3. I once was lost but now I am found


 白が嫌いだ。
純真で穢れのない、まっさらなその色を見ていると、心がいつも空っぽになっていく。
私という意識が拡散する。希薄になる。胸の内に空いた隙間が途方もなく広がっていって、何もない空洞に一人落ちていきそうな、果てのない感覚に塗り潰される。
真っ白な布団の中だけが私の居場所だった。その小さな暗闇でじっと耐えるように、ただ息を潜めているしかできなかった。いくら書物を読んでも、外を眺めても、何も満たされない。どこまでも揺らがない、静かな空白が私の隣には潜んでいる。

ずっと、寂しかった。
親兄弟は優しいが、病人ばかりに構ってはいられない。容態が悪い時は病院で、安定している時は一人で家の隅で息を殺すばかりだった。
――いらない子。どうせいなくなってしまうのだから、いてもいなくても同じこと。誰かに言われたわけでもないが、いつからかそう理解していた。
伸ばした手はきっと誰も掴んでくれない。
一点の陰りもなく濃密で、圧倒的で、傲慢な白が私を埋めていく。私が消えてしまう。紛れてしまう。分かっていても、逃げ場はない。
それでも、その空白の向こうにただ手を伸ばした。空を掻く。伸ばしたところで何も無い。そんな事、もう分かっているのに。指先から霞むように白に染まっていく。私が消えていく。消える。

――不意に、あたたかな掌が指を掴んだ。


「……せん、せい」
「すまんな、起こしたか」
「いいえ、ありがとうございます」

夢を見ていました、と息を吐きながら私は続ける。子供の頃によく見ていた夢だ。真っ白な世界に取り残される夢。いつも見ては怖くなって、一人きりで泣いていた。
あの頃と変わらず、ひんやりとした底なしの寂しさが今も胸いっぱいに詰まっている。喉の奥が苦しい。せり上がった悲しみが、きっと喉元の暗闇のすぐ近くまで来ているのだ。

「嫌な夢だったのか」
「……子どもですよね」
「いいや」

驚くほど優しい声でそう答えた先生は、手を握っている方はそのままに、少し力が籠められる。
いつも思慮深げに顔を顰めているのに、ふとした瞬間の眼差しが誰よりもあたたかい。時に冷徹とも評される先生は、本当は優しい人だった。非情に徹しているだけで、溢れんばかりの慈しみにその身の内は満たされている。
彼に手を握ってもらうのは、一等好きだ。冷えた指先があたためられていく。言葉にするより深くその優しさに触れられる気がして、どこまでも心が澄んでいく。肺いっぱいに陽だまりの陽気を吸い込んだように、身体の隅々の感覚が鮮明になる。色彩に乏しい世界が、眩むほど美しく色付いていく。その瞬間、嗚呼生きている、そう思えるのだ。

けれど、もう随分と目が暈けてしまっているものだから。掠れかけた視界は、部屋の白さに飲み込まれている。訳もなく不安になった。酷く、切ない。子供のように声を上げて泣きたくなってしまう。もう、すぐ隣にいる淡い影さえ、よく見えなかった。

「先生、お顔を見せて」
「嗚呼」
「――ああ、きれいな目」

輪郭が定まった。身を屈めて覗き込むように覆いかぶさった顔は、すぐ目の前にある。切れ長の目を縁取るように生え揃った睫毛は朝露に光る霜のようで、きらきらと瞬いて見えた。吹けば消えてしまいそうなほど繊細で、ひそやかに美しい。同じ白でも、彼を構成するものはこんなにも愛おしく綺麗だ。
揺らぐ視界で、吸い込まれそうな瞳をただ見つめる。異国の宝石のような、澄んだ赤。透き通る虹彩の淵は結膜に淡く蕩けている。
もっと近づきたくて、その頬に手を添えて顔を寄せた。鼻先が触れ合ってしまいそうな、そんな畏れ多い距離。私はどうしてしまったのだろう。恐れを知らない幼子のよう。きっと、疲れてしまった精神が子供の頃に戻っているのだ。
――先生が、酷く優しいから。
まばたきの音が聞こえる。静寂を壊さないよう、ささやかな声で私は話す。

「先生の目、だいすき。赤くて、綺麗」
「おかしな奴だ。忍は赤を嫌う者が多いというのに」
「私は、忍じゃないから」

何気なく言って、少し後悔した。忍でない私は、きっと何者でもない。もう随分と繰り返し思い悩んだ。今更だ。どうして今になって、そんなことが不安になるのだろう。
イノリ、と。彷徨わせてしまった視線を絡め取るように、先生が名前を呼ぶ。赤い宝石は隠れ、粒子の細かい目蓋が眼球を覆った。つられて私も目を閉じる。やわらかな温度が唇にそっと寄り添う。
もう死んでしまってもいい、そう思った。
囁くような熱だ。やわらかく儚い感覚の片隅で、朧げに溶け合っていく。あたたかい。ただ触れ合うだけの熱が、途方もなく甘くて。

――私はまた夢でも見ているのかな。最期にこんな、過ぎた幸せ。先生がどんな思いを抱えていたのか全て伝わってきてしまう気がした。全部受け止めて、応えてしまってもいい気がした。そんなもの、都合の良い妄言だと捨ててしまいたい。未練が、出来てしまうから。それはきっと、苦しいものだから。

「お前は、可愛い教え子で優秀な補佐でもあり、この里の宝であり、――俺が誰より好いた女だ」

息が詰まる。ふつり、と。堪えていた涙が、どうしようもなく目尻を伝った。――嗚呼嫌だ、とっくに覚悟していた筈なのに。

「……先生は、なんでも分かってくださる」
「そうだな」
「うれしいなあ」

溜息と共にそう呟く。少し長く話したものだから、それだけで酷く疲れてしまった。下がる目蓋。ゆっくりと視界が薄らいでいく。見えなくなる。消える。消えていく。いなくなってしまう。寂しい。堪らなくなった。ひとりぼっちは、もう嫌だ。嫌だから。

「先生、扉間せんせい、おられますか」
「嗚呼ここにいる」
「お側に、いさせてください。お願いです、――そばにいて」

声を詰まらせた先生が、何も言わずに私をきつく抱き締める。その感覚さえ、もう曖昧で。それでも、苦しいほどに嬉しかった。
この想いがどうしようもないのは分かっている。分かっていても、私はきっと求めてしまう。なんて欲深いのだろう。そんなこと、耐えられない。駄目なのに。物分かりの良いまま、慎ましく死んでいきたいのに。

「イノリ、見れなかった世界を、今度こそ見せてやる」

見れなかった世界。諦めた思い、届かなかった願い、捨てなければいけなかった恋心。全部、それら全てを拾い集めてもう一度飲み込んでしまえたのなら。
本当は、駄目なのに。
許されない。そんなことを望んでしまえば、きっと私は地獄に落ちる。この身が業火に焼かれるのは構わないが、尊い貴方が道連れになるのは耐えられない。それは決して、許されないことだ。敬虔でありたいと私は思う。
――嗚呼けれど、叶うなら。

「それを、望んでくださるなら」


あの時そう言ったのを、私はきっと後悔している。
思えば、生前は後悔ということには無縁だった。ただ生きていくだけで精一杯。過去を振り返り、指先から逃げる過ぎた思い出を悔やんでも仕方ない。ああすればよかった、こうすればよかった、そう思えるだけの選択肢が私には残されていなかったのだ。
後悔の一つも出来ない人生など、なんて味気無く詰まらないものだろう。
悔やむことは果てがない。腑が焼け、胸が軋み、喉を縊られる痛みが延々と続く。こんな焼け付く感情を抱え、平気な顔をして皆は生きているのだろうか。
――知りたく、なかったな。
こんなにも世界が美しく、残酷なほどに離れがたいものだと、知りたくはなかった。


その日はよく晴れた散歩日和だった。
別段散歩が好きというわけではないのだが、その日は誰もいない小部屋の中で待っている気になれなかった。この身体では何処へでも歩いて行ける、何でも出来る。息が切れることも、心臓が破れることもない。
釣りが出来ることも初めのうちは喜んだけれど、それだけだ。今の私にはそれだけしか出来ないのだ、と気付いてしまった。あの時の、生前積み上げた居場所へ戻ることは二度と出来なかった。一番戻りたい場所に還れない。彼の隣で、補佐として働くこと。文字を綴り、休息を供し、秩序を整える。私は私なりの言語で彼を心から愛していた。今はそれが叶わない。
この小部屋には、先生が合間を見て会いに来てくださる。折々の事を話してくださったり、時には花や贈り物も下賜されることもある。眠る側に傅いて、その寝顔をただ見守ることも許されている。与えようと、愛そうとしていることは痛いほどに伝わっていた。
――充分だ、そう思う事には慣れている。与えてもらえるだけで恐れ多い、決して多くを望んではいけない。それで充分であるはずなのに。

往来の先に、子供たちが集うアカデミーがある。別段用もある訳ではないので意識して足を向けたことはなかったのだが、ふと思い立って近くへ寄った。
敷地内を囲むように細い小道が整備されている。学び舎内部は関係者以外立ち入り禁止となっているが、ぐるりと周回すると中庭に至るのだ。校庭と地続きに整備され、子供たちが授業に励む様子を柵越しに眺められる作りになっていた。
任務帰りらしい忍の姿や、同じく散歩途中らしい人など数人がひっそりと物思いに耽っていた。
日の当たるベンチに腰を掛け、なんとはなしに子供たちの無邪気な声を聞いていると不思議なもので心が安らぐ。陽は穏やかで、かろやかな風もあって清々しい。どこからか、甘い秋の匂いがした。金木犀の花だろう。なんて心地良い。

うつらうつらと舟を漕ぐように、いつの間にか夢を見ていた。この身体は睡眠を必要としないのだから、単なる想像を巡らせていただけかもしれない。いずれにせよ、――夢を、見ていた。
通ったことのないアカデミーで友達と語らい、先生に師事している夢だ。切ないほど、あたたかい。決して叶わなかった夢に私がいる。捨ててしまった、いつかの幻影。
分別を知らない子供でもないのに、酷く、羨ましくなった。目覚めたくないなあ、と詮無いことを願ってしまう。ずっとこの夢に浸っていたい。

「――扉間先生!」

夢のうちで聞こえた声が実際に鼓膜に響いたものだから、少し驚いて目蓋を開ける。元は講師をしていた関係で、くだんの彼は火影となった今でも時折アカデミーで授業を受け持っている。今日はその日だったのだろう。校庭で何かの特別授業をしているらしい。直属の部下である小隊の忍も何人か来ているようだ、その誰かが呼んだのだろう。今の子供達は皆、火影様と呼ぶのだから。
眩む目を細め、陽光の向こうを仰ぎ見る。
光が弾ける庭の中に、美しい男がいた。

――嗚呼やっぱり、神様だ。
あの方ほど深く、里の平穏を願っている人を私は知らない。初代こそが木の葉の神だと言う人もいたが、私はそうは思わない。神とは時に苛烈で人々に試練を与える存在だ。優しく甘いだけではない。誇り高い厳しさを持つ者こそ、その名に相応しいのではないだろうか。
でも、と。すぐさま私は掌を返す。孤高の神はあれほど穏やかに、優しく笑うのだろうか。彼らの悲しみや苦しみを取り除き、代わりに生きる喜びを与えたい。また時には、その成長を考え、甘やかしてはいけないと思えばこそ、厳しく接する。慈しむように、守るように。親が子を思う、父の心。
なんてひたむきで、美しい営みだろう。先生はこの里を、この世をこの世界をきっと愛している。赤子が生まれ、健やかに育ち、木の葉という大樹を支える命が芽吹き根付く営みを心から愛している。
彼が愛した世界が美しくない訳があるだろうか。こんなにも愛おしく、世界は眩しい。見上げれば晴天の空。人々は安らいで笑い、ひそやかな静寂が木々を抜ける。私が立ち尽くす事も許されなかった世界は、憎らしいほどに美しい。

ずっと、この世界を見ていたい。そう思ってしまった。
未練など何も無かった筈なのに。後悔など感じた事も無かったのに。見ないように、胸の底に上手に仕舞い込んで死んでいった筈なのに。

知りたくなかった、知りたくなどなかった。本当は死にたくなんてなかったこと。まだ生きたかったこと。
叶うなら、もっと長く生きていたかった。
生きてその隣を歩いてみたかった。
この世に根付き、先生が愛した営みに溶けていきたかった。
悟ったふりで自分を誤魔化し、恋など分不相応だと諦めたくなかったに決まっている。心のままに彼を愛し、そして愛されたかった。
どうして、こんなにも早くに死ななければいけなかったんだろう。
どうして諦めなければいけなかったんだろう。
私だって役に立ちたい。あんな風に光の中で誰に恥じ入る事もなく、目を逸らす事もなく、胸を張って先生を愛したい。短くて不自由でも、そうやって必死に生き抜いたつもりだから。こんな、こんな死に損ないの塵芥で、こんな――。

目の奥が焙るように熱い。涙はとめどなく流れている。それなのに、残酷なほど身体は乾いていた。血も、心臓も、何もかも。どうしようもなく震える手を握りしめる。
もう何も見たくない、何も感じたくない。思ったところで、この塵芥は乾いている。この依り代では心臓ひとつ高鳴らない。――当たり前だ、とっくに死んでしまっているのだから。
生者と死者。決して交わることのない美しい平行線。私が立つ岸と彼の間には、厳かなほど揺るぎない境が存在している。どんなに手を伸ばそうと、例えどれほど望んでくれようと、この境界は定めし超えることのできない理の縁だ。

そこから先はあまり覚えていない。多分逃げるように立ち去ったというだけだった。
宛がわれている小部屋へと戻り、一人ただ泣き崩れる。この小部屋には何もない。紙達の囁き合う声。万年筆が綴る世界の連なり。静謐な秩序。あの、愛おしい二人だけの世界で、彼に捧げられるものだけで満たされていた全てが。私だけの、かけがえのない居場所に溢れていたものが何もかも欠けている。ただの空白だ。何も無い、今の空虚な私と同じである。
不毛だ。余りにも無益である。何の意味もない。もう、こんなことは終わらせなければ――。
例え先生の意に背くことになろうとも、私が。他でもない私が、自分自身で決着を付けなければいけない。

――もしも叶うなら、海が見てみたい。
一度だけ、そんなことを思ったことがある。もう十年以上前になるだろうか。内陸である木の葉隠れでは、ある程度腰を据えて旅をしなければ沿岸部へは辿り着けない。生前の体力ではとても無理だったのだ。誰にも言ったことがない、誰も知られず消えていったちっぽけな願い事。今なら、それが叶うだろうか。
穢土に縛られたこの身体は、魂の縛りを解くことで浄土に帰ることが出来ると聞いた。私自身の未練があるから、こうやって穢土に縛られたままでいる。意志を持たず、諾々と甘えて生きて死んだ結果だ。いい加減、目を覚ます時が来たのだろう。

あの人と見る海はきっとどこまでも美しい。見たことのないその幻の景色を、今はただ思い描いた。


額縁