三 或る女の懺悔

背中に鈍い鈍痛が走る。ぐっ、と乾いた声が喉を絞るように湧き、奔る痛みに眉を顰める。押え付けられた手首はとうに感覚を失った。扉間様、とその名を呼べば、射竦める瞳孔が僅かに収縮する。

「マダラと出掛けていたようだな」
「そう、ですが……それが何か」
「何か、か。彼奴とは随分と気が合うらしい」

ぞっとするほど冷ややかな声で楽しげに夫が笑う。変化に欠けた硝子玉のような瞳が、今は揺らぐように底光る。平生では考えられないような激情を映した赤。

「気が合うも何も、今更でしょう。世話になった上司と久々に会えば、誰でも世間話くらいはします。何か、問題でも」
「問題? 俺はただ、随分と気が合うようだと言ったまでだが。貴様の方こそ何か後ろ暗いところでもあるのか」
「おかしなことを、……いい加減離してください」
「断る、まだ話は終わっていない」

常では血も通わぬと噂されるほど冷静な扉間であるが、その実腹の底ではしめやかに熾火が燃えるような執念を持つ男である。なまじ怜悧な上に理性的な判断を是とするので表層には出さないが、不意にそれは現れる。

いつだっただろうか、確かまだ里が出来るずっと前だ。幾多の敵を屠る扉間を援護するように、私も最前線で戦っていた。そんな、とある戦でのことである。
彼は我々千手にとっての要だ。族長にも勝るとも劣らない、彼さえ居ればと思わせてくれる尊い人だった。決して欠くことは出来ない。扉間は十二分に能力知力共に優れた忍だが、それでも何が起こるかわからないのが軍場の常である。嫌な、澱のような寒気がしていた。私にもそれなりに役目があったので表立って彼を庇うような立ち回りばかりしていたのではないのだが、心の端で予感のようなものを感じていた。三日三晩続いた戦となり、誰もが疲弊する大禍時。その一瞬を突くように、凶刃が彼に迫ったのだ。
夢中だった。扉間の身を庇うように間に立ち、相打ち覚悟で術を放つ。敵を仕留めはしたが、私の身でその刃を受けとめていたのだ。顔から割くように袈裟切りにされた刀の傷。毒薬も仕込まれていたようで、いつ死んでもおかしくないような深手である。
頭だけは妙に冴えていた。――嗚呼良かった、これで。溢れ出す血潮と比例して、身体の芯は底冷える。寒い。目蓋に広がるのは闇ばかり。酷く、静かだ。そのまま膝を付き、私は意識を手放した。

死んだのだろうか、とぼんやり思っていたのだが、気付けば血塗れで褥に横たわっていた。痛みで朦朧とする視界。揺らぐ眼中で捉えたのは、私を見下ろす彼の眼窩だった。
心底、ぞっとした。凡そ味方に向けるような色ではない。情念と執着に染まった修羅のような、仄暗い激情。普段取り澄ました眼差しばかりの彼がそんな目をしていることが、堪らなく恐ろしい。
精神が磨耗する抜き身の殺気。このまま殺されるのでは、そう本気で思った。死の淵から生還した同胞の無事を祝うでもなく、ただ射抜くように私を見ていたのだ。

「愚かなものだ」
「は、……」
「死に傷を負っても、か」

全てを諦めたようなその声に、身が凍る思いだった。膿血が流れる手傷など生易しい。私の浅ましい思いを、軽率な罪を。自分が何をしてしまったのか、それを全て思い知らされた。
私は、ただ貴方に忘れられたくなくて、それで――。

あの時の寒気が一気に蘇り、罅割れるように喉が鳴る。弓張月のように歪んだ目。上擦る声が余程愉快なのか、暗く光る瞳孔は一層爛々と凝る。

「なあ露木よ、マダラに惚れたか」
「らしく、ないですね。趣味の悪い冗談なんて」
「あの男、貴様の顔を見て果たして何と言うだろうな」
「……っ、それこそ今更です。顔の傷? 今更それがなんだと言うのです、こんなもの貴方と結婚する前はずっと――」

すう、と。白く澄んだ指が左の頬を撫でた。堪らずに、逃げるように顔を背ける。顕になった耳元で扉間が囁いた。

「術を解け」
「……嫌です」
「今更なのだろう、何を嫌がる」
「嫌に決まっているでしょう、そんなっ」
「――俺は頼んでいる訳ではない、何度も言わせるな」

頬を這う手と逆の掌、私の手首を縫い付ける手に縊らんばかりの力が込められる。骨が軋む音がした。責め苛む痛みに思わず息を吐く。刺さる視線。征野でも終ぞ感じたことのない程の、途方もない殺気に背が泡立つ。

「解け」

その声に、力無く項垂れた。解けた髪がおどろに零れかかる。皮膚に当たる宵の風。視線とはまた異なる。動いた空気が表面を撫でていく。揺らぎを感じるのは、崩れた容貌の爛れる皮だ。ずぐずぐと古傷が疼き出す。
白い指先が髪を払い、掬い上げるように両手で顎を持ち上げられる。輪郭を捉えていた掌が、そうっと左頬に沿わされた。視線と空気。そして、明らかな熱。それらに私の皮膚は晒され、引き攣る様に肩が跳ねた。

「露木……」
「っ、ん……」
「お前は本当に、美しいな」
「み、ないで、ください」

――いっその事、醜いと罵ってくれれば楽になれるのに。
何故、その手は私の頬を包むのだろう。
何故、その眼は嘲笑ってくれないのだろう。
扉間の手が、ゆっくりと頬を撫でる。慈しむように、酷く優しく。まるで赤子の頬に口付けるように、その唇は私の頬を啄んでいる。焦がす甘い痛みに身を捩った。
てらりと唇が濡れていた。
嗚呼彼の綺麗な唇が汚れてしまうのに。その掌が撫でるのではなく、打ってくれればどれほど心は軽くなるだろう。じゅくと膿汁が溜まった穢れた頬に唾を吐いてくれたなら、私はどれだけ救われるだろう。

「可愛い露木。俺の、可愛い露木」
「いやっ……」
「嗚呼やめんか、痛むだろう」

どうしようもなく、掻き毟るように膿んだ肌に爪を立てる。泥濘む感覚。罅割れて、崩れていく。爪の内に破れた皮膚や血の滲んだ膿汁が溜まる。
心が割れてしまう。心臓が破れてしまう。裂けていくように胸の底が痛かった。
咎める声を上げた扉間に、指先を絡め取られる。大きな両手でふわりと包まれ、食むように唇を付けられた。
ねっとりと。あたたかな、舌。愛撫するように指先の膿血を舐め取られる。――嗚呼どうして。私は堪らない気持ちになる。鋭い悲鳴が喉を裂いた。

「やめ、て……お願い、もうやめて扉間」
「露木」
「ごめんなさい、扉間。御免なさい御免なさい、どうか、私を――」

どうか責めてほしい。私を許さないでほしい。
私は、貴方に浅ましい思いを抱いてしまった。醜い自己満足でいらぬ責任を負わせてしまった。一点の皹も無いその人生を、この手で壊してしまった。

扉間に縁談が来てるのだと、誰かが話すのを耳にした。出陣前夜、決起のために集まった夜話での何気ないやり取りだったと思う。彼も良い年頃で、名うて千手を背負う双璧。その立場を抜きにしても、冷静過ぎる嫌いはあるが芯は優しい情に厚い男だ。加えて見目も良い。思えば、一族内でも彼を慕う女は多くいた。然もありなん。酒を弄びながら、共感だか揶揄だか分からないような益体も無い言葉を吐いていた気がする。
その相手はな、さる大名の美しい姫君らしい。あの堅物がなあ、はてさて想像も付かん。いや道理だろう。あれは顔にも品がある、似合いの対になるだろうさ。露木も祝言には顔出すだろう、せいぜい花を添えてやれよ。
――ええそうね。
笑う顔は、皹が入っていなかったろうか。瑕疵無く綺麗に笑えていただろうか。
記憶が割れて、壊れている。粉々に砕けている。今となっては何も覚えてはいない。

私は扉間の事が、子どもの頃からずっと好きだった。添い遂げたいなどと思っていた訳ではない。恋仲になりたかった訳でもない。私は彼に相応しくないのだから。何を望んだのではなく、ただ堪らなく好きだった。
理知に富んだひそやかな瞳が、頼もしい広い背が、時折なごやかに緩む頬が、胸に馴染む言葉が。本当は誰より優しい彼のことが、幼心からずっと好きだった。
見てるだけで幸せだった。だから、彼が誰かと結婚するなら、その隣は私でなくていい。もっと美しく、気高く、傷一つない素晴らしい誰かと。誇り高い扉間とよく似合う、そんな自分以外の誰かと共に一生を歩んでいくのだろう。そうあってほしい、そうあるべきだ。それこそが道理である、と。見合う立場は弁えていた。

けれど、やっぱり好きだったから。
ただ、やわらかな心の奥の片隅に。忘れられない爪痕を残したかった。貴方に忘れられたくない、そう思ってしまった。貴方の為に死ねたなら、ずっと忘れられないでいてもらえる。その為に、醜い自己満足の為に自分を犠牲にした。
見ているだけで幸せだった筈なのに。そのせいで――。

「ごめんなさいごめんなさい、こんなに醜いのに。扉間、わたし――貴方のこと、ずっと好きだったの。愛しているの。本当に、ごめんなさい」

好きになって、御免なさい。私があんな邪な思いを抱いたから、優しい貴方に重荷を背負わせてしまった。貴方は、何も悪くない。全て私が愚かだったから。
真っ当なもの、己を恥じぬ正しきものが、私にとっては耐え難く恐ろしい。私は酷く汚れている、穢れている。真白に清い清浄なるものを、痘漿の滲んだ膿血が染めてしまう。
私が触れれば、全て駄目になってしまう。全部、私の所為なのだ。

真っ白い綺麗な指が、赤く膿んだ肌を這う。空いた手は背中に回され、背骨の一つひとつを丁寧になぞっている。泥濘んだ目が捉える世界はぬらぬらと溶けるようだ。濡れている、潤んでいる。湿潤な空気が、割れた痘痕から侵食する。跳ねるように肩が揺れた。
熟れる膿を啜っていた唇が、私のそれにとろりと重なる。扉間の舌が蹲る舌を拐い、吸われ弄ばれ愛撫する。微かに香る血の味など飲み込んでしまうほど、酷く熱い。くらり。頭が眩んだ。蕩けるように、彼の指先で拙い意識が解けていく。

「愚かな女よな」
「とびら、ま……あっ、……」
「なあ露木。お前が想う以上に、俺はお前を愛しているぞ」

鼓膜を擽る声に、痺れるように戦慄いた。嗚呼泣いてしまいたい。子供であれば、泣けば全て許されるのに。扉間に出会ったあの頃、傷跡一つなかったあの頃なら、貴方を正しく愛せただろうに。
それでもこの、虚空を睨むだけの虚な眼は、白く濁って何も映さない。涙さえ流せない、潰れてしまった醜い片の目。

彼の熱が身体の隅々まで私を満たす。幸せだ、途方もなく幸福だ。罅割れを埋めるような潤んだ熱を受けながら、嗚呼死んでしまいたい、そう思った。