それはいつかのミルキーウェイ

 夏の盛り。関東では記録的な猛暑が続いている。今日は七夕で、連日の快晴にならい、雲の気配の一切もなく、よく晴れた日であった。
 七夕、という言葉からは、少しひんやりとした印象を受ける。夜を連想するからだろうか。白く輝く星々を連想するからだろうか。どちらも想像してみると、ここちよい冷たさがあるように思われる。特に星なんかは、手のひらに乗せると宝石のようにしんと静かで、さりげなく冷たく、清潔な触りごこちをしているに違いない。少し角ばったカットが施されていて、手のひらの上で軽く転がしてみると、どこからでも光を拾い、ちらちら、ちらちらと輝くのだ。清爽なうつくしさを備えている。
 星はだいすきだ。だから、夜空の星がどれかひとつでも掴めたら、わたしは迷わず、幸村くんに贈りたい。

「やあ」

 買い出しに行く前に笹飾りを用意しようとバルコニーへ出ると、下から声を掛けられた。わたしは弾む声で彼の名前を呼ぶ。幸村くん。

「ただいま」
「おかえりなさい。今、下まで行く!」
「俺がそっちに行くから、おとなしく待っていて」

 幸村くんは楽しげに肩を揺らす。夕方になり、アスファルトは昼間に溜め込んだたっぷりの熱を放出している。車道の向こうが陽炎でゆらめいて見える。

 わたしはベランダから引き上げて、玄関ドアの開く音を合図に、全速力で駆けた。愛しい姿を目掛けて勢いよく飛びつく。暖まりきった外気が吹き込んで、わたしたちを包む。幸村くんはわたしを抱きとめると、まずは額にキスをくれた。

「おかえりなさい、幸村くん。だいすき、会いたかった」
「ただいま。ほら、顔を上げて。キスができないだろ」

 胸元に擦り付けていた顔を上げれば、ゆっくりとくちびるが合わさった。盛夏の熱気のせいで、幸村くんのくちびるも、いつもより高い温度をしている。

「笹飾りを出したんだね」
「うん。短冊を一緒に書いてくれる?」
「もちろん」

 冷たい麦茶をグラスに注いで手渡す。ごくごくと鳴る白くうつくしい喉元を見つめる。幸村くんは汗をかいたグラスをキッチンのワークトップに一度置くと、冷えたくちびるで、またキスをくれた。

 買い出しに行くところだったと伝えると、幸村くんは、自分も一緒に行くと請け合ってくれた。暑いので部屋にいてもよいと伝えたが「暑いなかひとりで行かせるのは心配だろ」と言って譲らない。柳くんに度々からかわれてしまうほど、幸村くんには存外、心配性のきらいがある。

 夕飯は冷製パスタにすると決めている。トマトと、バジルと、クリームチーズをふんだんに使って、アメリカふうのヴァーミセリと合わせる。柳生くんが勧めてくれたア・ロリヴィエのオリーブオイルを使うのがポイントだ。スープには、じゃがいものビシソワーズを用意してある。幸村くんはわたしの料理を、いつもおいしいと言って褒めてくれる。
 彼は料理をしないので、いつもの御礼だと言って、わたしをひんぱんにすてきなディナーへ連れて行ってくれる。外で食べるのも、家で食べるのも、幸村くんとの食事というだけでわたしにはしあわせで、特別に大切なひとときである。織姫と彦星には悪いけれど、一日でも会えなければ、せつなくて、ひどく銷沈してしまうのだ。


 スーパーマーケットからの帰り道で、幸村くんの首すじを流れる汗を見た。汗は透き通りきらりと輝いて、首にも、こめかみのあたりにも浮かんでいる。わたしは思わず手を伸ばして、その透明なしずくにそっと触れた。涼しげな面持ちと滴る汗とのギャップを、うつくしいと思った。

「どうしたんだい」
「幸村くんの汗、きれいだなって」
「汚いだろ。汗なんだから」
「幸村くんの汗は汚くないです。においもしないもん」

 左肩に顔を寄せてすんすんと鼻を鳴らすと、こら、と嗜められた。声が楽しげに弾んでいる。

「きみはあまり汗をかかないよね」

 幸村くんはわたしの額に鼻を寄せ、わたしの真似をしてわざとすんすんと鳴らした。やめて、と身じろぎをするが、おもしろがるばかりで中断の気配はない。あたりは徐々に涼しくなってきた。わたしたちはずうっと手を繋いでいる。

「それにしても、俺ばかり汗をかくというのもおもしろくないな」

 玄関でサンダルを脱いでいると、かぷりと首を食まれて、わたしは甲高い声を上げる。そのまま何度かキスを交わしながら、ふたりでフローリングの上になだれ込んだ。硬い床はひやりと冷たくてここちよい。

「これは体質的なもので、暑さを感じないわけじゃないのよ。熱を閉じ込めちゃうの」
「汗、かかせてみせようか」
「肌がしっとりするだけだよ、たぶん」
「ものは試しだろ」

 幸村くんの手のひらが腰もとをそっと滑る。いかにも涼しげという面持ちだけれど、その額は少し濡れている。

「短冊は?」
「あとにしよう」
「パスタもあとで?」
「うん。汗をかいて、冷たいシャワーを浴びて、それからゆっくりこなせばいい」
「夜にまたしたくなったら?」
「何度でもすればいいさ」

 わたしを抱き上げる幸村くんの身体が、とても熱い。見つめ合うだけで溶かされてしまいそうだ。わたしたちのすきまを漂う空気も、重たく倦んで、暖まりきっている。止めていたエアコンの電源を入れる。
 まだ日が沈んだばかりで、空は薄明るい。窓の外では笹飾りが揺れている。

 明日もまた会える。明後日も、その先も。くたくたに疲れて眠ったあとも、目を覚ませば幸村くんがいる。
 ミルキーウェイは中学のころに渡って、それきりだ。それからわたしたちは、ずうっと一緒にいる。肩を寄せ合って、生きている。