29:インスタントがお望みで

 送迎用の小型バスに揺られながら、わたしは窓の外をぼうっと眺めている。ちいさなキャリーバッグのなかには、着替えやメイクポーチなどの私物と、部の備品のラップトップパソコン、それから監督から送られてきた差し入れの焼き菓子とインスタント飲料を詰め込んだ。

 窓に映るわたしは、赤い頬をして頼りなさげにこちらを見つめている。首もとに巻いたマフラーにしきりに触れながら、静かに肩を上下させている。マフラーはほんとうは幸村くんのものだけれど、見た目にはわからない。わたしのマフラーを持っているのが幸村くんだということも。それらはわたしたちふたりだけのひみつである。
 幸村くんがマフラーを貸してくれた翌々日、わたしも彼へ自分のマフラーを託したのだ。幸村くんは笑顔で受け取ってくれた。

 合宿所はバスで一時間半ほどの場所にあり、参加校のテニス部の関係者であれば、申請を出すことで訪問できるようになっている。宿泊も可能なので、金曜日、土曜日と、連泊させてもらうことに決めた。氷帝のマネージャーからも同じスケジュールで申請があったらしく、送迎バスは立海から氷帝を経由して合宿所へ向かうことになっている。

 幸村くんたちのいないテニス部で、わたしは存外元気に過ごしている。今生の別れというわけではないので当然のことかもしれないけれど、想像していたよりも平然としていられることを、わたしは少し、せつなく思う。
 日々をがむしゃらに生きるうちに、変化に順応できるこころというものが、思いがけず、育まれていたのだろうか。わたしたちはこうやって、出会いにも別れにも鈍感になっていくのだろうか。大人になるとはそういうことなのだろうか。

 合宿所へ到着する少し前に、幸村くんから連絡があった。ミーティングが長引きそうなので、談話室で待っていてほしいとのことである。今日は幸村くんの部屋と、施設内やその周辺の案内をしてもらう約束をしている。明日と明後日はトレーニングをじっくりと見学させてもらう予定だ。
 舗装の甘いがたついた道に差しかかったところで、わたしは突然不安になってしまう。彼らに会ったとき、わたしだけがひどく浮かれていたらどうしよう。あるいは、思っていたよりも冷静だったら。皆のいない日常に慣れきってしまい、再会のよろこびも希薄に感じてしまったら。そんなことは、一切合切ありえないことだと思うけれど。


 バスはりっぱな両開きの門の前で止まり、わたしたちはそこから宿舎へと歩いて向かった。遠く、あちらこちらから、選手たちの声が聞こえる。わたしたちは運転手から手渡された入館許可証を首から下げて、あたりをきょろきょろと見回しながら歩いた。想像していたよりもたくさんの人がおり、見知った顔を探すのは難しいと思われた。

 宿舎は広いが、わりにわかりやすい造りになっており、談話室へは迷わずにたどり着くことができた。革張りのソファはやわらかく、つけっぱなしのテレビでは衛星放送のスポーツチャンネルが流れている。
 氷帝のマネージャーとはエントランスで別れた。宿泊する部屋が隣り合っているはずなので、タイミングが合えばゆっくりと話しでもしようという約束と、連絡先の交換をした。彼女は凛とした立ち居振る舞いがうつくしい、いかにも「氷帝学園生」然とした女子である。個性的な部員たちをサポートするにふさわしい人物に見えた。わたしはどうだろう。いつも頼りなく笑うのみで、皆にふさわしいとは思えない。

「お、おったおった。自分、なまえちゃんやんな」

 呼ぶ声に誘われて入口のほうへ顔を向けると、見覚えのある男性と視線が合った。整った面立ちにごく薄いミルクティー色の髪の毛の彼もまた、ここで見かけた人々同様、指定ジャージに身を包んでいる。四天宝寺中学校の彼と青春学園の不二さんがルームメイトだということは、幸村くんから聞いて知っている。

「はい、立海大付属のみょうじなまえです。ええと、白石さんですね」
「よう知っとるな」
「白石さん、花形選手だから」
「蔵ノ介でええよ」
「じゃあ、蔵ノ介くん」

 聞くと、彼は幸村くんからのことづてでわたしを迎えに来たとのことだった。用事がまだ長引きそうなのでカフェにでも連れて行ってやってほしいと、通りがけに頼まれたのだという。

「幸村クン、自分に会うの、えらい楽しみにしとったで」

 わたしたちは向かい合い、蔵ノ介くんはアイスコーヒーを、わたしはフルーツティーを飲んでいる。あたりを見回してみても、ここが合宿所というふうには全く見えない。どこかの商業施設のようである。

「ほんとうかな」
「ほんまやで。恋人が会いに来てくれるのにうれしくないわけないやろ」

 蔵ノ介くんはグラスの中身をストローでくるりとかき混ぜながら、さらりと言う。ポーションのミルクが尾を引いて沈んでゆく。

「幸村くんとは、そういう関係じゃないから」

 わたしはなんでもないこと、というふうに呟いて、まだあたたかいフルーツティーを口にする。パインやストロベリーのかおりが鼻へ抜けた。蔵ノ介くんの驚く気配をつむじで感じる。

「てっきり付き合うとると思ってたわ。でも、まあ、秒読みやんな」
「それも違うかな」
「なんや、ほんまになんもあらへんのか」
「告白したことがあるの。でも恋人じゃない。だから、そういうこと」

 手持ち無沙汰になってしまったので、わたしは部屋で食べようと思って購入したクグロフの包みを開けた。いちじくのクグロフは、キルシュとシナモンの強いかおりがする。アイシングがかかっているのがよい。蔵ノ介くんは「ほおん」とも「ほうん」ともつかない相槌を打って、やや気まずそうにこめかみに指をやっている。関西の男の子というかんじがした。

「すまん、ずけずけと。浅慮やったわ。堪忍な」
「ううん、気にしないで。そんなに深刻なことじゃないの。失恋なんて、世のなかにはありふれているんだから」

 自らに言い聞かせるようにわたしはゆっくりと言葉を紡ぐ。これは深刻ではなく、ありふれたこと。だから、大丈夫。


 やがてやってきた部員たちのなかでいちばんはじめに声をかけてくれたのは、赤也くんだった。首もとに勢いよく腕が巻きつけられる。集まってくる面々の姿を認めて、わたしは弾む胸を必死に抑えた。

「マネージャー、会いたかったすよ!」
「もう。たった数日でしょう」
「その割にはおまえもずいぶんうれしそうだがな」

 赤也くんの身体をわたしから引き剥がしながら、柳くんはちいさく笑う。今度は丸井くんの腕が肩に置かれた。彼はわたしをそのまま腕置きにして、なんのことわりもなくフルーツティーを口に運ぶ。丸井、と嗜める声は幸村くんだ。唐突に戻ってきた日常に、こころがみるみるうちに満たされてゆく。柳くんの言うとおり、わたしは今、とてもうれしい。皆といられることが、とてつもなくうれしい。

「切原クン、えらい懐いとるな」
「たとえ白石さんでも、マネージャーはやりませんよ」
「遅れてすまない。白石、助かったよ。ありがとう」
「おん、お安い御用や。ちょうど通りがかってよかったわ。なまえちゃんみたいなかわええ子、ひとりにさせたらあかんわな」

 幸村くんは「そうだね」と返すと、わたしの隣へやってくる。白い腕が伸びてきて、わたしの額をやさしく撫でた。心臓から下腹部へかけて、身体の奥がきゅうとせつなく締めつけられるかんじがする。

「やあ。いい子にしてたかい」
「うん、してたよ」

 うんと甘えた声が出た。わたしのこころはたちまち幸村くんへ戻ってゆく。ここ数日のことが、夢のできごとのように思われた。
 触れることへの言い訳が思いつかなくて、わたしはスカートの上で両手の指どうしを結ぶ。褒めて、と言って額を擦り付けたら、幸村くんはきっと応えてくれるだろう。



 わたしたちが商店街へ出かけるころ、おもてでは霧雨が降っていた。濡れたアスファルトの、どこかなつかしいにおいがする。
 商店街にはちいさな電気屋、スポーツショップ、スーパーマーケット、肉屋に、花屋に、それにとうふ屋もあった。幸村くんはゆっくりと歩きながら、ここいらのことや近況を教えてくれる。

「なんだか不思議な気分。こうして知らない町にいることも、ふたりでお買いものをしていることも」

 ショッピングカートを押しながら、わたしはちいさく呟いた。
 エネルギースーパーたじまというスーパーマーケットは、いかにもローカル然とした名前と店がまえをしているが、しかし、品揃えに関しては目を見張るものがあった。大変めずらしいものばかり置いてあるのでうきうきとしてしまい、店内を端から端まで歩くわたしの隣を、幸村くんも楽しげな面持ちで歩いてくれた。かごのなかには皆からのリクエストのお菓子や日用品が山のように積まれている。

「そうだね。ふたりで新生活でもはじめたみたいだ」

 かごのなかのわずかな隙間へ歯磨き粉を器用に差し込みながらそう言うと、幸村くんはわたしの手からショッピングカートを取り上げてしまう。三色ストライプの歯磨き粉は、たしか、仁王くんからのリクエストだ。

「わたし、おとうふ屋さんのおとうふ、だいすき。スーパーもお花屋さんもあるし、すてきなところだね」
「でもきみは、どの町よりも湘南がいいと言うだろうね。世界じゅう、どこを見たとしても」

 その通りだ、と思う。
 おもてでは雨がその勢いを増している。

「わたし、もしもどこか別の土地で働くようになっても、いつか湘南に戻ってきたい。そして、皆が帰って来られる場所を作れたらいいな」

 部員たちのなかには、プロになり世界を飛び回る者もいれば、テニスとは関係のない道へ進む者もいるだろう。いずれにしても、あの海辺の町からはほとんどが離れてしまうと思われた。慣れ親しんだ部室は来年には後輩たちのものになり、わたしたちは場所を移してそこで三年のときを過ごし、また去っていく。あたりまえに集まることのできる場所は失われ、わたしたちは無理やりに押し出された先の社会で、大人になる。

「応援してる」

 幸村くんはそっと目を細める。慈しむようなほほえみが眩しくて、少しせつなくて、わたしもそうっと瞳を細めた。将来の話をするとき、幸村くんはいつも、自分はそこにいないという顔をする。

 夢ものがたりかもしれないが、わたしはいつか、皆がまたあたりまえのように集まれる場所を作りたい。そこへ行けば会えるような、皆のかおりを感じられるような、おかえりなさい、お疲れさまと聞こえてくるような、つまり、わたしたちの今の日常を取り戻せるような場所を。わたしの描く未来には、もちろん、幸村くんがいる。くらしを共にはしていないかもしれないけれど、今と同じように、やさしくほほえんで。

「遠回りの道と、近道と、ふつうの道があるけど、どこを通って帰ろうか」
「うんと遠いのがいいに決まってる」
「じゃあ、遠回りの道をさらに大回りで行くのはどうかな。雨が降っているけど、きみさえ平気なら」
「幸村くんといっしょならへいちゃらですよ」

 傘を広げる幸村くんの腕にそっと身を寄せ、左手を添える。荷物をふたつにわけて片ほうを持つと請け合ったが断られてしまったため、わたしは両手ががら空きだった。こちらに視線をくれた幸村くんが目もとで笑うのを合図に、わたしたちはゆっくりと歩き出す。

「わたしの未来には、幸村くんもいてくれなきゃ困るよ。たとえ別々に生きていくことになるとしても、たまにはちゃんと顔を見せて。いくつになっても、時どきは皆で集まろうね」

 ん、とちいさく声を漏らし眉を落として、幸村くんは笑った。肯定とも否定とも取れないリアクションだったが、わたしもそれ以上はなにも言われず、くちびるをきゅと結んで笑顔で返した。

 寒い日であったが、寄り添い合えばあたたかかった。小川にかかる石橋を渡りながら、わたしは、新生活ごっこの終わりが近づいていることをせつなく思った。世界を間近にした彼らとわたしたちの生活は、どんどんと乖離してゆく。
 幸村くんは、いつまでこんなふうに、歩幅を合わせて歩いてくれるだろう。週末のみしか会えないこの生活を、あのころはよかったと思い出すときが来るのだろうか。