白磁の夜

止め処なく、雨が降り頻っている。鼓膜を煩わす雨音にはもう耳が慣れた。重々しく立ち込める鈍色の雲が当て所もなく広がっている。丁度、梅雨の時分だ。昼も夜も関係なく、ただ生ぬるい雫が地を濡らしている。
行灯を点けている筈なのに、部屋の四隅には照らしきれぬ影が息を潜めていた。薄墨に染まった白壁には、一匹の羽虫が羽を休めている。室内はいつも仄暗いものだから、陰気を好む蟲は此処には多いようだった。黄昏が凝ったような場所なのだ。

――あれから、幾許か経ったのだろうか。
あまりに変化に乏しいものだから、どれ程時が経っているのか判然としなかった。恙無く先へと流れているのかも、過去へ逆巻いているのかも分からない。時が、揺蕩っているかのようだ。理から切り離された幽世。常夜の迷い家。半ば本気でそう感じてしまうほどに、この屋敷の中は密やかなのである。
そして、変化に乏しい日常は、生と死の境を曖昧に滲ませる。
生きているのか、死んでいるかも分からなかった。身体は驚くほど順調に快方へと向かっている。夢のようだ。あれ程の傷を受けていたというのに、俄かには信じられない事である。
だからこそ、死に損なった自分が迷い、六道の外れで逝き惑っているのではないか。生きている夢を見ているのではないか、等と途方も無い事が浮かんでは消える。漠然と輪郭の無い不安が胸の内に凝っていた。

書物を閉じ、茫洋と窓の外へと視線を向けた。相変わらず、花も咲かねば色も無い。しめやかな雨だけが薄膜のように夜を包んでいる。肌理の細かい闇である。

「止まんな」
「ええ、まだ梅雨に入ったばかりですから」

明日も雨が降るだろう。明日も、明後日も明々後日も。陰鬱な梅雨が開け、藍で染め上げたような空が覗くのはまだ等分先である。
ふと手元へと視線を落とした。――雨月物語。古びた袋綴の表紙には、掠れた毛筆でそう記されている。暇を持て余していたのを見かねて女が薦めたものだったが、気を利かせたか洒落た題名だ。

「随分と熱心に読んでらっしゃいましたけど、気に入られました?」
「暇潰しには丁度良い」

そうですか、と女は返すと、ふと思い立ったように此方を振り返る。目線は書物へと向いている。

「どの話がお好きですか?」
「……青頭巾か。気持ちは分からなくもない」
「貴方は、矢張り情の深い方なのですね」

それ以上は何も続けず、暫し静寂が戻る。やわらかな沈黙だ。決して居心地の悪さを孕んだものではなく、寧ろひそやかに温度を持った静寂である。
ただ、雨が降っているものだから。
雨音が俄かに騒ぎ出す。梅雨の沈黙は雨の色を湛えている。
――嗚呼、雨は嫌いだ。
次の瞬間、俺は意味も無く言葉を紡いでいた。己の聲が雨足の音を掻き消してしまえばいい。慣れ切っていた筈だった雫の聲が、不意に鮮やかな輪郭を描き出した所為だった。
姦しい。
幽かに目を細め、女の淡い息遣いに耳を向ける。

「喪はいつ明けるんだ」

ふるり、と痙攣するように瞬きをした目蓋が持ち上げられる。少し当惑したような表情で此方を見返す目と視線が絡まった。

「嗚呼、此れですか」

夕霧を凝らせたような衣を軽く摘まむ。白い膚に寄り添う藤衣。女は白喪服を纏っている。この屋敷で寝泊まりするようになりもう随分も経つが、女が雪の衣以外に袖を通しているのを見た事が無い。
時の頃はもう水無月も半ばを過ぎた。いくら貞淑な後家とはいえ、この只でさえ蒸し暑い季節に、紗でもない喪服を一糸の乱れも無く着こなしているのはともすれば異様に映る。
戦乱の此の世では、喪に服す者も実は少ない。あまりに簡単に命が失われていくからなのだろう。遺された者は死を悼む間も惜しむように只管に前だけを見据えて生きている。薄情な訳ではない。そうでもしないと、――痛々しいまでに生に執着しなければ生きていけぬような世の中なのだ。死者に縋っている暇などは何処にも無かった。

兄弟達が散った時も、
父が亡くなった時も、
イズナが死んだ時も、
皆そうだった。

女の纏う、その真珠色の衣が目に染み付いて離れない。ひそやかな白である。冒し難く静謐で、そしてまた孤独な色だった。静かな横顔の輪郭を持つ彼女によく似合う。
あまりに女の白い膚に寄り添っているものだから、その衣を剥ぎ取るのは刺すような痛みが走るのではないか。蟲が無言の内にそっと羽化するように、凄絶でひそやな覚悟が必要なのではないか。そんな事を諾々と思っていた。

――羽虫が、
行灯の明かりに揺らめく影がふわりふわりと飛んでいる。視界の端で揺れているのは、艶かしい灯取蛾であろう。
ジュッ、と何かが焼ける音がした。女の聲がそれに重なる。

「さあ……。いつ、でしょうね」
「どういう事だ?」
「あんまり長い間着ているものですから、忘れてしまって」

僅かに眉根を寄せると、肩を竦め女は笑った。

「喪に服している訳ではないのです。事実、生きていらっしゃるか死んでいるかも分からない御方ですから」
「それは、お前の旦那の事か」
「ええ。とはいえ、正式に夫婦という関係ではありませんでしたが」

囲われ者、というやつです。女は静かな口調で続けた。

「戦が終わったら添い遂げよう、そう言って出て行かれました。もう何年も前に」
「……呆れた男だな」
「ふふ、確かに酷い方ではありますね。今思えば、他に奥方がいらっしゃったのかもしれませんが」

彼女は僅かに目蓋を弛緩させ、行灯の焔を眺めていた。ちろちろと揺らぐ火影が艶やかな虹彩に鏡の様に映っている。その横顔は恨めしげというよりかは、ただただ懐かしそうな表情だった。
一言ひとこと確かめる様に、女は緩やかに話し始めた。記憶の水底に沈んだちいさな欠片を、丁寧に指先で掬い上げているような響きを持っていた。

「いつか戻ってきてくださる、きっとあの日のように帰ってきて、そして私を娶ってくださるのだ、と。ただそれだけを思って生きてきました。来る日も来る日も、その事ばかりを願っていた。待つのは辛くはありませんでした、存外楽しいものですから」
「……それは、」
「終ぞ、あの方は戻られませんでしたが」

そこで言葉を切り、正座していた脚を崩し息を吐いた。細い吐息は、透明な蝋燭のささやきの様。しどけなく座る彼女の足首は痛々しいほど白い。生々しく滑らかに光っている。
――あの膚は、夜を吸い込んだこの部屋でも、白いままなのか。

儚げな目をしながらも、女の態度には芯が通っている。そこが酷く不可思議だった。
諾々と時を積み、ただ生きていくだけでは精神は磨耗していくのが常だ。変化の無い日常というのは、実は何よりも怖ろしい。泥沼のような底なしの微温湯に浸かり、ただ生きていくだけの日々。来ぬ人を待つだけの日々で、女の心は擦り切れることもなかったのだろうか。それほどまでに、想いは強かったとでも言うのだろうか。

まばたきをする毎に、闇が深くなっているようだ。女の白い横顔が、茫と滲む。相変わらず、纏う喪服の白だけは切り取られたように浮かび上がっている。沈黙した白は眼球を刺す。網膜の疼きに思わず目を細めた。

「この服は、元は花嫁衣裳だったんです」

宵の薄絹を透かした様に、女の顔は最早茫漠と蕩けている。その聲と、白無垢だったという白妙だけが、ただ女の輪郭を残していた。聲はぽつりぽつりと独白を続ける。

「あの方と結ばれたなら、晴れの日に着る筈だったこの白無垢を、私はハレの喪服にいたしました。あの方は、いつまでも帰って来られなかったから。だから、きっと戦で亡くなったものだと、そう思い込むことにしたのです」
「己の為に喪に服した、か」
「ええ。あの方を彼岸へとお送りし、そして気持ちを整理する事にしました。傲慢とお笑いください。……ただ、そんな不謹慎なことをした所為で罰が当たったのでしょうか、」

罰、と語る時に女は酷く哀しげな目をした――、様に見えた。想像である。女の面は、もう肥大した夜に溶けてしまっているのだから。
白い影が薄明かりに揺らぐ。女が己の肩を守るように抱き締めているのだ。目を凝らせば、その細い肩は小刻みに震えていた。

「いつしか、脱ぐのが恐くなったのです。この衣を脱げば、私という人間が揺らいでしまう。私は私でなくなってしまう。私を愛してくれたあの方も、母も父も、もう居ません。私を知る人は誰も居ない。この衣は最後の砦でした」
「…………」
「忘れられるというのは、怖ろしいものですね」

どくり、と心臓が撫でられたかのように脈打った。目蓋が強張る。その聲は、その瞳は、
嗚呼、――

誰にも看取られず、誰にも哀しまれず、ただ一人死んでいく。
たった、一人きりで。
誰の記憶に残ることも無く、ただ忘れ去られ朽ち果てていく己と重ねた所為である。

焦燥に駆られ、気が付けば女の細い肩を抱き締めていた。抵抗することも無く彼女はただ身を委ねている。触れた体温から、引き攣る嗚咽が胸の奥に伝わった。

「この衣を纏っていれば、私はあの方が愛してくださった私で居られる。私自身を忘れないで居ることが出来る。でも、一度脱いでしまえば崩れてしまうんです、何もかもが」
「――ならば、俺が」

俺が、定めてやろう。そう言った。
女が緩慢な動作で顔を上げる。泪に濡れた潤いのある目蓋が震えている。艶やかな睫毛の下には、底が透けてしまいそうなほど深く澄み切った眸が揺れていた。ぱちり、とそれが瞬きした。
――白い。
やわらかな首筋。潤う頬。痩せた鎖骨。その全てが、とても、嗚呼

淡い絹の薄膜を剥がしていく。羽虫が古き衣を脱ぐように。女の眉が悩ましげに寄る。戦慄く濡れた唇から、細い聲が吐き出された。

「――磯良」

そう、呼んでください。縋る聲で呟く女の口を、それ以上は紡げぬようにした。


  
額縁