14:神の子とその孤独について

 底抜けにやさしい彼女がすきだった。道端で摘んだ野花を差し出すかのような、そのやさしさの渡しかたが。
 誰も深くは探りたがらない、俺の本質を見ようとする瞳がすきだった。虚像を透かしてまんなかを見つめる、まっすぐな瞳。彼女はいつだって、俺のほんとうの声に耳を澄ませている。
 すきだった。とろけるような笑顔も、丁寧に話すところも、やわらかい声も。生まれた感情や受け取った言葉のそれぞれにラベルをつけるようにして、守り、生きているところも。
 ほんとうの意味で、彼女は俺の隣にいた。ずっと。

「幸村くん」

 腰に添えた手に力を入れかけた俺に反応して、彼女がちいさく声を上げた。

「ああ、いや、すまない」
「どうしたの、謝らないで」

 弱音じみたことを吐いた俺をひしと抱いた彼女を、一瞬、ほんとうにほんの一瞬だけ、母親かと思ったのだ。激しい動揺をうまく隠すこともできなかった。こころの底から、みじめだと思った。
 彼女のことは決して抱き返さないと決めていた。うまくできなかったときがこわいからだ。
 現れては去ってゆくたくさんの人たちをここで眺めながら、こころはゆるやかに死ぬ。起きているのか寝ているのか、誰が来て誰が去っていったのか、さまざまなものごとの判別がつかなくなってきた。

「今日はこのへんにしよう。点滴までに少し休んでおきたいんだ」

 彼女は目を細めて、ちいさく頷く。彼女のやさしさが、あり余る愛が、その存在が、俺をかわいそうな人間にする。病人然としたひ弱な男にする。みじめにしてしまう。応えることを強要されているわけではないのに、渡し返すものがなにもないことに、会うたび絶望する。

 手術のめどはつかない。早くとも来春以降になると言われている。症状にむらがあることと、二度現れた呼吸障害があだとなり、自宅での療養は厳しいとされた。




 あの日、目が覚めたとき。その瞬間に限っては、自分の身に起きたことも、ここがどこなのかもさえもわからなかった。つまり、絶望する前だった。
 病院にいるのだということは、ひと呼吸置いたあと、すぐにわかった。自分は検診着のようなものを着せられていたし、あたりは薬品のにおいがした。それに、白衣を着た知らないおとなもいたからだ。

 目の前の人たちが軒並み揃ってすっかり暗い顔をしていたことが、まずはじめに感じた恐怖だった。そのあとすぐさま飛来した大きな恐怖は、起こそうとした身体の、そのどこにも力が入らなかったことである。
 身体のどこに力を入れれば起き上がることができるのかわからなかった。わからないのは、身体の起こしかた自体を忘れてしまったせいなのか、力の入れかたを忘れたせいなのか、はたまた起き上がるための力自体を失ってしまったからなのか、判断がつかなかった。


 次の日に検診と、簡単な検査を受けた。精密検査の前の検査であるということを暗に匂わされて、気分は落ち込むばかりだった。「結果が出ない」という、わかりきったことを証明するだけの検査。つまり、茶番である。
 面会時、医師はあらゆる言葉を濁したが「特定の難しい病気」であるということだけは、はっきりと口にした。
 正体はわからないが、自分はなんらかの病におかされている。そのことがあきらかになって、俺ははじめて深く絶望した。
 最初の検査が行われたとき、症状はほとんど回復しており、不調らしい不調は手足の軽い痺れくらいであった。自分を襲ったのは病などではなく、疲労かなにかによる一過性のトラブルにすぎないだろうと、結果をおそれる裏で、無自覚にたかを括っていたのだと思う。


 面会が許可されたのは、運び込まれた日から数えて五日後のことだった。感染のリスクがないと判定されたのだ。

 病室に現れた彼女は、努めて気丈にふるまっていたものの、どちらが病人かわからないくらい真っ白な顔をしており、驚いた。ほかの面々は存外ふだんどおりで、久々に触れた明るい空気にいくらか穏やかな気持ちになったことを覚えている。

「会いたかった」

 「調子はどう」は聞き飽きていたので、彼女のその言葉は素直に嬉しかった。泣き腫らしたのか、赤い目をしていた。
 精密検査を控えていたので、今後のことには一切誰も触れないまま、当たり障りのない会話だけが交わされた。そもそも連絡自体は取りあっていたため、取り立てて話すようなこともなかったせいもある。

「こいつ泣いて泣いて大変だったんだぜい」

 彼女のケアは、丸井と蓮二がしてくれているようだった。ベッドに腰を掛け、笑う部員たちを見つめながら俺は、つま先の鈍い痺れを気にしていた。


 精密検査の結果は芳しくなかったが、次の検査が行われるまでのあいだ、帰宅の許可が出た。
 病名は特定できず、ただ、当初疑われていた病とはまた別のものであるということだけが判明した。症状がひどく悪化することもなかったため、体調のよい日にはさまざまな条件付きで登校することも許された。
 部活に顔を出しても、自主練にはほとんど参加しなかった。スポーツシーンで身体がきちんと機能するかどうか、確認するのがこわかった。

 十一月のはじめに体調が悪化し、一度目の呼吸障害が起きる。



 幸村くんが倒れた日、あとから病院へ向かったわたしは、彼に面会することが叶わなかった。
 命に別状がないとわかったときは内心安堵したが、その感情はおもてに出すべきではないと考えた。幸村くんがこれからも生きていかれるということを、ほんとうは手放しでよろこびたかった。しかし、それが彼にとっても幸福なこととは限らない。手足の感覚の異常や筋肉の麻痺といった彼の症状は、テニスをする上で致命的だった。

 友人という身分の無力さに、はじめて絶望した。仲間であっても、異性の友人という身分のわたしには、幸村くんに届けられるものがなにひとつなかった。

「髄液の検査をしたんだけど、検査前の麻酔がすごく痛くて驚いたよ」

 二度目の検査後のことだ。そう言った幸村くんはあっけらかんとしていたが、わたしはとても笑えるような気分ではなかった。彼だって、もしかすると無理をして笑っているのかもしれなかった。

「押すとまだ痛いんだけど、押してみる?」
「お、押さない……!」
「そう」

 幸村くんは親指と人差し指を顎に添えて笑う。彼の癖だ。なめらかに動くその手足を見ていると、彼の身体がこんなふうには動かなくなってしまうかもしれないだなんてことは、悪い夢のように思えてならなかった。

「幸村くんの患者着は、晴れた日の岩間から見える、遠くの海の色。バスクリンの色」

 変わってあげたい、と思う。そして、その思いがひどく独善的であることに気がついてぞっとする。

「きみのつま先は」
「朝焼けの海の色」

 わたしはスリッパを脱いだつま先をぱたぱたと動かす。薄手の黒いストッキングから、シェルホワイトに塗られたちいさな爪が透けて見えた。偏光パールのマニキュアは、光の角度によって、水色にも朱鷺色のようなオレンジにも見える。

「幸村くんのね、髪の毛は、夜の海の色」

 わたしになにができるだろう。幸村くんはなにをしてほしいのだろう。あるいは、なにもしてほしくはないのもしれない。どんな言葉も、どんな思いも、彼の身体を治せはしない。
 考えれば考えるほど、どの言葉も、どの態度もふさわしくないような気がして、逡巡に逡巡を重ねる。答えがわからなくて、会うこと自体が間違いであるような気がしてくる。



 幸村くんが入院したのは十二月で、クリスマスを控えた世界はどこもかしこも、誰もかもが浮かれたようすだった。
 幸村くんの病は予想されていたものとはまた別の難病で、手術が有効であることが判明したが、成功率は低く、現在の医学では寛解が難しいということを同時に告げられた。「真田たちにはないしょだよ」と言った幸村くんは、わたしと真田くんたちをどこかで区別している。


 丸井くんがケーキの差し入れをすると言っていたので、クリスマスには本を数冊としおりを贈ることにした。本は、詩集が一冊と、小説が二冊、すてきな現代短歌の本を見つけたのでそれも一冊追加して全部で四冊になった。しおりは幸村くんのすきなルノワールのアネモネがプリントされたものだ。

 今日はクリスマス・イヴで、雪の予報だった。バス停から病院への道すがら、わたしは波のように連なる雲を見上げていたが、空は雪のひとひらも寄越してはくれなかった。

「幸村くん、こんにちは」
「やあ、来てくれたんだ」
「クリスマス・イヴだもの」

 クリスマスめいた赤い紙袋を掲げてこっそりと笑うわたしに、幸村くんはまなじりを下げてほほえんでくれる。
 わたしはベッドサイドの丸椅子に、幸村くんはベッドに、浅く腰をかけた。カーテンレールがからからと鳴る。幸村くんの病室は換気のため、大抵窓が開いている。

「プレゼントを持ってきてくれたのかい」
「うん。本を何冊か」
「ありがとう。きみのおすすめはどれも好みだから、うれしいな。開けてみても?」
「もちろん」

 幸村くんの指が包みをとく。白くしなやかな指。なめらかに動く指。
 わたしたちは取り出したその一冊一冊の、おすすめのポイントや気になるところ、またその著者などについてそれぞれ語り、肩を揺らして笑った。
 本の影になっていたので、最後に紙袋から出てきたのはしおりであった。

「アネモネだ」

 少しのまのあと「ありがとう」と呟き、ちいさなしおりを胸に抱くようにして、幸村くんはそっと目を閉じた。透き通るやさしい声だった。

「後ろ向きに座って」

 促されるまま背中を向けて座ると、髪の毛に幸村くんの指が差し込まれた。やさしい指先は時おり頭に触れながら、わたしの細い髪を丁寧に丁寧に梳かしてゆく。彼から触れてもらうのは、ほんとうに久しぶりのことだった。
 幸村くんはプレゼントにかけられていたペールブルーのリボンで、わたしの髪の毛をハーフアップにまとめてくれた。

「どう?見せてみて」

 わたしは幸村くんのほうへ向き直す。「かわいいよ。似合ってる」と彼は笑う。

「イレーヌ嬢みたいになった?」
「彼女、はにかんだときのきみによく似てるよ」
「ほんとうかな」
「ほら、そうやって顎を引いて上目遣いになるところ」

 窓の外では雪がちらつきはじめていた。わたしたちは窓辺で寄り添い、長いこと無言のまま、降る雪をじっと見つめていた。



 幸村くんとは、病院へ行っても面会ができない日も多かった。クリスマスには改めて部員の皆と訪ね、ささやかなパーティを開いて楽しんだが、その次の日は体調の不良により会うことが叶わなかった。

 今日は大丈夫そうだと連絡があったので、補修の赤也くんを抜いたメンバーで病院へ向かう。
 暖房でじゅうぶんにあたたまった病室は、今日もわずかに窓が開いていた。
 おもてでは雪が降っている。学校を出る前、ちらつく細雪を見て赤也くんは「埃みてえ」と言った。口に出して同意はしなかったが、たしかに、と思った。幸村くんのいない日常は、ゆるやかにうつくしさを失っていく。

「いちいち俺の意見を聞かなくてもいいだろ。現場を知らない人間の言うことなんて、なんの参考にもならないじゃないか。俺はおまえたちの持ってきたものに同調するしかない。言えることがないんだ。みじめな気持ちにさせるのはやめてくれ」

 病室じゅうを震わせたのは、語気を荒げた幸村くんの声だった。わたしは花瓶の花を入れ替えていたので話し合いには参加していなかったが、真田くんと柳くんが主体になって考えた来季からの指導計画のたたきを幸村くんに見てもらっているところであった。

「浅慮だった、すまない」

 振り向くと、柳くんが深く頭を下げていた。彼に続き、皆口々に謝罪の言葉をこぼす。幸村くんと視線がかち合う。揺れない瞳に、燻った強いいらだちのようなものを見る。
 いらだち。それはきっと、彼らに向けられたものではなく、幸村くんが彼自身に向ける憤りに違いなかった。
 閉め損ねてしまった蛇口からさあさあと水の流れる音がする。時間が止まってしまったかのように誰もなにも発さない。むき身の傷を、誰も触らない。

「今日は失礼するとしよう」
「すまん、幸村。また来る」

 最後まで退室をためらっていたジャッカルくんが、申し訳なさそうに眉尻を下げる。幸村くんは目線を落としたまま、口をつぐんでいた。


 静かすぎる廊下で、わたしは踵を返した。なんの断りも入れなかったが、追ってくる者もいなかった。丸井くんがちいさく手を上げて見送ってくれた。
 階段を上り、スタッフステーションを目印に右へ折れる。突き当たりを左に曲がって三つ目の病室の壁をノックして、返事を待たずになかへ入った。

 幸村くんは窓辺に立っていた。病室のグレーじみたこころもとない灯りのもとで。振り返った彼の頬がわずかに濡れていた。
 わたしは歩み寄り、その身体をやわく抱きしめる。

「幸村くんが生きていてくれて、うれしいと思うよ」

 テニスは自分自身であると語って聞かせてくれた幸村くんには、とてもそうは思えないかもしれないが、これがわたしの素直な気持ちだった。
 幸村くんがこれからも生きていかれることがうれしい。手術をして、きっと快復して、だれよりもしあわせになってほしい。信じている。幸村くんの幸福な未来を信じている。幸村くんのぶんも、強く、そう思う。

 腰元へそっと手のひらが当てられる。すりつけた額で、わたしは幸村くんのたしかな鼓動を感じる。

「どんな言葉なら幸村くんを傷つけないかなって、そんなことばかり考えていたら、こわくてなにも言えなくなっちゃったの。でもそれは、幸村くんから逃げて、無視していることと変わらないよね。ごめんなさい」

 ん、と、幸村くんはわずかに喉を震わせた。頷いたのか、息をついた音だったのかはわからなかった。
 少しだけ押し返されたあと、ゆっくりと頭が抱かれる。覆いかぶさるように背中をまるめた幸村くんの背中に、わたしもそっと腕をまわして応えた。
 畏れられること。憐れと思われること。そのことが、今までどれだけ幸村くんを孤独にしただろう。触れられない、触れてはならないと、一方的に遠ざけられることが。

 病と闘う幸村くんにわたしが渡せる言葉は、これからもきっと、ほんのわずかしかない。やさしさが常にやさしく相手へ届くとは限らない。その事実は人びとを臆病にしてしまう。
 しかし、いつも思っていると、深くあいしていると、知っていてほしい。抱きしめる腕から、合わせた身体から、わたしの愛も、皆の愛も、すべて、すべて伝わればいいと思った。そして少しでも、あなたの孤独を紛らわすことができたなら。


 この日以降も、部員たちの足が遠のくということはなかった。皆はふだんどおりに幸村くんの病室を訪れ、幸村くんもふだんどおりに彼らを迎えた。わたしはこころの底から安堵した。

 年の暮れだったけれど、来る年の話はだれもしなかった。わたしのだいすきだった未来の話を、幸村くんはもう口にしない。