最適だろう。
断る理由はなかった。預かるといったが、預かったところで断る理由が無いことなど扉間には分かっていた。
あの場でイノリを手放す気が起きなかったのは、単なる私欲に他ならないのではないか。

ただ、どちらとも言える。
優秀な文官としての能力を活かす場として、最も多忙を極める扉間の側であることは配置として何も間違ってはいない。どちらも合理としては正しい、ならば最後に残るのは感情だ。
不意に、補佐として正式に取り上げたばかりの頃の断片が脳裏をよぎる。世間知らずの子どもが怯えるように身を縮めながら頷いたと思えば、執務室へと入ってきたその日には気丈にも背筋を伸ばしていた。繊細な弱さを抱えながら、決して折れない胆力がある。あの姿が、扉間に焼き付いている。
主張の薄いあの娘が心を開いているのは子どもの頃から育て上げた自分しかいない、彼女の主治医との連携も握っている。別の人間に今更引き継いだところで、それが果たして機能するのか。考えるだけ無謀としか思えない。
醜い――、と。声もなく扉間は自嘲した。
離す合理性よりも離さない合理性ばかりを積み上げている。外側から見れば瑕疵が無いからこそ、私欲と合理を切り離せない。正当性が汚濁している。

――知ったことか。
あれは誰が育てた。
俺が育てた。世界を、役割を、居場所を与えた。
ならばそれは、誰のものだ。
俺のものだ、俺だけのもの、他の誰のものでもない。
俺だけの、イノリだ。
――だから、こそ。誰にも渡すものか。

非承認の印に手が伸びる。ただ押すだけでいい、理由など後からどうとでも出来る。奈良の者も追及しなければ口外もしないだろう、当のイノリは知るべくもなく終わる。朱肉に押し付けようと、扉間は印を持ち上げた。指先に溶ける象牙の滑らかさが、いやに冷たい。
ふ、と我に返った。
持ち上げていた印をそのまま置き、半ばとなっていた書類を再び手に携える。一枚、二枚とまた片付ける。
淡々と、片付いた書類ばかりが積み上がる。
次の間で扉の開く音がする。イノリが戻ってきたらしい。席に座ろうとするところで、扉間は顔を上げないまま呼び止めた。

「イノリ」
「はい、何か御座いましたか」
「連絡部から転属の具申が届いている、あの軽口は本気だったらしいな。見たところ条件は悪くないが、どうする」
「……これは、私が決めていいことなのでしょうか」
「良いからこうして聞いている」

扉間がそう答えると、イノリは僅かに目を伏せる。目元に儚い影が落ちる。渡されていた書類を机上へと丁寧に置いた。
顔を上げる。深い湖のような静けさを湛えた目で扉間だけを見詰めている。

「ご迷惑でなければ、今のままこちらに置かせて頂きたいです」
「……そうか」
「扉間先生のお側にいられる事が、私にとって全てですから」

思っていた通りの答えだった。 とてもではないが、見ていられない。その献身も、敬愛も。
この状況に酔えていたなら余程楽だ。イノリには他に選択肢が、回路が存在しない。扉間が与えた箱庭のような世界で生きているのだから、好む好まざるに関わらずそうならざるを得ない。蓋然ではない、必然だ。
扉間の胸奥で灰汁の様に湧き出たのは、仄暗い充足めいたものだった。

印を取り、押す。何千何万と行ってきたうちの一回に過ぎない、ありふれた動作だ。外側だけを見れば何も変わらない、何の瑕疵もない。イノリ自身の意思を汲み、それに倣った正当な手続きである。
押印する指先がいつもより抵抗を覚える。紙が引き攣るように僅かに軋む。整然と、狂いなく文字が押される。朱が踊る。
残された印はぐずり、と酷く歪んで見えた。


疎に残っていた騒めきも絶えた夜籠り、扉間は執務室の椅子にまだ腰をかけていた。溜まっていた案件は既に片付き、そろそろ屋敷へ戻ろうかという頃である。
帰る気になれなかった。眠る気になれない、と言った方が適当か。
神経が、気が――腹の奥底で熾る情念が昂っている。
昼間に感じた、底が抜けたような充足。イノリの全てが手中にあるという全能。
ずく、と血が焚けた。
――誰にも渡すものか。あのひた向きさも、あの知性も、脆さも、心臓も、肌も何もかも。頼りない脈動一つすら。今更誰にも渡すものか、誰にも触れさせてなるものか。
どろり、と。膿血のようにくらい熱が、下腹部へと溜まっていく。先日抱き上げた際の、腕に収まった感覚が焦げ付くように蘇る。驚くほど軽い、華奢な身体。背骨の隙間まで感じ取れそうなほどの、ささやかな重み。
扉間は椅子から立ち上がり、次の間へと足を向けた。あの日倒れたイノリを横たえた長椅子へと至り、もたれ掛かるように身を沈める。
――何も無い。当たり前だ。それでも、空白のそこにあの夜の情景が緻密なまでに立ち昇る。何もかもを預け切った四肢、行き場を失い荒れ狂う熱、汗ばんで湿る首筋。
――せんせい、と。喘ぎながら呼ばれたその声が、鼓膜を犯す。思わず漏らした息に、取り返しのつかないまでの澱んだ熱が燻っていた。
縋り付かれ、爪を立てられていた胸元へと、扉間は手を這わせる。
脈を取った手首を。心配だけで触れていた首筋を。あの夜の首筋を幻想の指先でなぞり上げる。薬を注いだ口を。死なせるものか、とそれだけで塞いだはずの唇を。あの唇を。

扉間は低く笑った。声に出さず、ただ胸の奥深くで。笑いながら、ゆっくりと前をくつろげる。指先が僅かに震えた。脊髄を駆けるように粘ついた悦楽が滴り落ちる。既に痛いほどに張り詰めたものを、強く握りしめた。
自分は今、欲を満たすためだけに記憶中のイノリを犯している。
あの細い手首を押さえ付ければ、どれほど怯えた顔をするだろう。組み敷いた時の儚さは。引き攣る声の甘さは。
喉が鳴る。眩むような背徳と愉悦が腹の底を堪らなく疼かせる。
掌の中の熱を上下に扱き始めた。食い縛る歯から漏れる息が荒くなる。白昼夢が呼応する。
誘うように尖らせた乳首に噛み付き、充血した突起を玩弄する。誰にも開かれたことのない窄まりに指を突き刺せば彼女は泣くだろうか。唇を噛み締め、必死に耐えながら。それでも健気にこの昂りを咥え込むのだろうか。血と蜜を溢れさせ、壊れそうなほどに腰を跳ねさせ。
これは挿れているのではない。切り裂いている。イノリの肉を、精神を、扉間の膿を。

「イノリ、っイノリ……」

名前を呼ぶ声が、重く掠れる。自分の掌の中では、既に怒張し切っている熱が、脈打つように跳ね、青筋を浮かせて膨張している。
涙と涎に濡れた顔がどんどん崩れていく。欲の一切を知らないような、あの顔が。壊れていく。昏い快楽に溺れていく。
動きが止まる。夢も現実も同時に止まる。――可愛い。可愛くて堪らない、と思った。可愛くて、――この上なく哀れだ。
全部、何もかも俺のものだ。誰にも見せない。誰にも触れさせない。過去も、未来も。脆い身体も、純粋な心も、この腕に預け切った何もかも、――全て、悉く。
手の動きが早くなる。現に応えているのか、幻に引き摺られているのか最早曖昧だ。無音の啼き声が迸る。脳裏のイノリが達する瞬間、手中の熱も限界を迎えた。奔流のように白濁が爆ぜる。
虚脱感が全身を弛緩させる。荒んだ息が真夜中のしじまに漂ってはただ消えていく。手に残ったのは、膿にも似た欲の残滓。何を手に入れた訳でも、遂げた訳でもない。
胸奥に沸いたのは虚無でも罪悪でもない、無明の満足だ。
花街で打つけるように抱いた時の享楽などと比べようもない。救いようのないほどに、気持ちが良かった。
よりによって、この場所で。明日も変わらず彼女が静謐な秩序を綴り、自分は里長として嘯きながら。
茫漠と天を仰ぎながら、扉間はしばらく動く気になれなかった。


「おはようございます」

翌朝、定刻通りの時間に何も変わらない顔でイノリが出勤する。何も知らない、汚泥などに塗れていない。朝露のように清澄なままで。

「嗚呼、おはよう。今朝は随分と冷えるな」
「そうですね。朝方は特に、寒の戻りでしょうか」
「その時期はもう過ぎただろう。それより風邪を引くなよ、今お前がいないと面倒だ」

扉間が返した言葉に、イノリは目を細めてやわらかに笑う。自分でも随分と軽やかな声が出ていたことには気付いていた。

「二代目様、今日はお元気そうですね」
「……どうだろうな。イノリ、無駄口はそのくらいにして早く大名への陳情書を進めろ。ついでに茶を淹れてくれ」
「はい、承知しました。少し熱めにお淹れしますね」

――昨晩、脳内でお前を凌辱し尽くしたから元気なのだが。喉元でそんな戯言が臆面も無く湧き上がる。確かに気は晴れている。だが、それを果たして壮健と呼んでいいのか、扉間にも分からない。
次の間へと目を向ける。朝の清らかな日差しの中に長椅子が沈黙している。それを眺めながら、扉間は僅かに口の端を歪めた。


しばらくは何事も無く過ぎて行った。膿が溜まる、切り裂いて絞り出す。また溜まる、出す。それだけの繰り返しである。悍ましい筈の妄執は扉間にとって日常の瑣事となり、何食わぬ顔で火影の椅子に座っている。己の渇きを癒すために蹂躙し、毎夜涙と精液に塗れさせる女の横で、涼しい顔をして。
気でも狂っているのかと自分でも思う。頭の芯は笑える程に冴えていた。
イノリは何も変わらない。変わる筈がない。扉間もまた、何も変わらない。摩耗しそうな均衡だけが保たれている。

その朝は、イノリの調子が僅かに違っていた。万年筆で書き綴る合間に、ふと目線が宙を漂う。どこか眩しげに目を細めながら、窓の外を眺める。淡い睫毛に光の粒子が降りていた。上の空、という程ではない。浮かされた、――熱のように確かなものではなく、どこか淡い夢に浮かされたような。曖昧に揺らぐ不確かな色を滲ませている。
いつものように茶を淹れ、程良い位置へと置く。その横顔が、違うなにかを見ているような気がした。
気にならない程度の差異だったはずだ。見ているからこそ気にかかる。目についてしまうこと自体が扉間にとって酷く癪に障った。何かを隠しているのか、と一瞬でも思うと最早止まらなかった。

「イノリ、昨日辺り何かあったのか」
「え、いえ……。すみません、何かお気に障りましたか」
「朝から様子がおかしい。体調が悪いなら早く言え、仕事に差し支える」
「申し訳ありません。体調は問題ないのですが」

平生の饒舌さが嘘のように、珍しく言い淀む。何か言えないことでもあるのか。腹の底で焦げるような焦燥が僅かに爆ぜた。

「なら何だ、何かあるならそれを隠さずに言えと言っている」
「ええっと、先生にお伝えするほどのことでもなくて……」

相変わらず歯切れの悪い口調で続けながら、イノリは少し口を噤む。惑った指が貝殻のような白い耳を弄う。薄い耳朶が幽かに紅潮していた。恥じらうように、どこか苦しげな表情だ。

「……告白されたんです、昨日」

湯呑を傾けていた手が思わず止まる。

「伝令班の方で。前からお話しする機会があって、よく気に掛けてくださっていたんですが」

あの、収蔵庫で話していた男か。確か山中一族の――。扉間の脳裏に一瞬で顔が浮かぶ。妬き付いたように、鮮明に。

「とても誠実な方だから、その、少し……嬉しくて。お花も頂いたんです。……なんだか宝物みたいですよね。言葉も贈り物も、丁寧に包んで渡してくださって。渡された側にとっても、宝物を頂いたみたいで」

注意深く胸の底を覗き込みながら、一つひとつ言葉を探し出すような声だ。――宝物といったか。あの、純粋な思慕を。何も傷付けない、ただ一途に想うだけの軽やかな恋情を。

「先生がお気になさるって、やっぱり浮ついてましたよね。すみません」
「……受けたのか?」
「え?いえ、お断りしました」

イノリは即座に言い切る。何の打算も後ろめたさも無い。言い切った後に、僅かに視線を揺蕩わせた。伏せた目蓋に傾きかけた陽光が金の影を落とす。

「私に先があれば、お受け出来たのかもしれませんね」

その表情は苦しげではない、切なげなのだ。甘い物語をただ眺めているだけのような、そんな美しいだけの夢を見ている。
イノリの声は静かだった。切望も後悔もしていない。もしそうであれば、とただ考えてみただけなのだろう。
仮定として考え、受けていたかもしれないと言った。あの思慕を受け止め、あの男の隣へと。この昏い手中から抜け出して、安らかであたたかな場所へ行くだろう、と。行きたいのではなく、きっと行くという、選択の結果を話している。
扉間の中で何かが音を立てて罅割れた。割れた亀裂から湧き出たのは、嫉妬か、――それ以上の纏綿てんめんする執着を煮詰め切った、粘ついた何かだ。
あの真っ直ぐな、一輪の花のような恋情を、イノリは宝物だといった。拒絶する事なく受け取り、丁寧に飾っている。それに引き換え、自分と言えば、どうだ。妄想の中で犯し、泣かせて、壊すまでの欲を打つけて。この感情は一体なんだ。恋情か、思慕か。愛とでも宣うつもりか。
――劣情だ。それ以上でも以下でもない。心の奥に澱む腐った膿である。イノリが宝物だと評した対極にあるものだ。

「なんだか気持ちの整理がつきました。ありがとうございます、下らない話を聞いてくださって」
「……お前がよく話すのは今に始まった事ではないだろう」
「そうですね。先生はいつも私の話を聞いてくださるから、つい甘えてしまって」

イノリは扉間に対して元来遠慮が無い。依存するまでに信頼し切っている。ただ一人、自分の居場所を与えてくれる唯一だと。
は、と蔑みなのか自嘲なのかも分からない声が漏れた。

「若いな、独り身の中年には羨ましい話だ」
「先生は若い方に全く負けておられないですよ。いつまでも美しくて、強くて、とても尊くて」
「そんな大層なものに向かってお前は下らん話をするのか」
「雲の上のような御方ですから。お月様みたいなのかな、月は太陽より静かで優しくて、何でも聞いてくれる気がするんです」

仰ぎ見る月に懸想する人間などいないだろう。恋焦がれるなどイノリにとっては有り得ないのだと言っている。扉間がどれほど渇き、飢えているかなど一顧だにしない。イノリにとってはあの男が手に取れたかもしれない花ならば、扉間は手を伸ばすことすら俎上に上げない光なのだ。
この手が届くわけもない。ただ幻影を犯すことでしか満足できない愚かしい男の情欲など。

「少し話過ぎてしまいました、もう戻りますね」
「……嗚呼」

イノリが席へと腰を掛け、続きとなっていた仕事を再開する。頁を捲る音、端を整える紙達の囁き、万年筆の連なりに時折挟まれる僅かな休符。朝から感じていた揺らぎは最早そこには一片も残っていない。
傾きかけた陽光が、昨日までは置かれていなかった硝子瓶に反射する。その澄んだ輝きが網膜の暗がりを刺すように貫いた。恐らく先ほどの話に出ていた花、白いガーベラがささやかに活けられている。
――ただの花だ。美しいが、有り触れている。気取ってもいなければ、卑屈でもない。ただ背筋を伸ばして咲く、瑞々しい一輪の花である。
暫く何事かを考えこんでいたイノリが、俄かに焦ったようにこちらに寄ってくる。恐らく何事か急ぎの案件だろう。

「二代目様、補正予算の数字が合いません。詰め直したいのでお時間を頂きたいのですが」
「……後にしろ。勘定方にでも振っておけ、空き次第そちらと詳しく話す」
「急ぎです。それに、このくらいでしたら私でも――」
「聞こえなかったか、後にしろと言っている。急ぎだからこそ差戻しを食らう手間が惜しい、お前ではなく相応しい者に渡せという事だ」

戸惑う声を圧し潰すように扉間は重ねる。一瞬イノリの顔が罅割れるように引き攣った。
――嘘だ。彼女でも充分対応出来うる範囲だとは扉間も分かっている。全てが間違ってる訳でもないが、全くの合理などでは無い。
ぐじゃり、と何かが聞こえた気がした。路傍の花でも踏みつぶしたかのような、些細な、それでいて生々しいような幻聴が。

「承知いたしました、至急回しておきます」

そう告げる声は従順である。ただ移ろう陽光に照らされた横顔はほんの僅かに陰っていた。
扉間は目を伏せながら、湯呑に淀む冷め切った名残を飲み干す。酷く苦い。罅割れに沁み入るように、いつまでも喉に残って離れない。


井戸の底のような無音に閉ざされた執務室とは近い、火影邸内はざわめきで満ちている。どこかで話し合う声、戸が開けられる音、急くような足音。扉間は出納班へと向かうため廊下を歩く。角を曲がり、階段に差し掛かったあたりでささやかな声が聞こえた。

「イノリちゃん大丈夫?顔色悪いけど何かあった?」
「……少しだけ、二代目様のご期待に添えなくて。でも大丈夫です」

その声に扉間は一瞬足を止めかけた。声の方向を見遣る。
――間の悪い、と苛立たしげに眉を顰めた。
階下にある踊り場だ。大きめに取られた窓からはたっぷりとやわらかな光が降り注いでいる。眩しいばかりの光の中でイノリと伝令班の男が話していた。二人とも扉間に気付いている様子は無い。

「ごめんなさい。昨日は告白、断っちゃったのに。それでも気に掛けてくれて」
「いいんだ、俺が言いたかっただけだから。逆に困らせてたらごめん」
「……ううん。ありがとう、本当に」

何かを湛えているような、そんな声だった。溢そうなほどに、揺らぎながら。信頼を寄せながら、少しだけ安堵した響きがあった。イノリが静かに頭を下げる。さらりと流れ落ちた淡い髪に隠され、その表情は伺えない。ただ、頭を上げるまでに一つまばたき程の間が空く。
男と別れたイノリが階段を上がってくる。降りてくる扉間に気が付いたのか目線を上げ、丁寧に会釈をする。自然、すれ違うような形となった。

「お疲れ様です、二代目様」

その声は慎ましく整えられている。先程までの揺らぎは微塵もない。ただ整然と落ち着いている。
完璧である。あの男に見せていたほんの僅かな綻び、それすら扉間には見せようとしない。
――当たり前だ、何を期待している。 頼るのならば自分にしろと、踏み潰しておいて惨めにも乞うつもりか。
何も言わずに目だけで返し、扉間は通り過ぎる。低い舌打ちが漏れた。眩しいはずの日の光が酷く煩わしかった。


額縁