9:風雲児

 白木蓮が咲き、桜が花開いて、海辺の町にも春がやってきた。登録会はテニス部の春の一大イベントで、入部希望の新入生を迎えて、トレーニングや簡単な試合──なるべく多くの生徒が体験できるよう、ノーアドバンテージのワンセットマッチと決まっている──を行う日のことだ。
 多くの生徒が入部届の提出をするが、考えがまとまらず、一度持ち帰らせてほしいと言う者もいる。既存の部員は、それがどちらでも構わないと思っている。入部した生徒は、予想外のハードさと、試合に出られない日々に鬱屈し、ほどなくして大半がどのみち辞めてしまうからである。そういうわけで、我々テニス部は、入部のことを「登録」と呼ぶ。実際に部内に残る者も、そのなかで前線に出られる者も、ほんのひと握りしかいないのが現実なのだ。

 前年は異例の年で、正レギュラーに一年生が三人もおり、その全員が好成績を残したため、今年の登録会には例年以上の参加者が集まると予想された。年功序列でなく、あくまで実力主義なのだということが広く知られ、そのことは多くの新入生に希望を与えたに違いない。
 わたしたちは入念な準備をして、この日が訪れるのを待った。


 昼休みをそわそわと落ち着かない気分で過ごしていたところ、担任から呼び出しが入った。寄せ植えの贈与があったので、屋上庭園へ持っていってほしいとのことである。気が紛れてちょうどよいと、二つ返事で請け合って、わたしはプランターと台車を取るために、二号館の職員玄関へと向かった。
屋上庭園へは、一度おもてへ出て一号館から上へ行くのがいちばんの近道である。

「みょうじ」

 重たい台車をゆっくり押しながら歩いていると、渡り廊下の上から声がかかった。幸村くんの声だ。わたしはにわかにうれしくなって、頭上を見上げる。幸村くんはいつだってわたしを見つけてくれる。渡り廊下には、真田くんと柳くんの姿もあった。わたしは大きく手を振り「お疲れさま」と声を張る。

「今行くから、そこで待ってて」

 幸村くんは口元に手を当ててそう言うと、渡り廊下の脇にある螺旋階段を使い、こちらまでゆるく駆けてきてくれた。

「手伝うよ。ほら、貸して」
「幸村くん、そのためにわざわざ下りてきてくれたの?」
「まあ、そんなところ。柳に過保護って言われちゃった」

 幸村くんは茶目っ気たっぷりに、ふふ、と声を上げてちいさく笑った。そして上にいるふたりに軽く手を振ると、ブレザーの袖を捲り、台車を押して歩き出してしまう。

「ごめんね、ありがとう」
「手伝いたいと思ったから来ただけだよ。屋上庭園でいいのかな」

 ちいさく頷くと、幸村くんは涼やかなほほえみをくれた。
 搬入用エレベーターには人が乗られないため、階段からは手で運ぶ必要があった。わたしたちは階段下のスペースで台車のストッパーを下ろし、わたしはちいさなブリキのプランターを、幸村くんはやや大きい木製プランターをそれぞれ持って、また歩き出す。わたしのほうはミニバラ、幸村のほうはアネモネがメインのアレンジだった。
 大きな窓から春のやわらかな日差しがふんだんに降り注いでおり、気持ちがよい。

「いよいよ今日だね。わたし、緊張しちゃって」
「きみが先輩になるなんて、おかしなかんじだな」

 わたしが「ええ」と抗議の声を上げると、幸村くんはおかしそうにくすくすと肩を揺らして笑う。

「嘘だよ。少しも心配してない」
「少しも?」
「少しも」
「ふふ」
「無理をしすぎないかどうかは気がかりだけど」

 屋上庭園にプランターを置いて、水やりなどを済ませたときには、あと少しで予鈴の鳴る時間だった。

「じゃあ、また放課後」

 幸村くんが言う。

「また放課後」

 わたしもほほえんで返す。驚くほど甘えた声が出て、わたしはこっそりと口もとに手を当てる。

 登録会では幸村くんとは別のチームで行動することになる──わたしは、見学している新入生とコミュニケーションを取ったり、開場時の受付や、アンケートの配布、回収などを行うガイドチーム。丸井くん、ジャッカルくんといっしょだ。幸村くんたちレギュラー陣はコーチングチームに配属された。仁王くんや柳生くんはサポートチームである──ので、ふたりで今日のことを話すことになるのは家に帰ったあとだろうか。きっとわたしたちはいつものように、メッセージアプリで会話をするだろう。

 王者立海のネームバリュー効果はすさまじく、登録会へは、わたしの想像をはるかに超える人数が集まったが、イベントはおおむねスムーズに運んだように思われた。道場破りのように現れた新入生に、場の空気が一瞬にして変えられてしまうまでは。



 放課後、わたしは許可を得て部活を抜け出し、仁王くんから借りた自転車に乗って、海沿いの道を走っている。潮風に揺れるやわらかそうな癖毛を見つけるのに、そう時間はかからなかった。あれ以来音沙汰なしの風雲児の目撃情報をいくつか聞いていたため、ある程度のあたりはついていたのだ。

 黒い癖毛に、透き通るような白い肌。切原赤也くんだ。彼は登録会で辻斬りのごとく上級生たちを片っぱしから打ち負かしたあと、幸村くんたち三強に敗北して遁走。そしてその後、一度も姿を現さなかった。威勢がよく、ラフプレーじみたプレースタイルには危ういものがあったが、皆、彼のことが気になってしかたがないというようすだった。もちろんわたしも、彼のなかに感じた光るものが忘れられないでいる。
 新しい風を吹かせる子だという、それはほとんど、確信だった。

「なんすか、あんた。覗き見なんて悪趣味っすよ」

 防潮堤で壁打ち練習をしていた彼が、手を止めてわたしを睨んだ。色素の薄い、アンバーの瞳がぎらぎらと鋭く光っている。

「ごめんね、そんなつもりではなかったんだけど、なかなか声がかけられなくって。切原赤也くんだよね。この前テニス部に来ていたでしょう?わたし、マネージャーのみょうじなまえ」

「マネージャーが俺になんの用っすか。テニス部には入りませんよ」

 ふてた顔でそう言い捨てると、彼はまた球を高く上げる。壁打ち練習ひとつとっても、圧倒的なセンスを感じざるを得なかった。鋭く、切り裂くような打球の軌道。

「見ていてもいいかしら」

 そう聞いてみるが、返答はない。わたしはステンレス手すりのわきに自転車を止めて、階段から海岸のほうへ下り、しばらく彼を眺めることにした。

「……テニス部には入らないって言ってるじゃないすか」

 まるで特別な力で吸い寄せられているかのように、ひとところに飛んでいく打球を、魔法のようだと思った。五分も経たないうちに、彼はしびれを切らしたように口を開く。ご丁寧に舌打ちまで添えてくれた。

「あのね、そうじゃなくって……。ただ、皆あなたに一目置いてるって、そのことを伝えたかっただけなの」
「へえ、ご苦労なこった」

 うんざり、といったふうに彼は悪態をつく。アンバーの瞳のなかに、たぎり立つ闘志の色が見える。去年、幾度も目にした、戦う者の覚悟の色だ。
 強い潮風を受けても、打球はその煽りを感じさせない勢いで駆けた。こんなところで燻っているなんて、もったいなくってスポーツの神さまが泣いてしまう。
 しかし、天岩戸をこじ開ける必要はない。わたしはそう確信している。かつてわたしが、そうであったように。魅せられてしまったあとは、もう、本能に従うよりほかはないのだ。

「ほんとうに、無理に勧誘しにきたわけじゃないのよ。だって、わたしが勧誘なんてしなくても、あなたはきっと、あの人たちを追わずにはいられないもの」

 幸村くんからのスカウトを受けて悩んでいたころに、柳くんが言ったことを思いだす。
「今自分を興奮させているものの正体を、おまえは暴かずにはいられない」
 まったくもってそのとおりであった。おかしなほどに。

「なんて、受け売りだけどね。またね、赤也くん」

 時計を見ると、そろそろ戻らなければいけない時間であった。



 歓迎会は、食べ放題の焼肉専門店を貸し切って行われた。客寄せパンダのテニス部には毎年多大な予算が与えられるため、こういったイベントごとも多いという。
 上級生はある程度ばらけて座るよう指示されているらしかったが、俺たち新入生に関しては、どのテーブルに着いてもよいとのことだったので、俺は嬉々としていちばん奥の広い席を選んだ。通路側、一番端のダイニングチェアに、彼女が座っている。


「はい、赤也くん。たくさん食べてね」
「あざす! それよりマネージャー、彼氏いるんすか? 」
「恋人はいないけど、どうして?」

 俺の小皿に肉を乗せながら、目線を上げずに彼女が言った。片手は耳にかけた横髪を押さえている。節目がちの瞳がなかなかにセクシーだ。

「俺が立候補しますよ! あんたをしあわせにしてみせます」

 彼女は「ええと」と苦く笑い、頬に手を当てた。男所帯の紅一点で、俺たちのマネージャーである。入部をためらっていたときに、一度彼女からのコンタクトがあった。わざわざ自主練を見に来たのだ。その数日後には、放課後に立ち寄ったゲームセンターまで丸井先輩とジャッカル先輩が会いに来た。そのせいでもおかげでもないが、結局俺は、化け物を全員負かしてナンバーワンになるという名目のもと、テニス部へと入部することとなったのだ。
 入部からは二週間が経つが、彼女はいつもやさしいほほえみを絶やさなかった。ストップウォッチを片手にコートサイドに立つより、屋上庭園で紅茶でも飲みながらにこにこしているのが似合う女だった。

「ずいぶん懐かせたね」

 彼女の座るダイニングチェアの背もたれに両手を掛けて言うのは、幸村先輩だ。

「幸村くん、お疲れさま。ちゃんと食べてる?」

「大丈夫。食べてるよ」

「いいのかよ、幸村くん。懐かれてるどころか、口説かれてるぜい。おまえもよくこんなところで熱烈アプローチできるな」

「だって、唾つけとかないと取られちゃうでしょ。もうひと目惚れなんすよ。海岸に現れた天使かと思いましたもん」

 隣の席の丸井先輩が俺の髪の毛をわしわしとかき混ぜる。居心地の悪そうにしていた彼女は、いつのまにか幸村先輩のテーブルへ移動していた。
 彼女はテニスとはまるで結びつかない。いつも暗い準備室にいて、古いトロフィーの数々を前に真剣な顔をしているが、俺たち部員を見つけると花の咲くように笑う。
 俺たちが怪我をしたときには、いつだってすぐに飛んできた。取れない球を打っているわけではないので、プレーヤーから厳しく咎められることはなかったが、怪我を負っても、負わせても、彼女からは悲しい顔をされた。危ないプレーだけはどうかしないで、と彼女は言う。
 ひと目惚れとは実際違うかもしれないが、急速に恋に落ちているということが自分でもわかった。
 帰り道、海を見つめる静かなほほえみが、うつくしいと思った。

「悪いことは言わん。諦めんしゃい」
「えー、だって彼氏いないんすよね」
「ガーデニング上手の誰かさんが手塩にかけて育ててる、高嶺の花じゃ」

 斜向かいの席で、仁王先輩が口角を吊り上げて笑う。小食なのだろうか。ふわふわの銀髪を指先で弄んでおり、食事をする気はもうなさそうだった。

「下の毛も生えてなさそうな赤ちゃんに、なまえはやれねえよ」

 丸井先輩の言葉を皮切りに、言い合いがはじまり、口論はヒートアップして派手な喧嘩へと発展した。真田先輩の「やめんか」の一言で勝負はお預けとなったが、いずれテニスで決着をつけるべきだと思った。そのとき頭にあった感情は、怒りでなく高揚感である。強いやつを、この人たちを追い越すチャンスがほしい。何度でも。


 入学したてのころ、ちょうど登録会のその日まで、俺のこころを支配するのは、むくむくと膨れ上がる全能感であった。合格は不可能とも言われた受験をみごとにクリアして、有頂天になっていたのだ。その勢いのまま、王者立海テニス部で、てっぺんを獲ってエースになる。それが俺の描いたストーリーであった。
 現実はうまくいかなかったが、辛いことをはるかに超える興奮があった。浮かれてるという自覚はあったが、これで浮かれずにいられるか、と居直って、魂の震えるままでいた。最高の学校生活になると、確信していた。