第十話 君がため


梔子の花が、庭で咲いている。しとしと、と降り止まぬ雨に濡れ、何処か淋しげに咲いている。
 深く息を吸い込んでも、胸を満たすのは蒼褪めた天水の匂いばかり。こう雨ばかりが降りしきっていると、その芳香すら薫ってはこない。あの甘やかな香も雫に蕩け、地の底に吸い込まれてしまったのだろうか。
 梅雨の頃は空気さえも凝っている。何処までも続く天を最後に仰いだのは、一体いつの事だったろう。もう随分と前になる。茫洋とそんな事を考え、なまぬるい息を零した。

 下駄に履き替え、傘も差さずに庭へと出る。しっとりと濡れそぼる白い花を枝ごと手折り、散らさぬように持っていた桶の中へ丁寧に横たえた。静かな雨が頬を伝う。水無月の頃であるが、長雨の所為か黄昏時にもなるとまだ肌寒い。足早に母屋へと駆け込み、幾つもの水滴を払い落とした。少しだけ、濡れてしまった。けれど、この位は放っておいても大丈夫だろう。

「風邪引くよ」
「イズナさん」

 咎めるような声に振り返る。廊下の中ほどにイズナが立っていた。庭ばかりに気を取られていたからか、彼が歩いてきたのに気がつかなかったようだ。透明の粒を払う手を止め、淡く微笑み返す。見咎めたイズナは、ほんの少し眉を顰めた。

「駄目だろ、ちゃんと拭かなきゃ」
「大丈夫ですわ、そんなに濡れていませんもの」
「はいはい」
「イ、イズナさん、あのっ髪が」
「駄目、少しじっとしてて」

 持っていたらしい手拭いで乱雑に髪が拭かれ、思わず慌ててしまう。らしからぬ随分と横暴な手付きだ。折角、苦労して髪を纏めてたのに。
 憮然と頬を膨らませたが、こうなったイズナは大抵話を聞いてくれない。世話焼きの彼らしい、といえば実に彼らしいのだが。それに思わず苦笑を零す。大人しく任せていると、イズナが溜め息を吐いた。

「少しは気をつけないと、本当に倒れるよ。最近あまり寝てないだろ?」
「……イズナさんこそ」

 伏せていた面を上げ、その顔を仰ぎ見る。イズナの目元には濃い隈が滲んでいた。――窶れている。平生よりも酷く疲れた面持ちだ。空も翳っている為か、その顔は痛々しいほど陰鬱に見える。
 本当ならば、私などを気遣う余裕は無い筈である。代理とはいえ、今のイズナはうちはを一身に背負っている身。不安もあるだろう。それなのに、――

「俺はいいんだ、皆も助けてくれているし」
「ですが」
「それに、セキナが倒れたりなんてしたら、兄さんが何て言うか分からないしね。俺が殺されるかもしれない」

 肩を竦めて冗談めかして言うイズナに、ほんの少しだけ頬が綻んだ。

「マダラ様はいつもイズナさんの事を心配していらっしゃいますわ」
「兄さんが? 何だ、嫌な予感がするな」
「まあ、酷い弟様ですこと」
「普段こき使われてるんだから、この位言ってやらないと。あ、秘密にしておいてよ?」
「さあ、どうかしら」

 そう笑って応える。気が付けば、張り詰めていた指先が解れていた。――本当に、イズナには助けてもらってばかりいる。彼は優し過ぎるのだ。本来なら私が確りして、二人を支えていかなければならないのに。甘えて、ばかりだ。
 そう思うと息が詰まって、胸が切なくなるような心地になってしまう。呼吸が喉の奥に引っ掛かって、きっと息苦しいのだ。溜め息を零した。こんなことでは、いけない。

「――イズナさん、そろそろ私、」
「そうだね、ごめん。引き留めて悪かったね」
「そんな、お気になさらないでください。そうでした、イズナさんはこれから会合に行かれるのですよね。お帰りは遅くなられますの?」
「うん、今日は帰れないと思う。兄さんにもそう言っておいて」
「分かりましたわ、どうかお気を付けて」

 去っていく背中に頭を下げる。ふわり、と燻る梔子の強い香り。そっとその花弁を撫で、深く息を吸い込んだ。ゆっくりと廊下を踏む。
 絶え間ない雨音と、雨に紛れた簪のささめき。

 なんとはなしに、もう一度外へと眼差しを向けた。薄墨を溶いた様な空の色。雨脚はいつの間にか強まっていた。思わず目を細める。――嫌な、雨だ。


「マダラ様、ご加減はいかがですか」

 部屋の襖をそっと開け、控え目に名前を呼ぶ。返事は無い。部屋の中は薄暗く、全てが眠りについていた。静寂が危うく均衡を保っている。無駄な音を立てぬように部屋へと入り、寝室へ通り抜けた。薬草の臭いが鼻を突く。ほんのりと白く浮かぶ褥が敷いてあり、そこへ部屋の主は静かに横になっていた。
 眠っているようだ。そのひそやかな眠りを妨げてしまうのも気が引けて、何も言わずに褥の横へと腰を下ろす。額にかかる髪を退けようかと指を伸ばしたが、揺蕩うだけで触れられない。やり場の無い指先を宙で弄ぶ。

「…………」

 思わず細い息が零れた。震える唇。かたり、とマダラの肩が跳ねる。

「っ……、セキナ、か……?」
「申し訳ありません、お休みになっていらしたのに」
「いや、構うな」

 微睡んでいただけだ、そう応えるとマダラは身体を起こした。危なげな背中を支えるように腕を回す。輪郭をなぞるように撫でると、マダラは安堵したように息を零した。とくり、と。らしからぬ儚げな仕草に、ほんの少し胸が騒ぐ。思わず目を伏せた。――悪い夢でも、見ていたのだろうか。冷ややかなその背中を幾度も撫でながら、ちいさく唇を食んだ。

「まだ、痛みますか?」
「……随分とマシにはなったが」
「今、お薬の準備を致しますね。イズナさんが珍しい薬草を摘んできてくださったんですよ、少しでも痛みが引くとよいのですけど」

 今は痛み止めが効いているのだろう。のたうち回る様に痛みに耐えていた状態に比べると、随分と調子は良いように見える。例え仮初とは分かっていながら、安らいだ呼吸を繰り返す姿に安堵は尽きなかった。
 そっと手を離し、手元を照らす為に行灯を付けた。揺らぐ蝋燭の薄明かり。薬の準備をしていると、澱んだ闇に浮かぶ白い面がこちらに向けられた。視線は感じなかった。包帯の下のその薄い目蓋は、多分未だぴったりと閉じられている。

「その匂いは、梔子か?」
「はい、お庭に咲いていましたの」
「そうか、もうそんな頃か……。いい香だ」
「私もこの香りは好きですわ、折角ですから後で活けておきましょうか?」
「嗚呼頼む」

 ――香りなら、楽しんでもらえると思ったから。
 その一言を喉の奥に押し込める。酷く、息苦しい。胸が押し潰されそうな心地になる。固く掌を握り締め、戦慄く唇を噛み締めた。

 マダラが倒れてから、今日でもう十日が過ぎようとしている。はじめは、眼球の痛みだけだった。脳髄さえ揺らす重き痛み。そして、じわじわと蝕まれるように万華鏡の瞳は光を見失ったのだ。
 原因は瞳力の使い過ぎ。うちはの忍が無比の力と引き換えに抱える宿命だった。幾度も医療忍術が施され、ありとあらゆる薬草を使っても、病状は刻々と悪くなってゆくばかり。深まる夜のように、マダラの視力は失われていった。

 絶望だった。瞳術を至高とする彼がその光を失いつつある事により、うちは一族の士気は甚だしく弱まったのだ。マダラは少しでも回復すれば戦場に戻ると言っているようだが、果たしていつになるものか。
 頭領の右腕であったイズナが急場で纏め役と成り、何とか一枚岩を保ててはいるようだが、重く不安が凝っていた。頭領その人が戦に出られない今、一族は目に見えて恐々としている。

 誰も彼もが一族の為、マダラの為、と奔走する中、私は何も出来ずにいた。多少の手当てならできる。遠縁にあたる薬師の下で門弟をしていたので、薬学の心得はあったのだ。それでも、手を翳すだけで傷を癒す人知を超えるような忍の術の前では、小手先の処置など余りに非力だった。妻という身故、マダラの身の回り一切は全て任されてはいるが、所詮はその程度の事しか出来ない。
 口惜しかった。今更非力な己を呪っても詮方無いと分かっていながら、幾度も幾度も唇を噛み締めた。

 凝る意識を振り払う。――今は、考えても詮無き事。己の為すべき事を遂げるまで。
 煎じ薬を湯飲みへ注ぎ、姿勢を整える。舌先でそっと唇を湿らせた。

「マダラ様、お薬を」

 マダラは答えなかった。その代わりに、ただ静かに頷いてみせた。煎じ薬を手渡し、強張る手が取り落さないようにしっかり支える。淡く閉じた目蓋の裏で、透明な灯りが揺らいでいる。哀しい、蒼褪めた匂いがした。
 苦いのだろう、マダラの眉が僅かに寄る。――あるいは、意味のない薬ばかり飲ませられることに辟易しているのか。効力など無いのだと薄々彼も気付いている。それでも、幼子の児戯に付き合うかのように彼は何も言わない。
 彼の口の端から垂れた薬を綿紗で拭いながら、私は思わず俯いた。簪のひひらきだけが零れ落ちる。先ほど触れた指先の冷たさに、思わず眉根を寄せた。睦事の時のような温度は無い、ひんやりとした熱だ。
 ――私に出来ることは、他に無いのだろうか。
 療治の為とはいえ、こんなものでは彼の役に立てているはずもない。いっそ、熱だけでも求めてくれたのなら。妻として出来ることなどその程度のことしかない。浅ましいとはいえ、そう思わずにはいられなかった。
 けれど、今マダラに触れられたら、押し殺した心が揺らいでしまう。きっと、今に耐え切れなくなってしまう。触れた肌から、想いが零れてしまいそうで。

「膏薬もお換えしますわね。少し、じっとしていてくださいまし」
「嗚呼」

 頭を振って、包帯を換えるために桶から鋏や清潔な布を取り出した。色々と支度を整え、ようやく彼の目に巻かれた包帯を取り去る。するすると解ける布が、細い衣擦れの音を響かせる。閉ざされた繊細な目蓋。しなやかな睫毛が、しっとりと影を描いていた。ふるり、とその睫毛が痙攣する。開かれる眼。焦点の合わない瞳。
 堪えきれずに、私は思わず目を伏せた。それ以上は何も言わずに、ただ薬の準備を急ぐ。

「セキナ」

 不意に名前が呼ばれ、膏薬を拵えていた手を止める。俯いていた面を上げた。風が何処からか迷い込んでくるのか、絶えず蝋燭の灯が揺らいでいる。その心許無い灯りに照らされた眼が。虚ろな彼の双眸が、私を見詰めていた。

「どうか、なさいました?」
「――許せ」

 祈るような声だった。つ、と身体が強張る。私は困惑する。唇は戦慄き、幾度も目を瞬いた。それでも、動揺を悟られぬように笑いながら言葉を紡ぐ。

「まあ、許すって何をですの? マダラ様は何も悪い事をなさっていないではありませんか」
「嘯くな。お前には苦労ばかりを掛けている。……こう思うのは当たり前だろ」
「そんな、苦労だなんて」

 彼が懇願するように謝るのは、今に始まった事ではない。最初は酷く惑った。目を患ってからのマダラは、過剰なほどに私に気を遣うようになったのだ。
 彼は、とても弱くなったように思える。触れることが憚れるかのように滅多にその手を伸ばさない。例え私が懇願しても、常に線を引いていた。糸のように細い、それでも悲しい程に強固な線の向こうでマダラはいつも蹲っている。その境界を越えることを、彼は酷く拒んだのだ。何故かは話してくれない。ただ、どんな時でさえ背を向けていた。それが酷く胸に刺さるのだ。
 思わず眉尻を下がる。いくらマダラを見遣っても、その面は逸らす様に背けられていた。

「夫婦なのですから、この位当たり前ではありませんか」
「妻を病ますのが夫の務めか? イズナから聞いたが、随分と寝てないんだろう」
「それは、イズナさんが心配性なだけですわ。心配して頂かなくとも、ちゃんと休んでいますもの」
「強がりはよせ。お前に倒れられても、それはそれで迷惑だ」
「マダラ様、……」

 ――余所余所しい。あの熱は何処に行ってしまったのだろう。いつの間にか、マダラとの会話は平行線を辿るようになっていた。恋しくて、焦がれて仕方が無いのに、マダラはそれを酷く恐れている。押し殺した態度を取られる度に、私は言いようも無く苦しくなる。今もそうなのだ、彼は私を見ようとしない。
 握り締めた拳が震える。掠れた声が、喉を引き裂くように零れ出た。

「どうして、……」
「セキナ?」
「どうして、頼ってくださらないの」

 一度思いが溢れてしまえば、それを止める術を私は知らない。留めていたはずの言葉は次から次へと零れ出た。

「……頼っていない訳ではない。現に苦労を掛けているだろう」
「嘘です、ずっと私を避けていらっしゃるではありませんか」
「そんなものは、お前の気の所為だ。俺は、」
「気が付かないとお思いですか? そんなに、――そんなに、」

 私は役立たずでございますか。思わず語気が荒くなる。ぐっ、と引き攣るように彼の肩が強張った。――構うものか。

「もういらぬ身ならば、そう仰ってください。その方が、気が楽です」
「思い違うな、俺はお前を思って」
「――見誤らないで、っ」

 鋭く吐き捨てる。一層戦慄く震えた声。

「どうして、分かってくれないの……。私は、そんなに弱くなどありませんわ」
「セキナ、」
「私には、マダラ様だけが全てなのです。仰ったではありませんか、あなたの為に生きろ、と。とても、嬉しかった。心の底から嬉しかったわ。――それなのに、どうして。どうしてっ」

 生まれて初めて、誰かと共に生きたいと切に願った。必要とされたいと、それだけを強く望んだ。何もいらない。あなたに全てを捧げると決めたから。
 だから、どうか奪わないで。やっと手を伸ばせた、大切な大切な人を。何もいらない、あなたさえいれば。

「確かに、私には力はありません。非力かもしれませんわ。だけど……、誰よりも愛している方を支えられもしないほどに、弱くはありません」

 だから、お願い――、と。言葉の端々に涙が滲み、啜り泣きの様な叫びになった。重さをもった静寂が凝る。うねる潮騒のような雨音。雨脚が強くなったような気がした。ざらついた静けさに耳が痛い。
 マダラの唇は、酷く躊躇っているように閉ざされていた。堪らずに目を伏せる。深い底に沈んだ目が、一体どんな色で自分を見ているのかを確かめることは出来なかった。

「――許せセキナ」
「っ、マダラ様」
「お前には、本当敵わねえな」

 糸が切れたような、溜息に紛れた言葉だった。――セキナ、と。掠れた声で名前が呼ばれ、くらき手が闇を彷徨う。マダラの指先は震えていた。焦点の定まらない目が、何かを探すように揺らいでいた。
 美しい、温度の無い瞳。只管に真っ黒な虹彩だった。深海のような瞳孔のひそやかさに、狂おしく胸が詰まる。夢中で腕を伸ばし、その背中を抱き締めた。強く力が込められ、掌が背骨の一つひとつを伝った。輪郭を確かめるような、縋るような仕草。肩に顔を埋める彼は、小刻みに震えていた。

「――怖いんだ」
「マダラ、様」
「セキナの姿が見えなくなっていく事が、セキナを思い出せなくなる事が。お前自身が薄らいでいくようで、それが堪らなく怖い」

 そう言ってマダラは強く私を抱きしめる。その唇から吐き出されるのは、嗚咽のような言葉だった。
 ――いや、事実彼は泣いていたのだろう。涙は流してはいなかった。それでも、その声が、身体が、噎び泣く。酷く弱々しいちいさな背中は、ひび割れてしまいそうな程に儚げだった。

「却って、随分と不安にさせていたようだな。だが、こんな情けない姿、お前だけには見せたくはなかった。……頼む、分かってくれ」
「分かりません」
「セキナ、……」

 マダラの声が切なげに揺らぐ。手を伸ばし、彼の頭を包み込むように抱き締めた。

「情けないものですか、不安なのは当たり前ですわ」
「っ、嗚呼」
「どうか、もう無理をなさらないで。マダラ様が一番お辛い筈でしょう」
「嗚呼、嗚呼。――許せ、許せよセキナ」

 うわ言のように呟きながら、マダラは幾度も唇を落としていた。頬に、髪に、目蓋に、唇に。輪郭をなぞるような接吻に、私は心を乱される。顔を寄せれば、微かな喉の震えや舌の動きが生々しい程に伝わってくる。
 胸が張り裂けそうだった。堪らずに唇を重ね合わせ、ただ彼の舌を求めた。口の端からどちらとも知れぬ唾液が零れ落ちる。離した唇から紡がれた銀糸が薄明りに揺らいだ。

「セキナ、セキナ」

 マダラの手がたどたどしく服を剥ぎ、肌が露わにされてゆく。掌がどんな小さな見落としも無いように、丁寧に皮膚の上を這っていた。
 少し肩が強張ったが、私は何も言わなかった。夜伽という空気では、およそなかった所為だろう。情欲の欠片すら感じられず、艶かしさなど露ほどなかった。――ただ、只管に哀しい。乳飲み子が母の温度を探す哀しさに酷く似ていたのだ。

 行くな、いくな、と泣いている。皹割れた彼の心が泣いている。怯えたように身体を震わせ、嬰児の様に泣いている。
 ふつり、と耐えていた涙が一筋零れ落ちた。

「私は、何処にも行きませんわ。ずっと、あなたの傍にいます」

 素肌のままで溶け合うように抱き合った。彼の熱が逃げていかないように、強くその背を抱き締める。重ねた肌から伝わる熱が、悲しい程にあたたかい。私は固く目蓋を閉ざす。瞳孔が細やかに疼いていた。堪えていた筈の思いが息苦しいほど湧き上がり、噎せ返ってしまいそうだった。

「私が……、マダラ様の目になれたらいいのに」
「それは、」
「わかっています、……わかっているの。でも、」

 忍も一族も何もかもを捨てて、二人だけで静かに暮らせればいい。誰にも邪魔をされない深い場所で。そんな見果てぬ夢を抱き続けていたなどとは、口が裂けても言えなかった。

「――ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいね」

 非力な自分をただ嘆いた。もしも私が彼と同じ目を持つなら、喜んでその眼球を刳り貫いただろう。だがそれも、所詮は叶わぬ夢だ。

 ゆらゆらと蝋燭が揺らぐ。目蓋を透かして映る光は、螺鈿のように全てが瞬いて見えた。さめざめと降りしきる雨音が、遠い海鳴りのように錯覚する。
 空耳だ、そう分かってはいたけれど、あまりに鮮やかだったから。酷く、羨ましくなってしまった。海底でそっと息を潜め、身を寄せ合う鈍色の魚達が。

 深海の生物は、光を感じる目を持たぬと云う。彼等はただ冷たい水の揺らぎだけで、何もかもを知るのだろう。言葉も要らない。それはきっと、酷くひそやかな世界なのだ。
 ――そして、できるのならば。二人で深き海の底に沈んでしまいたい。光の届かぬ底なら、こんな目もいらない。深海は羊水のようにあたたかで、逃げてしまった光がいつまでも泡と共に揺らめいている。何にも侵されない深い場所だ。

 そうすれば、もう誰にも邪魔はされないのに。
 ずっと、二人だけでいけるのに。

戻る

額縁