夜、消灯時間を過ぎたあと。俺とジャッカルの部屋に集まったのは、仁王と比呂士と幸村くんだった。ベッドが二台のふたり部屋だったが広さがあり、この人数が集まってもなんら問題はない。
先ほどまでは、未だにぐずぐず文句を言っている赤也とテレビ電話を繋いでいたがそれも終わり、なまえを連れてくると言って出ていった幸村くんが彼女を横抱きにして連れてきたので、今はその話題で持ちきりだ。
「蓮二に骨抜きにされてキッチンで動けなくなっていたんだ」
「ご、語弊が生じるような言いかたしないで」
「柳になにされたんだよ」
「壁ドンで腰抜かしたって聞いたけど」
「キッチンで壁ドンとはなかなか大胆ですね。しかしロマンがあります」
「柳くん、なにをどこまでどんなふうに話したの……」
彼女は信じられないといったふうに頬に手を当てて、目をまるく見開き青ざめている。俺たちには柳のその発言がほとんどジョークであると想像がついているため、言いたい放題だ。
やがて彼女はちいさく息をつき、手を身体の横に下ろして表情をやわらげた。やれやれ、といったふうに。隣に座る幸村くんは羽織っていたフレンチリネンのサマーブランケットをふたりの膝の上に広げる。
ふと彼女の顔が赤くなり、その瞳がきらりと潤んだので、ブランケットの下でふたりが手を繋いだことがわかった。
「幸村。さっきの横抱き、再現してくれんか。赤也に送る」
「おもしろそうだけど、彼女をそういうジョークに使うのは反対だな」
「柳にも幸村くんにもリードされて、あいつ泣いちゃうんじゃねえの」
「小出しに報告するのは気の毒なので、レポートにまとめて後日渡しましょう」
「そこそこにしとけよ。フォローするの、たぶん俺なんだから」
「あたりまえだろい」
こころの底から笑うとき、彼女は少し泣き出しそうな顔をする。肩を寄せて笑うふたりは、とてもお似合いというふうにみえる。
朝、ずいぶん早くに目が覚めたので走りに出る。テラスで幸村くんとなまえが本を読んでいるのが見えた。戻ってきたとき、彼女はすでに引き上げてキッチンにおり、幸村くんはまだテラスのガーデンチェアに腰をかけていた。キッチンでは、なべがことことと音を立てていて、ブイヨンのよいかおりがする。
「よう。なに作ってんの?」
「おはよう、丸井くん。今はオニオンスープを作ってるところ。朝ごはん、洋食か和食か選べるようにしようと思って。監督がパンを手配してくれたみたいで、八時ごろに届くみたい」
キッチンには、出来立てのだし巻き卵に、昨日仕込んでいたらしい炒り高野、大きなボウルに入ったサラダ用の野菜が並んでいる。
「なんかすることある?手伝うぜい」
「ううん。あとはお魚焼いて、ベーコンエッグを作るくらいだから。ありがとう」
「オッケー。みんな起きるころ、また覗きに来る」
テラスでは幸村くんがまだ本を読んでいる。ようすを見に行こうと歩き出した俺の後ろから、塩麹に漬けた鮭を取り出した彼女の、機嫌よさげな鼻歌が聞こえる。
白い格子状のフレームがうつくしい掃き出し窓は観音開きで、開けると夏の朝のさわやかなかおりがした。濡れた土や、緑や、花のにおい。
こちらを見上げる幸村くんがちいさく笑った。纏っている穏やかな雰囲気と、一見不似合いとも思われる強いまなざしが奇妙なバランスで共存するその面差しには、男の俺でもどきりとさせられるときがある。
「おはよう。早いな」
「そう言う幸村くんこそ。ずっと本読んでんの?」
「いや、走りに出ていたんだ。戻ってきたらなまえがテラスにいたから」
話によると、彼女が朝食の支度をはじめるまで、ふたりは野鳥を見たり本を読んだりして過ごしていたらしい。
俺は彼女が先ほどまで座っていたガーデンチェアに腰を掛けて、咲き広がる名前も知らない花の数々や、かたちのきれいな木々を見つめてみた。なるほど、気分のよくなる行為だと思った。時間の流れが穏やかに感じる。ここはとてもよいところだ。
「幸村くんさ、付き合わないわけ?」
「誰と、なにに?」
彼はおかしそうにちいさく笑う。
「いや、なまえと、恋愛的な意味で」
これは前々から抱いていた疑問で、恋愛に鈍い真田や赤也以外は、たぶん全員が気にしていることである。気にしているといっても、それは別になにかを危惧しているわけではなく、ただの好奇心や、ほんの少しの老婆心からくるものだ。俺たちには、この絆が誰かの恋のゆくえなどで揺らぐようなものではないという自負がある。
「俺の意志だけで決められることじゃないからなんとも言えないけど、まあ、もしアクションを起こすとしたら、来年の部活が落ち着いてからかな」
幸村くんのスマートフォンからは、ピアノの楽曲が、ごく低いヴォリウムで流れている。
「別に、思わせぶりな態度をとって弄んでいるわけじゃないよ。ただ、彼女のやさしさに甘えない自信が今はないんだ」
たとえば挫折や失敗が訪れたとしても、たとえば、試合に負けたとしても、彼女はきっと「だいじょうぶだよ」とほほえんで、すべてを許すのだと思う。幸村くんのメンタルを左右できる人間がこの世に、それも身近にいると思うと、なんだか不思議な気持ちだった。
「取られちまうかもしれないぜ。真田と赤也は本気だろい」
「関係ないよ。俺自身を、彼女がどう思うかだろ。ライバルが百人いようといまいと、変わらないと思うけど」
「なあんか余裕ってかんじだな」
「そういうわけでもないけど、考えかたの問題かな」
部屋のなかではトレーニングから戻ってきたらしい真田が、彼女と話しているようだった。表情は見えないが、彼が今どんな顔をしているのかは容易に想像がつく。必死に取り繕ってはいるものの、ふやけきっている。もしかすると、真田の好意は赤也よりもわかりやすい。
全国前の激しい追い込みで、昼過ぎには皆くたびれていた。差し入れのバタークリームブッセは絶品だったけれど、それだけではごまかしきれないほどの疲労感である。フローリングはひんやりと冷たかった。
「うん、あと十五分経ったら起こすから。みんなも交代で休憩してね」
「ああ。頼んだ」
なまえと真田の声だ。ぼうっとする意識のなか薄く目を開けると、淡いブルーのサマードレスから伸びる細い素足が見えて、俺は反射敵にまぶたを落とした。気がつかぬうちに、どうやら眠っていたらしい。陽の光はまぶたを透かし、見えないはずの視界をあかあかと照らす。
彼女は俺の身体に薄いサマーブランケットを掛けたようだった。そのままそっと頭を撫でられる。弟がふたりおり、ふだんは甘えられるばかりなので、不本意ながら甘やかされているようなこの状況はかなり新鮮だ。起きているとは言い出せないまま、やがてまた、意識の遠のいてゆくかんじがした。
夜は皆でカレーを作った。これは毎年の恒例行事で、ほとんどのメンバーが存外乗り気であった。
幸村くんは一年の林間学校で飯ごうを爆発させた前科があるので、リビングの籐椅子に座らせられていたが、味見実行委員だとかなんだとか言って、本人はすこぶる楽しげだったのでよしとする。彼にもできないことがあるのだと思うと新鮮な気持ちになる。
カレーに入れるはずのりんごは仁王がうさぎの飾り切りを施してしまったので、なべには入らずそのまま皿に並べられた。
「中学生の泊まりがけの行事をおとなの引率なしに決行するってまずいと思うし、監督、たぶん近くにいるんじゃないかな」
そう言い出したのは幸村くんだ。
「そういえば、昨日から見計らったようなタイミングで連絡が来るんだけど、それなら納得」
チャーリーズ・エンジェルにはまっているという監督から、近ごろ彼女はエンジェルと呼ばれている。彼の素性はいまだに謎だ。
たのしい時間はあっという間に過ぎてしまう。
最終日のメニューは試合がメインだった。オフショルダーのサマードレス姿のなまえと、彼女に日傘を差し掛ける比呂士の並びがおもしろく、仁王は撮ったツーショット写真をスマートフォンのアプリで油彩のように加工して遊んでいた。画像は幸村くんの笑いのつぼに入ったらしく「モネの絵画みたい」と長いことひそかに肩を揺らしていた。
画像はグループチャットに投稿されて、俺も夜の花火のときに撮った「カラフルな炎を出す花火を持つ真田」を送り、好評を博した。
なまえは集合写真の右上に、丸くくり抜いた赤也の画像を合成して「部誌に載せるね」と言っていたが、どこまで本気かはわからない。
全国大会が終われば、すぐに秋が来る。紅葉の名所が多く、秋の神奈川は盛り上がる。
三月の合宿には赤也も加わり、さらに賑やかになることだろう。おそろしいほどばかで生意気だが、憎めないやつだ。ついかわいがってしまう。
帰り際、祭のあとのようで、うら寂しい気分になる。ぐっと盛り上がったテンションのあとにくる喪失感が、俺はとても苦手だ。
「きみの爪、朝焼けの海の色をしているね。やさしい色だ」
戸締りの確認をするなまえのサンダルの足元を見て、幸村くんがほほえんだ。
シェルホワイトのペディキュアは、光の加減により、水色にもオレンジにも、ピンクにも見えた。彼女も、うんと目を細めてほほえみ返す。
「落ち着いたら、また海を見に行こうね」
あまりにも甘い雰囲気だったため、手を繋いだりキスをするのではないかと思われたが、どちらも行われることはなく、ただ幸村くんが彼女の荷物を取り上げただけだった。
ものすごく遠い未来のことだけれど、たとえばふたりが結婚したら、皆で集まる口実が増えるかもしれない。漠然と考えて、自嘲気味に笑った。
ここにいる皆といつかは離ればなれになるなんて、今は想像もつかないことである。しかし、そのときは確実にやってくるのだ。
「来年も楽しみだね」
背後から彼女のやわらかい声が聞こえる。
二年の夏が、駆け足で通り過ぎようとしている。止める術はない。