五段目 頂点


 ひそやかな体温だった。
夢を見ている、と扉間は思った。見ていると分かっているのに目醒めなかった。目醒めた時には、また見てしまったと呵責を伴うのに、今この瞬間は幻影に揺蕩っている。泥沼のぬくもりに抗えない。
夢の中に、イノリがいた。腕の内にいた。重なり合う肌から彼女の冷やかな体温が混ざり、溶け合って、扉間の熱を奪っている。透き通る氷の一片を掌に乗せているかのような、陶然とした心地だった。
ずっとこうしていたい、と思った。触れると崩れてしまうのに。
熱を交わし合う肌と肌の境が曖昧になる。輪郭がほどけていく。

――あたたかい……しあわせです、とても。

粒子の細かい目元に唇を寄せる。拒むそぶりも、慄く様子もなかった。夢の中のイノリは擽ったそうに目を細め、ただ唇から移る熱を受け入れている。唇に乗せているのは焦げるような熱だった。じわ、と。熟れた額には甘やかな汗が滲んでいた。掬い取るように、口へと含む。
指先を絡め合いながら、扉間は順に口付けを落としていく。輪郭をなぞる様に細い首筋を辿り、深い影を落とす鎖骨の淵へと鼻先を埋める。繊細な手首の内側を滑り、掌にしっくりと収まる肩を愛撫する。少しでも力を入れてしまえば容易く破れてしまいそうなほど、やわく真白い肌だった。白さに透ける青い静脈も、紙細工の隆起のように儚い肋骨の浮きも、ささやかな乳房も。一つひとつ確かめるように。
何度も診たことがあった、直に触れたこともある。だが、愛しむことはこの瞬間が初めてだ。
ずっと、こうしていたいと思っていた。
しっとりと汗ばんだ薄い肌は、白い木蓮の花弁のようだった。掌の感覚を蕩かすほどに馴染んでいる。背骨を撫で下ろせば、か細い肩が打ち震える。時折恥じらう様に身動ぎするが、変わらずにイノリは嫌がらない。扉間の全てを享受している。全身を弛緩させ、堅牢な腕の中に何もかもを預け切っている。安堵して止まり木に寄り添う、寄る辺のない小鳥のようだった。
いつからか、イノリを抱き締めているのか、彼女という存在そのものに包み込まれているのか分からなくなっていた。この熱を留めようと、扉間自身が縋り付いているようでもあった。自分の腕の重みも、この身体の軽さも、二人を分つ感覚の全てが淡い。互いの体温だけが確かに、ひそやかに混ざり合っている。

――離さないで、ください。……もっと、先生、……扉間様が、ほしい。

丁寧に、丁寧に。蕾の花弁を一枚ずつ、そっと開いていくように。
壊したくなかったから。大切にしたいから。
ただ欲を打つけるのではなく、堪らなく愛おしいから。
骨の浮いた儚い背筋が微かに戦慄く。色付いた吐息が、声が絶え間なく溢れていた。薄い目蓋を吸い上げれば、頼りなく喉が引き攣る。悩ましげにひそめられた眉に、腹の底が重く疼いた。
花びらを綻ばせていった奥底、一番深い場所へと指先が触れる。あたたかな潤みを帯びていた。絡み付くように誘われ、傷付けないようにゆっくりと、ゆっくりと沈めていく。乱れた吐息、僅かな震え。ささやかで些細な反応一つでさえ、どうしようもなく扉間の胸を甘く軋ませる。
露が降りたように潤う肌は、いつの間にか眩むほどの熱を孕んでいる。いつもは冷ややかな白磁の頬が淡く上気している。彼女の中から湧いたものか、自分が分け与えた熱に浮かされたのか。どちらでも良かった。どちらでもあれば良いと思った。隙間無く、埋め尽くすようにただ抱き合う。
頬を寄せ、惹かれるままに唇を重ね合わせる。肌の交わりではない、現では終ぞ求めたことの無い温度だった。言いようもなく、ひたすらに心地良い。溺れるように互いに息を交し合った。

――扉間様、もっと……。

折れそうなほどに華奢な腕が、扉間の背に回る。その指先に力が籠る。崩れ落ちるように、イノリは求めていた。狂おしいほどの幸福で覆い尽くされていく。
イノリがこちらを見上げる。欲する濡れた視線が絡み合う。応えるように、熱を充てがった。

「――壊して」


飛び起きた。息は荒く、背中には冷たい脂汗が滲んでいる。急速に意識が冷えていく。覚醒というより滑落したような感覚だ。暫く仰向けのまま息を整えることしか出来ない。夜半の重い静寂に喘鳴が酷くうるさい。
見慣れた天井だ。自分の部屋だ。あれは、ただの夢だ。
夢にしては、余りに生々しい。囁かれた言葉が扉間の鼓膜には未だ貼り付いていた。
夢を見ること自体に戦慄を覚えた訳ではない。イノリへの劣情を自覚した頃から、欲のままに蹂躙するような夢を見てしまうことが何度かあった。現の幻だけでは飽き足らず、夢の中までも。剥き出しの煮え滾る肉欲を打ち据えるような、悍ましいまでの悪夢だ。我ながら醜怪だとは厭悪しながら、これもまた溜まる熱に浮かされただけか、と自嘲でなんとか飲み下せた。蔑めるだけ感情の行き場がある。
先程の夢は、悪夢ではなかった。夢の中の扉間は幸せだった。この上なく満たされていた。イノリが受け止めるだけではなく、求めてくれていたから。
あれを悍ましいといえなかった、言ってしまえば欺瞞になる。
求めるだけでは飽き足らない、求められる事を欲している。それはただの肉の欲ではない。ならば、これは――何だ。
愛というならば、余りにも度し難い。
自分の抱える苛烈な欲が、傲慢な想いが。イノリを壊すと知っていながら、それでもなお求められたいと思うのか。彼女を囲い、縛り付け、掌握して。妄執の内では何度も陵辱して、それでも、なお。どれほど丁寧に扱おうが、結局は崩れてしまうというのに。
――救い難い。どこまでいこうが救われない。

精神は急激に冷え切っているのに、身体の昂ぶりは冷めないままだった。忌々しい。苛立ち紛れに手早く処理するが、そこに快楽など微塵も無かった。排泄に近い嫌悪感である。夢ではあれほど満ち足りていたというのに、現実との落差に反吐が出そうだった。
淡々と洗い場で清め、扉間はしばらく茫洋と項垂れた。これで何度目なのかも、数えることすら辞めていた。慣れた手順を繰り返しているだけという現実すら厭わしい。自失に近かった。
だが、以前までなら射精さえ行えばまだ切り替えられていた。浮かされた熱が一時であっても冷えるから。今日はそれでは済まなかったのだ。身体の熱を圧し出したところで、精神の欠落が充足する訳もない。疼いている。ただ、渇いている。足りなかった。
は、と乾き切った笑いが漏れた。取り澄ました顔で里の頂点に立つ男の現実が、このざまとは。余りに滑稽だ。
顔を洗う。身支度を整える。普段なら吸わない煙草を一本だけふかした。
これが吸い終われば、平生の通りだ。何事も無い顔で、何事も無く火影の椅子へと座る。何事も無いように、あの娘の隣へ。
夢の残骸のようにほどけて消えていく様を、燃え落ちるまで扉間はただ見ていた。


執務室に入った扉間は椅子へと腰掛ける。次の間へ続く扉は閉まっていた。定期健診は今日だったか、と記憶を辿りかけたところでノックが響く。主に外遊同行などを任せている兼任補佐の一人だった。

「扉間様おはようございます。イノリ殿より連絡がございまして、本日は体調の都合により欠勤とのことです」
「そうか。……水影に送る書状を清書させていたが、何か聞いているか」
「いいえ、特には。必要であれば確認を取りましょうか」
「いや、構わん。まだ期日には余裕がある、あえて急かすような話ではない」
「畏まりました」

二、三事雑事を言い渡し、扉間は執務に取り掛かる。彼女がいない静寂に安堵していた。安堵していると自覚した時点で、また後ろめたく嫌悪もしていた。夢の残滓を引き摺って、一人で居たたまれなくなっている。部下の体調不良に気を配るどころか、束の間の平穏に胸を撫で下ろす。全くもって無様である。
先日の発作以来、イノリは体調を崩すことが幾度かあった。休みを取ったのは今日が初めてだが、気候の変化か、無理がたたっているのか。
あるいは、以前よりも空いた扉間との距離を図りかねて心労が募っているのか。最近では、イノリの顔を碌に見られなくなっていた。当たり前である、幻でも夢でも犯しておきながら。何も知らずにこちらを仰ぐ、清廉な目が直視出来ない。
触るな、と言い放って以来、話はするが以前よりも折々の饒舌が抑えられている。彼女から話し掛けてくる事は明らかに減った。律せられた距離もそのままである。突き放された、と傷付いているのだろうか。
――願望だ。イノリは万事において弁えている。何某かの不調だと扉間を気遣いはすれ、それが起因して気に病んでいるとはとても思えなかった。そう考えているのは扉間がそうであってほしいと思っていることに他ならない。


イノリが不在の一日は、扉間の想定よりも些事に追われる形で過ぎていく。普段であれば彼女が仕分けた上で差し出される書類が、今日は積まれるに任せて卓上に重なっていく。用向きも直接受けざるを得ず、大した要件でもない報告に幾度か手を止められた。
何度目か分からないノックが響く。入れ、と。ただ短く言い切ることにさえ疲弊しながらそう返した。

「失礼いたします。火影様、国境警備部隊からの報告をお持ちいたしました」

明朗な声と共に入ってきたのは伝令班の、――先日イノリに告白したという男だった。扉間は思わず手を止め、そちらを見遣る。自然、目を矯めて眇めるような目付きになっていた。出した声が平生より僅かに低い。

「そこに置いておけ」
「畏まりました。……イノリさん、今日お休みなんですね」
「体調を崩しているらしい。何か用でもあったのか」
「いえ、特には。ただ最近少し顔色が良くなかったから、心配していたんです」

男は迷いのない様子でそう答える。自分には持ち得ない、純粋な心配。――眩しかった。欲する夢を見たことにより、その不在に安堵する卑屈さとは雲泥の差だ。
くつり、と。くらい嗤笑が喉奥で沸く。灼けつく焦燥が焚けていた。扉間は改めて筆を止め、頬杖を付いてその顔をつくづくと眺める。少しだけ、試してやろうと思った。
――さて。袖にされた男がどんな顔をして、惨めに歪むのか。この曇りのない顔が。それを見てみたい。

「随分と気にかけるな、――あれに、気でもあるのか」
「え、いやあ……。まあ、恥ずかしながら少しだけ。でもとっくに断られてるんですよね、俺」

バツの悪そうな顔で頭を掻く。屈託のない、どこか照れたような笑い方だった。断られたことを隠すでもなく、卑下するでもなく、ただ事実として受け入れている。そこには何の含みもない。
――分かっているのか、否、分かっている筈がない。火影が二十歳も下の小娘相手に情欲を滾らせるなど、正気であれば思い付くはずがないのだ。想像の範疇にすらない。

「けど、本当に素敵な人だから、体調のことを考えるとやっぱり気にはなっちゃいますね。あっ、イノリさんには言わないで頂けますか。気を遣わせたら申し訳ないので」

断られた相手を尊重し、それでも体調だけは気に掛ける。領域を侵さないように、離れたところから想うだけの誠実な思慕だ。正しい。全く正しい。――似合いだな、とその実感だけが切り裂くように扉間の膿へと突き刺さる。
朝露を散らすこともなく、ただ愛おしげに見守れるような。あるいは花となり露を降りさせ、優しく抱き止められるような、この男はそんな相手だ。

「とはいえ、お側におられるのが火影様ですから。土台、俺みたいなのには無理ですよね」

去り際にそう言い置き、男は肩を竦める。戸を閉めた後には先程より深い沈黙が落ちた気がした。
――何をしている。惨めなのは一体誰だ。
濁っていればよかった。この澱と同じように淀み、同じように腐っていれば、それだけで幾らか息が吸えた筈である。あの男の内側は何処までも澄んでいた、澄んだ水面に指を浸す事すら躊躇われるほどに。イノリと、同じように。
まるで水鏡だ。いつも自分の醜さを映し出される。後に残ったのは、覗き込んだ水底に映った暗い残像だけである。


筆が空回る。イノリの不在と思考の空転、全てが悪い方向へと収束する。普段ならば片付いている半分も終わらない、ようやく落ち着いた頃には深閑と夜が更けかけていた。

「おお、扉間! やはりまだ残っておったか」

寂としかけた空気が突然の来襲により砕け散る。筆を持っていた手が半端な位置で固まった。

「急に何をしに来た。その手に持っているものはなんだ、兄者」
「酒だ、上品を持ってきた! そんな辛気臭い顔で仕事ばっかりしとると腐るぞ、ほらお前も呑め!」
「執務室だぞ」
「最初はお前の家に行ったんぞ。だが帰っておらんのだから仕方ないだろう」

勝手に椅子を持ってきて、勝手に杯を並べ、勝手に注いでいる。扉間も手が早いと言われるが、こういった場面での柱間の手早さは天下一だった。事務仕事の能率でも活かしてほしいと思ったこと幾たびか、だが結局活かされることなく今に至る。
扉間はあえて何も答えず、ただ溜息を吐いた。にい、と柱間が目を細めて杯を寄越す。兄弟だから先刻承知なのだ。
僅かに杯を上げてから一気に呑み干す。焼け付くような辛口だが、鼻に抜ける香りには品と甘みが溢れている。上手い。

「良い呑みっぷりだな」
「今日一日何かと忙しくてな。呑まんとやってられん」
「そうよなあ、仕事終わりにはまた格別ぞ」
「……言うほど兄者はその苦労をしとらんだろう」

扉間の小言にめげる様子はない。この位の応酬などいつものことだ。それが今の扉間には酷く心安い。

「最近は眠れているのか」
「兄者を賭場へ探しに行く手間が減った分はな。あの頃は週の半分は夜中に叩き起こされていたから寝た気がせんかったわ」
「……それは、その悪かったが。もう昔のことぞ」
「どうだろうな、義姉上が心配していたぞ。そのうち兄者が一番上を賭場へと連れて行くのでは、と。あの子は兄者によく似ているだろう」
「いや、それはだな、そんなことは……」

ふ、と扉間は杯で隠しながら口元を緩める。随分と久々に笑った気がした――自嘲ではなく、ただ純粋に。扉間にとって気の置けない瞬間など、ごく限られたひと時に限られていたからだ。
思い起こしかけた白へ、慎重に蓋をする。扉間は手酌で杯を満たした。

「いやあそれにしても、子というのは何歳になっても愛いぞ、末の子なんて堪らんくらい可愛い。お前に会いたいとせがんでいたな、近々また遊びに来い」
「暇が取れればな。この前会った時は握力がやたら強かったが、上の子もあんなものだったか?」
「いやあ、どうもお転婆なようでな。将来が楽しみぞ」
「……それは先が思いやられるというやつではないのか。先といえば、だ。兄者、甘やかし過ぎるのも考え物だぞ」
「分かっておる、分かってはおるんだがなあ……」
「その様子だと分かってないだろう」

しばらくそうして益体もない話をした。里のこと、日々のこと、昔のこと。随分と喋った気がするし、随分と呑んだ気もする。
ふと見ると、柱間はくゆらせるように手の中で杯を揺らめかせていた。対する扉間の杯は満たされたかと思えばすぐ乾き、手元の一升瓶は随分と軽くなっている。柱間は酒を煽るわけでもなく、ただ静かにこちらを見つめている。

「……なんだ」
「いや、お前にしては随分と進んでいるなと思ってな」
「そうか」
「こんなに呑んでるのも珍しい」
「別に珍しくもないだろう」
「いや、珍しいぞ」

何か言いたげに、杯を弄びながら柱間はそう答える。どこか宥めるような、凪いだ目付きをしていた。柱間が時折見せる、兄としての顔だ。扉間は視線を下げ、手中の水面を注視する。今はその顔を見続ける気にはなれなかった。ただ悪戯に杯を煽り、底を浚うように瓶ごとまた傾ける。

「お前の方は、最近どうだ」
「何がだ」
「何が、というかだな。色々とだ」
「……漠然とした問いだな。別段、何も変わらん」
「そうか。ほら、いい人なんかはおらんのか。家族とはいいものぞ」
「そんな余裕がある様に見えるか?」

鼓膜が水籠ったように遠くなる。柱間が何かを言っているが、反響してよく聞こえない。部屋がうるさい。いつもなら静かな、この部屋が。万年筆の音が響く、愛おしいあの静寂が。
――愛おしい。
今、何と言った。
自分の言葉が反芻の中でふいに輪郭を帯びた。劣情を自覚した日から変わったのだと、ずっとそう思っていた。あの朝ぼらけの白から何かが壊れたのだと。だがそれは本当なのだろうか。
あの筆音を耳で追っていた。眠りかけの意識が全てを手放しても、あの音だけを手繰り寄せていた。片付けが遅い背中を見守るのが嫌いではなかった。思案の海に潜る横顔を、見るとはなしに見ることが好きだった。
本心を隠し弁える、その一等深いところを自分だけに預けてほしいと思ったのは。頼られたい、縋られたいと胃の腑が疼いたのは。誰よりも必要とされたいと思ったのは。
いつからだ。欲を自覚した瞬間ではない。子どもではなくとっくに女なのだと、戦慄した日でもない。
もっと前だ。もっと、ずっと――。

「イノリはどうしてる、元気にしているのか」

不意に、意識が鮮明になる。仄暗い水底から一気に引き上げられたかのようだった。杯を満たす酒の波紋を見つめていた視線を扉間は上げた。目が合う。上げなければよかった。

「相変わらずだ」
「それならいい、昔聞いた話だと相当弱かったから補佐に据えると知ったときはどうなるかと思ったが。もう働き始めて何年になる」
「四年くらいか」
「早いな。出会った頃から数えたら十年できかんだろう」
「そうだな」
「あの子もいい歳だ、そろそろ縁談なんかが来る頃だと思うが何か知らんのか」

返答が浮かぶのに一瞬の間が空いた。

「……その手の話は聞いたことがない」
「なんでだ、あの子なら引く手数多だろう。器量も良いし、何より気立が良い。扉間、お前が断っとるのか」
「馬鹿なことを……」
「いい加減お前も良い歳だ。それならお前が娶ればどうだ」

は、と息だけが漏れた。杯を傾ける手が止まる。

「俺が?誰をだ、イノリをか?冗談も大概にしてくれ。 ……呑み過ぎだぞ、兄者」
「今日はお前の方が呑んどるだろ」

嗜めるでもなく、ただ事実として兄は言っていた。返事に詰まる弟を受け入れ、それ以上は何も言わない。ほぼ手付かずの杯を柱間は静かに置く。かつり、という硬質な音がやけに響いて聞こえた。

「邪魔をしたな。扉間は昔からなんでも一人で抱え込むからなあ。呑みたくなる時があるのは分かるが、程々にな」
「……嗚呼」

一人になった執務室は泥濘の底のような気配に満ちていた。酔いのせいか感覚の箍が曖昧だ。脳髄が蕩け、渦巻くだけの堂々巡りに足を取られる。
娶ればいいと言われたとき、それが出来れば苦労しないと、喉元まで叫びが競り上がっていた。言えるわけがない。言えたところでどうなるというものでもない。
――それに。出来ないからこその苦労ではない、出来てしまうからこその懊悩である。声を掛けるだけ、ただ命じるだけでイノリを娶ることなど扉間にとって造作もない。権力がある、地位がある。力の勾配が歴然と存在する。その立場を自覚しながら恣にする、それがどれだけ暴虐であることか。
――せめて、あの子の身体が壊れないのなら。
酷く都合のいい事を思い掛けた。柱間はイノリの予後を知らない。彼女の人生がなめらかに、途切れなく続いていくものだと無邪気なまでに思っている。親からも悲観され、あらゆる縁談を退けられるしかない境遇など知るはずもない。
扉間が手を回すまでもなく、イノリのもとに縁談など来るわけがないのだ。脆過ぎる心臓がそれを酷薄なまでに物語っている。
正確な予後は扉間も知らない。ただ、イノリにとって子を成す、あるいは子を成すまでの営みそのものが、儚い寿命を削り取る鋭刃でしかない。あの身体には胸の高鳴り一つでさえ毒になる。それだけは知っていた。それだけのことを知っていた。
知っていても、なお。どう藻掻いても辞められない。

思考が回るたびに酒を注ぐ、杯を満たす。全てを飲み込むように押し流す。一巡するたびにまた満たす。最早味など何も分からなかった。辺りの気配は全て沈黙の中で息を潜めている。時刻は既に夜半を過ぎた。帰る気にも、今更仕事に手を付ける気にも毛頭なれず、ただ残響ばかりを持て余している。

ふいに、音が聞こえた。足音だ。酔いに満たされた聴覚が不自然なほど膨張する。永遠に届かない夢の果てのようにも、鼓膜の奥で直接鳴り響いているようにも聞こえる。囁きから叫びへ、また囁きへ。距離が反響し、伸縮を繰り返す。遠近が狂っている。
酒に焼けた喉が、酷く渇いていた。
こんな夜更けに聞こえるはずのない、来るはずがない。酔いが夢でも見せているのかと思ったが、真っすぐにこちらへと向かってくる。執務室から灯りが漏れていることに気が付いたのか寸前で足を止めた。躊躇している気配がする。戸は開かない。数拍空いた間が延々と続く停滞に感じられた。恐らく、踵を返しかけた。

「――入れ」

角がまろやかになった、酷く掠れた声が口を吐く。自覚と後悔が同時に沸くがもう遅い。黙っていることが最善だった。何かを言うにしても、――明日にしろ、こんな遅くに何をしている、早く帰れ、正しい言葉など幾らでも他にあったはずだ。だが酒に焼けた喉から滑り落ちたのは真逆のそれだった。
あるいは。――帰らないでくれ、となりふり構わず言えたのなら。まだ救いがあったかもしれない。

そ、と細く空いた戸の隙間から内へと入る。視界が一時、揺らいだ。酔いに緩んだ目が捉えたのは、その仄白い輪郭。普段よりやわらかな布地の、ぬめりのある光沢のせいで身体の稜線――細い肩や薄い輪郭が沈んだ闇から浮かび上がっている。布が骨格を隠すのではなく、透かし取る写し紙のようだ。
刹那。夢で見た肌と、狂いなく重なった。
一糸纏わぬ白が。汗ばんだ木蓮の花弁が。掌に馴染んだあの蕩けるような氷片の熱が。立ち昇るように、空白のはずの手の中に蘇る。指先に熱が凝るのを感じた。
喉が鳴る。その生々しい音で我に返った。瞬きの間に視界のイノリは当たり前に服を身にまとっている。肌を露出などさせていない。それでもなお、網膜に虚像の裸身が明滅する。

「夜分に失礼します。書状の清書を……」

音の無い夜を破らないように、イノリが慎重に声を掛ける。椅子へともたれ掛かる扉間の姿を見止め、言葉を詰まらせた。戸惑うように視線が泳ぎ、目を伏せる。見てはいけない、という逡巡だ。
一瞬だけ、扉間は期待した。何に期待したのか名付ける必要すらないくらいの、ほんのささやかさで。気の迷いといってもいい。ただ、期待したという事実は決して消えずに胸奥のやわい底を引っ搔いていく。己の愚かさに自嘲した。
イノリは指示通りに机上へと書状を置き、少し迷ったようにこちらを伺う。――矢張り。そこに浮かぶのは純粋な、眩しいまでに一途な心配だった。

「……あの、先生。大丈夫ですか」
「嗚呼」
「ご迷惑でなければ、お水か、お茶をお持ちしてもいいですか」
「……水をくれ」

いくら酔っていようが、水くらい自分で取れる。扉間は業務としてイノリに言付けることはあれど、己で出来る私的な些事を頼むことはそう多くない。引き留める口実か、あるいは――甘えか。
給事場へ向かうイノリの後姿をただ見つめる。夜闇の中でどこか淫靡な電灯だけに照らされる姿は扉間にとって新鮮だった。静謐なたおやかさが影を潜め、危なげな不安定さが露呈している。普段より血の気の失せた顔色と、より柔らかな服を纏っているせいだろう。酔いに緩んだ視線が、その輪郭を執拗になぞることを止められない。止める気すら起こらなかった。
どうぞ、と傍らへと律儀に置かれた水を一気に飲み干す。ごぐ、と喉が鳴った。水の冷たさが形を保ったまま、内側に籠る熱を撫で下ろしていく。熱さがより鮮明になった。天井を眺めていた視軸をイノリの方へと向け、目を矯めて扉間は見据える。

「お前は、俺をどう思っている」

脈絡のない問いだ。イノリはいささか驚いたようだったが、その表情に怯んでいる素振りはない。

「尊敬しています。扉間先生は尊い方ですから」
「……そうか。賢いな」

一切の迷いのない、胸に刻みつけられた警句を諳んじている正確さだった。全く正しい。思わず低く笑いを漏らした扉間に、イノリは僅かに目を見張る。空気が粘つくのを感じ取ったのだろう。

「……すみません、そろそろ帰りますね」
「待て」

声と手が同時に出る。情動で引き寄せるまま、イノリは何の抵抗も無く扉間の胸へと収まった。肉薄した冷やかさが肌の熱を奥底まで炙っていく。痛いほどに鮮烈で、体温の境目が曖昧になっていく心地がする。冷えた金属を素手で触れているような、――張り付くまでの抗えない引力。離せば離そうとするほど、皮膚が裂ける予感に本能が邪魔をする。
戻れなくなる、と引き留める理性も僅かにあった。だが、最早それすらもどうでもいい。
唇を覆い、そのまま浅く口付ける。皮膚だけでなく、唇すら淡くひんやりと冷えていた。触れ合うだけの温度から、滲むように湿りを帯びていく。薄く閉じられていただけの唇から割り入れば、ぬるく柔らかな粘膜の感覚が舌先で溶ける。
玄人相手には好まない口吸いという行為が、夢よりも酷く扉間を酔わせる。深くへと辿るように。ひっそりと上がる体温を手繰り寄せるように。奥に潜むささやかな熱を丹念に舐め取る。侵食する熱。そこには拒絶はなく、ただ穏やかな受容がある。その穏やかさが、煮え滾る渇きを一層煽った。
か細い背筋が強張ったのを感じ、一度唇を離す。イノリは乱れかけた呼吸を健気に整えていた。浅く、静かに。耐えるように。

「っ、はぁ、っは……」

貪欲な渇きが腹を空かせて一層飢えている。細い腰へと手を回し、膝の上へとイノリを跨らせた。分かってはいたが、やはり軽い。だが、妄執でも夢でもなく確かにここにいる。扉間の手中で、目を潤ませて乱されている。
狂おしさに眩暈がした。
ささやかな膨らみを掌で包み、ほぐすように揉みしだく。現実では診ていただけの場所に、夢をなぞるように触れている。堪らなかった。布越しの感触がもどかしい。もっと深くへ、と焦れる指先が襟元を探り、押し開くようにくつろげる。顕になった肌を強く吸い上げる。白に散る赤い痕。鎖骨から首筋へと、白んだ影を啜り取るように唇を這わせた。イノリが身を竦ませる。

「ん、っ……」

腰を撫でていた掌を滑らせ、裾からはだけた太腿を摩り上げた。さらり、と手が流れる。少しでも力を入れてしまえば破れてしまう、透ける和紙のようだった。肉も骨も、夢より儚い。折れてしまいそうな指先に力が籠る。しばらく撫でるだけで頼りないやわさを愉しみ、さらに上へと布の海を潜っていく。掻き分けた奥深く、夢で溢れていたそこへと布越しに触れた。

「――イノリ」
「せん、せい……」

す、と空白をかくように指が滑る。乾いていた。

肝が冷えた。
イノリは逃げようとしない、逃げる理由がないと思っている。確かに拒んではいない。だが、それは応えてるのではなく、ただ主体無く受け止めているに過ぎないのだ。扉間を拒むという発想そのものが、彼女の中には存在しない。人が世界そのものを拒むことが出来ないのと同じことだ。その世界の側に立ちながら、なお欲している。押し付けようとしている。応じているのだと思い込みながら。
――これを何と呼ぶ。
どれほど、都合のいい夢を見ていたのか。

「せんせい」

折れそうなほどに華奢な腕が、扉間の背に回る。凍る唇に、触れるだけの酷く拙い口づけをした。背筋が軋むように凝固する。
残酷なほどに澄み切った眼が見返していた。

「いいですよ」

夢のように求めているわけではない。身体が何も求めていない。それを意思で覆している。扉間に求められているから、ただ差し出す。
まるで悍ましい供物である。そこにあるのは希求ではなく、忌まわしいまでの献身だ。

「貴様、――」

暴発するように血が沸騰する。血管が膨張する。囂々と。頭蓋が千切れそうだ。
握りしめた拳に生ぬるいものがぬらりと奔った。骨が軋む。罅割れる。

「本当に分かっているのか」

触れない、触ると壊す。
動けない。動いたら、――殺す。
剝き出しの殺気に充てられたのか、イノリの目に明確に恐怖が宿る。その鮮やかな戦慄を縫い留めるようにただ見据えた。

「俺が、怖いか」

怖くないわけない。怖いだろう。怖いと言ってほしかった。そうすれば明確だ。自分が抱える欲の加害性も、尊大さも何もかもがイノリによって暴かれる。
やっと、離れられる。突き放してくれ。壊さなくてすむから。
問われたイノリが大きく目を見開く。涙の薄膜が今にも崩れそうだった。

「……分からないんです」

分からない。何度となくイノリに問いかけられ、その度に教えを乞われてきた、はじまりの言葉だ。その言葉が彼女の世界を作る営みの礎となった。

「何も、……なにも、わからない」

途方に暮れた声と共に、後から後から涙が零れ落ちてくる。
泣いている。あの、イノリが。どれほど扉間が厳しく叱咤しても、どれほど自身の理不尽な不自由さに絡め取られても、啜り泣くことさえ見せなかったあの子が。何もかもを弁え、律し、背筋を伸ばし続けていた、あの子が。その芯の強さがいじらしくもあり、時折胸を掻き毟りたくなるほど歯痒くもあった。自分の前では耐えなくていいのだと、そう言えないままに。
俺に縋って泣けばいい、と思うようになったのは、一体いつの頃からか。震える肩を抱き寄せたいと願うようになったのは。
泣いている。泣いてほしいと思っていた、いつから望むようになったかも分からなかった。その望み通りに、今この場で自分だけに曝け出し、イノリは泣いている。
俺が泣かせた。他でもない、この俺が。泣いてほしかった、だが泣かせたかった訳ではないのに。

燃え盛る灯火が吹き消されたかのようだった。何もかも霧散する。声も無く涕泣するイノリの背に、扉間は静かに掌を添える。慎重に、崩してしまわないように。壊してしまうのが怖かったから。
――恐れていたのは、結局どちらなのか明白だ。
扉間が触れた瞬間、堰を切ったように声を上げてイノリは泣いた。出会ってこの方、今まで終ぞ聞いたことのない泣き声だった。彼女の弱い心臓では、泣くこと自体が身体へ負担をかける。だからイノリは子どもの頃から声を上げて泣かなかった。泣けなかったのではなく、泣くと身体が保たないから。自分で抑えることを知識より先に骨で分かっていたからだ。
命を焚べるような慟哭だ。止めるべきなのは分かっていた。分かっていても、今の扉間には止められなかった。

「怖いなら、怖いと言え。お前は昔からそうだ」

イノリは泣きながら必死に首を振る。ただ嗚咽を上げ、しゃくり上げている。服を掴んでいた指先は、いつの間にか喘ぐように背に爪を立てていた。

「……こわかった、怖かったけど、先生は怖い人じゃないから。だから、――」

それ以上は嗚咽に溺れて言葉が続かない。泣き崩れながらもイノリは離れようとしない。扉間の胸元に顔を埋め、しがみつくように縋っている。
怖かったと言った。それでもなお、イノリは扉間の側が、――情動で暴き、あまつさえ殺気を向けた男の腕の中が、一番あたたかな場所だと依存している。ここだけが居場所だと信じているのだろう。
怖いと言われたところで、今更突き放せる筈も無かった。

男としては求められない。ただ扉間という一人の存在としてはこの上なく求められている。
身体が応えないのも、恐らくは本能的に負荷を恐れてなのだろう。切なる自己防衛だ。イノリがそれに気付いているのかは知れない。どちらなのかは分からないが、死の忌避にすら抗おうとしてまで扉間という全てに縋り付いている。その事実だけがある。
イノリにとって、それは愛なのだろうか。これほど、痛ましいまでに。
泣きじゃくるイノリを覆い隠すように、扉間は一層力を込めて抱きしめる。堅牢な檻に閉じ込めてしまうように、あるいは世界の悉くから護るように。呆れるほどに傲慢だ、そう思いながらも離す気になれなかった。
イノリが腕の中にいる。壊れずに、此処にいる。今はそれだけでよかった。


額縁