六段目 暗転


 ひそやかな日々だった。
体調の悪化に伴いイノリが補佐を辞めてから早一か月が経とうとしている。丁寧に引き継ぎはされていたが、分散された仕事は散逸している。扉間の机は以前のような秩序を失い、しばしば雪崩を起こしては儚い抵抗によりまた積み上げられていくことを繰り返していた。
そのうちには順応するのだろうが、まだ扉間も周りの部下たちも、彼女が抜けた空白に対処しきれていない。また、それが恐らく永遠に来ないということを、扉間だけは痛感していた。
慣れる事は、出来る。だが、気にならなくなるという事と同義ではない。

執務室は以前よりも静かだった。取次兼待機室を別に設け、そちらで案件ごとに対処させている。イノリのような専任補佐ではなく、兼任ばかりなので任務などで入れ替わり立ち代わり次の間に出入りされると扉間の気が散るためだった。
次の間へと続く戸を扉間は見遣る。ここしばらく締め切られていたそこが、今日は開け放たれている。白くけぶるような、眩しいまでの陽光で満ちていた。
見慣れた光景である。辞めてから初めてイノリが顔を見せに来たのだ。
まだ動けるらしく、時折休みながら簡単な手伝いをしている。先程まで座ってこちらをただ眺めていると思っていたが、いつの間にかまた手を動かし始めたようだった。

「……イノリ、暇ならこの書類をどうにかしろ。分け方が雑で困る。そんな雑用なんぞ別にやらんでいい」
「お手伝いしたいのは山々ですけど、駄目ですよ。部外者が機密を見るわけにいかないですから」

一部の隙もない正論である。扉間は思わず返答に詰まる。またそれ以前に、考えるまでもない正論すら思いも付かなかった自分自身に驚きを覚えていた。調子が狂う。イノリが積み上げていた秩序の崩壊に、まだ当分慣れそうにもない。

「まだ一ヶ月ですから、皆さんすぐに慣れますよ」
「そう上手くいくか、お前とて覚えるのに何年掛かった。……しかし難儀なものだ。里外案件と予算案件の優先度が逆になっていて二度手間になった。先週から二回目だぞ」
「……二回ですか?」
「二回だ、無論先週だけではない」
「引き継ぎではきちんとお伝えして、資料もお渡ししたんですが……」
「別にお前が落胆せんでよかろう、ただの愚痴だ」

扉間が切って捨てた些事をイノリは丁寧に続けている。当てつけではなく、手を付けた以上は単に全うしたいだけなのだろう、彼女らしい矜持である。危ういほどに従順なようでいて、その実揺るぎなく頑固なところがあるのは昔からだった。
先程までは書架の整理をしていたが、今は筆の手入れに勤しんでいるらしい。扉間が書くに任せて荒れ果てていたものを見兼ねて世話を焼いている。イノリが筆記具を持っている姿はやはり様になっていた。淡い輪郭がほどけるような光の中で、その姿は陽の光へと消え入りそうな白亜の彫像にも似ている。
――見ていたい、思った。潔く手を止めて扉間はしばし見詰める。
不意に、螺鈿の残光が網膜に過ぎる。愛用の万年筆を拭き上げる、静謐な儀式を行うような厳粛な姿。目を瞬いた。相変わらず、イノリは爆発した筆に悪戦苦闘している。
この空間に万年筆の音が響いていないという事実が、いつも以上に際立って感じた。イノリがいるせいだろう。

ようやくひと段落ついたのか、イノリが側へとやってくる。何を言うかは大体分かっていた。扉間もちょうど集中が切れかけていた頃だ。

「先生、お茶は淹れてもいいですか」
「好きにしろ、配置は特に変わってないはずだ。……あの棚の上の缶は使うな、お前が選んでいた茶葉の方がまだ残っている」
「あれですか、まだ残っているんですね」

イノリが意外そうに目を丸める。

「使っていないからな。何度か淹れさせたが渋くしかならん。それきり他のものにしているが、どれも微妙だ」
「どうしてでしょうね。そんなに古くはなっていないと思うんですが」
「品質ではなく淹れ方の違いだろう」

言いながら扉間は筆を滑らせる。以前よりかは読み易く書くように心掛けているが、やはりどう見ても悪筆である。話しながらなので余計かもしれない、と愚にも付かない言い訳が浮かんだ。それでも口を止める気にならない。

「先生、今日は私もご一緒していいですか」
「いいも何も今日のお前は客人だろう。茶を淹れさせておいて言うことでもないが」
「いいんです、私が好きでやっていますから」

声と共に、静かに準備を整えている音が微かに聞こえてくる。陶器が触れ合う澄んだ音。こぽ、と控えめに湯が沸く音。茶葉が零れ落ちる音。手慣れた様子で一切の乱れがない。整然とした一連の連なりが、耳によく馴染んだせせらぎのように心地良かった。
湯呑を盆に乗せてイノリがこちらに戻ってくる。ふ、と青く爽やかな芳香が鼻腔に染みる。嗅ぎ慣れた、この匂いだ。いつもは一つだけ鎮座していた湯呑が、今日は身を寄せ合うように二つ並んでいる。

「どうぞ」
「嗚呼」

茶托には扉間の好む干菓子が添えられている。イノリが持参した手土産だった。扉間はとりあえず湯呑を取り上げ、まろい縁に口を付けた。

「味は大丈夫でしたか、最近淹れていなかったので」
「いつも通りだ。一か月そこらでそう鈍るものか、何年淹れていたと思ってる」
「えっと、大体十年は超えますよね。全部合わせると池くらいにはなりそうです」

また妙なことを言っている。

「池は言い過ぎだ。精々井戸くらいだろう」
「井戸は深いですよ。多分あの、初代様のお屋敷にあった池くらいだと思います」
「それこそ大き過ぎる、俺の胃が保たぬわ」

呆れながら、扉間は干菓子を口へと放り込む。すう、と舌の上でほどけて消える。淡雪のような儚い甘さだけが口腔に残った。再び口に入れた甘やかな苦味が余韻と溶け合い、ほろ苦く喉を潤す。ほう、と思わず吐いた溜息が新緑に染まっていた。イノリは何か眩しいものでも見るように、茶を飲むでもなくただこちらを見つめ続けている。

「ねえ先生、美味しいですか」
「……美味い」
「よかったです、一度も言ってくださらなかったから」
「言うまでもなかっただけのこと。出されたものが不味ければ俺は言う、現に昔はよく淹れ直させていただろう」
「そうでしたね、熱過ぎるとか白湯の方がマシだとか」
「今のものはその度に工夫した結果だ、俺が好きな味はお前にしか出せん」
「勿体無いお言葉です」

イノリは慎ましげに目を伏せる。淡く崩れるように、少しだけ笑った。

「先生は聞けば答えてくれるから、もっと、ちゃんと聞いておけばよかったですね」

囁く言葉に答えられなかった。答えを求めていないのも分かっていた。扉間はただ惜しむように残り少なくなった薄緑を唇に含む。
昼下がりの一時は深い湖の底のようにひそやかで、静けさに満ちている。まるでここは水槽だ。外界から切り離された静謐な水の底。時間さえ抜け落ちたかのようだった。

扉間が飲み終わったのを見計らい、イノリが声を掛けた。促されるままに空の湯呑を渡す。

「そろそろ帰りますね」
「そうか、早いな」
「十分長居させていただきました、ありがとうございます」

そう言って丁寧に頭を下げる。

「また気が向いたらいつでも来い。……茶だけ淹れに来るのでも別に構わんぞ」
「嬉しいです、でもお気遣いだけで。部外者ですし、やっぱりお邪魔になりますよ。お手伝いできることももうありませんから」
「座って見ているだけで何が邪魔になる」
「何も出来ずに居るだけなのは邪魔ですよ、先生」

この娘には己に対する手心というものが無いのだろうか。昔から時折感じることがあったが、今は呆れる気にすらなれない。
イノリの手元にある湯呑を扉間は視線で指す。日はまだ高い。だが、いつの間にか白いだけだった陽光に残照の気配が混ざりかけていた。

「イノリ、帰る前にもう一杯茶を淹れてくれ」
「分かりました。折角だから新しく淹れ直しますね」
「いや、出涸らしでいい」
「美味しくないですよ」

らしからぬ珍しい申し出をイノリは深く追及しない。ただ少しだけ嬉しそうに綻ぶささやかな声が、静謐に溶けていた。


季節が巡った。その後も淡々と日々は過ぎていき、書類は積み重なっては崩れることを繰り返していた。以前より崩壊は減ったが無くなるものではない。あの日ささやかに築かれた秩序はすぐさま消え去り、整えられた筆だけが場違いに取り残された空白のようだった。
時折イノリの主治医から所見が上がってくる。緩やかではあるが病状は悪化の一途を辿っていた。一つずつ、階段を降りるように。引き返すことは決してない。直近のものには、いよいよ外出も難しくなったと記されていた。
花が音もなく萎れていくのを、ただ見守っているような。そんな日々だった。


「この度はわざわざ御足労頂いて、誠にありがとうございます」
「気にするな、近くに用向きがあったので寄ったに過ぎん」
「火影様には昔から本当によくして頂いて。ご一報頂いた時からあの子もずっと楽しみにしておりました」

見覚えのある廊下を歩きながら、遠い昔に似たようなやり取りをした覚えがある、と扉間は考えていた。
用向きなど所詮はとってつけた瑣末なものだ。見舞い一つ来るにしろ、一応の体裁がいるのが難儀である。誰に向けての体裁なのかは分からない。恐らくイノリの親も内心気付いてはいるのだろうが、触れてこないのがあの娘の親だという奇妙な感慨もあった。

「イノリ、火影様がお見えになったよ。起きてる?」
「……うん」

襖越しに問いかけると、硝子の羽が触れ合うような、微かな声が聞こえた。促されるままに中へと入る。部屋の中央に布団が伸べてあり、イノリはそこで身を起こしていた。

「先生、すみません。折角来て頂いたのに、お見苦しい格好で」
「構うな。それより調子はどうだ」
「はい、今日はまだなんとか」

――薄い。元々存在感が希薄な娘だったが、今は注視して見詰めなければうっかり見逃すような、そんな危ういほどの透明感に満ちている。まばたきのうちに、仄白い光へと消えてしまう気配がある。
居た堪れなかった。思わず泳いだ視線が部屋中をぐるりと辿る。
あの頃より一層、ひそやかな空間だった。手習いの頃から息遣いに乏しい部屋だとは感じていたが、それでも扉間が訪ねるたびに渡した課題やら書物やらが段々と増えていっていた。隙間無く埋まっていた書架すら今では伽藍堂となっている。
人の気配どころか何も無い。これは最早部屋ではなく、ほぼ空白である。元より執着の薄い娘だ、身辺の整理にもそれが及んでいるのだろう。

少し視力が落ちてきているのか、どこか遠い目をしながらイノリはこちらを見返している。夢の淵にいるような、あどけない目つきだった。

「最近、里はどうですか」
「相変わらずだ。書類は終わらん、たまに兄者が何かと理由を付けて厄介ごとを持ってくる」

お前がいれば、と一瞬言い掛けて扉間は噛み殺す。それは最早ただの毒だ、双方にとっての。気を取りなおすように思うままに続けた。

「近頃は治水の申請が立て続けに来ていてな、現地を見に行ったら申請の半分は水路の位置が間違っている。図面を引き直させたがそれも使えん、馬鹿らしくてもう俺が直してやったわ」
「先生らしいですね」

扉間は枕元に腰を下ろしながら、半ば独り言のように話し続けた。先日の会議で部下が妙な提案をしてきたこと、下忍の教育課程を見直そうとしていること、随分釣りに行けていないこと。どれもこれも下らないことばかりだ。
イノリは時折一言二言返すだけで、ほとんど話さない。注意深く、一言も聞き漏らすまいというひた向きさで耳を傾けている。
扉間がヒルゼンのやらかした悪戯話を終えた時、揺るがない沈黙が一層深く感じた。もう話すことも尽きていた。イノリは微笑むだけで何も言わない。

「……少し、診るぞ」
「はい」

布団から差し出された腕は記憶よりも明らかに細かった。以前よりも精緻な手触りで骨の気配が伝わってくる。
――冷たい。
知識として分かっていた、理性として覚悟もしていた。それでも現実が全てを押し潰すように圧し掛かる。脈を計るまでもなく分かっていたことだ。数える必要も最早ない。それでも扉間は、この掌にあるささやかな脈動を手放す気になれなかった。

「……どうか、されましたか」

イノリがどこか心配したようにこちらを覗き込んでいる。自分ではなく扉間のことを思って聞いているのだろう。

「何でもない。話を聞くだけでも疲れただろう、そろそろ帰る」
「はい。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました、先生」

イノリは何の衒いもなく、無邪気に言う。手習いの頃の別れ際と、眩暈を起こすほどにそのままだ。
――なんと、残酷だろう。イノリは嗚咽一つ上げない。ただ潔く、苛烈なまでの静謐さで幕を引こうと覚悟を決めている。
立ち上がる時、冷たい名残の滲む掌が僅かに震えた。
感情を抑えることなど忍にとって最も基本であり、何より造作も無い。それでも扉間でさえ努めて平静にならざるを得なかった。

「近々また来る」
「いいえ、もう大丈夫です。本当に、私には過ぎるくらい良くして頂きましたから。もう、これ以上は」
「馬鹿を言うな、どうせ大した手間ではない」
「扉間先生、――」

心もち眉尻を下げて笑い、イノリはそれ以上口を噤む。扉間は多分、何かを言いかけた。だが、余りにも彼女がひそやかだったので。
ぐ、と詰まった喉の奥底は空洞で満たされてしまっている。


「火影様、ありがとうございました」

部屋を後にし、玄関へと向かうところで待っていたイノリの母親に呼び留められた。軽く頷き、扉間は抑揚無く返す。

「大したことは何も。邪魔をしたな」
「丈夫に産んであげられませんでしたから、親としてはずっと……。それでも、あの子は幸せだと、胸を張って言っていました。全て火影様、――貴方様のお陰です」

深々と、礼をする。

「本当に、今までありがとうございました」
「……こちらこそ、聡明なご息女には助けられてばかりだった。改めて、感謝申し上げる」

扉間は踵を返し、外へ出る。玄関の戸は閉じられていなかったが、そこへと至る道筋は今この場で途切れようとしていた。
イノリも、彼女の親も、この訪問が今生の別れだと考えているに相違ない。
策は尽きかけていた。正当性のある理由はもう扉間の手持ちに無い。イノリを崩す道筋も見えなかった。嫌だと感情で拒絶するのならばまだ手はあるが、論理としては先の通りだ。
これ以上は無駄である、と彼女は潔く完璧に閉じようとしている。そこにあるのは諦念ではなく、透徹した美学ゆえの納得か。
駒を入れ替えれば盤面は回る、今まで扉間はそう考えて生きてきた。だが、執務室の静謐も、万年筆の音も、好む味も、何もかも。イノリが慎ましく丁寧に整えたそれらの不在だけで、扉間の日常はあっさりと均衡を失った。
駒を指し直すことは容易い。だが、打ち込まれた石が取り去られた後の空白はどう足掻いても埋められない。
正攻法では到底無理である。このままでは詰んでいる。
――望むところだ。
崩せないのであれば、新しい盤面を引き直し、そこに引き摺り込めばいい。

「さぁて、――」

低く呟いた言葉と共に、知らぬ間に口角が吊り上がる。イノリにかつて楽しそうだと言われた、悪辣な笑みである。
堕ちるところまで堕ちたか、とも思う。これを合理と呼ぶ己が一番度し難い。だが、それすら愉しんでいる自覚がある。
手筋は見えていた、必要な駒は揃っている。ならばもう、次に指す手は決まっていた。


両親が揃って長期任務で里を離れることとなり、イノリが扉間の自宅へと引き取られてからしばらくが過ぎていた。
表面だけを見れば。穏やかで、安らいだ日々だった。
時折、甘苦さが喉を焼く。日がな一日彼女は寝て起きてを繰り返し、大半を床で過ごしていた。身辺の介助は下女に任せているが、脈を診ること、薬の量と間隔を見極めること、その辺りは扉間自ら行っている。
影分身をひとつ配置しても良かったが、下女がついている上にチャクラの無駄だ、とイノリに敢え無く固辞され、平生より帰宅を早めたことで妥協した。宵の口で空いた火影の椅子には影分身が座っている。
――本末転倒だ。これが里長のあるべき姿か、と冷静になれば思いはするが、それを変えるつもりも毛頭無い。夜の事務作業ならそもそも書斎でも行える。仕事自体は恙無く滞りなく回っている。外野がとやかく言う読み筋なら既に潰しておいた。

毎晩家に着くと、浅い夢を見ているイノリの脈拍と呼吸を確認し、落ち着いているようであれば書斎で仕事を続ける。たまに、当てがっている寝室の隣で夜を跨ぐこともあった。眠る彼女の呼吸音に耳を澄ませながら、隣の部屋で書簡の整理や草案をこしらえる。ざ、と薙ぎ払うように荒く滑る筆の音がささやかな吐息と夜の静寂へと溶けている。
読み掛けていた巻物に手を伸ばす。本来使っていなかった筈の空き部屋がいつのまにか随分と散らかってきた。最早侵食である。イノリがいる手前、下女にも任せず掃除だけは行っているが紙束や書物が堆積している。気を抜くといつもこれだ。

「先生、まだお仕事ですか」
「嗚呼、……悪いな、起こしたか。あと少しで切りがつく」
「……見ていても、いいですか」
「早く寝ろ」
「寝付くまでです」

日に日に彼女の隣で仕事するのが当たり前となっていった。鼓膜には頼りない脈動とか細い吐息が染み付いている。

今日もまた、そういった一日だと思った。

「おはようございます」

起きて身支度を整えていると、出し抜けに背後から声を掛けられたので扉間は内心腰を抜かす勢いで驚愕した。女中が来るにはまだ早い、そもそも今家には自分とイノリしかいない。――ならば。

「……起きれるのか」
「はい、今日はとても楽で」

奇跡のような一日、終末期に訪れる凪いだような一時のことだろう。治った訳ではない。治らない、それでも治ったように動ける日が少しだけ、ある。

「昼過ぎには戻る」
「大丈夫ですよ。無理はしませんから」
「この状況で気にするなというのが無理な話だろう。仕事など碌に手につかぬわ」

ほぼ言い切る形でそういうことになった。影分身を置いていくと言い出せばまた一悶着ありそうだったので、こちらも譲歩した結果である。

「先生、お留守の間どこか掃除だけしてもいいですか」
「寝ていろ、と言いたいところだがな。大体何か他にしたいことはないのか、お前は」
「ありません、先生のお役に立てるのが一番ですから」
「……くれぐれも無理はするなよ。するなら書斎だけにしておけ、いざとなれば飛雷神ですぐに飛べる」
「分かりました。ものは動かさないようにしますね」
「嗚呼」

昼過ぎに帰宅すると、書斎の戸が開いたままだった。目に入るのは、細く差し込む光に照らされた床。乱雑に積まれた書籍。紙束。朝と同じように独自の秩序は保たれたままだが、床だけが埃一つなく掃き清められている。約束通り掃除だけをしていたのだろう。
ふ、と視線が辿る。イノリがいた。
淡い光にほどけた輪郭。存在が空間に溶けている。
扉間は、多分、――見惚れた。イノリが書斎にいるのなど何年振りだろうか、久々であるはずなのに。何故か、そこにあるべきものが、あるべき形で収まったかのような。
囁くような予感がした。奇妙な充足感が胸の底に沈んでいる。
扉間が帰ってきたことに気付いたのか、イノリはゆっくりとこちらを向く。

「先生、おかえりなさい」

我に返った。ざあ、と血の気が引く。一拍遅れて認識が追い付いた。――倒れている訳ではない、座り込んでいるだけだ。疲れて休んで、動けずにいたのだろう。扉間はそのまま膝を突き、引き寄せるように身体を支えた。
冷えている。どれほど座り込んでいたのか。

「立てるか」
「はい、大丈夫です。……すこしだけ、疲れてしまって」
「急がなくていい。何か変わったことは」

扉間が問いかけると、ゆるゆると首を振る。

「お約束通り、掃除だけですよ」
「分かっている」

イノリは立ち上がりかけて、崩れるように傾ぐ。膝が保てないのだろう。扉間がそのまま抱き上げ腕の中に収めると、少し安堵したように息を吐いた。

「帰って来られたらお茶もお淹れしたかったんですけど、無理でした」
「……茶なら俺が淹れる。もう寝ていろ」
「でも、床だけは綺麗になりましたよ」
「嗚呼、……充分だ」

イノリに与えている部屋へと運び、寝付いたのを確認すると書斎へと足を向けた。椅子を引き、雪崩れるように座り込む。埃一つない床を見とめ、扉間は頭を抱えた。
――今更、気が付いた。
今まで、イノリ以外をこの書斎に入れたことがない。今の今まで、一度たりとも。誰も、誰一人として入れたことがなかった。
補佐見習いとして扉間の家に通わせていた時に、書斎で仕事をする傍らで片手間に教えながら手伝いをさせていた。イノリなら無遠慮に踏み荒らさないという信頼と、合理的だと判断してそうさせていた筈だ。だからこそ今まで気付かなかった。
支配欲でも独占欲でもあり、そのどちらでもない。当たり前の欠落を埋めようとする、切実な希求だ。イノリにとって扉間が世界なら、扉間にとってイノリは身体の一部である。
もう一度、清められた床を見る。儚い煌きを使い切った、その果てを。
心臓が跳ねる。動悸がする。息苦しい。溺れるように、胸が詰まった。
――堪らなく、愛おしかった。
知っていた。知っていたが、この薄汚い感情を愛と認めていいのか分からなかった。認めてしまうのが只管に恐ろしかった。
それを認めたところで、今更どうなるという訳ではないのに。


昼間の疲れが跳ね返ったのか、昼過ぎからイノリは浮きつ沈みつを繰り返しながら眠り続けていた。先程から安定したのか深く眠っている。扉間は襖を開け、隣の部屋で書き物を続けていた。
静かな寝息が聞こえている。いつもの不安定なリズムが落ち着いていると、疲れて眠り込んでいるようにも思えてしまう。
イノリは眠っている。眠っているだけに見える。
ただ眠っているだけなら、どれほど良かっただろう。
――もしも、イノリが健康であれば、と。つい考えた。
もしも健やかであるのなら、扉間とこうして日々を重ねることは無かっただろう。溌剌と陽の元で遊び、忍を志し、伸びやかに育ち、対等な誰かと家庭を持っていただろう。
どんな忍になっていただろうか、彼女らしく聡明で折れずに、ひた向きで。もしかすると、違う道を選んだかもしれない。それもまたそれでいい、幾星霜を経た選択の結果だ。何処へでも自由に駈け、沢山の人に囲まれ、何事も欠けることがなく。それは――。

「……幸せに、なれただろうな」

あの日、会うこともなく。教え子にも、補佐になることもなく。決して交わらない美しい平行線で互いに生きていく。扉間とはすれ違うだけだろう。顔も、名前すら碌に知らないでいたかもしれない。
この瞬間は、今のこの想いは全て、イノリの病気という不幸の上に成り立っている。自分と彼女は不幸の中でしか出会えない。
ぎ、と軋むほどに握りしめた拳が音を立てる。いつかの罅割れが呻いていた。
扉間は普段仮定のことを夢想しない。する必要がないと思っている。それでも手繰り寄せた夢の中にすら、イノリと幸せになる先など思い描けなかった。

先生、と細く声が掛けられる。いつの間にか目を覚していたらしく、淡い瞳がこちらを見つめている。

「どうした。水か、苦しいのか」
「いえ……」

枕元へと座る。行燈の焔が揺れた。

「先生、大丈夫ですか」
「……何がだ」
「なんだかお顔が、少し……。心配で」
「本当に、お前は――」

死にかけていてもなお、イノリは扉間のことばかりを気に掛ける。遣る瀬無かった。彼女をそう追い込んだのは、幼い頃から自分が囲ったが故の、傲慢な因果の末である。

「何か整理しておくものや、欲しいものはないのか。何でもいい、此処に来てから何も言っていないだろう」
「もう何も。何もありません」

やわらかに、ひそやかにイノリは言い切る。この娘は昔から何も欲しがらなかった。恐らく全くの無欲というわけではない、だが静かな諦観がそれに蓋をする。何もかも諦めざるを得ない、そんな人生だったのだから。
――何一つしてやれない。
扉間は息を詰まらせた。私利私欲で火影としての権力を行使したところで、結局は虚しいだけの独り善がりだ。
押し黙った扉間を不思議そうにイノリは見上げている。少しだけ、探るように。意図を図りかねている訳ではなく、より根源的、あるいはもっと単純な――。

「あの、先生」
「どうした」
「ひとつだけ、お願いしてもいいですか」

はにかむように笑いながら、イノリは少しだけ目を泳がせた。あまり見ない表情だ。

「手を、握ってくれませんか。先生の手はあたたかいから、大好きなんです」
「……こんなものでよければ。いくらでも握ってやる」
「ありがとうございます」

言われたとおりに手を握れば、和らぐように目を細める。扉間の体温は高く、確かに掌もあたたかい。末端が冷えやすい幼いイノリの手を、こうやって温めてやることがあった。手炙りの代わりに術式を組んだ札を渡してやっても、何故かこうして度々強請られていた。
何が嬉しいのか、扉間には皆目分からなかった。ただ、非効率で全く合理的でないのに、敢えて突き放す気にもなれず。握ってやると酷く嬉しそうなものだから。

「先生の隣だから、しあわせです」

息が止まった。――この娘は、今なんと言った。
促すでもなく、ぽつりぽつり、とイノリは続ける。胸の中にあるちいさく大切な欠片を取り上げ、丁寧に並べるように。

「わたし、本当は先生を独り占めできて、すこしだけ嬉しいんです。……ごめんなさい、こんな時に」

幸せの充足は他人には図れない。理に合わないことを考えないが故に、扉間は今まで他人の幸せなどを推し量ることがなかった。そんな単純なことを見逃していた。
イノリの人生は短く、不自由ではある。ただ不幸せではない。今この閉じられた牢獄が、自分だけに与えられた特別な楽園だと、心の奥底から思っている。幸せなのだ。
赦された、と思った。

言葉よりも先に手が奔る。情動だけで折れてしまいそうな身体を抱き竦めた。僅かに戸惑いながら、弁えた笑顔でイノリは咎める。

「先生、だめですよ。私は、あなたの――」

イノリの言葉が途切れる。補佐はもう辞めた、教え子では遠過ぎる。彼女を定義する枠が今はもう何も残されていない。
――それならば。作ってしまえばいいだけだ。

「俺の、女になれ」

告げた言葉にイノリは固まる。

「え、あれは、……気の迷い、では」
「違う」

即座に否定だけが口を突いた。この数ヶ月、イノリはあの夜をそう処理していたのかという認識が追い着いてくる。だからこそ、翌朝からも何も変わらない顔で隣にいたのか。
扉間にとっては本気だった。肺腑が捩じり切れるまでに懊悩した果ての。壊さずに済んだ安堵はあれど、随分と軽くあしらわれたようで癪に障る。

「俺がそんな相手をわざわざ家に引き取ると思うのか。気の迷いであれば、苦労せんわ」
「でも、あの時は酔ってらっしゃったし……」
「まだ信じんか。ならば、今この状況を作るためにどう手を尽くしたか、全て聞かせてやってもいいが」

イノリが言葉に詰まる。反論の筋がひとつ崩れたのを扉間は手に取るように感じた。彼女の抵抗は感情ではなく、弁えという透徹した論理で組み上げられている。
ならば、やはり詰めていくだけだろう。攻め手を重ね、切り崩すのなら分はこちらにあった。

「……先生は火影です。みんなの、里にとって尊い方、私一人が独占しては」
「その部下一人のためにここまで手を回す火影など、そう大したものでもないだろう」
「でも、私にはもう先が」
「知っている。だからこそ今言わんでいつ言えばいい」

立場も潰した、予後も潰した。イノリには最早打つ手が無い。その次は。

「だけど――」

言葉として成っていない。残るは意志だけだ。

「いい加減諦めろ、俺がどういう男なのかお前が一番知っている筈だ」

最後の一手を言い詰める。射貫くように見据えていたイノリの目が凪いでいく、後には穏やかな降参で満ちていた。これ以上は抗えないと潔く悟ったのだろう。

「……先生は、いつもそう。昔から、ずっと……」

イノリがそう独り言ちる。そこにあるのは諦めではなく、安堵にも似た安らかさだった。

「……ずるいです」
「なんとでも言え」

抗議でもするかのように、胸元の服が引き寄せられる。とん、と軽く頭が預けられた。俯くような角度なので表情は伺えない。泣いているようにも見えたが、もうそんな気力も残っていないのだろう。

「陰険ですよ、もう」

またそれか、と扉間は思う。遠い昔、扉間にやり込められた時誰かから助太刀された言葉を、後生大事に焼き回しているのだ。言い負かされた時の彼女が向ける、唯一の反撃だった。
いつも、扉間は鼻で笑って答えなかった。
ただ、今この時だけは。宥めるように、強請る唇へと口付けを落とした。


額縁