(シンパシー・シンドローム)
※本編から数年くらい前の番外編です。本編をお読み頂いてからの方が分かりやすい内容です。
やっとの事で縫合は終わった。再度消毒し、後は綿紗で覆って包帯を巻くだけだ。
ほぅ、と。まさに文字通り、私は神妙に潜めていた呼吸を緩め一息吐く。慣れない為と生来の大雑把な性格故だろうか、昔から細かい作業が得手とは言えない。矢張り、少々手間取ってしまった。
気付けば、酷く身体中が緊張していた。首を動かす事すら難儀に感じるほどに鈍重である。肩の関節を鳴らすと、張り詰めた重みに亀裂が入っていく。疲れた、と思わず私は呟いた。
「やっぱり慣れないね。いつもと逆だから落ち着かないよ」
「そう言われると、今更不安になってきたんだけど」
「大変だ、もう一回縫い直そうか。兄様にお願いしてみる?」
「冗談でも勘弁してくれ」
頬を強張らせたイズナが引き攣るような笑いを浮かべた。珍しい表情だ。少し苦笑いながら、改めて自分が施した跡を視線で辿る。手慣れていないのが一目で分かる、のたくるような不出来な紋様。流石に罵られはしなかったが、なんとも酷い出来栄えである。
無意識に、私は幾多の糸模様を撫で摩る。イズナによって刻まれた縫合痕。ひそやかに秘密めいた精緻な縫い目とは、とてもではないが似ても似つかない。私と弟、どちらも担うのは前線で戦う役目であり、医療班ではないのだから門外漢なのは同じである。だが、こうも差が出るものか。
先程の返答も冗談半分、半分は本気だった。いくら頼まれた事とはいえ、知勇兼備、眉目秀麗を絵に描いたような弟にこんな稚拙な痕を付ける所業は、何か途方も無い不敬を犯しているようでもあったのだ。単純に緊張で疲れたというのもあるが、荷が重いというのもあっただろう。しばらくは御免被りたい。もしも同じ事があるならば、次は兄に任せてしまおう。
「やっぱりイズナの方が器用だね。でもね、素直に医療班へ行けばよかったんだよ」
「俺が行くと無駄に大事になるから嫌なんだって。こんなの大した怪我じゃない」
「そうなの? 大した怪我じゃないにしては、随分痛そうだったけどね」
「……うるさいな」
しとどに染み込ませた消毒綿を充てがうと、イズナは勢い眉根を寄せる。端正な白皙には悩ましげな憂いを帯び、などという訳ではなく、膝を擦り剥いたと泣き付いてきた昔のまま。潤う虹彩のゆらめき、僅かに朱を透かした目尻、何も変わらない。まるで記憶そのままを写し取り、ひっそりと浮かべた水鏡のようだった。もう少し我慢してね、と思わず宥めるように私が言えば、子供扱いするなと不満げである。
予想通りというべきか、私の前での弟らしいと言うべきか。世間が了解しているうちはイズナの像とは少し異なる、去る日の面影が滲む子供じみた一面である。今更強がる必要も無いと思うのだが。
「痛い?」
「それ、いちいち聞く必要あるの?」
「どうだろう。でも、言った方が楽かと思って」
否定とも肯定とも取れない響きでイズナが唸る。飽く迄言いたくないらしい、別段無理強いするつもりも無かった。
「……慣れないものだな」
「いつもと逆だから?」
「いや、そうじゃなくて、」
イズナの視線が縫われた裂け目に注がれる。それから先の返答は無かったが、言わんとしていることは分かった気がした。
「イズナは昔から、痛いのが嫌いだからね」
「……そんな趣味、持ってる方がおかしいだろ。まあ、この稼業だと痛覚なんて無ければいいって時々思うよ。煩わしいだけだから」
「気持ちは分かるけど、随分乱暴だね。そうだなあ、イズナが少し痛みに弱いだけだと思うよ。怪我慣れしてないから仕方無いのかな」
ふん、と。イズナが不満げに鼻を鳴らす。
「それを言うなら、イスゞが強過ぎるんだろ。骨折でも脱臼でも何でもだけど、兄さんより頓着しないよな」
「そうでもないよ」
口先ではそう言いつつも、私は満更でも無かった。出来損ないの姉が優秀な弟に勝っている事など数少ない。その希少な内の一つが、怪我に慣れている事だった。
単純に捉えるならば、それだけ手傷を負わされているのだから、ごく当たり前に劣っているとも思えるが、逆に言えばその分痛みには慣れている。イズナが先程言った通り、この生業ならば決して損な事ばかりではないのだ。
詭弁ではあるだろう。だが、逐一顔を顰めて律儀に呻いているイズナを見ていると、少しばかり気分が良いのも事実である。いつもの詰られながら手当を受ける惨めさより余程快い。弟と違い、私には厄介な趣味など無いと思っていたのだが、果たして。
所詮は底意地の悪い優越感である。口が裂けても言えやしない。良い姉で、弟を心配する私で、イズナに全てを捧げるイスゞでいなければ。あの優しい兄のように、慈しみ深く。
――馬鹿みたいだ。
瓜二つの顔も自分の醜さも直視することが叶わず、結局曖昧に目を伏せた。私がありもしない姉弟愛を嘯いて笑うなどいつもの事だが、流石にその最中に弟と向き合うほどに面の皮が厚くはない。儘成らないものだ。
私はやり過ごすように包帯を探すふりをしていたが、真実目当てのものが見つからない。思わず首を傾げた。
「あれ?」
「どうかしたの」
「包帯、無くなっちゃってたみたいだね」
「そういえば、こないだ使った時に切れたんだったか。悪い、うっかりしてたな」
「気にしないで。私の怪我で使ってくれたんだから、いつも任せきりでごめんね」
そう言いつつ、私は腰を上げる。丁度いい頃合いだった。
「取ってくるよ、どこにあるの?」
「納戸の行李。よく使うから一番分かりやすい場所だけど、探すくらいなら俺が行こうか」
「駄目だよ、イズナは怪我人なんだから大人しくしてなきゃ」
「過保護だなあ。自分にもそれくらいしてくれたら、俺も楽なんだけど」
聞き慣れた嫌味を受け流しながら部屋を抜け出す。大して取り合うまでもない、いつもの事である。
視界が揺らぐような、軽い眩暈がした。眩むまでの明暗の所為か。陽光が差し込まない廊下は昼間といえど黙然と暗い。イズナの部屋は日当たりが良いこともあり、余計にそう感じたのだろう。
急いている様子で足早に部屋から離れ、私はやっと息を吐く。煮え滾る嫉妬を薄めて飲み下すなど訳無いはずであるのに、どうにも儘成らない。あの場から、弟から離れられる口実が出来て丁度良かった。
「……疲れたな」
イズナの過保護は煩わしい。
私がイズナによって庇護され、他でもない彼がいるからこそ存在を許された身である限り、度が過ぎた過保護をある程度は受け入れるより他ないが、傀儡として真綿に包まれて生きることなど到底出来ない。時勢が許さないというのもあるが、先程感じたささやかな優越、それすら取り上げるのかという恨めしい自我があるからだ。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。行き過ぎた加護など私を守る繭などではなく、いわば絡み付く首枷である。いくら上等な真綿であっても、盛夏に包まれれば息が詰まる。頭が茹だる。時には重いとさえ感じてしまうのは道理だろう。取り憑くかのように生ぬるさが纏わり付けばただ不快だ。
所詮、私は弟の出来損ないであり、身代わりでしかない。だが、イズナが生きている限り、私はうちはイスゞだ。他の誰でもない、イズナの姉としてやっと呼吸が許される。私が私としていられるなら、矮小な自尊心くらいは許してほしいのだ。恩着せがましい独善を愛だと嘯く、無邪気で傲慢な弟には私の痛みなど分かる由も無いのだろうが。
他愛もない思考を持て余しながら、私はようやく納戸の扉へと至る。檻のように重々しい木戸。開ける寸前で、ふと手が止まった。思えば、ここに来るのは随分と久しい。
噎せ返る埃と薄暗い冷たさ、重量さえ感じさせる深い静寂。無色彩と窓から差し込む一筋の眩しさに満たされた私の居場所。意図して避けていた訳ではないが、特段用も無く来ようとも思っていなかった。もしかすると、私が何かの用向きで来なくて済むように、兄か、あるいは弟が絶えず気を回していたのかもしれない。恐らくはそうなのだろう、優しい彼らしい事である。
なんて尊い、ありがたい慈悲だろう。
――あの頃なら、素直に喜べたかもしれないのに。
素直に、言い方を変えるのならば、ただ幼く愚かに。この陰鬱な世界しか知らなかった私なら、きっと途方も無く幸福に思えただろう。イズナの手の温もりを何の蟠りもなく素直に甘受出来た頃。姉さんと一緒にいたいと我儘を言う弟が純粋に愛おしくて堪らなかった、そんな真白の頃が薄汚れた私にも確かにあったのだ。
嗚呼、息が詰まる。四肢が重い。肺腑に嗅ぎ慣れた黴臭い記憶が充満する。胃が逆巻き、喉元まで怨毒が競り上がる。
がらり。振り切るように扉を開け、私は中に押し入る。ある程度の覚悟を要したのだが、開けた瞬間に拍子抜けしてしまった。
随分と、綺麗にされている。女中に言付けでもしているのだろうか、棚には行儀良く柳行李が並べられ、磨かれた床には埃一つもない。鼻腔を掠めるのは染み付いた黴の臭いではなく、静謐に堆積した時間の匂い。郷愁でも覚えるかと思っていたが、これでは懐かしみようもなかった。最早、私の唯一の居場所だった頃とはまるで別物である。
「ええっと……、どこかな」
包帯は呆気無く見つかった。棚はそれぞれの用途別に割り振られているようで、分かりやすいよう名札が折目正しく付けられていたからである。気の利いた事だ。それらしい棚にある適当な蓋を取ってみれば、待ちかねていたような澄まし顔で鎮座していた。
私はそそくさと掴み取り、元のように行李を戻す。整然と並んだ秩序を崩さないように、心持ち丁寧に。繊細な兄らしい、とその瞬間までは納得していたが、札に書かれていた文字はよく見ればイズナの筆跡だった。
――ならば、この空間の据わりの悪さは。自分の痕跡が、息遣いが、ささやかな居場所までもが。それすらも弟に奪われたように感じていたからなのだろうか。
「イスゞ」
不意に呼ばれた名前に振り返る。訝しげな顔でイズナが立っていた。
「あれ、どうしたの?」
「それは俺の台詞。思ったより遅かったから、探してるのかと思って見に来たんだよ」
「ああごめんね、待たせちゃった。ちゃんと見つかったよ」
態とらしく眉を下げ、申し訳なげに私は笑う。いささか白々しかっただろうか。戻ろうか、と声を掛けたが弟が踵を返す様子は無い。
「イズナ、帰らないの」
「なんだか懐かしくない? こうして此処に二人きりだとさ」
気紛れな弟との会話の齟齬に心中で息を吐く。何か思うところあるらしいとは察したが、なんとも間が悪い。あるいはわざとなのだろうか、と一瞬疑ったが、流石に馬鹿馬鹿しい当て付けだろう。
先程から腹に凝っている、薄影を煮詰めたような仄暗い鬱屈が邪魔をする。私を阻害する。今に空々しい仮面に皹が入ってしまいそうで、叶うなら今は一人にしてほしい。
だが、納戸の出入口は狭く、逃れようにもイズナが立ったままだと出られないのだ。それだけではなく、納戸に赴いた本来の用向きも加味すれば、私だけが先に戻るのもおかしな話だろう。
「でも、どうだろう。昔とはすっかり変わっちゃったからね」
肩を竦めながらそう答える。唯一露呈したところで差し支えない本心だった。
「ああ、確かにあの頃とは全然違うか」
「随分綺麗にしてるんだね、少し驚いたよ。兄様の言付けなのかな?」
「別に」
そう言いつつ、イズナは此方を見据えつつ後ろ手で扉を閉める。外界との地続きを絶たれる音がやけに大きく感じた。きしり、と板張りの床が鳴く。鼓膜をそっと取り上げられてしまったかのような静寂に、イズナの気配だけが鮮明である。
「ねえ」
不意に。唇に含むようにイズナが笑う。細い微笑。――否、嘲笑か。
きしり、とまた床が危なげに軋む。背中に触れる土壁の冷たさ。いくら整頓されているとはいえ、所詮は狭い三畳間だ。あまり近くに寄られたので気付けば追い詰められたように私と壁との距離が無くなってしまった。
「変わったのは此処? それとも、イスゞ?」
「……イズナ、」
とん、と。しなやかな腕が顔のすぐ横に置かれる。逃げる事は許さないと、そう言うかのように。
眼前の瞳の奥には、弟と瓜二つの顔が映っている。とてもよく似た、似過ぎている半身。イズナの偽物。それが戸惑うような表情を浮かべている。己の動揺を悟るのが嫌で、吸い込まれそうな宵の色から私は思わず目を逸らした。
「何も、変わらないよ。……ほら、もう戻ろう。まだ手当ての途中だよ、早く続きをしなきゃ、」
「また逃げる気か」
背けていた顔を無理やり向かされ、勢い顔を顰める。払い除けようとした手は壁に縫い付けられていた。完全に、イズナの支配下に置かれたような状況だ。気分の良いものではない。
「イスゞはいつもそうだ」
「……イズナ、離して。痛いよ」
「これくらいで痛い? 笑わせるなよ、さっき自分で言ってただろ。そんな下らない嘘吐くくらいなら、本当に痛くしてあげようか」
する、と撫で上げるように首筋へと温度の低い掌が充てがわれる。可笑しなものだ。生殺与奪を握っているのは向こうだというのに、縊られてでもいるような苦悶が影を落としている。まるで、泣き出しそうな危うげな表情。私を見つめる同い年の弟は幼子のように頑是無い。無感動にそれを見返していた。
「どうかしたの。何か気に障ったなら、姉さん謝るから」
謝罪というのは耳障りの良い方便である。通り一辺倒にその言葉を口にしていれば、とりあえずは遣り過ごせる。相手の本心に立ち入らなくてもいい、立ち入られる事もない。その場凌ぎの無意味な羅列。臆病で卑怯者である私には似合いの、言い慣れた常套句だった。
――愚かしい。この場では何の役にも立たないことくらい、弟に通じないことくらい分かっている筈なのに。案の定、逆鱗に触れられたかのようにイズナの気配が変わった。ひたり、と睨め付ける視線が冷たい。
「生き辛いのは自分だけだって顔して、そうしていれば楽なんだろ。苦しいのも満たされないのも何もかも、全部自分一人きりだと本当に思ってるの?」
「…………」
知らない、知りたくもない。イズナの本心など私にはどうでもいい。
私の心に皹を刻んで、そこから抉じ開けようとする真意が、何故そこまで実姉に拘泥するのか理解出来ない。したくもない。兄に対してならばまだ分かる、だが何故こんな成り損ないに。
引き裂かれた半身だから? 下らない家族愛? 哀れな忌み子への同情?
嗚呼、なんて麗しき慈悲。なんと出来た弟だろう。――虫唾が走る。
私はお前が嫌いだ。堪らなく憎い、疎ましい。お前の心なんて知りたくもない、どうでもいいんだ。
「イスゞは痛みに強いんじゃない、鈍感なんだ。俺の痛みなんてちっとも分かろうともしないだろ」
「……さっきから可笑しな事ばっかり言うね。ねえイズナ、私はねイズナじゃないんだよ。そんな事自分以外の誰も分かる訳ないでしょ」
「俺はそうじゃないって言ったら?」
思い上がるな、お前に私の何が分かる。何もかもに優れていて、一片の瑕疵すらないお前なんかに。
「さあ……。そんなの、単なる思い込みじゃないかな」
いつの頃からか、写し鏡の半身と向き合う事から目を背けていた。イズナが何を思うのか。何を見ているのか知るのが、堪らなく嫌だったからである。
弟を素直に愛せない自分を自覚すると辛いから。イズナが私を蔑んでいるのだと思い込まないと苦しいから。
兄の優しさが同情なのだとしか思えなくなった。弟が施してくれる有り余る愛が、哀れみと蔑みを丁寧に包み隠し、見目麗しく包装された傲慢な優越感なのだと煩わしくなってしまった。焦げ付くまでの愛情など所詮は自尊心を満たすだけの欺瞞なのだ、と。そう卑屈に受け取る方が楽なのだ。
どうしようもなく無様で、余りに惨めで耐え難い。二人の慈愛を素直に受け取れない己を自覚する度、私はあまねくから逃げ出したい気持ちになる。行く場所も、帰る場所も何処にもない筈なのに。愚かな嫉妬を燻らせ、瑕疵のない兄弟を訝る資格など無いことくらい、誰よりも分かっているのだから。
こんな不毛な問答を続けたところで慰めになる訳でも、まして気が楽になる訳でもない。それでも縋るように繰り返してしまうのは、偏に私の弱さ故である。本当に――、儘成らない。
「私とイズナは違うよ、私は弱いから」
「イスゞ、」
「イズナは、相変わらず良い子だね。昔から、何も変わらない」
数歩歩けば端から端へと行き着いてしまう、狭く薄暗い三畳間の世界に風穴を開けてくれたのは他でもないイズナだった。だがそれは晴れやかな外界へと繋がる出口だったのか、風雨が吹き込む罅割れだったのか今となっては分からない。
井中の蛙は地の底で闇に溶けてしまえば心穏やかなのだろう。大海に放り出されたところで藻屑と成り果てるだけなのだから。決して届かぬ遠い天を仰ぎ、滴る一掬いの雨水を必死になって舌で受け止めるように一筋の光に焦がれる。身の程を弁えているだろう。――それでいい、それだけで良かった。此処にいれば安らかだから。誰にも傷付けられる事なんて無いのだから。
そうやって泥濘む地底で生きるのが似合いの私を気紛れに摘み上げ、炎天の渇いた地に引き摺り出したのだ。眩しさに皮膚が爛れ、熱さに眼球が煮える。
独善の慈悲など所詮は呪いと同じである。同情は蔑みと同じ、我が身が惨めになるだけだ。
嗚呼耐え難い。痛くて、苦しくて堪らない。
「お願い、もう私のことなんて放っておいて。イズナに同情されるだけ、その分惨めで辛いの」
「……イスゞは、本当に何も分かってない」
同情、という言葉にイズナは僅かに目を見開く。一瞬苛立たしげに眉を寄せた後、吐き捨てるように言った。
私が明確に弟を拒絶するのは思えばこれが初めてだ。傷付いた顔でも浮かべられたなら可愛げのひとつでもあると愛せるか、だがそれすら結局私は素直に思えないのだろう。最早姉と名乗る資格すらないのかもしれない。
――今更か。生まれてきた価値など、そもそも怪しい親不孝者である。
「同情だけなら、余程よかっただろうな。まだその方が健全だ」
「……、え」
「本当の忌み子は、生まれてくるべきじゃなかったのは、俺とイスゞどっちだったんだろうなって」
輪郭をなぞるように、留まっていた指先がゆっくりと下っていく。そのまま心臓の真上に重ねられ、胸ぐらを掴むように握り締められた。亀裂のように皺が浮く。
――殴るつもりか。
思わず身構えたが、イズナは依然何も言わない。活殺自在。それこそ痛みには慣れているのだから、仮に殴りつけられたところで痛くも痒くもないだろう。騙し合うように愛を嘯くより、その方がお互いに楽になるのではないか。
「このまま、壊してしまいたい」
振り絞るようにイズナが言う。射るような視線が僅かにはだけた胸元に注がれていた。
殺したい、ではなく? そう思ったが聞けなかった。多分、その瞬間に気付いてしまったから。その瞳の奥に燻ぶっている陰火が、ただの気紛れでもなく、辱めるだけの悪意でもないことに。
意図する蹂躙が暴力ではなく、別の何かなのだとしたら。それが目的ではなく、至るための手段なのだとしたら。
悪寒が走る。心臓が脈打つ度に、寒気が罅割れのように広がっていく。予感ではなく、これは紛れもない確信だ。見ないように、気づかないようにしていた弟が抱える生き辛さの核心である。
「言ったところでイスゞは信じないだろうけど、俺は哀んでも蔑んでもない、単に欲しがってるだけだ」
「……待って、」
「俺の足りないものは他では埋められない。生まれた時から俺達は分たれて、欠けているんだから。だから、俺は姉さんが――」
「っ、イズナ!」
止めて、もうやめて。知りたくない、聞きたくない。これ以上膿血が流れる傷口から私の中に入ってこようとしないで。
弟は思い悩まない、苦悩など存在しない。一片の瑕疵すら無く、完璧でなければいけない。
イズナの本心を知ってしまったら、きっと迷いが出る。憎むべき対象が自分と同じ懊悩を抱えるひとりの人間だと気付いてしまうと辛いのだ。耐えられない。自分ひとり分の苦悶すら持て余す私には、イズナの分まで背負ってやれることなど叶わない。それを受け止めてまで恨むことがきっと出来ない、荷を下ろしてしまいたくなるに決まっている。
都合が良いだけの、嫉妬に値する、憎悪するに堪えうる存在であってほしいから。完璧な半身に嫉妬する惨めな出来損ない、その構図が一番据わりが良い。私は所詮自分で作り出した偶像しか見ていないのだ。
その瞬間、イズナの目から一滴の涙が伝う。無表情で流すその雫が、真実弟が流した一匙の感情であるのか、私の涙が彼の涙腺を使って流れ出したのか分からなかった。
痛みに鈍感な私の代わりに泣くのは、決まって弟の役目だったから。私は何てことないのに、まるで我が事のように泣き喚く。泣き虫で、甘ったれな末の弟。
無意識のうちに拭い取ったのは、捨てきれない未練か、染み付いた義務感か。添えた手にイズナが頬を摺り寄せる。一瞬だけ、ただ愛おしいと感じている自分がいた。それを振り払う威勢も気概も、今の私には残っていなかった。
「痛いって、そう泣き付いたら昔みたいに慰めてくれるの?」
「……勿論」
「ああ、そう。それも悪くないな」
覚えとくよ、と静かに呟くと、イズナはようやく身を離す。私が取り落としてた包帯を拾い上げ、何も言わずに納戸を後にした。
足音が遠ざかる。綻びのない静寂と寂寥が帳のように降り下りる。一人きりでどこか遠い奥底に落ちてしまったような儚い感覚。
懐かしい心地だった。行かないで、と幼い私はいつも言えずに蹲っていたのだったか。
上腕に痛みが走ったような気がして、私は無意識のうちに撫で摩る。ちょうど、イズナが怪我をした辺りだった。
きっと、最早消えてしまった傷痕を思い出しでもしたのだろう。私の身体はそこここに傷だらけなのだから、そのどれか一つが気紛れに泣いたのだ。
痛むはずのない幻影だと笑いながら、それでも私はしばらく動く気にはなれなかった。
(2021/05/04)
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