13:乖離

 精市が試合を終えたとき、彼女は彼を絶対的な意志をもって抱きしめたというふうに見えた。それは、感極まり思わず抱きしめてしまったというふうであった昨年の全国大会のようすとはあきらかに違っており、彼女を迎える彼もまた、受け取る以上の愛を手渡したがっているように見えた。

 夏の盛り、俺たちは全国大会二連覇を遂げた。



 九月二十五日。
 赤也くんは今朝からそわそわと落ち着かない。今日は彼の誕生日で、わたしたちは部活後にちいさなサプライズパーティーを開こうと目論んでいる。

「幸村先輩! 今日が何の日かわかりますか?」

「誕生日だろ。あれだけアピールされたら、いやでも覚えるよ」

「ええ! 反応薄くないっすか? もっとあるでしょ、なんかこう、ほら、俺幸村先輩と同い年になったんすよ」

「こら、赤也くん。幸村くんに絡まないの」

「じゃあマネージャーに絡むんで。ほら、祝ってくださいよう」

 わたしの腰元に巻きつく赤也くんを無理やり引き剥がしたジャッカルくんは、そのまま彼を連れてトレーニングへ出て行った。ジャッカルくんはサプライズパーティーまでの時間、赤也くんを部室へ近づけないための時間稼ぎの役を担っている。
 真田くんに頼み込んで飲食物持ち込みの許可を得たので、丸井くんが冷蔵庫へ手作りのケーキを仕込んでくれた。わたしは部屋の飾りつけへ取り掛かる。カラフルなバルーンを膨らませて、ガーランドを吊るす。クラッカーの包装を解いて色紙をしあげてしまうと、ちょうどよい時間だった。
 おもてへ出て、準備が整ったことを伝えてまわる。皆のポケットへクラッカーを忍ばせることも忘れない。遠くで赤也くんの楽しげな声が聞こえる。

 赤也くんのアテンドを任された柳くんから、わたしのスマートフォンにワンコールのみの電話が掛かった。赤也くんが部室の前にいるという合図だ。扉が開いた瞬間「ハッピーバースデイ」の掛け声とともにクラッカーの破裂音が響く。

「おわっ」

 カラフルなメタリックの紙吹雪が舞い、赤也くんの頭上にひらひらと降り注いだ。驚いて固まる彼の頬に、真田くんとわたし以外のメンバーが次々と軽いキスを贈ってゆく。これは仁王くんが考えたいたずらで、皆、赤やピンクやオレンジのルージュを引いていたため、赤也くんの頬はスタンプをでたらめに押したみたいな有り様だ。
 わたしたちは、ジョークでのキスはしたくないという理由で参加を辞退した。わたしは同性であればよかったが、さすがに異性へキスを贈るのは躊躇われたためだ。
 皆は周到に用意してあったウェットティッシュでいそいそとルージュ拭き取っている。

「どうだ。驚いたじゃろ」

「あ、いや、めちゃくちゃびびったし突っ込みたいことも山ほどあるんすけど、いちばんに伝えたいのは幸村先輩のくちびるがまじで超やわらかいってことっすね」

どっと笑い声が上がる。

「ていうか、真田先輩はともかく、マネージャーはしてくれないんすか?」

「うん、わたしは撮影係だから。あとで動画送ってあげるね」

「いいから鏡を見ろ。顔を洗ってこい」

「いや、このままのほうがおもしろいだろい」

 結局引き止められてしまった赤也くんは、たくさんのプレゼントを抱え、罰ゲームさながらカラフルな顔で帰路に着いた。プレゼントがまた個性的なもの揃いで、わたしたちは涙が出るほど笑った。わたしは赤也くんのすきな洋画のTシャツを贈った。主演男優になりきり、皆でそれにサインを模写して遊んだ。非常に思い出深い一日だった。



 東京の学校と練習試合が行われた。結果は圧勝である。手応えがなかったので、よいデータは得られなかった。

 行きのバスでは、赤也がみょうじの隣を占領していた。もたれかかって寝てもいい、と豪語したのはなにかのフラッグか、わずか十分足らずで眠りついていたのは彼のほうである。

 帰りは、弦一郎からプレーの荒さを咎められた赤也が後ろのほうの座席でさっさと寝てしまったため、彼女はいちばん前の座席にひとりで掛けていた。最後に乗り込んだ精市がナチュラルに隣へ腰を下ろしたのを見て、部員の何人かがちいさく羨望の声を上げた。ふだんは赤也がキープしている彼女の隣席だが、彼がいなくなったとて、ほかに座る勇気のある者は、彼女に特別な好意を持たない者か、精市くらいである。
 彼の肩へもたれかかって眠る彼女の、安心しきった顔が印象的だった。そのときの彼の穏やかな面持ちも。

 彼女のもったいないところは、彼が彼女だけに見せる表情を客観的に見られないことである。誰にでもそういう顔をするわけではないということを、彼女は自衛心のため、気づこうとはしない。そうすることで、こころの均衡を保とうとしているのだ。



 屋上庭園のダリアが満開になった。
 八重咲きのなかでも睡蓮咲きと呼ばれる花形──咲きかたの種類は、幸村くんが詳しく教えてくれた──が特にお気に入りだ。一重咲きのものはマーガレットのようで、ひと目でダリアとはわからなかった。幸村くんはダリアにことさら詳しい。

 朝練のあと少し時間があったため、ふたりで屋上庭園へ向かった。今日は肌寒く、幸村くんもわたしも、お揃いの指定マフラーを巻いている。日に透けると青みを増す青黛色の髪の毛は、マスタードイエローのマフラーとよく似合う。

「今年は寒暖差が大きかったから、ダリアの色が冴えているね」

「幸村くんのおうちの子たちも元気?」

「元気いっぱい。明日の朝にでも見においでよ」

 幸村くんの提案に、わたしは大きく頷いた。嬉々として。うつくしい花が見られて、その上一緒に登校できるだなんて、なんて幸福だろう。
 十月のなかばで、幸村くんは部長、真田くんが副部長になることが決まっていた。


 今日は週あたまに行われる全員参加のミーティングの日で、部活自体は早くに終わる。直帰する者もいれば残って基礎練習に取り組む者もいるが、わたしは議事録をまとめなければいけないので居残りするのが常である。
 スポーツショップに寄りたいと言ってぞろぞろと連れ立って出て行く皆を見送って、わたしはめずらしく、準備室ではなく誰もいないロッカールームで作業をすることにした。
 ロッカールームは明るく、いつも制汗剤とコールドスプレーのにおいがする。

「お。お疲れさん。まだおったんや」
「お疲れさまです、毛利先輩。ミーティングの議事録、あとで目を通しておいてくださいね」
「わかっとるよ。うわ、置き勉回収されとる」

 毛利先輩は飄々とした態度で掴みどころのない三年生で、確かな実力を持ってはいるが、部活へは来ないことも多い。立海はほかの学校に比べて三年生の卒部が遅く、後輩の育ちぐあいによっては春先まで在籍してもらうこともある。今年は下級生レギュラーが多かったのでそこまでの時間は要さないと見られているが、今はまだ、可能な限り残ってもらっている状態だ。

「自分もあんまり無理せんと、そこそこに切り上げときや」

 毛利先輩はポケットからウエハース菓子を取り出すと、ベンチ前のローテーブルへ置いて寄こしてくれた。皆がいないと時間の感覚が掴みづらい。今は何時だろうか。外からは夕映えの黄金色の光が差し込んでいる。


 全員がすきにパソコンを見られる環境ではないので、仕上がった議事録はプリントアウトして専用のファイルへ綴じた。ふいにスマートフォンの着信音が鳴る。ディスプレイには丸井くんの名前が表示されている。彼からの電話はめずらしい。

「もしもし、丸井くん」

 わたしが話し出したとき丸井くんはスマートフォンを耳に当てていなかったようで、彼と誰かの話し声が、くぐもった音で遠くに聞こえた。楽しい雰囲気ではなさそうだった。低い声で、なにか焦燥しているようなかんじだ。わたしはわけもわからぬ不安に襲われてしまう。

「丸井くん、聞こえる?」

 少しのまのあと、丸井くんの息づかいがクリアに聞こえた。わたしはわずかに気を緩める。

「悪い、もしもし」

 その後の言葉を、わたしはうまく飲み込むことができなかった。
 幸村くんが倒れた。さっき、駅のホームで。救急車が来て、今は病院にいる。詳しいことはまだわからない。

 病院へ向かう電車のなかで、消化できないままの言葉が頭のなかをぐるぐるとこだましていた。幸村くんが倒れた。さっき、駅のホームで。
 空気は鎖骨のあたりを行ったり来たりするだけで、一向に肺を満たしてはくれなかった。わたしは、そこから自分がどうやって目的地へ辿りついたのかを、よく覚えていない。



 今のところ告白をするつもりはないのだと、彼女は言った。
 たとえばもう会えなくなってしまうとしたら、そのときには「すきだった」と伝えたくなるかもしれない、とも。卒業や、引っ越し、就職。いつか道が別たれるとき、なんの返事も強要しない、すでに完結した好意として伝える自信と責任が持てたとしたら、と。