10:スクエア

 「幸村くん」
 声は聞こえないが、彼女の、俺を呼ぶ気配を感じる。そのかすかなかおりを辿るように、浮上していく。そのときはじめて、自分が意識を手放しかけていたと自覚する。「幸村くん」と、今度は実際に彼女の声を感じ取ることができた。クリアになった視界のなかで、彼女はいつもの笑顔ではなく、せつなげに眉を落としている。
 コーチングを真田へ託して走りに出て、ちょうど戻ってきたところであった。

「幸村くん、大丈夫?」
「ああ、すまない。少しぼうっとしていた。なにか用だった?」

 差し出されたタオルを受け取ると、彼女はわずかに目元を綻ばせた。制服の上からジャージを羽織る、いつものスタイルだった。冬服の上からでも着られるようにとずいぶん大きめのものを選んでいるため、いつも袖が余っている。

「用ってほどじゃないんだけど、いっしょに休憩してくれる人を探していたの。だから今から、みんなの幸村くんをコートから連れ去ろうと思います」

 そう言うと彼女は、俺の返事を待たずして背後へ回わり、ごくやわい力で背中を押しはじめた。
 「しかたがないなあ」とちいさくこぼす。わだかまったものや緊張がほどけて、自然とまなじりが下がるのがわかった。清潔で正しい感情が循環していると感じて、俺はほっとする。


 テニスコートの貴公子でも、神の子でもなかったころ、自分はどんな人間であっただろう。本質は変わっていないと、そう思うがしかし、確信が持てない。どこからが作られたもので、どこからが持ち合わせていたものなのか。

 たとえば、笑顔のこと。
 昔から穏やかなほうであったと思う。よく笑うこどもだったはずだけれど、ほほえみが盾にも武器にもなるとわかったときから、そうすることが生来の癖なのか、意図して実行していることなのかが、わからなくなった。
 名前が大きくなり、評判が上がって、作られたイメージがひとり歩きしていくことを、漠然と恐れた。怯えていたわけではないが、自分の一部分が魂から乖離して、好き勝手に作り替えられてしまうことが、ただひたすらに不安だったのだ。だから、離れてゆく片割れに無意識に自分を寄せているのではないかと思い至るとき、またいやになる。
 自らに翻弄されている。それも、自らの力の及ばないところで。いつかまるごと作り替えられてしまうような、取り替えられてしまうような、そんな気がしている。ずっと。


 急に雲が出て、陰りだし、窓の外は雨でも降り出しそうなようすだった。
 「真田くんにはないしょだよ」と笑って、彼女はインスタントのキャラメル・ラテを用意してくれ る。チョコレートをふたつ、つけてくれた。背もたれのあるデスクチェアに座って向かい合い、俺たちはぽつぽつと言葉を交わす。

「厳しいばかりで、幻滅したかい」
「しないよ」

 きっぱりと口にして、彼女は笑った。真実だとわかるシンプルなひと言を、ありがたいと思った。つるりとしたミーティングテーブルの冷たさがここちよくて、半身を倒し、頬を当ててみる。そのまま瞳を閉じた。
 ここのところ、ずっと気が張り詰めている。上級生を追い出して、新しい風を迎えた。名声も、成績も、期待も、たとえば遍満する幸福ですらも、登りつめれば下落するだけだ。では、天井がない場合はどうなるのか。登って、登って、一体どこまで走ればいい。

「幸村くん、この前の部誌に、自分を花に例えたらストレリチアって書いていたでしょう。わたしね、わかるなあって思ったの」

 先日発行された部誌は新入生のための特別号で、全員の顔写真と自己紹介、他己紹介が載せられていた。くじでペアになった相手へ質問をするコーナーがあり、そこで聞かれたことが「自分を花にたとえると」である。
 俺が挙げたストレリチアは、薄い花弁を重ねた可憐な花とは違い、ほとんどが、がくでできている。がくは派手なオレンジが主流で、そのなかに筒状の青い花びらをつける。ほとんどの人は、がくを花だと思う。
 折り紙で作った、極楽鳥のような花。折り紙の鳥で、極楽へは行かれない。

「みんな、派手ながくが花びらだと勘違いをする。大ぶりながくのなかで、花びらだって負けじと咲いているのに。隠れているわけでも、隠しているわけでもないのにね」

 額にかかる前髪を、あたたかい指先がそっと撫でる。

「幸村くんのこと、みんなスーパーマンみたいに思ってる。コートのなかでは誰よりも強くて、大胆不敵。プライベートでは常に穏やかで、ほほえみを崩さない。どこにも死角がない人なんだって」

 目を閉じたまま、俺は彼女の言葉を聞く。さらさら、水のせせらぐようなやさしい声色。

「幸村くんはいつだって完璧に見えるから、その強さが努力に裏打ちされているということや、そのやさしさが痛みを知っているからこそ生まれるものだってことを、みんなして見逃してしまうの。隠しているわけじゃないのにね」

 彼女の指が、撫でつけた前髪を耳にかける。そのまま、こどもを寝かしつけるようなやさしい手つきで、彼女は俺の頭をそうっと撫でた。

「きみの手、気持ちがいいな」

 静かにまぶたを上げる。やさしいほほえみと目があった。頬がかすかに熱を持っている。ごまかすように、もう一度目を伏せ、そして起き上がった。
 窓の外に、赤也が駆けているのが見える。手のひらか指を見ながら、部室棟の入り口を目指しているようだった。

「赤也が向かって来てるみたいだし、そろそろ戻るとするよ。ありがとう。ごちそうさま」

「うん。行ってらっしゃい、幸村くん」

 低く手を振って、準備室を後にした。指導にトレーニング。やることは山積みだ。厳しいと思われても、生意気だと、不気味だと思われても。そういう薄情な自分こそが本来の姿なのだと思いかけて、輪郭を失いそうになったとしても。
 指を後ろに組んで階段を降りる。ぱたぱたと軽快な音が響いた。そっと額に触れてみる。頬の熱も胸の高鳴りもすっかりとおさまったが、くすぐったくなるような、喜びのなごりが、消えてくれない。



 準備室の扉を開けると、彼女がいた。長いまつ毛をひっかけた大きな瞳をまたたかせて、窓の外を見つめている。いつもふにゃふにゃと笑っているのに、彼女はたまにアンニュイな面持ちをする。こういうぐあいに。

「なに見てるんすか」

 彼女の肩に顎を乗せて、同じように外を見てみる。わっと驚いた声を上げられて、すぐに身体が離れた。窓の外には、見慣れたマスタードカラーのジャージの後ろ姿がみとめられた。袖を通さずに羽織るのは、幸村先輩のトレードマークである。鼻先に、彼女のシャンプーのあまいかおりが残っている。

「びっくりした……! ど、どうしたの?」
「怪我しちまったんすよ。 大したあれじゃないですけどね」

 血の滲む指先を見せつけるように手のひらを突き出すと、彼女は慌てて棚の上から救急箱を下ろして持ってくる。

「幸村先輩、来てたんすか?」
「うん。休憩に付き合ってもらっていたの」

 ミーティングテーブルには、飾り気のないシンプルなグラスがふたつ置かれている。幸村先輩はその圧倒的な実力から、実質部長のような立ち位置で、彼女と接する機会も取り分け多いようだった。ふたりはよきバディというふうに見える。

「さっき階段ですれ違いましたよ」
「元気そうだった?」
「なんか機嫌よさげってかんじでした。いつもああだったらいいんすけどね」

 俺はふだんの彼と、指導者としての彼を交互に思い浮かべる。うつくしいルックスと甘くかすれた声に似つかわしくない、厳しい態度。ぴしゃりと頬をはたくように鋭く、冷たい言葉。しかも、その口から出るのはまったくの正論ばかりなので、こちらには反論の余地がない。感情的になったところは見たことがなく、その点も俺たちを、頭が上がらないという気持ちにさせる。
 ふだんはごく穏やかだ。花や絵画がすきらしい。なるほど納得の趣味であるが、部活動中の姿とはうまく結びつかない。

「幸村くんが厳しくするのをやめたら、真田くんが三倍厳しくなるけど、それでも平気?」

「うげ、無理無理。無理っす。真田先輩、声でけーし根性論ばっかだし」

「幸村くんも真田くんも、みんな部のことを思ってるのよ」

 彼女はコットンに消毒液を取って、俺の指先にとんとんと当てる。割れた爪のあいだにひどく響いて、思わず手を引き戻した。じんじんと燃えるように熱い。

「いってえ……」
「無茶なプレーをするからだよ。危険なことはしないで」

 手当てを再開しようと、彼女は俺の手を掴む。とろけるような体温が伝わる。やわらかな指先から流れ込むあたたかさの、目の眩むほどの甘い感覚に驚いた。

「でも、勝てばいいんでしょ。結果がすべてなんすから」
「そんなことない。少なくとも、わたしはそう思ってる」

 彼女は俺の手元を見つめたまま、そう言った。俺の言葉は、拗ねたように聞こえただろうか。
 事実、部内には、個よりも勝利を重んじる風潮がある。そうして守られてきた伝統なのだ。そして、だからこそ、一度ゾーンに入ってしまうと我を忘れてしまう俺のようなプレーヤーも重宝されているわけなのだが、逆に考えるとそれは、自分がほかのところではやっていけないと言われているような気がして、悔しかった。
 彼女の言葉は俺の胸を静かに震わせた。彼女は、彼女だけは、俺をやっかいとも、お役立ち道具とも思っていない。俺個人をまっすぐに見つめてくれているのだと感じる。

「ほんとうはわたしだけじゃなく、みんなこころのどこかではそう思ってるよ。やさしい人たちだもの。ただ、それを口にできるのが、わたししかいないだけ」

 確かに、プレーヤーが口にすれば、それはたちまち甘えへとかたちを変えてしまうだろう。彼女を慕うやつらが多い意味が、わかった気がした。彼女のなかに、皆、己の良心を見ているのだ。

「そういえば、マネージャーは、なんでテニス部入ったんすか」

 彼女は窓の外に視線をやる。見渡す限りそこには誰もおらず、花壇に植った花々が風に揺れるのみだった。

「幸村くんが、わたしを見つけてくれたから」

 割れた爪の上にガーゼが当てられ、包帯が巻かれていく。ついでにほかの傷へも絆創膏を貼ってくれた。
 強くなりたい、と思った。幸村先輩よりも、誰よりも強く。幸村先輩が彼女を見つけて、彼女が俺を見つけたのだというのなら、俺は彼女を攫いたい。彼女が世界のどこにいたって、見つけて、そして奪い去るのだ。いつか、強くなったら。世界じゅうの、なにもかもから。彼女を。



 怪我をした赤也の帰りが遅いので保健室へ行くと、うちの連中は誰も来ていないと言われた。
 いつも怪我を負っては自分で適当に手当てをしてしまうので、今回は保健室へ行くようにと伝えてあったのだ。まったくどうしようもないやつである。爪が派手に割れていた。本人はあっけらかんとしていたが、内部で出血しており、放っておけばきれいに治るまで時間を要すると思われた。

 二号館から部室棟へ向かい、ロッカールームを経由して準備室へ足を運んだ。準備室へは廊下からも行かれるが、そちらの扉は大抵鍵がかかっている。部活動中であればロッカールームに面した扉は開錠されていることが多いのだ。

「みょうじ、赤也はいるだろうか」
「うげ、真田先輩」

 扉を押し開けると、赤也の姿は探すまでもなくそこにあった。俺の声を聞くや否や勢いよく立ち上がり、廊下側の出入り口のほうへそそくさと駆けていく。

「保健室へ行けと言ったはずだ」

「このとおりちゃんと手当てしてもらったんで、心配には及びませんよ! じゃ、俺、走りに行ってくるんで」

「おい、待たんか!」

 呼びかけ虚しく去っていく後ろ姿を見届けて、彼女はくすくすと声を上げて笑う。

「まったく、なにを言っても暖簾に腕押しだ」
「お疲れさま、真田くん」

 救急箱の中身を整理する彼女は、今日も機嫌がよさそうだ。上級生になった彼女のもとへは、連日たくさんの部員が訪れる。相談ごともあれば、ただ雑談をしたがる輩もいた。皆を甘やかしすぎないように努めて振る舞っているようだったが、それでも俺たちと比べれば雲泥の差でやさしい彼女からの癒しを、皆、求めていた。

「いつかわかってくれるよ。それに、赤也くんは負の感情をパワーにできるタイプの子だから、真田くんの指導とは相性がいいと思うな」

「相性の良し悪しは結果が出ないことにはわからんが、すべては勝つために必要なことだ。あらゆる伝統や誇りは、そうして守られてきた」

 落陽の赤々とした光が窓から差し込む。採光が悪く、出入り口付近はほとんど暗いままである。燃えるような輝きが、彼女の右頬だけを照らしていた。

 賑やかな声に誘われて、彼女は窓辺へ移動する。部室棟へ戻ってくる部員たちの姿を見つめる慈しむようなまなざしの、清らなかんじ。そのやわらかさ。ただ純粋に、俺たちの幸福を願う瞳。

 負けてはならない。ここが、揺るぎのない安全で守られるように。彼女を泣かせるようなことなど、あってはならないのだ。だから誓う。

「次の関東、必ず勝つ。全国も。無論、その先も」

 常勝をおまえに。可憐に笑う、おまえに。



 「今度は真田のカウンセリング?」

 扉の陰から顔を覗かせて、幸村くんが笑う。わたしたちを呼びにきたのだ。短いミーティングをラストイベントにして、本日の部活動も終わりを迎えた。この後は皆でジャッカルくんのおうちのラーメン屋さんへ行くことになっている。
 落日の名残りも失せて、外はすっかり暗かった。


「そんで、マネージャーって、ふわーって笑うじゃないですか。そしたら、身体の余計な力が抜けるっていうかなんていうか」

 皆で食事をするとき、赤也くんは大抵わたしの隣を選ぶ。熱烈なアプローチのどこまでが本気なのかは判断がつかないが、なにかを求められるわけでもないし、オープンに慕ってくれるさまは、よく懐いている子犬みたいでかわいらしい。

「脈なしなのに、毎日よくやるよね」

「なまえが押しに弱いタイプならワンチャンあるんじゃね」

「みょうじは案外頑固だよ」

幸村くんは真面目な顔でさらりと言う。

「やってみなきゃわかんないじゃないっすか」

 エル字型のカウンターに並んで、皆はまだラーメンを食べている。わたしはハーフサイズのラーメンを食べ終えて、デザートのパンナコッタに手をつけたところだ。パンナコッタはらーめん桑原の人気のデザートで、わたしたちが食事にくると、ジャッカルくんのお父さんがいつもサービスで出してくれる。ラーメン店なのにイタリアのスイーツが出てくるユニークさも、そのとろける舌触りと濃厚な甘さも、わたしはとても気に入っている。
 ジャッカルくんのご両親はふたりともとても明るくてやさしい。わたしたちは、かなしいときも、うれしいときも、ここへ食事をとりにきた。

「ていうか、丸井先輩とマネージャーって、まじで付き合ってないんすか?」

「これが付き合ってるように見えんなら、眼科案件だろい」

「そういう類の質問はよくされるけど、丸井くんと付き合ってるかどうか聞かれたことはほとんどないなあ」

「だって、スキンシップ激しいじゃないすか」

「人の感情の機微がわからないなら、恋愛は向いてないな」

「幸村くんめっちゃ言うじゃん」

 皆が笑っているとき、そのシーンが、わたしにはたまにストップモーションのように見える。劇場で見る映画のように、制止のきかない、流れ過ぎてゆく映像。

「誰とのことならよく聞かれるんすか。逆に」

「当ててみて」というわたしのひと言で、推理大会がはじまった。さまざまな理由とともに、部活メンバーの名前が次々と挙げられていく。なかなか正解が出ないので、わたしはおもしろくなって、笑ってしまう。

「一位は柳生くん。いつもエスコートしてくれるからだと思う。その次に多いのが、幸村くん」
「光栄ですね」

 柳生くんが眼鏡をくいと上げながら、ややオーバーに言った。どっと笑い声が上がる。わたしの瞳にはまた、それが、ストップモーションのように映る。時間。流れていかないで。
 楽しければ楽しいほど、わたしは囚われてしまう。そこから、もう一歩も歩かれないような気になってしまう。
 時は流れてゆく。わたしは無常を愛せずにいる。


 店の前で解散したあと、スマートフォンに幸村くんからのメッセージが入った。角のたばこ屋の軒先で待ってて。
 わたしは海の見渡せる坂の上にある、その古びた店舗のオーニング屋根の下で、スマートフォンのディスプレイと深い黒の海原を交互に見つめた。潮騒が遠くに聞こえる。

「みょうじ」

「幸村くん」

「メッセージ、気がついてくれてよかった。家まで送ろうと思ったんだけど、真田に見つかって二人乗りを疑われると面倒だから」

 自転車から降りながら、幸村くんは冗談めかして笑う。幸村くんと自転車はなかなかにめずらしい組み合わせだ。なめらかな肌が、街灯に照らされてさらに白く見える。つややかな髪の毛と遠くの海は同じ色をしていた。夜の海の色。うつくしい色。
 わたしは、どうしようもなく溢れてくるうれしさを隠すことができなかった。幸村くんに、無性に会いたい気持ちだったのだ。

「幸村くんに会いたいって思ってた」
「俺も。だから、会いに来た」

 幸村くんはわたしの歩幅に合わせて、自転車を押しながらゆっくりと歩いてくれた。ちゃらちゃらとチェーンの回転する音が響く。わたしの家までは十五分足らずで着くはずだ。

「きっと今年も、あっという間に終わっちゃうね」
「きみは、それがさみしいの?」

 わたしは幸村くんの瞳を見つめたまま、ほとんど瞬きをするみたいにして頷いた。

「わたし、ずっとこのままでいたいって思うよ」

 坂道が終わって、わたしたちは人けのない一本道へと差し掛かった。「乗ってみるかい」と聞かれたので、ありがたく誘いに乗ることにして、自転車のリアキャリアを跨ぎ、幸村くんの腰元へと腕をまわす。遅れてやってきた羞恥心で、わたしはにわかにどぎまぎとしてしまう。
 自転車はゆるやかなスピードで走り出す。わたしは幸村くんの背中へ、そっと頬を寄せる。

「高校でも俺はテニスを続けるつもり。きっと皆もそうだろうな。だから、進学しても、そこまで大きく変わることはないよ」

「うん」

「大学は、そうだなあ。さすがに皆一緒とはいかないだろうけど、たくさん同窓会を開こう。お酒も飲めるようになるし、自由に使えるお金だって増える。今よりもずっと色んなことができるんだ。きっと楽しいよ」

「そうね」

 星の見えない夜だったけれど、幸村くんのあたたかさを感じながら見る朧月はうつくしかった。さみしさの薄らぐかんじがした。

 わたしは、幸村くんがする未来の話がすきだった。彼の言葉には説得力があるので、それを聞いているうちは、わたしは、未来がうつくしく、安全なものであると思うことができる。

「それに、変わらないほうがいいものもあれば、変わったほうがいいものもあると思うけど」

 ここから路地に入ると、わたしの家はすぐそこだ。車輪がそっと止まる。そのやわらかな衝動で、身体どうしがほんのわずかのあいだ、ぴたりと密着した。

「幸村くん、ありがとう。気をつけて帰ってね」
「ああ、また明日」

 「なまえ」と、呼ばれて、わたしがはたしてどんな顔をしたのかわからない。見開いた瞳の奥がすうすうした。わたしがなにか言う前に、幸村くんは走り出し、あっという間に見えなくなってしまう。
 下の名前を呼ばれたのははじめてだった。幸村くんがくれた「変わったほうがいいもの」の響き。夜道にぼうっと突っ立ったまま、その甘くかすれた声を、ずっと、ずっと、反芻していた。