入部してから三週間、日々はめまぐるしく過ぎた。わたしという異物は、予想に反して非常に友好的に受け入れられ、あれやこれやと世話を焼いてくれる人たちの多いことにも驚かされた。しかし、それはそれとして、フィーリングで通じ合っている人たち──それも縁遠い、スポーツマンの男子たち。気を抜けば鉢合わせる、はだかの胸板──の輪にほんとうの意味で溶け込むには、やはりそれなりの時間が必要であるのだと、日々実感せざるを得なかった。
専門用語が飛び交うなか、かろうじて聞き取れたワードをメモに取り、組み立て、咀嚼して動く。部活後や休憩時間には、柳くんがテニスのルールや部員のこと、部内の決まりごとなどを教えてくれる。時間を取らせるのが申し訳なくて謝ると、決まって「設備を整えるための初期投資だと思っている」といたずらっぽく笑ってくれた。
わたしは、設備でもなんでもよいので、早く皆の役に立ちたいと思う。
噂どおり、監督はいっさい姿を見せずにフルリモートで指示を出してくるため、彼とのやり取りは、そのほとんどをわたしが引き取るかたちになった。
部内の様子は動画で伝える必要があるので、撮影はもちろん、トレーニング風景や試合中のピックアップすべきところを編集して提出用のVTRを作ることもわたしの仕事となった。これはレギュラーメンバーが指示を出してくれるし、量の多いときは手伝ってくれるので心強く、慣れないこともあり大変な作業であったが、任されたことのうち、わり合いすきなことであった。
おもてに出ていないとき、わたしの作業場はもっぱら準備室だった。部室はロッカールームと、備品やトロフィーの一部などが置いてある準備室──広いテーブルがあるのでミーティングにも使われるのだが、ミーティングルームとはなぜか呼ばれない──で構成されている。
「はい、カモミールティー」
白く長い腕が伸びてきて、デスクには、飲み口のごく薄い、黄色いばら柄のティーカップが置かれた。琥珀色の水面に薄くスライスされたりんごがふたつ浮いており、立ち昇る湯気からはやさしいかおりがする。
「わあ、いいかおり! ありがとう、幸村くん。お疲れさま」
「きみにハーブティーでもって言ったら、柳生があれこれ世話を焼いてくれたんだ。給湯室でさっとりんごを剥いてくれて、あれはいいお嫁さんになるなあって思ったよ」
たしかに、とわたしは納得する。柳生くんは同じ一年生だが、よく気がつく人で、なにかと面倒を見てくれる。非常に器用で、どんなときでも紳士的な態度を崩さない。
日差しの強いときは日傘を差しかけてくれるし、椅子があれば引いてくれる。よく紅茶やハーブティーを淹れてくれて、小ぶりなスコーンなんかをつけ合わせてくれることも多い。戸惑って、そんなにしてくれなくともよい、と告げたときは「やらせてください。こうしているほうが落ち着くのです」と言って笑ってくれた。
その言葉はどうやら嘘でないらしく、紳士的な振る舞いは彼のアイデンティティであるため、彼のスキルを存分に発揮できる、わたしのような女子の存在は、むしろ彼にとって都合がよいのではないかと柳くんが言っていた。わたしの焦っているとき、柳くんはいつでも楽しげだ。
「切りはつきそうかい」
「うん。もう少しで帰ろうかなって思っていたところ」
「よかった。俺たちも、片付けが済んだら今日は帰ろうって話してたんだ。よければ一緒に帰ろう」
「うん、ありがとう」
「急がなくていいよ。ゆっくり支度してるから」
幸村くんが準備室を出て行って、一瞬開いたロッカールームの扉の隙間から、皆の楽しげな笑い声が鮮やかに聞こえた。扉がふたたび閉まると、彼らの声は、またバックグラウンド・ミュージックのように薄く流れ、作りつけデスクの読書灯のみが光るうす暗い室内をひそやかに満たす。
あたたかいカモミールティーを飲みながら部誌の残りを書き上げて、わたしはパソコンの電源を落とした。完璧に電源が切れる間際の、ぷつ、という音を合図にして立ち上がり、大きく伸びをする。やさしいとりんごのかおりと、ジャーマン・カモミールのほろ苦さが鼻へ抜けた。
幸村くんの言葉に甘えて、今日は一年生たちとともに帰ることになった。
今年の有望株と呼ばれているメンバーは皆、仲がよく、わたしに特段よくしてくれる人たちでもあった。レギュラーである幸村くんたち三人と、柳生くん、そして彼とよくダブルスを組んでいる仁王くん、ブラジルと日本のハーフのジャッカルくん、焼き菓子をもらうとすぐに飛んでくる丸井くんの七人だ。
「若くて美人な、友達の母親。だそうだ」
柳くんがわたしの部内での評判を告げると、つぼにはまってしまった丸井くんが、ひいひいと笑った。仁王くんも肩を揺らしている。
「ええ、知りたくなかったなあ。それ絶対悪口じゃないの」
「褒め言葉だと思うけど」
「まあ、言わんとしてることはわかる」
「母性に弱い男性は多いですからね」
「ううん、そういうものかなあ」
「深窓の佳人という声もある」
「またまた」と、わたしは苦く笑う。一行は長い架橋の入り口に差し掛かり、橋を挟み込むように広がる海原が視界いっぱいに見えた。
「両方とも美人って言われているんだし、喜んでいいんじゃないか」
そうフォローしてくれたのはジャッカルくんで、彼はいつでも驚くほどやさしい。
時計を見るとちょうど十九時で、空はうつくしいロイヤルブルーをしていた。いわゆるトワイライト・タイムである。海面は静かにさざめき、そこに映る街の影をそっと揺らした。空の青を吸い取った深い藍の水色に、逆さまに伸びた街灯のオレンジ色がよく映えている。
通り過ぎてしまうのがもったいなくて、つい歩くのが遅くなってしまう。ゆっくりと遠ざかっていく皆の背中を視界の端に捉えながらも、わたしの視線は、うつくしい海原に縫いとめられて、動かない。
「この時間帯の海は格別だよね」
思いがけずすぐ近くから声をかけられて、少し驚く。幸村くんも前を歩く皆のなかにいるものだと思い込んでいたからだ。
「驚いた?きみはよくよそ見をしているね」
幸村くんの穏やかなほほえみは、薄暮のなかで、いっそうとうつくしく見える。
「この前は紫陽花。山吹を見ていたときもあったな」
「こっそり見てたの? 幸村くんのいじわる」
「わざと観察していたわけじゃないよ。紫陽花も、山吹も、海もきれいだから見ていたら、きみも同じようにしているって気がついただけ。それに、きみがあまりにも真剣に眺めているから、声をかけるのも悪いと思って」
風が強くなる。岸壁にうち当たった波が砕けて、雪のつぶてのようになって散った。離れがたいほどうつくしかった。
「わたし、この町がだいすき」
「俺も、この町がすきだよ」
思えば幸村くんはいつも、歩き遅れるわたしの、少し前を歩いている。そして度々振り返っては、やさしいほほえみをくれるのだ。
翌日、ロッカールームのローデスクの上に、わたしに宛てた荷物が置いてあった。中身はラップトップパソコンで、軽くていかにも扱いやすそうに見えた。
シャンパンピンクのスリムなボディをしており、とてもかわいらしい。差出人とメッセージカードから、監督からのプレゼントだということがわかった。準備室にあるパソコンはデスクトップタイプで、もう一台あるラップトップはもっぱらプレーヤーが使用しているため、持ち運びができ、なおかつ自由に使えるものの支給はとてもありがたい。もちろん備品という扱いなので、部を去るときにはお別れをしなければならなかったが、これから三年間、わたしのよき相棒となってくれることを確信して、わたしは彼女をそうっと抱いて、頬を寄せた。