30:わたしたちのコンフリクト

 洒落た商業ビルのなかで、大きなミルクレープを目前に、彼女は爛々と瞳を輝かせている。今日のお礼にスイーツでもご馳走させてほしいと言えば、奢りでなくてよいのですきなケーキ屋に寄らせてほしいと頼まれたのだ。カフェは大阪にも店舗のある有名店で、姉が熱烈なファンなので、俺もよく知っていた。

 しあわせそうにケーキを頬張る姿を見て、ようやく、彼女も自分の家族や周りにいる勝気な女子たちと同じ生きものなのだと実感する。失礼な言いかたかもわからないが、そのくらい、彼女のような女性は俺の周りにはまずいないタイプだったのだ。
 しかし、甘いものを好む女性となれば、この瞬間ばかりは、気の強い者も弱い者も、積極的な者もそうでない者も、皆等しく、うっとりとまなじりを下げて胸を躍らせるのかもしれない。

「今日は付き合うてもろて助かったわ。俺ひとりやったら早々に逃げ帰ったと思うで」
「わたしもひさびさにゆっくり東京を歩けて、たのしかった。お姉さんも妹さんも、きっとよろこんでくれるね」

 今日、彼女と東京の街中にいるのは、姉と妹から頼まれたものものを買うためだ。限定の菓子、コスメ、韓流アイドルのグッズなど、食品以外はどれも男子ひとりでは求めにくく、ちょうどよいタイミングで知り合った彼女に、付き合ってもらえないかと打診したのである。快諾だった。そうして今日は、学校が終わってから電車を乗り継いで出てきてくれたのであった。

「立海のマドンナ引き摺り回して、怒られへんか心配やわ」
「赤也くんは蔵ノ介くんにも懐いているし、一緒に行きたかったって騒ぐかもしれないね」
「直情的っちゅうかなんちゅうか、かわええ子やで、ほんま」

 彼女はミルクレープを突きながら、こくこくと頷く。

「真田くんなんかも、よく叱ってはいるし、口には出さないけれど、赤也くんのことがかわいくてたまらないってかんじなの。あれは才能だなあ」
「タイプはちゃうけど、うちの金ちゃんなんかも、なにやらかしたって大抵のことは許されてまうな。後輩ってどこもそんなもんやろか」

 最終的には部活や部員たちの話題に着地することが多かったが、彼女は話しやすい子で、俺たちはさまざまなことを語らった。大阪のこと、神奈川のこと、草花のこと、小説のこと。

「部活を掛け持ちしているの?すごい体力」

 新聞部にも所属していると話せば、彼女は瞳を丸くした。彼女の瞳は、そこらじゅうの光を取り込んで、ビジューのように輝いている。

「掛け持ち言うても新聞部やし、原稿は家でも移動中でも書けるから、別に大変なもんやないで。趣味の延長線やな」

 彼女の飲むハニーレモンティソーダには、薄くスライスされたレモンが沈んでおり、その一枚一枚が、ぷちぷちとしたごく細かい気泡のヴェールを纏っている。

「わたしも書きものはすき。日記とか、お手紙とか、本の感想とか。自分の気持ちやイメージを文字でアウトプットすると、思考がクリアになって、頭のなかがすっきりするかんじがする」

 彼女はきっと、うつくしい文章を書くだろう。日記でも、手紙でも、メールでも、ほかのなにかでも。ゆたかな言葉を、ほどよい温度感で、丁寧に使って。


 買いものはすっかり終えていたので、ケーキを平らげたあとは、ロマンスカーで帰るという彼女を駅まで送ることにした。
エスカレーターに乗りながら、俺たちは言葉を交わす。

「立海は喧嘩とかなさそうやな。がつんと叱れる人もおるし、フォローする人もおるし、うまく役割分担できとるイメージあるわ」

「たしかに、喧嘩はあまりないかも。幸村くんの入院中はぎすぎすすることもあったけど、みんななかよしだよ」

「戻ってこれてほんまによかったわ、幸村クン」

 そうだね、と相槌を打つ彼女の顔が、驚くほどやさしかった。まつげの影からのぞく瞳が濡れてきらりと輝いている。

「幸村クンのことは、ほんまにもうええの?」

「幸村くんが倒れたとき、もう二度と会えないかもしれないって思ったの。意識が戻ったあとも、幸村くんがもう自由に動かれないかもしれないって思ったら、すごく苦しかった。だから、元気に帰ってきてくれただけでじゅうぶん。あのとき、きっと、わたしの一生ぶんの願いが叶ったんだと思うの」

 俺たちの横を、たくさんの人々が通り過ぎる。まだ早い時間だというのに、どこで飲んできたのやら、すでに酔っ払っている人もいた。

「ええ子やな」
「そんなことないよ。度が過ぎちゃうこと、たくさんあるもの」

 短く別れの挨拶を交わして、彼女は改札を通り過ぎ、そしてすぐに見えなくなった。週末にはまた合宿所へ泊まりにくるとのことだった。

 新宿駅は人でごった返している。人も、ものも、溢れかえっている。乱立するビルのなかの、どこに行けばなにがあるのかがまったくわからない。なんでも揃うとはいえど、これではかえって不便でさえある。度を越している。

 大概の人間は、与えられすぎれば戸惑ってしまうようにできているものだ。やさしさも、愛も、自由も、コンビニエンスなあれこれも、すべて。



 わたしが氷帝のマネージャーと送迎用の小型バスから降りたとき、あたりには細かな雪がちらついていた。
 コートのほうから、たくさんの若い声が聞こえる。学校へ行ってもレギュラー陣のみんなに会えない日々には、まだ慣れない。しかし、わたしの生活へ、着実に馴染みはじめている。

 わたしたちはちいさなキャリーケースを引いて、旧館にある学生ゲスト用の宿泊棟へ向かった。
 シングルベッドと造りつけのデスクと椅子以外はなにもない、わずか三畳のシンプルな部屋だ。狭いが清潔感のあるところと、なにより元はプレーヤーの部屋だったため、マットレスが上等なのがよい。
 窓の外では、降る雪がその勢いを増している。ニュースもラジオも、関東ではめずらしい十一月の雪の話題で持ちきりだった。

「お、来た来た! お疲れ!」
「丸井くん、みんな、お疲れさま」
「会いたかったっすよ、マネージャー」
「わたしも。週末だけを楽しみにしてた」

 コートサイドのベンチへ向かうと、見慣れた面々の姿がすぐに目に入った。襟をかき合わせながら近づくわたしにいちばんはじめに気がついてくれたのは、丸井くんだ。幸村くんは検診のため、今ごろは病院へ向かう車のなかだと思われた。

「もうじき自由時間ですから、屋内で待っていてはどうですか。身体を冷やしますよ」

 柳生くんは広げた傘を、すかさずわたしの頭上に差し掛けてくれる。視界がワントーン暗くなる。風が少なく、雪は行儀よく上から下へと降りてくる。

「ううん、雪はすきだし、平気。迷惑でなければ見学させてほしいな。そのために来たんだもの」

 いくらか言葉を交わしたあと、皆はトレーニングに戻ると言ってコートサイドを離れて行ってしまう。柳生くんはわたしに、傘をそのまま持たせてくれた。黒いこうもり傘はとても大きく、その下でわたしは少しだけ、孤独という気分になった。あともうひとり入って身を寄せ合えば、ちょうどよい広さであった。
 ちいさく手を振る。ぼたん雪のヴェールのなかに、みんなの後ろ姿が霞んでゆく。がんばって、と呟いた。がんばって、みんな。
 吐く息が白い。鼻先をマフラーにうずめる。マフラーはすっかりわたしの身体に馴染んでしまって、そこに幸村くんのかおりを見つけることはできなかった。


 夕食には弁当が支給された。ビュッフェでプレーヤーたちに提供しているものを詰めてくれたらしく、あたたかくて、とてもおいしかった。
 柳生くんがちいさなケーキとティーセットを持ってきてくれたので、部屋でふたりで楽しんだ。紅茶はレモンのフレーバーがついたジンジャーティーで、とてもおいしかった。

「幸村くんも、もうじき戻りますよ。検診が終わったと、食事中に真田くんへ連絡が入っていたようですから」

 外はすっかり暗く、依然として、雪が降り続けている。

 雪は屋内から見るとふわふわとやわらかく、あたたかそうにすら見える。とめどなく、空から舞い降りてくる。空は、闇にミルクを数滴落としたような色をしていた。雪がもたらす、うつくしく、やわらかい闇。わたしはマフラーを巻いて、おもてへ出た。

 雪はいつも少しさみしいかんじがする。ちいさく頼りないひとひらひとひらが音もなく降りてくるさまを見ると、わたしの胸は、郷愁にも似たせつなさに支配されてしまう。無性に幸村くんに会いたかった。会って、そうして、会いたかったのだと伝えたかった。はしゃぎすぎてみっともないと思われても。

「しようがない子だな。そんなに薄着で外へ出て」

 後ろから声をかけられて、わたしは勢いよく振り向いた。白い息をちいさく吐きながら、幸村くんがほほえんでいる。

「幸村くん! おかえりなさい、会いたかった」
「俺も。会いたかった」
「雪がきれいだから見ていたの」

 幸村くんのしなやかな腕がわたしを抱きとめる。かすかに、薬品か、消毒液のようなかおりがする。幸村くんの手のひらをあたためようと思ったけれど、彼がわたしの手を取るほうが先だった。

「一週間しか経っていないのに、長いあいだ会っていなかったみたい。幸村くんもみんなも、大きくなった気がする」

「自分のことはよくわからないけれど、後輩たちの顔つきは変わったと思う。毎日がいい刺激に溢れてるよ」

「すてきなことだわ」

 そのあとに続く「さみしいけれど」という思いは、声には出さなかった。
 みんながどんどん遠い存在になってゆく。広い世界で評価されているのだ。すばらしく、めでたいことである。ちゃんと正しく、よろこんでいる。ただ、急速に変わってしまった環境に戸惑っているのだ。こころだけがまだ過去に置き去りにされている。

「来年からも、この時期は忙しくなりそうね」
「きみをさみしくさせてしまうね」
「平気だよ。それ以上に、みんなの活躍がうれしいもの」

 幸村くんがちいさく息をつく。わたしの吐く息も、白くもくもくと空へ吸い込まれていく。のろしのように、なにかに気がついてほしいと言っているみたいに。

「俺のわがままでここまで付き合わせてしまったけれど、高校に上がったら、別の部活を選んでもいいんだよ。華道でも声楽でも絵画でも、きみはきみのすきなことを選んでいい。いつか言わなきゃって、思ってたんだ。たとえ過ごす時間が短くなっても、俺たちの絆は消えたりしない」

 幸村くんは視線を夜空に移しながら言う。雪夜の静けさを切り裂くように、わたしの鼓動が激しい音を立てる。

「……それは」

 幸村くんの言葉が、わたしたちの関係そのものの比喩であるということが、わたしにはすぐにわかった。ここまでだと思って、置いて行ってくれてもかまわないというシグナルであると。

「あんなに触れ合って、たくさんのことを語り合ったのに、幸村くんは、わたしがすきで、自分の意思でここにいるとは思ってくれないのね」

 いつの間にか離れた手のひらの熱を、刺すように冷たい風が容赦なく奪っていく。幸村くんがゆっくりとこちらを向く。
 思いがけず訪れた本音を吐露する機会に、わたしたちの瞳には、戸惑いと覚悟の色が浮かんでいる。
 不可侵の不文律をやぶったのは幸村くんの言葉か、それとも、さみしさを押し出したわがままなわたしの態度だろうか。
 幸村くんはまだなにも言わない。

「幸村くんは、あなたがたといるために、わたしが我慢をしたりなにかを犠牲にしているって、ずっとそう思ってる。わたしが義務や責任でここにいるって、そう思い込もうとしてる」

 浅い呼吸と、重たく響く胸の音。
 幸村くんが黙ったままなので、雪の降る音すら聞こえる気がする。

「わたしの気持ちに気がつかないふりをするのはかまわないの。でも、わたしの思いをなかったことにはしないで。わたしが幸村くんをすきだってこと、みんなをすきだってこと、目を逸らしてもいいけれど、その事実を捻じ曲げたり消したりして、ちっぽけながらくたにしないで。わたしの愛を、道端で迷っている人を助けたみたいな、一瞬のちいさな善意のように扱うのはひどいよ」

 雪は霏々と降る。薄いサテンのヴェールを敷いたみたいに、あたり一面が白く染まっている。
 まぶたに落ちたひとひらが音もなく溶けて涙と混ざり、大きなひと粒になって頬を流れた。

「そんな気持ちでみんなといたことなんか、一度もないよ。気持ちは一緒だって思っていたけれど、うぬぼれだった? みんなほんとうは、わたしだけ中途半端な気持ちでやってるんだって、そう思ってた?」

 わたしの口走ったことが幸村くんの本意から外れていることは、自分でわかっていた。しかし、一度言葉にすると止まらなかった。

「一緒にいたい気持ちが、同情や、義務感や、惰性に変わるなんて、そんなこと絶対にありえないよ。幸村くんがわたしたちを思っているように、わたしたちも幸村くんを強く思ってる。わかってるでしょ、幸村くん。わかってるくせに、わたしをいつか失うものとして考えないで」

 見上げた幸村くんのまなざしは思ったよりもまっすぐで、わたしを責めているようにも見えた。
 言ってはいけないことだった。たしかにあるものに気がつかないふりをして都合よく解釈していたのは、わたしだって同じだったくせに。わたしたちはすべてを言葉に出さないことでバランスを保ってきたはずで、決して侵してはならないラインであると、きちんとわかっていた。先ほどまでは。
 問い詰めてしまえば、言葉にしてしまえば、矛盾も綻びも隠せなくなってしまって、無理やりつめこんでごまかしたなにもかもを整理せざるをえないのだと、そう、わかっていたはずなのに。
 片付けられたあとに残るものが、なにもないことも、わかっていたはずなのに。

「幸村くんのばか」

 力なく呟いて、わたしは幸村くんを背に、勢いよく駆けた。

 いよいよ捨てられてしまうのだと思った。幸村くんが、わたしのことをいつか手放すものだと考えていたことは知っている。それがわたしのことを考えてくれた結果だということもわかっている。わたしのこのシリアスな考えかたが、幸村くんを追いつめたのだ。
 だからほんとうは、追いつめてごめんなさいと、そう言うべきだった。

 幸村くんの言葉は、現在にのみかかっているわけではない。
 いつか皆がもっと遠い存在になって、わたしの追いかけられないところまで行ってしまったときや、幸村くんの身体がまた動かなくなってしまうようなことが起きたとき、わたしの熱がどこかで冷めてゆくのではないかと、そのときわたしが愛ではない別の感情でここにいることを選ぶのではないかと、彼はそれをおそれているのだ。
 もちろんあり得ないことだ。しかし、信じてほしいとは言えなかった。信じたってどうにもならないことがあることも、残酷がどこからともなくランダムに運ばれてくるものだということも、幸村くんはよく知っている。


 でたらめに走って、電灯の少ない道へ出た。幸村くんの追ってくる気配ははじめからなかった。
 立ち止まると堰を切ったように疲労感が襲ってきた。呼吸のしかたを忘れたみたいに、空気をうまく取り込めない。浅く、短く、情けない声を漏らしながらわたしはちいさく喘いだ。

 ひどいことを言ってしまった。一方的に言葉で殴りつけた。絶望させてしまったかもしれない。
 耳が冷えて、頭が鋭く痛む。涙はだらしない具合に流れてくる。

 しかし、やはり、さみしければほかを選んでもよいなんてことは、言われたくなかった。
 ポジティヴな感情以外も甘受して歩める道があるのだと、スポーツマンとして輝く彼らを見て、はじめて知った。 幸村くんをすきになって、もっと深く理解した。
 要らないと言われてもいいけれど、この気持ちをなかったことにして、どこかにいなくなれと言われるのは、かなしかった。進展を切望しない。おもて立っては。しかし、こんなふうに傷つけられたいわけじゃない。
 数日前に蔵ノ介くんから言われた「いい子」という言葉を思い出して、はずかしくなる。いい子などではない。いい子でありたいと思うから、そう振るまってしまうだけだ。現実は違う。よゆうがなく、今日の発言だって、度が過ぎている。だいすきな人たちを困らせたくない。それなのに、わたしはいつだって、手前勝手だ。


 ガゼボのベンチに座ると、身体じゅうがおそろしいほど重たく感じた。少しでも気を抜くと、どろどろとした液体のように、石畳の上へ流れ落ちてしまいそうだった。

 道の向こうに、自動販売機の明かりが見えた。合宿所の明かりも、そう遠くないところに見える。ずいぶんと遠くまで走って来たつもりだったので、体感と現実とのあまりの差に、がっかりした。
 こどもの家出のようだと思った。実際、帰る場所が決まりきっている短時間の脱走にすぎないので、こどものそれと、なにも変わりはなかった。ばかげている。

 細く吐いた息が、のろしのように空へ吸い込まれてゆく。気づいてほしいと、言っているみたいに。