第十一話 思ひわび
空に果てはあるのだろうか。そんな途方もない夢想をしてしまう程、天蓋は果てしなく蒼い。藍で染め上げたような快晴だ。青々と透き通った空から、たっぷりと陽が射していた。時折頬をさらう風は、乾いた暑さを隠している。入道雲の白が鮮やかにまぶしい。
夏の空である。梅雨はもう明けたのだろうか。
「セキナの箏、俺は好きだよ」
やわらかに微笑みながら、イズナが箏の絃を軽く撫でていた。張り詰めた糸は震え、か細い音が零れ落ちた。
私は少し目を伏せる。箏には、あまり良い思い出がない。物心付く前から教え込まれた指遣いは、呼吸すると等しい位に指先に馴染んだものだが、爪弾く時はいつも記憶が過去へ向かう。迷いも無く、まっすぐと。ゆっくりと記憶を辿っていく。いつも哀しい心で爪弾いていたからだろうか。いつしか箏を弾く事それ自体が、酷く物哀しく思うようになったのだ。
「でも、あまり良い音ではありませんよ」
「そうかな? すごく、綺麗な音じゃないか」
「音自体は、そうかもしれませんけれど……。何と言えばいいのかしら、」
「ん?」
「なんだか、哀しい響きになってしまう気がして」
絃を弾けば、心は落ち着く。声を聞けば、気が凪いでいく。だがそれは、抱えていた己の澱を吐き出してしまうからだ。深く沈んだ感情の泥濘。吐露するのは、決して綺麗なものではない。それ故に、陰鬱で暗澹とした音しか出せぬ気がして、あまり誇れるものではなかったのだ。
「哀しい響き、か……」
イズナの唇がちいさく呟く。細い薬指は躊躇いがちに蒔絵をなぞっていた。今となっては唯一の母の形見となった箏は、全体に繊細な蒔絵や螺鈿が施されている古風な形である。とはいえ、所詮は贅を尽くされた只の遺物だ。華美な装飾は好みではなく、それほど美しいとも思えなかったが、細いイズナの指先に意外な程映えて見えた。
イズナが顔を上げる。白い顔に夏日が淡い影を描いていた。
「弾いてよ、セキナ」
ゆっくりとまばたきをしながら、静かな声でそう言った。思えば、箏を弾くのはマダラよりイズナの前の方が多いかもしれない。時折、思い出したようにイズナは箏を所望する。薄い目蓋を閉じ、いつも息を潜め音だけに集中する。
彼の為に弾くことが決して嫌な訳ではなかったが、その余りにひそやかな様子は見ていて少し不安になった。呼吸さえ邪魔になるのか、聞いている間イズナは息を殺してしまう。暗闇でじっと蹲るように、ただ音色だけに耳を傾けている。その様子は、まるで直向に何かに耐えているようだった。
「セキナの箏が、俺は好きなんだ」
確かめる様にイズナが繰り返す。その言葉に自ずと指が動いていた。――さくら、手ほどきの曲だ。
開け放ちた障子から吹く青々とした風に相まって、何だか妙な心地がした。それでも、幼い日の懐かしい曲には変わりない。私はこの曲が好きだった。イズナも何の曲か気が付いたのか、少し可笑しそうに笑っている。
「そう仰られては、断る訳にもいきませんね。では、何をお弾きいたしましょう?」
「あれ、何て言ったっけ……。前に弾いてくれた曲」
「ほととぎす、かしら?」
「そう、それ」
「分かりました。イズナさんは本当にこの曲がお好きですのね」
そう言ってしまってから、思わず息を詰まらせた。対するイズナは静かに微笑んでいる。ひっそりとした陶器の様なその表情に、私はそっと溜め息を吐いた。象牙の爪を付け直し、何度か音を整える。てぃん、と溢れる様に音が鳴った。
深い底から湧き上がる声。時間が抜け落ちたような、またたきの間。囀っていた鳥達は眠りに沈み、風は止んでいた。凍てつくような静けさのよどみで、箏の音だけが響いている。
イズナが目を伏せた。睫毛が目元に影を落とす。吹けば消えてしまいそうな繊細な睫毛を、箏の声が撫でていく。
全て弾き終ると、イズナは丁寧にまばたきを繰り返した。
「やっぱり、綺麗だ」
長い睫毛の所為で、イズナの目はいつも眩しそうに細めているように見える。その目元はとても淡く、血管が透けてしまいそうな程に白い。夏のまたたきのようだ。網膜にその白が焼き付いてしまう様な心地がして、私は思わず目を逸らした。
イズナが指先で箏を撫でる。愛おしむ様に、均整を崩さない様に。そっとその手は触れていた。
「ねえ、セキナ。一つ頼みがあるんだ」
「なんでしょう?」
「一度だけ、弾かせてくれないかな」
それ、と細い指で箏を指差す。私は目を丸めた。
「箏ですか? ですが……」
今日は体調がいい、そう確かに言っていた。だが、先日の戦いでイズナは腹を裂かれる重傷を負ったのだ。彼は日に日に透き通るような透明な気配を漂わせていく。どうしても、嫌な想像が頭から離れない。今も本当は横になっていてほしいくらいなのだ、本人の願いであっても気が引けてしまう。
「お願いセキナ、少しだけ」
「……分かりましたわ」
子どものように見つめるイズナに、観念して爪を外す。その掌へと渡せば、くすぐったそうにイズナは微笑んだ。
「ありがとう」
ほんの少しだけ、イズナの手に指先が触れる。思わず息を呑んだ。夏の影がすぐ其処まで来ているのを忘れそうな程、白くひんやりとした手だったのだ。
つう、と絃が震える。イズナが琴を弾いているところなど初めて見るが、全てを知り尽くしているかの様な迷いのない手つきだった。深い洞窟の奥から時間をかけて響いてくるような、ゆるやかな音の連なり。これも、とても懐かしい曲である。確か、――
「鶴の声、ですか」
「流石に難しいのは弾けないから。それに覚えてるかな。この曲はセキナが初めて俺に聞かせてくれた曲なんだよ」
「まあ、そうでしたか?」
「よく覚えてる、地唄を聞いてびっくりしたから」
「すっかり忘れていましたわ。何だか、妙な曲をお聞かせしていたのですね」
「確かにね。兄さんに聞かせるなら、丁度よかったんだけど」
鶴の声、というのは手習いの曲の一つで、地唄の付いたものである。一目で惚れた相手と添い遂げ、末永く共に生きよう、という恋の曲。確かに、許嫁ではなくその義弟に聞かせたとなれば妙な具合だ。
イズナは息を深く吸うと、ひそやかな声で唄を詠み上げた。――静かな、良い声だ。胸に染み渡るような心地よい温度を持ち、ひかえめにそれでいて揺ぎ無く響き渡る。唄いが終わると、思わず深い息が零れた。
「お上手ですね、とても初めてとは思えませんでした」
「そう? なんだか照れるな」
「本当に、イズナさんは器用でいらっしゃいますわ。何でも出来てしまわれるのですね」
「そんな事無いよ、兄さんには適わないから」
イズナが面映そうに眉根を寄せる。肩を竦めながら首を振った。
「そうかしら? 私はイズナさんの方が何でもこなされる気がしますけど」
「うん、まあね」
本心からの言葉だったのだが、煮え切らないイズナの態度にそれ以上は何も言わなかった。暫くイズナが撫でていた箏の表面を見詰め、障子の外へと視線を移す。
何処かで鳥が鳴いていた。風の声がする。乾いた地面の上で夏の光が弾けていた。くすぐられるように疼く瞳孔に、思わず目を細める。
「セキナ」
振り返った。イズナは続ける。
「兄さんと今日は会った?」
「いえ、夜中近くに出ていかれましたので。私は寝てしまっていて」
「そうか……」
「あの……なにか、ございましたか」
私は少し当惑する。話の脈絡が見えなかった。イズナを見返しても、彼は障子の外をじっと見詰めている。
「ねえ、セキナ」
「なんでしょう?」
「兄さんの目、治るかもしれないんだ」
静かに紡がれた言葉に、一瞬意味が取れなかった。バラバラに解かれた文字を舌の上で丁寧に組み立てる。まだ体温をもった言葉達。――マダラの目が、治るかもしれない、と。イズナのひそやかな声が脳髄で揺れていた。刹那、息を呑む。
「イズナさん、今、マダラ様の目が治ると……?」
「多分……、いや、この方法なら確実に治るんだ」
「あのっ、それはどういう、――」
「簡単な話だよ」
囁くような予感が走った。――いやだ。直感でそう思う。根拠は無い。だが、その先は聞いてはいけない。聞いてしまってはこの危うい均衡は崩れてしまう。
無意識に身を引いた。だが。耳を覆う前に、淡々したその声が指の隙間から鼓膜を裂いた。
「俺の目を、兄さんに移植するんだ」
そう応えるイズナの顔は、残酷なほど穏やかに微笑んでいた。透明な笑みに身体が固まる。眩暈が襲った。声が、出てこない。鳥の声が五月蝿いほどに囀っているのに、風の音が吹き止まないのに。鼓膜に張り付いた箏の啼き声と、イズナの言葉ばかりが反響していた。
浅い息ばかりが漏れる。ようやく声を絞り出した。
「イズナさん、それはっ」
「手術は明日される。兄さんにも了解は得てるよ」
「待って、待ってくださいっ! それでは、イズナさんが見えなくなってしまわれるのでしょう? そんな事、そんな事をマダラ様に、」
「――セキナ」
諭すように、イズナが遮る。
「君も分かってるだろ、これしかもう方法は無いんだ」
「ですがッ――!」
「俺も兄さんも忍。その位の覚悟は出来ている」
堪らなくなって目を逸らす。真っ白な日差しは僅かに翳り出していた。
「イズナ、さん……」
「だからね、セキナも覚悟を決めて。うちはの頭領の、その妻として」
静謐な目が私を見据えていた。その瞳は私を見ている筈なのに、酷く遠い彼方を見詰めているように蒼く染まっていた。抜け落ちた空の色が、映っているのだろうか。物思いに耽っているような、夢を見ているようだった。じりじりと焼け付く熱気が頬を撫でている。熱を皮膚では認識しているものの、暑さを余り感じない。五感が曖昧だ。視界が陽炎の様に揺らいでいた。ただ、同じ声だけが頭の中を渦巻いている。只管に息苦しい。――嗚呼どうして、どうして、
千手との戦いにより負傷したイズナが、もう長くないのだとは心のどこかで気付いていた。それでも、マダラは決して認めようとはしなかった。どこも欠けていないのだからきっと良くなる、きっと治る。祈るように、願うように何度も声を掛けていた。イズナには手がある、足がある。一揃いの目も、ちゃんとある。そうやって一つひとつ輪郭をなぞり、無事あることを確認すれば何事も上手くいくのだとマダラは信じていた。
そんな兄に、イズナは目を差し出すと自ら言ったのだ。なんて残酷なんだろう、なんて非情なんだろう。呪うべきが誰なのか、彼の仇なのか、戦乱の時代なのか。兄弟の胸中を察するに余りある。なんて、惨い。
「イズナさんは、本当にそれでよろしいのですか」
唇からは震えた声しか出てこない。情けない己の姿とは対照的に、イズナはまっすぐに背筋を伸ばしていた。伸びた首筋は優雅なほど張り詰め、しなやかな筋肉が肌の下で美しく緊張していた。その双眸は、迷い無くただ前を見据えていた。青味を帯びた深く澄んだ瞳。無駄を削ぎ落とした、気高い眼差しだ。
イズナの息遣いだけが伝わる。全ての音は絶えていた。
「俺はうちはの忍だ。一族の為なら、兄さんの為なら命を懸ける」
そっと、白い指先が戸惑いがちに私の頬へ触れる。冷ややかな指先。威厳さえ感じさせる彼の覚悟とは不釣合いなその優しげな仕草が、切ない程に生々しかった。
「ごめん、辛い思いばかりさせて」
「私の事など、どうでもよいのです。そんな事より、っ……」
「本当は嬉しいんだ」
肌が触れるほど側にいるというのに、その笑みは何処か遠くの安らかな場所に揺れているようだった。決して手の届かない、ひそやかな場所だ。
「ずっと、考えてたんだ。あの時、セキナが言った事を」
「私が……?」
「言っただろ、選べるのは死に方だけだって。死ぬ事だけは自由だって」
やわらかく唇を噤み、イズナが立ち上がる。佇む濡縁にはたっぷりと日が射していた。こちらを振り返る輪郭が光に包まれる。降り注ぐ光がまぶし過ぎて、顔はよく見えなかった。
「好きだよ、セキナ」
「本当は、兄さんが羨ましかった。初めて会った時から、俺もセキナの事がずっと好きだったから」
答える言葉は、出てこなかった。イズナからは私が見えているのだろう。泣き出しそうな顔を見咎めた様に、ゆるやかに首を振った。淡い影が陽炎のように揺らいでいる。
「勘違いしないでくれ、別に二人を恨んでる訳じゃない。――寧ろね、逆なんだ」
なめらかに、ただイズナは話し続ける。
「ずっと、思う儘に生きていたと思ってた。でも、結局はあの時のセキナと一緒なんだ。一族に縛られて、生き方なんて選べずに生きてきた。けどね、」
――これだけは、俺の意思だ。と続けた。
「セキナの事も兄さんの事も大好きだよ。だから、二人が幸せなら、二人を守れる為なら何だって構わない。ただ一族に強いられた結果なんかじゃない、俺の選んだ答えなんだ」
「いや……、嫌ですっ! イズナさん、待ってください!」
迸る様に叫び、震える手を伸ばす。
「まって、お願い……」
白い陽光に遮られた視界で、笑顔が見えた気がした。イズナは透き通るような笑みで此方を見ている。哀しげな、みずみずしい瞳だった。深い深い覚悟を湛えたその表情に、疼く様に心臓が跳ねた。
――酷い、女だ。そんな気もない癖に。私は所詮イズナを救う事など出来ない。彼の気持ちに応える事など決して出来ないのだ。それなのに、彼の覚悟を止める資格などあるだろうか。
伸ばした指先は空を切る。唇は震え、喉の奥は戦慄いていた。力なくその場に蹲る。
「――ごめん、なさい」
イズナは応えなかった。ただ浅く頭を振る。揺らいでしまって見えないが、その目元には、きっと困った様な笑みが浮かんでいるのだろう。
「いいんだよ、セキナ。それで、いいんだ」
戸惑う様に優しく、それでいて残酷な程はっきりとイズナは応えた。
夏の陽が零れ落ちていた。乾いた畳の上に、まぶしい光が線を描いていた。此岸と彼岸の境界は淡く、それでもくっきりと分かれている。影の縁にできる薄い影を、私は見つめていた。決して越える事の出来ない境。その向こう側の、溢れる光の中でイズナは笑っていた。華奢な身体は、陽光の粒に紛れてしまいそうな程ささやかだった。細く、悲しい程に痩せた肩だ。腕を伸ばせば、すっぽりと胸に納まってしまいそうだった。
「俺が自分で掴んだ道だから、どうか笑ってほしい。同情なんてしなくていい。セキナだけでいいから、笑って見送ってほしいんだ」
――思う儘に生きられないこの世で、ただそれだけが狂おしく自由なのだと思った。誰かに縛られ続けた生も、終わりだけは己で選びたかったのだ。
あの日の声が、浮かんでは消えた。
草いきれを孕んだ夏の風が頬を撫でる。木々から覗く空は、眩暈を起こしそうなほど何処までも蒼い。
遠くでしきりに鳥が囀っていた。イズナの明るい声が響く。鳥のさえずりよりも近くで聞こえている筈なのに、それは何処か遠くから聴こえて来る美しいささやきのようだった。
部屋へと戻り、イズナは白い寝床に横たわる。話し疲れてしまったのだろう、もう目蓋を閉じている。微睡むように目を閉じていると、出会った頃のように幼く見えた。
吹き込んだ乾いた風が、イズナの薄い目蓋を撫でていく。
「まだ死ぬって決まった訳じゃないんだからさ。そんなに悲観しないでよ」
「そう、ですよね。イズナさんの、仰る通りですわ」
「そうだよ、二人の子どもを抱くまではくたばる積もりなんて更々無いからね」
「まあ、……」
「甥かなあ、嗚呼姪がいいな。きっと、女の子ならセキナに似て美人になるよ」
「ええ、ええ楽しみですわね」
震える声で精一杯取り繕う。焦がれる様に愛おしいような、恨めしいような心地だった。色とりどりの感情が複雑に絡まり合っている。縺れた感情の糸は、千切れてしまいそうな程にか細く頼りない。解こうとした指先で、今にもぼろぼろと崩れてしまいそうだった。私は息を深く吐く。涙を溢す訳には、いかなかった。
「弾いてよ、義姉さん」
その言葉は祈りに似ていた。胸が苦しくなるほど優しいが、その声には抗いようの無い響きがあった。有無を言わせぬ切ない気迫に満ちていた。
無意識に指が絃を這う。哀しい音が零れ落ちる。絶えず音が溢れていたのに、底にある静けさが揺らぐ事は決してなかった。それがまた、酷く切ない。
――さくら、さくら、と。記憶の底から響く幼き唄。震える指先で爪弾けたのは、季節外れの手習いだけだった。
それから少し経って、夢を見た。何処までも続く白い道を歩いているイズナの夢だった。途方も無く続く世界を、イズナは迷い無くまっすぐと歩いている。己の爪先が導く方向へ。遥かな大地をたった一人歩んでいく。
きっと行く末を知っていたのだろう。それでも、彼は一度だけ振り返った。その顔はとても幸せそうで、目元にはいつものはにかむような笑みが浮かんでいる。閉ざされていた筈の目には、ちゃんと一揃いの眼球があった。もう何も欠けていない。みずみずしく、艶やかな瞳孔である。多分、私は何事かを叫んだのだ。イズナは答えず、ただ微笑み返しただけだった。彼は満ち足りた表情で、どこまでも、どこまでも歩いていく。
「――待って、」
自分が上げた声で、唐突に夢から醒めた。知らぬ間に伸ばした腕が、朝ぼらけの薄明かりに揺らいでいた。のろのろと手を下げる。隣で寝ていたマダラが、未だ夢に浸っているような朧げな目付きでこちらを見ていた。
「どうした」
「夢を、見ましたの。イズナさんが、……」
「…………」
マダラは答えなかった。その代わりに痛いほどの力で抱き寄せられる。前触れも無しに抱きすくめられ、僅かに目を見開く。いささか混乱しながら、その顔を見返した。マダラは枕に頭を預けたまま、遥かを望むかのように目を細めていた。その表情は苦しげというよりも、どこか酷く懐かしそうだった。
「――そうか、いくのか」
静かに呟いたマダラの目からは、一筋の涙が伝っていた。ちいさな粒は、淡い朝日を受けきらきらと瞬いていた。陽だまりに落ちたひとかけらの氷のようだった。
――私は想像する。二度と立ち止まる事なく一人行く背中を。酷く満ち足りて、決して惑う事はない。それでも、彼の眼からは音も無く涙が流れている。一筋の、透明な雫が。
目蓋に口付けると、震えるあたたかな鼓動が唇に伝わった。深い海の味がした。みずみずしい彼の眼球は、今も確かにそこにあった。
「その言の葉に 鶴の一声 幾千代までも」
夏のはじめに、イズナが唄った歌をそっと口ずさむ。しなやかな声が、薄い鼓膜から何時迄もいつ迄も離れなかった。
うちはイズナが眠るように息を引き取ったのは、その日の昼下がりの事である。
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