(雷雨がふたりを守りました)


※十代前半くらいの間話です。最後の方に本編のネタバレがあるのでご承知おきください。



「イズナ、いい加減起きて」

縁側に仰臥したままの細い肩を揺すぶり、私は心持ち声を張る。一度眠ると中々起きない寝起きの悪い弟はこうでもしないと目蓋一つ動かさない。それに加え、ざあざあと硝子戸を叩く水音に負けないようにという意図もある。
しかしながら、よくもこんな姦しい中で眠れるものだ。大粒の雫が弾ける音が絶えず響いている。いつ崩れても可笑しくはない鈍重な鉛色が、つい今しがた耐えかねたと雨粒を落とし出したのだ。いよいよ降り始めたな、と眺めているうちに堰を切ったように本降りになってしまっていた。
一年で最も湿度が高く、じくじくと熟れるように鬱陶しい長雨の頃である。少しでも風通しの良い場所で涼みたいという気持ちは分からないでもないのだが、流石に雨を含んだ黒南風に晒され続けていれば身体も芯から冷えるだろう。現に、陽が遮られている今は蒸し暑いというより幾分か肌寒い。梅雨寒というのだったか。元来冷え性であるイズナが薄弱な腹を下す結末など容易に思い描けた。

「……、なに」
「こんな所で寝てるとお腹壊しちゃうよ。まだ眠いなら部屋に戻ったら?」
「ああ、うん」

イズナは薄目を開けて見返していたが、結局元のように目を瞑ってしまう。もうすぐ盛りを迎える木槿のような、透けてしまいそうなほどに薄く粒子の細やかな目蓋であるが、その繊細な見た目に反して随分と強情である。まんじりとも動こうとはしない。想像通りの反応ではあったが、私は思わず溜息を零した。
寝起きが良い方である私や兄にはあまり理解出来ないのだが、ある程度満足するまで眠らなければ起きられないらしい。まだ起きたくないというよりも、真実起きられない。己の意識如何というのは関係無く、ただただ眠気が勝ってしまうのだとか。流石に普段は自制しているようだが、たまの骨休みではこうして惰眠を貪るのがイズナの常だった。
平生であれば好きにさせておくのだが、先の通りの事情もある。見て見ぬふりは据わりが悪い。仮に兄ならば放ってはおかないだろう。

「ほら、こんなに冷えてる」

試しに頬に触れてみると、露に濡れたようにしっとりと冷たい。イズナは小さく唸り、窮屈そうに身体を丸める。その姿は黒猫のようで微笑ましくもあるが、薄い腹を守るための無意識なのだろう。矢張り寒いのだ。それでも起きる様子は依然伺えない。
こういった手のかかる我儘な性分と向き合う一瞬に、自分が放っておかれる訳がないという末弟特有の余裕を見せ付けられる。ある種の傲慢さと言ってもいいのかもしれない。私には縁遠い、あまりに馴染みが無さ過ぎていっそ尊敬の念すら覚えるほどだった。

私は自室に引き返し、使い慣れた夏掛けを引っ張り出す。枕は流石にいいだろう。その蒲団で余計な感情ごと隠すように、弟の身体へとぞんざいに覆い被せる。後で罪悪感を抱かないで済む、申し訳程度の気遣いと押し付けがましい義務感の発露。仮に兄や父に見つかれば叱られるのは分かっているのだから、真実優しいかと問われれば否である。所詮はその場凌ぎの空っぽな御為ごかしだ。
踵を返そうとした私を呼び止めるように、イズナが裾を引いた。

「ねえ、」
「なあに、どうしたの」

咄嗟に猫撫で声で聞き返し、宥めるように温度の低い手の甲に掌を重ね合わせる。――堂に入ったものである。これも結局は刷り込まれた義務感か。

「さむい」
「そんなところで寝てるからだよ。ほら、目が覚めたならちゃんと起きて」
「……ああもう、察し悪いな」

イズナは不貞腐れたように悪態を吐き、振り解いた手を私の背中へと回す。そのまま腕も掴まれ、麻の海へと引き込まれる。
呆れるほどの早業である。止める間もなく夏掛けとその腕に包み込まれてしまった。

「一人で怒られるのが嫌なら、素直に言えばいいのに」
「よく言うよ。俺が強請ったところでどうせ断るだろ」
「そんなことないよ」

その言葉通りに私は起き上がろうとはせず、成すが儘に委ねていた。身を捩り、収まりの良い位置を探す。華奢なイズナの腕にすっかり身を預けてしまうのは幾分か怖いのだ。結局腕には頭だけを預け、額を寄せ合いまばたきの風すら届くような間近に横たわる。冷えた床の涼やかさとぬるい体温がちょうど良く心地良い。
もう完全に覚醒し切ったらしいイズナはくるりと目を丸め、酷く意外そうに見返していた。

「なに、どういう風の吹き回し?」
「どうもこうも、イズナが仕掛けたんじゃない。もう気が変わっちゃった?」
「いや、そういうんじゃなくて……。らしくないだろ、普通驚くよ」
「……雨、当分止みそうにないでしょ。じきに雷も鳴るだろうから」

絶えず打ち付けていた雨音が、ばちばちと爆ぜる音に強まっていた。篠突くような雨。まだ日が暮れるには早い時分である筈なのに、墨を流した夕闇を錯覚するほどに薄暗い。
こちらを見つめる弟の肩越しに覗く荒天が一瞬閃く。ほの白い光が鈍色の帳に奔り、厚く立ち込めた雲の奥行が明らかになる。その光景が暫く目蓋の裏に張り付いていた。

「光った?」
「うん、もう近いよ」

その言葉に被さるように地鳴りのような音が空気を震わせる。天が裂ける音である。
耳をそばだて、消えた軌跡に目を凝らす様は怯えた子どものようでもあったのだろう。怖いのか、とイズナがわざとらしく頭を撫でながらせせら笑う。私は思わず苦笑した。勿論違うのだとは知っての事だろう。

「そういえば、イスゞは昔から雷が好きだったな」
「ああ、それはね、雷が鳴ると――」

轟、とまた雷が鳴る。聞こえなかったらしく、僅かに身を起こしたイズナは顔を傾け、やわらかい黒髪越しの耳を此方に向ける。寝転びながらの内緒話など何年ぶりだろう、ちょうど今しがた思い描いていた幼い日に戻ったかのようだった。
一等大切な秘密を囁き合うように、薄い耳朶に口を寄せる。続きを呟く寸前で、奔放に跳ねた毛が鼻先を擽ったものだから、私は小さくくしゃみをする。
細くやわらかい髪質であるイズナの髪は、湿気が多い日はふわふわと平生よりも落ち着きが無い。思わず撫で付けるように梳った。

雷が鳴っている間だけは、兄弟と同じ場所にいられた。
多少の雨であれば弟は決まって修行に明け暮れる、大雨どころか雪片が北風に紛れる冬の日でさえ、それは例外は無く。それでなくとも悪戯好きで活発なイズナは家中でじっとしているという事は稀だった。反して極力人目に触れないように生きるしかなかった身上の私には、家を取り囲む柵を越え、野山を縦横に駆け回るイズナを見送るしか術がなかった。優しい兄もまた同じであり、大人達の目を盗んで会いに来ると言っても限度がある。私のせいで叱られるのも嫌だった。だから何でもないような顔をしていたが、本当は堪らなく寂しかったのだ。
だが、雷雨の日は兄弟が決まって家にいる。暇を持て余したイズナが納戸に居座ろうが、落雷に怯えていないかと心配した兄が様子を見に来ようが、いつものように父の表情が固くなることはなかった。どういう意図があったのかは分からないが、この時ばかりは二人の側にいることが許される。だからこそ、私は雷が一等好きだった。
今でも、雷が鳴っている間だけは少しだけ優しくなれるような、そんな淡い気持ちが胸を満たす。きっと心が憧れしか知らなかった子どもの真白に戻りたがるのだろう。――随分と都合の良い話ではあるが。

姉さん、と今では余り言わなくなった呼称で弟が問い掛ける。まだ眠いのだろう、むつかるように幼い響き。言いかけて黙ってしまった私を怪訝そうに、だがそれすら楽しむようにイズナは甘く目を細めていた。

「雷が、何だって?」
「雷が鳴るとね、いつもお腹出して遊んでたでしょ。冷やして後から痛くなっちゃうのに。だから、近くで見張ってないと心配なんだ」
「……またそうやってはぐらかす」

不満げに尖らせた唇に思わず苦笑する。臍が取られると聞いた側から天に向かって腹を出していた頃のままではないが、随分と子供染みた表情である。
小さなまじないや言い伝えを疎かにしない信心深い兄が教えてくれた、雷神に臍が取られるという俗信。今思えば何を好き好んで選りに選っての臍なのかとも首を傾げてしまうが、小さい頃は純粋に恐ろしかったように思う。少し不安になった臆病者の私を笑い飛ばす勢いで、悪童のイズナは腹を出して遊んだのだったか。結局冷やしてしまって後から大層痛がっていた。懐かしい一幕である。

「それにしても、どうしてお臍なんて取るのかな、何の役にも立たないのに」
「さあね……」

仰向けに寝返りを打ち、視線だけで外を見遣る。イズナは右手で頭を支えながら、見るとはなしに私の方を見つめていた。

「臍、か」
「どうしたの?」
「いや、別に大したことじゃないんだけど」

空いたイズナの手が腹の上に、ちょうど臍を覆うように重ねられる。少し冷えていた身体の底に人肌の温もりがじわりと染みる。

「臍の緒ってあるだろ。あれで繋がってたのは姉さんだったんじゃないか、とか偶に考えるんだ」
「母様じゃなくて?」
「そう」

細い生命の綱で繋がれた先が母ではなく、双子の弟であるのなら、それは確かに据わりが良いようにも思える。顔も知らない母よりも、鏡を映したような半身の方が余程近しく感じるからなのだろう。血肉さえ丁寧に分け合った片割れの私たち。この世で最も分かち難く、最も明確に分たれてしまった間柄である。
母を知らずに育った弟にとって、私は姉であると同時に母でもあろうと務めていたのだから、そこからの想像なのかもしれない。いずれにせよ、迷信俗信の類を毛嫌いするイズナらしからぬ突拍子もない空想だった。どちらかといえば私や兄が得意とする領分である。

還りたい、と時折思う。生まれ育った生家にありながら一体何処へ、と自分でも理解できないでいたが、今この瞬間やっと分かった。母の胎内に、何も知らずにいられた二人きりの水の中に。生まれ落ちる前に、かえりたい。

何も宿っていない腹に耳を澄ませるように、イズナが私の下腹部に頭を預ける。何か聞こえるのかと私が聞けば、腹減ってるだろ、とイズナは無邪気に笑う。

「なんだろう、雷みたいな音がする」
「恥ずかしいなあ、早く離れてよ」
「嫌だね。これ結構面白いよ、引っ切り無しにごろごろ唸ってる。イスゞの腹は口より賑やかだな」
「あっもう、擽ったいって。こら、イズナっ」

じゃれ合うように縺れ合い、響く笑い声は雨音でさえ掻き消せない。嘘か誠か、私達は臍の緒が絡み合って生まれたと聞かされたが、こうして離れたくないと暴れたのだろうか。いつまで経っても甘えん坊の弟か、それとも生まれたくないと駄々をこねた私の方か。
外はいよいよ嵐ともいうべき荒れ模様。だが、こうして聞くだけの雨音は何故か無性に心が落ち着く。一説によれば母親の心音を思い起こさせるからなのだとか。
身を捩って暴れる私を取り押さえるように、イズナが夏掛けごと抱き竦める。すっぽりと世間から隔絶され、地続きである筈の現が引き波のように遠退いた心地がした。視覚が遮れると音が際立って鮮やかになる。偽りの心音に包まれながらこうして二人きりでいると、望んだ通り母の胎内に還ったかのようだ。

叶うなら、ずっとこうしていたい。
イズナと二人きりなら、心は安らかだから。私達以外の誰もいないなら、嫉妬も妬みも抱える必要はない。それはきっと得難く幸福なことだろう。

「一緒に叱られてもいいけど、父様が帰ってくる前には起きようね」
「ああ、兄さんにも内緒な」

指を絡め合うように手を取り合い、額を寄せて目を閉じる。聞こえるのは穏やかな弟の寝息と、優しい雨音。そして雷の遠鳴りだけだった。遠いどこかの、静かな深海のようである。
轟、と聞こえた雷鳴は先ほどよりもう遠い。どうにも気の早い夕立、俄雨の類のようだ。
どうかまだ鳴り止まないでほしい。霹靂が鳴っている間だけは、私は何の後ろめたさもなく、きっと正しく姉でいられる。せめて今だけは。だから、どうか後少しだけ――。



「こんなところで寝てると腹を壊すぞ」
「……、兄さん」

雨粒が一つ頬に落ちるように、振りかけられた声に我に返る。障子に寄り掛かるように物思いに耽っていたのだが、いつの間にか少し眠ってしまっていたらしい。
ふわり、と肌に触れる麻の手触り。愛用している羽織である。兄が掛けてくれたのだろう。

「お前は昔から縁側で寝るのが好きだったな」
「ああ、部屋より涼しいからね」
「そのくせ二人で一緒になってくっ付いて寝てただろ。あれ、却って暑かったんじゃないのか」

どうかな、と肩を竦めながら、私は唇に笑みを含む。私が弟と縁側で眠った雷雨の白昼。兄が私も共犯だと知っていたとは気付かなかったが、思い起こしているのはあの日の事だろう。
寄り添うように目を閉じたが、結局私は寝付けずに雷が止んだと共に自室に一人戻ったのである。兄に小言を言われる弟の何か言いたげな視線を笑ってやり過ごしていた。以来、イズナと縁側で寝転んだ記憶など終ぞない。暑かったのか寒かったのか、一度きりの温度など最早忘れてしまった。

「じきに雨が降りそうだ」
「もうすぐだろうね、遠くで雷が鳴ってる」
「夕立か、多少は涼しくなるといいが」

別段特に用事もなかったのか、それだけ言うと兄は部屋へと戻っていった。残された私は未だ縁側の片隅に座り、ただ雨の気配を探っている。
遠雷が聞こえる。間を置かず雨音も加わるだろう。

「もう降ってきた」

ざあざあ、と。さざめく雨音が硝子戸を叩いている。海鳴りのような、記憶の底に刻み付けられた懐かしい心音の響きである。
轟、と落雷が鳴り響いた。空気が鳴動する。恐らくは近くに落ちたのだろう。
無意識のうちに、腹の上に手を重ねる。
臍が取られるという事が、もしかすると生まれてこなかったという事に繋がるのではないか、と考えたことがある。指や目、生殖器官、果ては脳ですら、何かの器官を欠いて生まれてくる人間は稀にいるが、臍が無いというのはそもそも有り得ないだろう。母の胎に宿った瞬間に否応なく繋がれる命の綱。臍の尾が無い赤子などただ流れるだけである。その器官の名残が取られるということは、即ち存在を否定されるのと同じ事なのではないか、そう思ったのだ。
神が鳴る。天を裂く重い音が頭頂から足先へと伝う。腹の底を震わせ、骨髄まで染み入るような響きに私の意識は包まれる。
雷はまたの名を稲妻とも呼ぶが、その言葉通りに稲穂を孕ませ子を宿させるものだという。思えば臍の話といい、とかく出産を思い起こさせる俗信が多い自然現象である。
何も宿らない虚の胎に手を重ね、私は慣れた手付きで撫で摩る。弟の遺骨を食んで以後の癖であるが、思えば身重の女のようでもあるだろう。いまだに未練を捨て切れないらしい、全く執念深い。

仮に、あの雷に打たれたならば、弟の元へ行けるだろうか。もしくは、何かを孕めるか。
異類の稲を実らせる事が出来るなら、どうか私にも何かを宿してはくれまいか。
叶うなら、あの子をもう一度。

埒も無い事を考える愚かな姉を、遠い彼方で幻の声が笑った気がした。

(2021/06/04)


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