11:On Your Mark

 わたしたちを乗せた貸切バスは、林の奥にあるつづら折りの坂を登り切ったところで停まった。つるばらの誘引された煉瓦造りのアーチのずっと奥に、さながら森の洋館といった佇まいの大きなたてものが見える。

「あの、柳くん」
「問題ない。ここであっている」

 思わず、デジタル地図としおり上の目的地の住所を交互に見ると、柳くんはちいさく笑った。
 ここから先は大型バスが通られない。せっせと荷下ろしをしながら、いかにも運動部然としたわたしたちとこの場所とのあまりのミスマッチさに、少しの後ろめたさを感じてしまう。もっとすてきな使い道があったかもしれないと考えると、柳くん一家に頭の上がらない思いであった。
 ここは柳家の所有するペンションで、今日から二泊三日の合宿がはじまる。

 小川にかかる石橋を渡って、煉瓦造りのアーチをくぐり、タイル舗装された小径をしばらく歩く。石段のアプローチのわきには、よく手入れされた灯台躑躅の生垣があった。何枚か写真を見せてもらってはいたが、思い描いていたものよりもずっと豪奢な構えに驚きを隠せない。

「ずいぶん立派だな」
「赤也くんも連れてきてあげたかったね」
「まあ、残念だけど、さんざん忠告した結果があれだから」

 合宿にはレギュラーメンバーに加え、非レギュラーのなかから選抜された者のみが参加できる。コートの回転率を考えればしかたのないことだった。
 赤也くんには無論参加してもらうつもりだったのだが、七月の期末考査で全教科赤点を取るという悲惨な結果を叩き出してしまったため、今ごろは補修を受けているはずである。テニス部としても、学業を優先させるほかなかったのだ。
 スマートフォンのグループチャットには、赤也くんの泣き言が今朝から延々と投稿され続けている。

 幸村くんは実にスマートな手つきでわたしの右手から荷物を取り上げると、こっそりと目元だけで笑い、真っ白な鎧張りのたてもののなかへ歩いて行った。


 広いリビングにはダークブラウンを基調としたアンティーク家具が並び、大きな掃き出し窓と、バランスよく配置されたレトロな上げ下げ窓の数々からたっぷりの陽が入り込んでいる。
 天井は高く、吹き抜け構造になっており、つやつやとした見せ梁の上には天窓が取り付けられていた。
 ひと足先に二階へ上がった者たちの歓声が聞こえる。二階にはゲストルームとバスルームがあるはずだ。

「じゃあ、アップしてくるから。人手が必要になったら教えて」
「ありがとう、幸村くん。いってらっしゃい。がんばってね」

 ひとしきり騒いだのちに四面もあるテニスコートへと向かう部員たちを見送って、わたしは食材の整理に取り掛かる。監督が手配してくれたものが先ほど届いたのだ。今日の夜はバーベキュー、明日の夜は皆でカレーを作ることになっているが、それ以外のメニューはわたしに委ねられている。

 わたしは時おりテラスに出て皆を眺めながら、夕食の下ごしらえをのんびりと進めた。テラスには白いガーデンチェアが置かれており、わたしは華奢なその椅子に、ひと目でこころを奪われた。読書をするのにうってつけのロケーション、うってつけのフォルムであった。
 いつかおとなになったら、また皆でここに来て、今度は、のんびり読書や、談笑、星や鳥や花の観察をしてみたい。遊びでテニスを教えてもらいたい。


 「やあ、なまえ。調子はどう」

 幸村くんがキッチンをのぞきに来たとき、わたしは大なべで豚汁をこしらえているところだった。バーベキュー用の具材はすべて切り終えており、もうじきお米も炊き上がるころだ。

「順調だよ。そろそろ火の準備をはじめてもよさそう」
「いいにおい。豚汁も用意してくれたんだ」

 幸村くんは後ろに手を組んでわたしの横に立ち、なべのなかをのぞき込んでから、首を傾いでこちらを見つめた。口の端を持ち上げて、含みのある笑みを浮かべている。あたたかい湯気とともに、幸村くんのやさしい花のかおりがふわりと立ちのぼる。

「味見したいの?」
「あたり。よくわかったね」

 茶目っけたっぷりに笑う幸村くんがかわいらしくて、思わず頬が緩む。甘えてくれているようで、とてもうれしい。小皿に装った豚汁を渡すと、幸村くんはそれをほんとうにおいしそうに飲み干してくれた。

「おいしい。料理ができるなんて、感心するな」

「よかった。お料理はなるべくするようにしてるの。いつか一緒に生きていきたいと思う人を見つけたら、その人を絶対に、うんとしあわせにしたいって思うから」

「してもらう側じゃなくて、しあわせにする側なんだね」

「もちろん。しあわせになってもらわなくちゃ困るもの」

「きみがそういうこころ持ちでいるっていうだけで、きみの未来の恋人は果報者だと思うよ」

「いい彼女になりそうっていうこと?」

「まあ、そんなところ」

 幸村くんはわたしの頭にぽんと手のひらを乗せると、皆の様子を見るために、また勝手口からおもてへ出て行った。ふわふわと浮足立つような気持ちを無視してしまいたいのに、触れられたところが、ひどく熱を持っている。
 幸村くんをほかの人と区別している。そんなこと、あってはならないことである。



 夜はあっという間に訪れた。バーベキューは大盛況で、わたしの作った豚汁も、鮭のちゃんちゃん焼き風やアクアパッツァ風などのホイル焼き料理の数々も、皆よろこんで平らげてくれた。

 バスルームは一階と二階にあり、わたしは一階のいちばん風呂を譲ってもらって上機嫌だった。
 グレーの壁面に白い人工大理石の埋め込み型のバスタブという洗練された雰囲気のバスルームには、坪庭に面したはめごろしの大きな窓が設けられている。このまま文庫本でも持ち込んで二時間ほどゆっくりしたい気持ちであったが、さすがにひとりじめするわけにもいかず、仕上げにたっぷりのボディクリームを身体じゅうに塗りこんでから、わたしはその場所を明け渡すことにした。

 ゲストルームはほとんどがふたり部屋で、いくつかはファミリールームだった。わたしはふたり部屋をひとりで使わせてもらうことになっているが、ほかの部員は皆、相部屋である。
 リビングでは数グループにわかれて、それぞれ、映画鑑賞やトランプや雑談、持ち込んだ携帯ゲーム機などで盛り上がっている。自分たちの部屋に集まって遊んでいる人たちも多いようだ。

 わたしはこっそりと二階へ上がり、ビスコースのネグリジェの裾を持ち上げて、バルコニーの螺旋階段からウッドデッキへ、そこからさらに階段で裏庭へと降りる。頭上には降るような星空が広がっている。
 よく手入れされたコニファーに、薄桃色のたっぷりとした花をつけた百日紅の木々。まるで空からこぼれた星々が地上で花をつけたような、群れ咲くペンタス。夢のような光景のなかに、幸村くんがいた。

「幸村くん!」

 うれしくなって声を張ると、幸村くんはちいさく手をあげてほほえんでくれる。

「驚いた。ちょうどきみに連絡しようと思ってたところなんだ。星がきれいだから出ておいでって」

「夜になったら絶対にここへ来ようって思ってたの。だから、こっそり抜け出してきちゃった」

 ちいさく駆けるわたしの勢いを受け止めるように、幸村くんの両手がわたしの両手を取った。遠くにねむの木の花が見える。夢のようなうつくしさ。わたしたちは向かい合い、指先をゆるく触れ合わせたまま、またたく星々を見上げていた。

「寝巻き姿、かわいいね」
「ありがとう。これ、お気に入りなの」

 ビスコース生地のネグリジェと、セットのガウンはごく薄いグレーで、ネックラインと裾にシンプルなレースがあしらわれており、肌触りもデザインも非常に気に入っている。
 わたしの言葉を聞いて、幸村くんはおかしそうに笑う。

「服じゃなくて、きみ自身を褒めたんだけど」

 風が吹いて、あたりの草花がかさこそとささやくように音を立てる。

「……やだ、赤也くんみたいなこと言うのね」
「軽口と一緒にしないでほしいな」
「……幸村くん、その」

 穏やかだけどはっきりとした口調で、その言葉が冗談でないとわかる。わたしは戸惑ってしまう。このままではいけないと感じる。

「ずっと思ってたよ。かわいいって。きみが萎縮しちゃうと思って口にしてこなかっただけ」

 俯いて、わたしはほとんど泣き出しそうになってしまう。のぼせたように身体じゅうが熱い。手を胸元へ引き戻して、心臓を強く抑えた。

「幸村くん、あのね」
「うん」

 わたしの瞳をまっすぐに見つめるまなざし。空にまたたくたくさんの星が、彼の琥珀色の瞳に映り込んでいる。

 赤也くんのアプローチと、幸村くんの言葉を、どうして同じように受け取ることができないのだろう。丸井くんや仁王くんとの接触と、幸村くんの指先がわたしに触れることに、どうして違う感情を抱いてしまうのだろう。そんなことあってはならないと思う。わたしたちの今の、まったく過不足のない関係を、勘違いで壊してしまうようなことがあっては。

 幸村くんの指先が、風になびくわたしの横髪をそっと撫でる。よろこびに勝るせつなさが、わたしの胸をぎゅうと締め付けて苦しい。

「……こういうの、だめだと思う。勘違いしちゃうといけないから。ばかな勘違いをして、今のしあわせをだめにしたくないの」

 両手で顔を覆っていたので、戻ろう、と呟いた幸村くんがどんな顔をしていたのかはわからない。ただその声色のやさしさに、こころも身体も、まるごと溶かされてしまいそうだった。



 消灯時間の二十二時を過ぎて、リビングの灯りはすべて落とされている。ゲストルームからかすかに溢れる話し声だけが、広いリビングをひそやかに満たしている。眠る気分にはなれなくて、キッチンへ来た。

 わたしは皆がだいすきで、ずっとずっと、このままでいたいと思う。よき友人たち。そのなかで、わたしが幸村くんを特別だと思ってしまっているとしたら。
幸村くんにとって、それは裏切りかもしれない。
 もしもこの気持ちを知られてしまったら、彼は傷つくだろうか。友人を失ったと感じさせてしまうかもしれない。皆はどう思うだろうか。不和を起こしかねないと考えて、今みたいに親しくしてはくれないだろう。
 わたしたちを結ぶのは、ただ深い友情。今がきっと完璧なバランスなのだ。波風を立ててはならない。そうでなくては。

「どうした、眠られないのか」

 湯を沸かそうと電子ケトルに水を注いでいると、暗がりから声がした。柳くんだ。

「なんだか落ち着かなくて」
「精市のことか」

 うまい返事が思いつかず、わたしはつい口ごもる。柳くんの目に、それはきっと肯定として映るだろう。気まずさから目線を逸らすが、彼が満足した気配はない。

「好いているのだろう」
「……わからない」
「わかっているはずだ」

 柳くんはわたしの手から電子ケトルを取り上げると、スタンドにセットしてスイッチを入れる。マグカップを用意したくてレトロなキャビネットの硝子戸に手をかけたとたん、背後から伸びてきた柳くんの腕に挟み込まれてしまった。柳くんは両手のひらを硝子戸についており、わたしの身体は背の高い彼にまるごとすっぽりと覆われるようなかたちで身動きが取られない。急な出来事に、心臓がばくばくと音を立てる。

「緊張するか」

「い、いきなりこんなことされたらびっくりする」

 わたしは混乱し、上ずった声を上げる。いちばん上の戸を開ける柳くんの硬い胸元が、わたしの身体にさらにきつく密着する。清潔なサボンのかおり。湯上がりなのだろうか。寝巻きの薄い生地ごしに彼の高い体温を感じる。湯飲みをふたつ、手際よくスタッキングする様子を見て、わたしの心臓はだんだんと落ち着きを取り戻していく。

「急じゃなければ緊張しなかった。スキンシップには慣れている。違うか」

「そんなこと……」

「甘い言葉も、身体の接触も、精市相手だと冷静でいられない。わからないふりをするなら、もっとはっきりと言葉にしてやろうか」

 柳くんの低い声が、わたしの背中をじんじんと震わせる。鼻の奥がつんと痛くなる。

「……わかった。もうわかったから、言わないで」

 これ以上なにもしないし踏み込まない、という合図だろうか、降参の言葉を聞くやいなや、柳くんは両手を上げてわたしから離れた。全身から力が抜けて、わたしはその場にへたり込んでしまう。
得意げな笑みを、潤む瞳でなかば睨むようにして見上げた。

「弁解しておくが、いやがらせをしにきたわけじゃない。自分の気持ちとも他人の気持ちとも向き合うべきだという、これはアドバイスだ」

 そう言い残して、白湯をいれた湯呑みを片手に、柳くんは去って行ってしまった。電子ケトルのスタンドの赤い光だけがちらちら揺れて見える。

 自分の気持ちと向き合う。それはどういう状態のことだろう。幸村くんをすきだと認めたとして、今のわたしに、リスクをおかしてまで欲しいと思えるものはなにもない。たとえそれが、幸村くんの愛だとしても。
 そして、他人の気持ちと向き合うということ。それは今のわたしにとって、あまりにも難しいことである。うぬぼれや過信と履き違えてしまいそうで、とてもおそろしい。


 やがて、ぱたぱたと階段を降りる音が聞こえた。きちんとスリッパを履いている人の足音だ。ややあって、頭上に声が降る。

「きみがキッチンで腰を抜かしてるって蓮二から聞いたんだけど、うそじゃなかったんだね」

 幸村くんの声を聞いたとたん、わたしのこころでは、無数のつぼみが一斉に花を咲かせる。幸村くんが蒔いた種の数々。
 きっと、特別にやさしくしてくれているわけではない。ひとりの仲間として、その豊かなこころで接してくれているだけ。わかっていても、幸村くんの言葉の数々はわたしのこころに深く根を張り、惜しみなく降るやさしさによって、むくむくと育っていく。

 暗がりにはもう目が慣れているので、わたしには幸村くんの姿がはっきりと見えた。泣きたくなるほど、愛おしいと感じてしまう。遠ざけようと思っていたのに、どうしようもなく会いたかったのだとわかってしまう。

 自分の気持ちに向き合うこと。己の願望と向き合うこと。幸村くんの顔を見ると、凝り固まった思考が、するするとほぐれてゆくかんじがした。
 幸村くんがすき。今はまだ、この気持ちを伝えたいとは思わないけれど。わたしのこころに花を咲かせてくれたのが彼ならば、わたしはその花々を、束ねて彼に贈りたい。幸村くんがたくさんの愛に囲まれて幸福に生きられるように、わたしの愛を、惜しみなく渡したいと思う。ひとりよがりにだけはならないよう、細心の注意を払って。

「おとなしく運ばれてくれるかい」

 幸村くんは座り込むわたしの目の前に屈んで目線を合わせると、しかたがないというふうに、やわらかくほほえんだ。
 幸村くんの腕が両脇の下に差し込まれるよりも、たぶん、わたしがその首に巻きつくほうがわずかに早かったように思う。
 幸村くんはわたしを抱き上げずに、しばらくのあいだ、そのままやわく抱きしめてくれていた。

「沸かしたお湯は飲むの?」

「うん」

「じゃあ、きみを運んだあと持っていく。丸井の部屋に集まってるけど、きみは自分の部屋に帰る?」

「みんなに会いたい」

「わかった」

 幸村くんの声は、底抜けにやさしい。そのかおりも、ぬくもりも、手のひらの感触も。

「少しは落ち着いたかい」
「うん。混乱してたけど、すっきりした」

幸村くんが頷くのと同時に、ふわりと身体が宙へ浮かんだ。あまりにもたやすく抱き上げられて、わたしは自分がとても軽くなったように錯覚してしまう。階段を上るさなか、ごく間近で目があった。

 このやさしい人が、うんと幸福であるようにと祈る。特別に、しあわせでいてほしいと思う。そう思うことは、きっと、罪ではないはずだ。