(きみと沼底 ※扉間)
最近の扉間推しが暴走してます。これ元々イズナ夢だよね?てなりたくない方はご遠慮ください。
※本編後。うっすら扉イズ風味。
千手扉間には恐れているものが二つある。
元より合理的で現実主義を煮詰めた人間である。世にある大抵の不条理を均し、未知を排除し、己の恐れとなるようなものは丁寧に摘み取って生きてきた。世間一般で恐れられる霊魂、死者の魂なども理を突き詰めて術へと落とし込む。扉間とはそういう人間である。
その扉間が恐れていることの一つが、己の兄である。
忍の神とも称される千手柱間。豪放磊落な気質であるが、堪忍袋の緒が切れた瞬間はこの世の誰よりも恐ろしい。扉間が明確に死の恐怖を感じるのは、この兄が本気で怒りを露わにした時だけだった。
そして、もうひとつが、これだ。
「この目が怖いか、扉間」
ふ、と嘲るような笑みが、形の良い唇にうっすらと滲む。
扉間は思わず漏れそうになった舌打ちを噛み殺し、何故そこまで警戒しなければならないのかと自問した。
舌打ちひとつ、呼吸ひとつすら掌握されているような心地である。
胸の内から、臓腑の隅々まで何もかもを切り裂き見通す。その眼の鋭さ。本能へと一針ひと針縫い付けられた恐怖を呼び覚ます。
正確にいうと、扉間が恐れているのはこの状況ではない。うちはの眼を心底恐れている。
「何もしない、顔を上げろ」
「……何のつもりだ」
「俺の目を見ろ。いや違うな、俺の顔は誰に見える」
妙な問いだった。元々腹の底が見えない男だとは常々思っていたが、真意がまるで掴めない。
話がある、と夜半に何の前触れも無く扉間の屋敷へと乗り込み、いきなり押し問答を始めたのは、うちはが抱える黒衣の宰相——うちはイズナである。
前線を退いた今は、主に法体を活かした政教一致や人身掌握などの側面で辣腕を発揮し、族長であるマダラよりも扉間とは付き合いが多い。
元は血で血を洗うような鍔迫り合いを繰り返した相手である。信頼しているとは一概に言えないが、味方にするとこれほど頼もしい男もいなかった。
ただ、この男の腹の底だけはどう覗こうと何一つ窺えない。
人は大抵、他者の感情を慮る際はその目を見る。常日頃のイズナは幾重にも巻き付けた包帯で目元を隠していた。そのせいで表情が読み取れず、底が知れない。
今この瞬間はそれを解き、扉間の前で彫像のような素顔を晒している。
だからこそ、恐ろしかったのだ。
普段、扉間がイズナと何の気なく話せているのは、その目が隠されているから、——抜身の刀が鞘に収められているのと同じだからである。冴え渡る切先が喉元に突き付けられていれば、誰であれ身が竦む。
「妙だと思わないか?」
「は、」
妙といえば、最も妙なものはその目だった。
この男が前線に立てなくなったのは、マダラに眼球を譲ったことで盲目となったからである。穿たれた眼球は光を失い、ただ眼窩に埋め込まれた硝子玉と同じ無明のものであると聞く。
だが、今こうして向き合ってみると、一体どうだ。
強膜は白磁のように澄み切り、濁りの無い虹彩は瑞々しく、瞳孔は確かに——。
「見えているのか」
「嗚呼、視力自体は落ちているけどな」
「ならば何故、盲人のふりなどしている。その様子ならば戦えるだろう」
「それを答える前に。お前、この顔に見覚えは?」
ひらり、と躱すように掴みどころ無く、イズナは続ける。見覚えも何も、扉間が知るうちはイズナそのものの顔だ。
夜の闇を塗り込めたような深い虹彩、縁取る睫毛の艶やかさ。精緻な目鼻立ちは、男でありながら傾国さながらの端麗さである。うちはの血を色濃く体現した、作り物めいた冷たいまでの美しさ。
薄い目蓋が伏せられる。長い睫毛が行燈の光を受け、しっとりと深い影を目元へと落とす。
そこまで見取って、扉間は背筋に薄ら寒いものを覚えた。
「よく似ているだろう」
「誰だ、貴様」
女のよう、ではない。
どこからどう見ても、女にしか見えない。
骨格の儚さ、肌理の細やかさ、立ち上る色気。何より、表情の機微。
似ている。似ているのだが、明確に違う。イズナはこんな、透き通るような憂いのある表情を浮かべる人間ではないはずだ。最も苛烈で、全てを灼き切るまでに厳酷な男である。
「今のうちはイズナはこの俺だ。ただ、お前が知っている、戦場で切り結び、命を狙い合ったうちはイズナそのものではない」
「……影武者か」
「流石、察しが良いな」
イズナは身を乗り出し、覗き込むようにして幽かに笑う。静かな表情だった。
「折角だからこっちの声で話そうかな。たまに出さないと忘れてしまうから」
「——っ、お前」
呆気に取られている扉間を他所に、ふう、と息を吐く。その唇から漏れるのは低く落ち着いているが、涼やかに澄んでいる。紛うことなき、若い女性のそれである。
「イズナが双子だったのは知っている?」
「知らん。双子なんぞ、うちはでも忌子だろう。まさか、そのために育てられたのか」
「そうだね。私はイズナの双子の姉なんだ」
事も無げにイズナは、——否、イズナの姉と宣う女は言う。
畜生腹と蔑まれる双子の行く末など、何処の一族でもそう変わらない。忌子として闇に葬られるか、日の当たらぬ影として育てられるか。いずれにしてもそう恵まれたものではない。
それを、この女は軽やかに、悲しみや憤りすら微塵も感じさせずに平坦に語る。
ぞ、と。扉間の背筋に冷たいものが奔っていた。
目を見れば、その人間が何を考えているのか大抵分かる。扉間はそう自負していた。だが、この女に限っては目隠しを外した今の方が余程読み取れない。底が知れないのではない、抜けているのだ。
真意はなんだ。何が望みか。
「本当のイズナはどうしている」
「それは、分かって聞いているのかな。わざわざ聞かずとも察しは付いているはずだけど」
首を傾け、ひたりと冷えた笑みを浮かべる。完璧な曲線を描くその目は、微塵も笑っていない。
「扉間、他でもない君が殺したんだよ、覚えているでしょう」
「……あれは、」
「お腹を裂いてね、可哀そうに助からなかった」
余りにも平らかな声だった。
他でもない肉親を、目の前の男に殺されたのである。怨嗟に塗れ、懊悩から絞り出された果ての言葉であって然るべきだ。それを、この女は単なる事象、事実として述べている。
ぐ、と引き攣るように喉が呻く。殺気は無い。だからこそ、堪らなく恐ろしい。
「それで、今更仇でも取りに来たか」
「ふふ、それもいいね。あの子はあんまり好きなものがなくてね、花なんかは嫌いだったんだ。だから、墓参りには行くんだけど、何を供えてあげたらいいのかいつも迷っちゃう」
世間話でもするように、——いや、この女は本気で世間話だと思っている。
「扉間、君の首を供えたのなら、あの子はきっと一番喜んでくれる」
穏やかに目を細めながら、酷く物騒なことを平気で宣う。戦慄した扉間を見咎め、にっこりと顔を綻ばせる。ふうわりと花が咲いたように、美しく。
そのまま、女は慈しむように扉間の首筋へと掌を置いた。冷たい。ひゅ、と喉奥で縊られたような細い息が爆ぜる。
思わず弾き飛ばそうとした瞬間、女の顔が僅かに歪んだ。
責め苛まれているかのように、酷く、苦しそうに。
「そうしたら、私を許してくれるのかな」
誰が、という問いは中空を漂い、夜のつつ闇へと消えていく。
独言か、扉間への問いかけか、マダラへの期待か、あるいは、——死んだ弟への懇願か。
どちらも話さない。扉間は呼吸すら忘れていた。名残惜しげに白い指先で輪郭を辿りながら、引き攣る首筋から掌が外れる。ようやく、深く息を吐いた。
「っ、はっ、」
「ごめんね、怖がらせたかな」
「……貴様、っ」
睨み付ける扉間の眼光を物ともしない。ただ申し訳なさそうに眉を下げ、こちらを気遣わしげに覗き込んでいる。
扉間自身、分からないのだ。自分がなぜこれほど怯えているのかが。
仇だと詰られたのなら楽だっただろう、理解が出来る。
女は殺気も敵意も抱いていない。それだからこそ、一挙手一投足に至るまで支配されているような心地になる。
「ねえ扉間。取引をしよう」
「取引だと?」
「そうだよ。私と君の利害は一致している、私は兄様、ひいては里の皆に存在を知られたくない。この生涯をうちはイズナとして全うしたいと思っている」
そこで首まで覆っている高襟を指にかけ、隠されている自分の喉元を晒す。
細い、とまずは思った。
男にはあるべき喉仏の隆起が一切無い、骨灰磁器のように滑らかで白い首だ。
扉間は思わず生唾を呑み込んだ。
「ただ、見ての通り私は一応女で偽物だからね。元々の私を知る人間には幻術で記憶を書き換えたけど、それだけで立ち回れるとも思えない。だから、君には手助けをしてほしいの」
「取引という割に、貴様に理があるようにしか思えんが」
「そんなことは無いよ。だって、君は里を守りたいのでしょう?」
女は静かに続ける。
「イズナが死んだと目を醒ましたなら、兄様はこの里もこの世も、きっと何もかもを壊そうとするよ。君も困ると思うけど、いいのかな?それでいいなら好きにすればいい」
「脅しか」
「事実だよ。それに、私がしたいのは取引だって。君にただ手伝ってほしいだけなんだ」
些か困ったように肩を竦め、しなやかに長い指を顎へと添える。いつもは手袋で覆われているそれも、やはりそうとして見れば、繊細な女のものにしか見えない。
「困ったなあ、言い方が悪いのかな。私はね、兄様の夢を守りたい、だから里を脅かしたくないんだよ。兄様の安定、うちはの平穏、その為にこのまま上手く騙し通したいだけなんだ。そうしていた方が結果的にこの里も守られていく」
滔々と女は語る。
「君に頼みたいのは口裏合わせだけ、私がうちはイズナであることを否定しないでほしいんだ。それだけでいいんだよ、その方がみんな上手くいくでしょう」
どこまでも軽やかに、自分自身を焚べることの対価を解く。
「君は私が嫌いだろうけどね、私だって別に君のことは好きじゃない。他でもないイズナの仇だもの。それでも一番信用できるのが君なんだ」
この女は、性別も名前も何もかもを捨て、ただイズナであることを望んでいるのか。何のために。マダラのため、忍界の平和のため。
それだけか。否、違う、恐らくは。
「だからね、扉間、他でもない君に協力してもらいたいんだ。手伝ってくれるよね」
「……分かった、可能な限り手を貸してやる。マダラが暴走するのは俺も避けたいところではあるからな」
「ありがとう、君は合理的な人間だから助かるよ」
結局、この女の掌で転がされていたのではないか。信頼という耳障りのいい言葉で覆い隠し、手綱を付けて飼い慣らし、利用されているようなものである。
そう思えば酷く癪だったが、断ったところで扉間に利が無いのも明らかだった。ようやっと安定しつつある恙無い平穏が望めるのならば、乗らない道理が見当たらない。
胸の奥底から一つ、忌々しげな舌打ちを零す。
女は気にした様子も無く、常のように包帯を巻き直し、部屋を後にしようとしていた。
「待て」
「何かな」
「貴様について、最低限のことを知っておきたい。一体、何者なんだ」
「言った通りだよ。イズナの双子の姉で、マダラの妹」
答えになっているようで、何も答えてはいない。逡巡した後に続けた。
「もし何か知りたいのなら、君も親しくしているカガミに聞くといいよ。あの子には私の事情も教えてあるし、何でもよく知っているから」
「カガミだと?なぜ貴様が答えない、己のことだろう」
「君にとってはその方が聞き易いんじゃないかと思ったんだけど、違ったかな。カガミを虐めないであげてね、あの子は良い子だから」
はぐらかしているのか、本心から聞きやすい相手を提示しているのか判断がつかない。その曖昧さがこの女の捉えどころのなさだった。
「名は何という。貴様自身の、本当の名だ」
「嗚呼、それは——」
唇に笑みが浮かぶ。目元は伺えない、それでも。
どうしようもなく静かで、濁りの無い透き通るような哀切を湛えた悲しい微笑だった。
「それだけは教えられないかな。もう要らないから、とっくに忘れちゃったんだ。私はイズナだし、私はあの子のものだからね。呼んでいいのはあの子だけだよ」
◇◇◇
どちらがきっかけだったのかは思い出せない。恐らく、扉間が閾値を超えたのだろう。
最初は女にイズナを重ねていた面もあったのだろう。あれほど鮮烈なまでに、扉間の網膜へと焼き付いた相手は後にも先にもいなかった。あれは恐らく執着であり、憧憬であり、恋慕にも似た何かだった。戦場で幾度も刀を交え、殺し合い、結果として命を奪った。決して手に入らなかったあの男の面影を、瓜二つの顔を持つ女に重ねていた。
だが、気付けば、それ以上に。
この女が、余りにも哀れだった。
肉親であるマダラからも存在を切り捨てられ、弟であることを望まれる。一族において彼女という人格を求めている者など誰もいない。
その事実に慟哭する事もなく、ただ死ぬまでイズナとして生き続ける地獄を進んで受け入れている。
「……イズナ、イズナっ、いかないで、待って、」
「っ、おい」
「姉さんをひとりにしないでっ」
女はいつも夢の内で死んだ弟の夢を見る。決まって魘され、泣き喚いて飛び起きる。
「また、あの夢か」
「……ごめん、うるさかったかな。起こしちゃったね」
「いや、構わん」
構うどころか、それを見せている元凶は誰なのか。
大丈夫か、などと気休めの戯言を吐けるだろうか。大丈夫であるはずが無い。
どう続けていいのかすら分からなかった。この女が一番会いたいと思う弟を殺したのは他でもない自分である。
女は夢の境を惑うように透明な目で中空を眺めていた。どこを見ているのか曖昧だった視線が、半身を起こしていた扉間へとようやく注がれる。
「どうして、君がそんな顔をするの」
「……すまん」
「いいんだよ、謝られても何も戻らないから。それより、起こしてごめん、悪かったね」
するり、と真綿の布団が滑り、剥き出しの肩が夜明け前の薄闇に浮かび上がる。
薄い肩だ。力を込めれば、容易く折れてしまいそうなほど。
上背もあるため並みの女より骨格はしっかりしているが、裸であれば矢張り男には到底見えない。凛とした華奢な体躯である。
辿るような扉間の視線に気付いたのか、女の手が覆うように身体を隠す。
「扉間、今更だけどさ、あんまり見ないでほしいな。醜いでしょう」
「……俺は、そうは思わん」
確かに、女の肢体は世間一般の美しいものとは程遠い。
底が透けてしまいそうなほど仄白い肌をしているが、その身体中は戦で付けられたであろう生々しい刀傷、火傷の引き攣り、文様じみた縫合痕が無数に散らばっている。
その中でも異様なのは、両の乳房が欠けていることだった。鎖骨から下は、かつてはあった女としての象徴が剥ぎ取られ、荒く刻み付けられた醜い傷痕しか今は残ってはいない。うちはイズナには無用なものだと、自ら削ぎ落としたとのことだった。
イズナを演じる上で、名前を捨て、女としての証すら切り捨てる。
永劫消えないであろうその傷の深さが、女の抱える業の苛烈さでもあった。
「目が冴えちゃったから、もう帰ろうかな。君はそのまま寝るでしょう、湯殿だけ借りるよ」
「いや、それなら、……来い、まだ帰したくはない」
「っ、ん、本当だ、随分と元気みたい。君もどうしようもないね」
「お前もだろう」
淡い笑みを浮かべ、女は手折られるように床の上へと引き戻される。
「そうだね、私は君よりも、もっと。弟にもよく言われたっけ、姉さんはどうしようもないねって」
その冷え切った身体を抱き竦めるたび、扉間の臓腑には鈍い痛みが走る。
腕の中にいるのは、まぎれもなくこの女だ。しかし、その肌に刻まれた傷痕に触れてしまえば、自分が腹を切り裂いたうちはイズナの、血に濡れた感触が鮮烈に蘇る。イズナを抱いているのではないかと悍ましい幻視をしてしまう。
そして、また夜が明けると、彼女はイズナとして生きざるを得ない。
せめて今だけは、ここに留めておきたいと思った。
堪らなく哀れで痛ましく、愛おしいから。
扉間は冷静ではあるが冷血ではない、そもそもは情が深い人間である。だからこそ、誰からも必要とされなかった、イズナの影を合理として捨て切れない。
止せばいい、双方共に報われなどしないのだ。扉間に女を救えはしない、女も救われたがってなどいない。むしろ、情愛を注ごうとするたびに古傷をこじ開け、指先で抉り骨まで暴こうとしている。罅割れに煮え湯を注ぐようなものである。
それでも、愛おしくて堪らなかった。
「お前は、拒まないのか。俺が誰であっても」
「拒む理由がないよ、君は上手くて気持ちが良いし。それにね、扉間に抱かれてると、少しだけ、楽になる。報いを受けているみたいで」
扉間が求めれば、女は拒まなかった。ただ流されるように身を委ね、溺れるように喘いでいた。
弟を殺した仇を唯一の理解者であり共犯者として選ぶ、その呵責に耐え切れなくなったとき、自らを劫火にくべるように女は扉間に抱かれる。
快楽など微塵も必要としていない。求めているのは処刑としての痛苦である。
「裏切ってばっかりだ。酷い姉だよね。どうして、あの子は死んじゃったのかなあ」
「……俺が殺したからだろう」
「違う、そうじゃないの」
首へと回された腕に、僅かに力が籠る。
「わたしが、代わってあげたかった」
何故お前が苦しむ、と扉間は思う。
扉間にイズナを殺した罪悪感は微塵も存在しない。戦場でのことだ、手を抜いていたら自分が殺されていた。悉くは因果の果てである。
ただ、この女が悔やむ理由は無いだろう。論理が飛躍している。
「責任があるのなら、この俺だ。お前が苦しむ必要など、どこにも無い」
「そうかもしれないね。でも、そういう話じゃないんだ」
恨めと言ったところで、恨んで楽になろうとはしない。彼女の生き辛さ、弟を置いて生き残ったことに対する罪悪感の根深さ故だった。
それを見せつけられたとき、扉間は堪らない気持ちになる。
愛しい女が自らを傷付けることに加担していると分かっていて、手が引けない愚かさも。それを分かっていてもなお、焦がれてしまっていることも。
「イスゞ」
果てた余韻の最中、ふと、扉間の口を突いて出た。この女の、名を捨てたイズナの器として生きていた女の本名である。
あらゆる手を尽くして辿り着き、知り得た名前。カガミもそれだけは口にしようとしなかったものを、どうしても手に入れたくなったのだ。
だが、決して呼ばないつもりだった。捨てたと言い切っていた彼女の覚悟も理解していたからである。
それでも、壊れてもなお扉間の手にも収まらないこの女が、その名前の響きが、夜明けの青い光の中で、あまりにも美しく思えたものだから。
ひた、と凍り付いたようにイスゞの表情が強張る。目が零れんばかりに見開かれた。
「扉間、今、なんて」
声が震えている。言葉を継ぐ間もなく、馬乗りに押し倒されていた。
「その名前は、お前ごときが呼んでいいものじゃないっ」
「——っ、ぐ」
「呼ぶな呼ぶな呼ぶなっ!」
ぐう、と首筋に掛けられた手に満身の力が籠る。目に宿るのは爛々と底光る色褪せることのない殺意だった。
「それは、っイズナの、イズナだけの、——イズナだけが呼んでいい、」
ぼたぼたとイスゞの目から溢れた涙が、扉間の顔へと降り注ぐ。
抵抗する気は露ほども無かった。その手の激情にただ意識を委ねていた。肺に残る酸素が濁り、頭の芯がほろりと薄らいでいく。
殺せばいい、それだけのことをした。
お前に与えるのなら、この命など安いものだ。
「ごめん、ごめんねイズナ」
血を吐くように、振り絞るようにイスゞが呻く。懇願であり、懺悔であり、どうしようもない慟哭だった。
イスゞは扉間を殺したいと心底思っている。それは紛れもない事実なのだろう。
イスゞにとって扉間は他でもない最愛の弟を奪った仇だ。その仇に一番やわらかな場所を土足で踏み散らされ、蹂躙されている。耐え難い精神の凌辱に近い。
「姉さんを、許して」
燃え盛っていた火勢が色褪せていくように、込められていた力が徐々に抜けていく。荒く咳き込みながら、扉間はその顔を静かに見上げた。
「イスゞ」
びくり、と折れてしまいそうな肩が跳ねる。たった一人取り残されて途方に暮れる、いとけない子どものような目をしていた。
「殺したければ殺せ。貴様が楽になるのなら、この首もくれてやる」
「っは、よく言うよ」
鼻で笑いながら吐き捨てる。その喉から零れるのは、今や罅割れたイズナの声だった。
「
そこまで言い切り、ただ静かにイスゞが微笑む。
透き通る硝子が砕け散り、乱反射の光を惜しげも無くばら撒いているような、どうしようもなく痛ましく、美しい笑みだった。
「それにね、扉間、私はもう、きみのことを殺せなくなっちゃった」
夜明け前は静けさが最も深い。ぽつりと呟いた言葉が、湖の底のような静寂に吸い込まれるように溶けていく。
自分が情愛を注ごうとしたからこそ、この女はここまで苦しみ悶えて壊れてしまっているのだろう。
元から罅割れていた玻璃の器に、煮え滾る熱湯を無理に注ごうとした。その結果、粉々に割れて砕けてしまった。
砕けた後に残ったのが、お互いに血を流し合ってでも手離せない、呪縛のような執着である。
「時々思うんだ。イズナが死なずに君に会えていたら、私も幸せになれたのかな」
「……」
「私だけじゃない、あの子も。本当はね、みんなで幸せになりたかっただけなのに」
蒼褪めた光が障子を通り、部屋の隅々まで満ち溢れるように折り重なる。その光の奥底へとイスゞの言葉が沈んでいく。
決して叶わない、扉間にとっては抱く事すら烏滸がましい願いだ。半身を失った片割れとしての祈りであり、最愛の弟への変わらない未練でもあった。
肩を震わせて静かに泣き続けるイスゞの背へと腕を回す。導かれるままに、今しがた縊り殺そうとした男の胸へとおさまった。
手が惑っている。縋り付こうとして、それでも踏み切れないのだ。
その戸惑いを強引に引き込むことも、扉間には出来なかった。ただ、結局は冷え切った手に自分の掌を重ねてしまう。
もう間もなく、夜が明けようとしていた。
(2026/06/14)
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