第五話 かくとだに


 くすくす、くすくす、と。細波のような笑い声が端々から聞こえてくる。鼓膜に纏わり付く声は脳に充満し、反響する声に眩暈がした。握る掌に爪が食い込む。

「見て、あの女よ」
「まったく、いつまでうちはにいるつもりなのかしら」
「本当、目障りよね」

 正直、何を今更、という思いだった。例えどれだけ謗られ嘲られようが、私一人ではどうすることも出来ないのだ。両家が決めた許婚の取り決め事などは、所謂ある種の契約のようなもの。それ故、例え当事者であっても反故にするなどの勝手が出来るはずもない。
 それが分からないのか、と嫉妬に凝り固まった彼女達に問い掛けたかった。
 そう考え、ふと自嘲気味に目を細めた。――結局、そんな覚悟も無いのだけれど。

 イズナの前で取り乱してしまって以来、それで少しは胸中の整理がついたのか、以前よりはざわめきが気にならなくなってきていた。妬みや誹りを浴びれば気は塞ぐが、所詮は悩んでも詮方無きこと。必死に救いを求めたところで、どうにもならないのは悟っていた。
 それならば、いっそ何も期待しない方が楽なのだろうと思う。胸が軋む悲鳴に耳を塞ぎ、心を殺せば、それ以上は傷付かずに済む。簡単な事だった。今までも、ずっとそうだったのだから。

「あなたね、磐永セキナっていうのは」
「……そう、ですが」

 俯いている視界に影が射す。冷ややかな声につられて顔を上げると、見知らぬ女達が立っていた。紅く染まった瞳を見て、なるほど、と悟る。思わず逸らした頬に、嫌悪の視線が突き刺さった。

「ちょっと用があるの、ついて来てくれるわね」

 くすくす、くすくす、と。囃し立てる笑い声が漏れる。南賀ノ里の中心から少し離れているため、周りには私達の他に人影は無かった。用があるとは言われたが、勿論ついて行けば碌なことにはならないというのは明らかだ。だが、仮にも彼女達はうちはの忍。逃れようにも行き場の無いことは分かり切っている。
 ゆるゆると頷くと、声を掛けてきた女が二の腕を掴み歩き出す。引き摺られるように連れて来られたのは、道を逸れたところにある古い社の裏だった。昼間でも薄暗い、気味の悪い場所だ。

「で、用って言ったけど。言わなくてもわかるわよね?」
「…………」
「ちょっとぉ、黙ってないで何とか言えば?」
「まさか、気付いてないわけないでしょ? いくらアンタが愚図でもさあ」

唇を噛み締めて立っていると、近くにいた女が舌を鳴らした。

「なにコイツ。まあ、マダラ様の許嫁っていっても、精々腰振って喘ぐぐらいしか脳無さそうだものねぇ」
「そんな……」
「あら、知らなかった? 身体売って取り入ったって、あなた評判よ?」
「何が貴族の姫様だか、聞いて呆れるわ。アンタみたいな淫売がここにいると、うちはが穢れるのよ」

 くすくす、くすくす。天が割れるような嘲笑が頭の中に木魂する。音が、嫌な音ばかりが頭に充満して割れてしまいそうだ。
 耳を塞ぎ、心を殺さば、それ以上は傷付かずにすむ。けれど、そんなことは死んでいるのと同じ事。いくら念じて願っても、どこかが歪み壊れてしまう。たとえ傷口が膿むまで耐える事ができようとも、消せぬ疼きは常に付きまとっていた。
 ――所詮は虚勢でしかないのだ。呻き声を押し殺せる程に、私は強くなどない。絞るように吐き出した唸声は、情けない程に震えていた。

「そんなこと、していません……!」
「どうだか、どうせイズナ様にだって色目使ってるんでしょ」
「違いますっ」
「まあ、待って。こいつの言ってることは本当よ。だって、マダラ様に抱かれたことも無いんだから」

 その一言に、ぞくりと背が粟立った。急に呼吸することさえ難しくなる。思わず目を逸らした。――いやだ、その先は。

「どういうこと?」
「流石に黙ってたけどねェ、何でもマダラ様が最近女を連れ込んでるらしいのよ。大方、お上品なお姫様はそっちの方も能無しで、慰み者にもならなかったんじゃァないかしら」

 産み落とすことも出来ないんじゃ、価値が無いじゃないの、と。誰かが言った。お家の為に、健やかな子を沢山成しなさい、と。何かが云った。幾度も幾度も教わった戒めが、胸の底からこんこんと湧き上がる。
 ぐらり、と万華鏡のように揺らぐ視界。嗚呼、駄目それは、それだけは――

――それがあなたの、務めなのですよ。

「やめて、ください……」
「なァに、図星なわけ? 笑っちゃうわよね、お飾りの許嫁なんて。何のために生きてるの?」
「……、っ」

――母の願いは、お前が幸せになる事。沢山子を成し、幸せになりなさい。それがお前の為なのだから。

「……っ、お願いです、もう……やめてっ……」
「――その辺にしておけ」

 蹲った視界に、影が射す。聞き覚えのある低い声に顔を上げた。

「ま、マダラ様ッ! 何故、このような所へ……!」
「お前達には関係ない」

 取りつく島もなくマダラは答え、立てるか、と私の方を見据え問い掛けた。喉の奥が干からびていて、声が枯れている。戦慄くように唇だけを動かすと、彼は少し眉を顰めた。

「戦時に内輪揉めなどしている場合か。今回は見逃してやるが、以後は慎め」
「お待ちくださいッ!どうして、どうしてその女を庇うのです!? うちはの頭領であるあなた様に、そんな女は相応しくなどありませんッ!」
「これは、うちはと磐永両家の取り決めだ。貴様らが口出しする話ではない。そんな暇があるのなら、戦に備え鍛錬でもしていろ」

 もう行け、と。諭すように、それでいて有無を言わせぬ声で話を切り上げると、女達は悔しそうに去っていった。駆けていく足音が遠くなる。
 マダラは未だに蹲っていた私を一瞥すると、無言で隣に膝を付いた。突として、ふわりと視界が高くなる。横抱きに抱え上げられ急に襲った浮遊感に、思わずその濃紺の袖を掴んだ。

「な、なにをっ」
「帰るぞ、掴まってろ」

 マダラは短く答えると、抱えた私の重さなど感じさせない速さで木々の間を飛び移っていく。途中問い掛けようと口を開きかけると、黙っていろと諫められた。有無を言わせぬ強い語調だ。――成る程、これでは先程の女達も引くしかあるまい。他人事のように、そう思う。
 黙っていると、静寂が重く鼓膜に凝る。不安が胸に巣食う。不意に、先程の女達の謗りが囁きかけた。くすくす、くすくす、と。震える肩を抱き固く目を閉じて、幻聴を掻き消した。
 目尻の辺りに視線を感じていた。マダラが、見ているのだ。それでも、聞こえるのは女達の悪罵ばかり。息遣いが伝わるほど肉薄している彼は、何も言わず黙っている。

 落ち着く間もなく着いた屋敷の前で降ろされ、思わず息を吐く。荒い息は白く翳っていた。ようやく息を整えた頃には、マダラはもう玄関に上がってこちらを見つめていた。

「申し訳ありません、先程は……」
「その話はもういい。それよりも、お前に伝えなければならない事がある。奥で話す、着いて来い」

 慌てて下駄を脱ぎ、奥へと向かっていたマダラの後を追う。通されたことの無かった自室で腰を落ち着けたマダラの前に正座し、しばらく無言で向き合った。険しい表情を浮かべるばかりで、彼は何も言い出さない。沈黙が重く渦巻いている。

「先程、本家の者から伝令があった。磐永からだ」
「母が何か?」
「単刀直入に言う、昨日の晩に御母堂が亡くなった」
「え……?」

 静かに紡がれた言葉に、胸に滞っていた女達の嘲りも謗りも、何もかもが吹き飛んだ。刹那頭が真っ白になる。彼の言葉を理解するのに、勇に数拍がかかった。

「母、が……亡くなった?」
「病死と聞いたが、病に罹られていたことは知らなかったのか?」
「はい、そのような話は一度も」
「そうか……」

 母が死んだ、とあまりに絵空事のような言葉だった。あんなにも背筋を伸ばし、笑う事すらなく厳格に生きていた彼女が物言わぬ屍になったのだというのは、俄かには信じられなかった。
 古くからの記憶をかき集めても、屹然とした物言いと冷たい目しか思い出せない。実母の死は悲しいというよりも、胸に広がるのは驚きだった。あの、母が――。死んだのだ。

 言うべき言葉が見つからず、ただただ黙ったままでいると、マダラは腕を組んで固く目を閉じていた。未だ深く刻まれた眉間の皺に、真の本題はまだなのだと悟る。視線に気付いたのか、彼はゆっくりと目を開いた。

「お前の身の降りだが、磐永本家へ一度返すとの事で話は纏まった。明晩にでも使いの者が来る、出立の準備をしておけ」
「実家へ、ですか?」
「両家の取り決め役がいない今、許婚の件も一旦白紙に戻されたからな。うちはでは話し合いの末、今後どうするかは決めさせてもらう。磐永家でも、お前を含め話し合いが成されると聞いているが。……葬儀などの段取りもある筈だ、こちらにいるよりは一度帰った方がいいだろ」
「そのあたりは、叔父が取り仕切ってくれる筈ですが……」

 珍しく饒舌なマダラだが、それでも未だ本題を告げていない。言外に込められた真意は、手に取るようにわかっていた。――はっきり申せばいいものを。

「それは……。遠まわしに、離縁、ということでしょうか」
「……まだ破談だとは決まってない。話が纏まり次第、伝令を送る」
「そう、ですか」

 口をつぐんだ後には、静寂だけが凝っている。どこかで鳥が鳴いていた。耳からは木々のざわめき。胸奥からは有象無象のざわめき。
 真一文字に結んでいた唇が、湧き上がる嗤笑に不意に崩れた。先程止めに入ったのも、この為か。本家に帰すとならば、いらぬ波風などは立てぬが利口。自虐的な笑みが零れる。彼等が考えることなど、知れている。嗚呼、――下らない。

「――あなた方が、母を殺したのですか」
「何だと?」
「母さえいなければ、この縁談も守らずにすむ。疎ましい邪魔者も、これで追い出せますものね」
「セキナ」

 涙に滲む目で睨みつける。マダラは固く目を閉じていた。

「何時まで母に踊らされている、いい加減醜い真似はよせ。少しは、自分の意志で踊ってみせろ」
「――知った風なことを」

 私の何が分かる、と鋭く吐き捨てる。――うるさいうるさい。どんな思いで、心を殺してきたと思っている。どんな思いで、誇りを捨てたと思っている。磐永の為、うちはの為、どれだけの自分を殺してきたと思っている。一度も私を、私の心を、何も視た事の無い貴様に、いったい何が分かるというのだ。
 頭が熱くなった。視界が揺らぎ、くるくる廻る。己を支える足は震えていた。

「誰が、――誰が好き好んでこんな生き方を選ぶものですか。惨めで、情けなくて、逃げ出す事すら許されない。こんな生き方など、望んで選んだ訳がないでしょう。
愚かに見えるでしょうね、さぞ滑稽でしょうね。でも、これしか無いのです。これしか許されなかった、こうやって生きていくしか出来ないの。そうじゃないと、息も出来ない。この生き方でしか生きられなかった。
その上、強いられた生き方すら弄ぶお積もり? ――馬鹿にするのも、大概にしたらどうなのっ!?」

 吠えるように絶叫し、後ろも顧みずに部屋を走り出た。視界が目まぐるしく巡り廻る。屋敷を飛び出し、うちはの居住区を抜け、何考えずにただ走り続けた。行き先などは何処にも無い、何処にも居場所が無いなら同じこと。
 頭を揺らし続けるざわめきに吐き気がする。女達の嘲りが、イズナの同情が、マダラの声が。母の戒めが浮かんでは消えていった。ざわりと肌が粟立つ。死んでもなお、私を縛るか。煩い煩い煩い、死人ならば大人しくしていればいいものを。やれ浅ましい、見苦しい――。

 着物があちこち破け、足が縺れた。張り出した木の根に足を取られ、したたかに打ち付けた膝からは真っ赤な血が流れ出ていた。唇を切ったのか、生温い鉄の味が舌に纏わり付いている。無様だった、滑稽だった。震える肩を抱き、巨木の下に座り込む。静かな森に、喘鳴だけが響いていた。

「これから、どうしたら……」

 震える声で呟くと、ようやく取り返しの付かない事をしてしまったのだという後悔が押し寄せた。何もかもが無駄になってしまった。その為だけに生きよと云われた道を、何もかも壊してしまった。
 瘧に罹ったように震える手を握り締める。とにかくは、本家に帰るより他ないだろう。この地から磐永家の屋敷までは歩いて半月以上は掛かるが、幸いにいくらか金は持っている。今日一日歩き続ければ、一番近くの宿場町には着くだろう。そこで、籠なり何なり頼めばいい。巾着の中身は路銀にするには心もとないが、叔父にでも事情を話せば分かってもらえるはずだ。彼は、うちはとの婚姻には終始反対していたから。

 そこまで考え、重い腰を持ち上げた。凍えた足を引き摺るように動かす。それでもなお、足掻くのか、と。思えば少しおかしかった。あの場で手打ちにされていた方が、余程利口だったかも知れぬというに。

 とても、静かだった。冬の森などは息吹すら感じない。ただ黙っていると、空言ばかりが思い浮かぶ。――母は、本当にうちは一族の手によって殺されたのだろうか。今更考えるまでも無いことであったが、所詮は妄言に過ぎないのだということは分かり切っていた。そんな回りくどい事をせずとも、私一人を殺せばいい話である。
 あんなものは、ただの八つ当たりだ。きっかけなど、何でもよかった。ただ、ただ逃げ出したかった。檻の中から、逃げ出してしまいたかったのだ。
 何故あれ程まで激昂してしまったかは、今になっては分からない。留まっていた瘡蓋が剥がれ落ち、膿血が流れてしまったに過ぎぬ事なのだろう。私はそう納得した。頭を振る。――気持ちを、入れ替えなければ。

「探したぞ、セキナ」

 下げていた視界に影が射す。聞き覚えのある声に顔を上げた。

「え……?」

 目を見開き、幾度か瞬く。意外な顔がそこにあった。

「叔父、上」
「ん? なんだ酷い格好だな、ボロボロじゃあないか」
「それは……。いえ、それよりも何故こちらへ?」
「迎えに来たのだよ。お前の母が死んだのを聞かなかったのか?」

 何事も無いように答えると、彼はにこりと微笑んだ。呆気に取られている私を見返しているのは、本家を出て以来会っていなかった唯一の肉親だった。
 確かにマダラがそんなことを言っていたような気がするが、先の事もあり詳しくは覚えていない。それに、何だか妙に引っかかる。釈然としないながらも、一連の出来事を手短に説明した。
 冷静になってみれば、随分と大胆なことをしたものだと思う。聞き終えた叔父は、唇に浮かべていた笑みを更に濃くして愉快そうに笑っていた。思わず眉根を寄せる。血の繋がった娘である私が言う台詞でもあるまいが、実姉を喪ったにしては悲壮感がまるで無い。まして、破談の後腐れなど気にしている素振りも見せなかった。――なんだろう、この違和感は。

「そうかそうか、相わかった。お前も中々豪気なのだな」
「はあ……。しかし、よくここだと分かられましたね」
「なあに、この者達に聞いたまでだ」

 世話を掛けたな、と後ろに向かって投げかける。今まで気付かないでいたが、幾人かの男が控えているのが見えた。

「そちらの方々は?」
「嗚呼、吾が雇っている者共だ。なかなかいい働きをしてくれるのだよ」
「そう、でしたか」

 訝しげに一瞥すると、控えている男達はどこか下卑た笑みを浮かべていた。舐めるような絡みつく視線に、背中が粟立つ。不安が胸を掻き乱す。――いやだ。感じるのは生理的な嫌悪だ。咄嗟に後ずさりすると、突如割れるような声で叔父が哄笑した。

「っ!?」
「いけませんなァ、旦那様。姫様が怯えてらっしゃるじゃあありませんか」
「おお、すまんすまん。お前達、待たせたな。とく片付けてしまってくれ」

 醜悪に嗤う叔父の歪んだ顔。声を上げる間も無く、背後に回った忍等に腕を捻り上げられ、地面に叩きつけられた。簪が取れ、髪が散る。打ち付けた額からぬるりと鮮血が伝った。頭が揺れる。辛くも意識を留め、にたりと口の端を吊り上げながら覗き込む男の顔を睨み付けた。

「離し、なさいっ!」
「おや、中々気丈な姫様ですなあ。しかし、旦那いいんですか? こりゃあ殺すのが勿体無いくらいの上品ですよ。廓にでも売り飛ばせば良い値が付く」
「それも一興だが、生かしておけば後々面倒なことになろう。殺すより他あるまい」
「そうかい。いやぁ、それにしたって勿体ねえな」
「少々遊ぶは好きにしろ、と言いたいがな。ともかく此処から離れなければ」

 もがこうにも、足で背中に体重を掛けられているせいで四肢が痺れている。声が潰れてしまっていた。ただ睨みつけることしかできない我が身が呪わしい。血が滲む唇を噛み締める。貼り付けたような笑みを浮かべながら、伏した私を眺めている肉親の顔が一層醜く歪んだ。

「いい眺めだな、セキナよ。そうしていると、一層母親に似ておるわ。あいつも事切れるまでそんな目で吾を睨んでおった」
「なっ!? で、は……母上はっ」
「そうよ、吾が殺してやった」

 手を下したのは彼奴等だがな、それは愉快な眺めだったぞ、と。付け加える言葉は何の意味もない。俗悪な笑みを浮かべながら吐き出される言葉は、知性の欠片も感じられなかった。記憶にある面影は何処にもない。何故、このような――。

「っ、……」
「ん? 何か申したか?」
「どうして、母を……! こんな、浅はかなことをッ」
「何故、か……」

 押し殺したような言葉と共に、頭が割れるような衝撃が伝わる。軋むように頭蓋が呻く音から、力任せに踏みつけられているのだとわかった。脳髄に沁みる罵声。飛びそうな意識を必死で繋ぎ止めた。

「決まっておろう、目障りだからだ。貴様さえいなければ、磐永家は吾の物になっていたというに……。小賢しいことよ、忍如きに売られた小娘が身の程を知れッ」
「ぐッ……、ぁ……」
「旦那様、それ位になさらないと死んでしまいますぜ? ここはまだ南賀ノ里に近い、始末しちゃあ不味いでしょう」
「ふん、この位ではこやつも死なぬわ」
 
 踏みつけられる衝撃が幾度も脳を揺らす。肩口に足を入れられ、仰向けに転がされた。反転する視界、歪んだ肉親の顔。男達の野卑な笑みを捉えた所で、腹を渾身の力で踏みにじられ、世間が狂おしく巡った。
 叔父のざわめきが、男達のさざめきが遠くなる。意識を手放す寸前に、何故か遠い日の影が浮かんだ。マダラと初めて逢った、あの日の事を。

 ――こうして潰えるのならば、いっそ生かされなければよかったのに。



 体が揺れる感覚が絶え間なく続いている。あちらこちらの傷口が呼応するように疼いて、思わず呻き声が喉から零れ出た。酷く重い目蓋を薄く開く。浮きつ沈みつする景色。眼下に広がるは目眩がしそうな程深い渓谷、どこかの峠を越えているらしい。
 手は後ろ手に縛り上げられ、猿轡をされた無様な格好で馬に乗せられている。虚ろに周りを見回すと、隣を歩く馬の背に跨った男と目が合った。

「目覚めたのか。どうだ、気分は?」 
「…………」
「嗚呼、それでは口を利けなんだな」

 心配せずとも、すぐには殺しはせん。見下しながら嘲笑を浮かべる叔父から目を逸らす。一切を拒絶するように固く目を閉じた。できるならば、もう一度眠ってしまいたい。
 幼く愚かな頃は、嫌なことがあれば何もかもが夢なのだと思っていた。目を覚ませば、分厚い布団に包まって小さく体を丸め震えているだけ。自分を殺し続けて、例え心が膿んでしまっても、そう思うと少し気が楽になった。何もかも夢ならば、何も変わらず何も知らずにいれたら楽なのに。

 ざらついた叔父の言葉が、鼓膜を震わし続けている。魘される様な感覚に吐き気がした。

「哀れなものだな、家の為に生まれ、その為だけに生かされ、最期は塵のように殺される。お前の人生など、虫けらにも値しない」
「…………」
「ただ踊らされ、死に様すら選べぬ無価値な存在。マダラという男も愚かな奴だ、こんな傀儡の何処に惚れたのやら」
「……!?」
「なんだ、その目は?」

 それは違う、と言いたかった。マダラが私を好いているなどありえない。叔父が言う悪言は全て事実だった。確かに私は家に縛られた傀儡だ。諾々と縛られ、それを疑問に感じることも無く生きてきた。母が亡くなった今、無価値となったものまた事実。それでいい、その通りなのだから。
 ――だが、その一点だけは。それでは、そんな。

「何も知らぬという目だな。いいだろう、余興ついでに教えてやろう」

 聞きたくない、そんなことは聞きたくない。マダラが私を好いていた所で、今更それがどうなるというのだ。所詮は結ばれ得ぬが定め。傀儡は傀儡らしく、ただ踊らされているだけで構わない。肩が強張り、腕が攣った。聞きたくも無い言の葉が、じわりじわりと侵食する。

「気付いてはいなかったのだろうがな、お前に惚れておったのさ。忍風情が粋がりおって、幾度も幾度も本家に来ては申しておったわ。強いられた嫁入りでは貴様の立場が無い、考え直せとな」

 頭の芯が眩々と痺れた。何故――、何故今になって。それでは、私が叫んだ心はどうなる。弄ばれたと恨んだ怨嗟は。我を見よと呪った音無き声は。全て、独りよがりの戯言ではないか。
 やっと己が意志で呼吸ができたと思ったのに。憎むことさえ、ただ踊らされていたというのか。

「あの男、何を血迷ったか、うちはを捨て婿に入るも覚悟の上とも言い出した。銭目当てかとも思うたがな、あれ程に想い詰めている様は滑稽だったぞ。下らぬことだ、早い話が手篭めにでもすればいいものを……。まあ、姉が家財の全ては貴様に譲る算段にしておったようだから当然断ってやったがな」
「…………」
「所詮は成り上がりの浅知恵よ。下僕風情が磐永を名乗るなど片腹痛いわ」

 溺れたように視界が揺らぐ。耳鳴りのようにマダラの声が近くなり、また遠のいた。先刻の情景が瞼の裏に揺らぎ、また深淵へと消えていく。
 一体、何を信じて誰に縋ればよかったのか。ただ母に、家に縛られ続けていて、何も見えていなかった。見ようともしなかった。

「     」

 視界は滲み、目には何も映ってはいない。眼前の此岸と胸奥の彼岸が、幻影の騙し絵のように重なって浮かび上がる。夢を見ているようだ。
 惨酷な程に美しい走馬灯に、またひとつ醜い声が重なった。

「しかし、これでうちはを出し抜く手筈も整う。仮にも降嫁させた貴族の娘を慰み者にした上に嬲り殺したのだからな、実にいい口実だ。礼を言うぞ、セキナ」
「ッ……!?」
「おや、うちはに罪を被せる筋書きだったんで?」
「無論だ、先の件も奴等に殺されたことにするのだからな。婚姻の取り消しでうちは側が揉めたことにしてやれば、お上も我々に着くであろう。捻り潰すなど造作も無い」
「まあ、真っ向からなら分が悪い相手でも、上から潰すのは容易いということですかな」
「嗚呼、所詮は粋がった所で奴等も忍。大名共には頭が上がるまい」

 我欲に染まった声がする。耳にするだに厭わしい雑言が頭の内で反響していた。なんて、浅ましい。愚かしい事だと思う。誇りに取り付かれた磐永家の亡霊であるような叔父にはわかるまいが、忍の頂点たる彼等がそんな些事に屈するとは思えなかった。
 確かに忍である彼等よりは、大名以下我々貴族の身分は高い。だが、所詮そんなものは形骸化した建前だ。うちはの民を見ていれば、嫌ほど思い知らされた事である。過去の誉れに囚われ、見せ掛けだけの誇りに縋る様は、己の手で道を開かんとする忍等には確かに滑稽に映るだろう。貴族などは、己が意思と歩みを捨てた古き遺物。緩やかに朽ち果てていくその姿が、叔父の濁った瞳には見えていないのか。

「お前には死してなお役立ってもらうぞ。精々その死に様で磐永を救くのだな」

 そう吐き捨てると、叔父は前へと向き直った。言葉が溢れ、頭が眩む。その死に方も、考えてみれば良いのかもしれない、とも思う。私はずっとそうやって生きてきた。家を救く為に死ねと謂われるのならば、きっとそれが似合いだろう。今更足掻いたところで、何も――。

 ただ。ふと、こんな事を思った。生まれてくる家も、場所も、時代も、人は何も選ぶ事は出来ない。生きていく事も、名に踊らされ、家に弄ばれ、性に縛られ、己の意思を貫く事など儘ならない。泥濘のような不自由さを呪いながら死んでゆくが人の定め。
 それでも、その死に様だけはどこ迄も自由なのだと思う。死ぬことだけが、自身で咲かせる唯一の生き様になるのだと。踊らされ弄ばれ縛られ続けていた人生も、終わりだけは狂おしい程に自由なのだ。

 不思議と心は凪いでいた。強張っていた肩の力は抜け、四肢はゆっくり弛緩した。息を吐く。
 死に方は、もう決まっていた。

「何ッ――!?」

 馬の腹を蹴り上げ、後ろ手にされた指先で手綱を捉える。力任せに綱を引けば、嘶きを上げて蹄を打ち鳴らした。おのれセキナ、迷うたか。鎮まれ、鎮まらんかッ――。有象無象の狂騒、慄く声。暴れ狂う馬の足で崩された瓦礫が谷底へと落ちていく。暴れる馬脚が叔父が乗っていた馬を蹴り上げ、彼の矮躯が大きく傾いた。見開かれる濁った瞳。

 絶叫が谷底へと消えていく。磐永家の歴史は、これにて粛々と幕を下ろす。未練などは無かった。寧ろ清々しい程に心は凪いでいた。――死ぬのだな、と。死に方だけは、選べただろうか。この折られた筈の両の足で、終焉を踊ることが出来ただろうか。
 マダラを愛おしいなどと感じた訳ではない。それでも、死して尚彼等に迷惑を掛ける位ならば。己で全てを始末したかっただけなのだ。

 馬の背から投げ出された身体は、ゆっくりと落ちていく。仰ぎ見た空に真っ白な雪が舞っていた。花のようだった。あの日咲いていた、梔子のような白雪だ。

「      」

 閉じた目蓋に、添い遂げる事ができなかった男の顔が揺らいだ。マダラ様、と多分はじめて名前を呼んだ。決して届かぬ、哀しい響きだ。

 愛している、と一言告げられていたのなら、違う行く末もあったのだろうか。

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