さざなみはミルク色

 朝。目が覚めても、恋人はとなりにいない。ベッドの隅で、わたしはちいさく丸まっている。わたしは幸村くんがいないときも、ベッドのまんなかには寝られない。どうしたっていつも、彼のぶんのスペースを空けてしまうのだ。目を閉じていつもの夜を思い浮かべ、幸村くんがいるふりをして、眠りにつく。そうすると、夢のなかで会える気がする。

 幸村くんは泊まりがけで真田くんの家に行っている。柳くんも一緒だ。わたしもどうかと声をかけてもらってはいたのだが、たまには同性のみで集まりたいこともあるだろうと、辞退して送り出すことにした。
 ベッドのなかには、幸村くんの残したかおりがじゅうまんしている。抱きしめた毛布や、肌ざわりのよいシーツ。このあたりは幸村くんのなごりが色濃いというのに、ひと度ベッドから降りてしまうと、感じるのはわたしの寝香水のかおりばかりで、とたんにせつなくなってしまう。
 ベッドへ戻りたいという気持ちを抑えて、わたしはバスルームへ向かう。朝のバスルームがすきだ。透明な光を採りこんで、うんと清潔な感じがする。蛇口ハンドルを回したところで、スマートフォンが震えた。幸村くんだ。
 「おはよう。起きてる?」というメッセージに、わたしは「おはよう。起きてるよ。お風呂に入ろうとしているところ」と返す。すぐにスマートフォンが震える。今度は電話だ。

「おはよう」
「幸村くん、おはよう」
「まだ真田の家だけど、今から帰ろうと思って。だから、報告」
「ありがとう、電話うれしい」
「ほんとうは声が聞きたかっただけなんだけどね」

 寝起きでやや低めだが、電子機器越しの幸村くんの声は、いつもよりもやわらかく聞こえる。

「今日は夜までそっちにいるんだと思ってた」
「蓮二が午後までしか動けなくて。近日中にまた集まるつもり。今度はきみも参加してくれるとうれしんだけど」

 うん、と弾んだ声でわたしは返す。バスオイルを選んで、新しいソープのつつみを開けた。ミルクソープは、ざくろのかおりがする。


 乳白色の湯で満ちたバスタブのなかで、わたしは幸村くんの帰りを待つ。今はスマートフォンで音楽を流しながら読書もできてしまう。すばらしい時代だ。湯あたりしてしまうので、換気扇をまわしてある。

「ただいま」

 幸村くんの声がする。おそらく脱衣所の前からだ。

「おかえりなさい」
「開けてもかまわないかい」
「どうぞ」

 戸の開く音がすぐ近くに聞こえて、浴室ドア越しに幸村くんのシルエットが見える。こんこん、とノックが成されたので、わたしは身を乗り出してドアを引いた。
 バスタブのなかで、わたしは幸村くんを迎える。湯は白く濁っているため、深く浸かれば彼にはデコルテのあたりまでしか晒さずに済む。
 幸村くんは靴下を脱いでパンツの裾を折り、わたしの目の前に屈んだ。窓からの光を受けて、水面はビジューを敷き詰めたみたいにきらきらと輝き、揺らめいている。

「電話をありがとう」
「さみしかった?」

 ちいさく頷くと、たっぷりとしたキスをしてくれた。幸村くんのくちづけは、ふくよかな花びらを思い起こさせる。たとえばマグノリアの花々のような。

 そうだ、と呟くと、幸村くんは一度バスルームから引き上げて、今度はガラスのボウルにたっぷりのいちごを持って帰ってくる。いちごたちはみずみずしく、宝石のようにつやつやと赤く光っている。

「蓮二がくれたんだ。はい、口を開けて」

 はずかしくて控えめに開いたくちびるを割って、ひんやりとした果実が口内へ押し込まれる。よく熟れており、とてもおいしい。わたしはボウルからひと粒手に取ると、同じようにして幸村くんの口もとへと運ぶ。赤い果実が幸村くんの薄いくちびるを割る。

「もう少ししたらプラムをくれるって」

 それは柳くんがわたしたちへ毎年贈ってくれるもので、山梨の上等のプラムのことだ。山梨はわたしたち元テニス部員にとっても思い出深い土地で、学生のころ合宿会場として借りたペンションには今でもたびたび訪れている。

「ふたりとも、きみに会いたがっていたよ」
「わたしも会いたい。うちへも来てって伝えて」
「そうだね。言っておく」

 バスルームにはごく低いヴォリウムで、ラフマニノフが流れている。リラの花は、初夏の朝にぴったりの楽曲だ。

「俺も入ってもいいかな」
「もちろん。早く脱いできて」

 幸村くんはわたしの額にキスを落とすと、脱衣所へ戻っていく。目隠し加工のなされたドアの向こうに、彼のうつくしいシルエットが見える。白っぽい光が差して、バスタブをちょうどまるごと照らした。濡れた乳房がてらてらと光っている。彼が起こす水面の揺らめきがもたらす幸福を想像して、わたしはバスタブのへりに腕を組み、目を閉じる。