6:花を生み星を抱く

 「真田くんとふたりきりは、なんだか新鮮だね」

 そう言って、彼女は甘くほほえんだ。これは彼女の、まさしく長所とも悪癖とも呼べるところで、誰に対する態度も、まるで無防備なのだ。その丸腰の笑顔には一切の邪気もなく、そして過剰なほどの甘さがあった。
 そういうふうに無意識に他人のこころの繊細な部分にまで、するりと滑り込んできてしまうところは、無二の友といえる幸村によく似ている。気がつけば、自分ばかりがすべてを晒してしまっているような感覚。邪気なく他人を暴く、生来の能力。

 買い出しをして帰るという彼女の付き添いを自ら請け合ったのは、リストを見れば、女子ひとりで持ち帰るには量の多い買い物だったからだ。幸村がいれば彼に頼んだのだが、あいにく今日はやり残したことがあり、まだ帰らないと言う。
 彼女と幸村は仲がよい。花や、海や、美術品や舞台芸術など、うつくしいものがすきなのだ。

「ありがとう、真田くん。監督、次の練習試合前に用意したかったみたいで」

 荷物は全部で、二重にした紙袋三つぶんになった。すべて持つと請け合ったが、持たせてほしいと譲らないため、中身を少し抜いてから、彼女にもひとつ預けることにした。購入したのは近ごろ話題になっていたプロテインサプリメントで、インターネットでは品切れが続出しているという。近隣のスポーツショップにちょうど入荷したという情報を仕入れた監督から、彼女へ購入の指示が下ったのだ。
 彼女は紙袋を大切そうに両腕で抱え、会話の決して多くない時間のなかで、終始、楽しげにほほえんでいる。背中を押す潮風の音が心地よい。道路脇の花壇に、背の高い花が咲いている。

「俺といても、楽しくないだろう」

 そんなことを言うつもりはなかったのだが、沈黙を打ち消したい気持ちが勝り、つい卑屈な言葉が出てしまった。女子の喜ばせかたがわからないにしても、もっと当たり障りのないことが言えただろうに、とふつふつと湧いてきた後悔が、胸を焦がす。

「そんなことないよ。わたし、つまらなさそうに見えたかな。真田くんはたまに驚くほどネガティヴなんだから」

「自信は鍛錬があるからこそ築かれるものだ。そうでなければ驕りになる。対人能力には適したトレーニングがなく、磨きようがない」

「わたしは真田くんのその、剥き身の、ナイーヴなところがすきだよ。誠実由来の不器用さみたいなのが、とってもチャーミングだと思う」

「……そうか」

 彼女がほほえむ。細い髪の毛が風を孕んでやわらかく揺れる。俺たちとはまるでつくりの違う、うつくしく、しなやかな身体が、夕映えで琥珀色に輝いている。
 彼女とて、気がつけば自信なさげにほほえんでいるというのに。そう思えど口には出せず、なんとなく目のやりどころに困り視線を外した先に、先ほどから咲いている背の高い花々があった。うすみどり色や、桃色や、赤色の、名も知らぬ、うつくしい花。

「きれいだ」

 口をついて出たのは、今度はあまりにも無教養じみた幼い言葉だった。思わず彼女のほうを振り返る。向けられていた笑みの、想像よりもずっとやわらかな色に驚いた。やさしく細められた瞳を縁取る長いまつげが、濡れたように黒々と光っている。

「うつくしいものを、シンプルにきれいと言えるところが、真田くんの魅力だよ」

 俺が幸村なら、もっと器用に会話を広げられたに違いない。彼女を興奮させられる豊かな知識と、繊細なこころづかいで。やさしい言葉で。俺が幸村であれば、フォローされる立場なのはきっと、彼女のほうであったと思う。
 しかし自身の不器用を恥じる気持ちよりも俺のこころを広く支配したのは、たとえようのない、焦げつくようなせつなさだった。せつなさというのかも、わからない。もどかしさと例えたほうがいいかもしれない。とにかく、それは俺の知らない感覚だった。

 遠くでうみねこが鳴いている。ゆるい坂に、木々の隙間からまだら模様の光が差している。
 普段よりも視界がクリアな気がするのは、きっと、彼女の目線のゆくえを、それとなく追ってしまうからである。





 土曜の部活後。わたしたちは専門店でパンケーキを食べている。わたしたちというのは、わたしのほかに、丸井くんと、仁王くんと、幸村くんのことである。
 甘いもの好きの丸井くんとは、しょっちゅうこの店に来る。一緒にくるメンバーは、いるときといないときがあり、人選もわりとランダムだ。そのとき近くにいた人を誘うことが多い。

 日々は慌ただしくすぎて、はじめは不安だったテニス部での生活にもすっかり慣れた。監督とのやりとりもストレスなく続けられるし、それぞれの好みに合わせたドリンク作りも、今はたやすい。
 事故や怪我の多いことや、ついていかれなくなった者が次々と腐り、ドロップアウトしてゆく過酷さは未だに肌になじまないがしかし、テニス部で過ごす日々は、わたしにとってとても大切なものとなった。皆がすきだった。
 支給されたラップトップパソコンのデスクトップ画面と、わたしの携帯電話の待受画面には、皆と撮った写真が設定されている。

「へえ、柳んちペンション持ってんの。どれどれ」

「今年の合宿時期は親戚の方が使うから借りられないみたいだけど、来年の合宿とか、ほかにもなにかイベントがあれば使っていいって」

 隣に座る丸井くんが、スマートフォンのディスプレイを覗き込むために、わたしの肩に顎を乗せる。肩を組んだり、頭や肩を顎置きにするのは、彼の専売特許だ。きれいにセットされた赤毛が頬をくすぐる。

「ていうかおまえ、幸村くんと毎日連絡取り合ってんの?見るたびトップにいるんだけど」

「わ、丸井くん、わき腹をつつかないで」

「丸井にも用があれば連絡するんだけどな」

「つまり用無し。ご愁傷様ナリ」

 おかしくって、わたしは声を上げて笑う。肩が揺れて、丸井くんの肩とぶつかる。仁王くんがストローの包み紙で作った芋虫は、いつのまにか水を被り、テーブルの上で伸びている。幸村くんは器用にパンケーキを片付けてゆく。幸村くんは、こうしていると、非常におっとりとして見えた。
 毎日というわけじゃないけれど、実際、幸村くんとは頻繁に連絡を取り合っている。花が咲いたこと、借りた本の感想、夜光虫で光る海を見たいとか、描いた絵のこと、部活のこと。

「そういえばおまえさん、三年から告られとったろ」

 それは確かに先日起きた出来事で、関東大会の直後のことであった。相手は部内の三年生で、あまり話したことはないが、しかし、片付けや荷物持ちをよく手伝ってくれる気立のよい人だった。食洗機が使えないスクイズボトルを給湯室で洗っているときで、やってきた彼はしばしの沈黙のあと「すきだ」と低い声で言った。交際を申し込むでも、返事を求めるわけでもなく「意識してくれたらうれしい」とだけ言うと、そのままわたしを置き去って行ってしまった。食洗機のうぉんうぉんという音と、出しっぱなしだった蛇口の水の流れる音がうるさかった。そのあとは、特になんの接触もない。
 わたしはそのとき、わたしが女子で、ほかの部員はもれなく全員男子であるということをはじめて意識した。そして、男女の友情というものが、まったくのまやかしではないとしても、想像以上に脆く不安定なものであるかもしれないと考えて、胸がきゅうとせつなくなった。

「仁王くん、知ってたの?」

「風のうわさじゃ」

「それで、きみはどう答えたの?」

「……ううん、なにも。答えを求めるようなかんじでもなかったの」

 グラスのなかで氷が溶け、ころん、という軽快な音を立てる。わたしはグラスの汗を両手でなんとなく拭いながら、もごもごと口ごもる。

「よかったな。おまえ危うく退部になるところだったぜい。うちの部、恋愛禁止だから」

「え、そうなの?」

「うそだよ。丸井、みょうじをからかわない」

「もう」と呟き、わたしはパンケーキの最後のひとかけにピンクソルトを振って、口へと運んだ。
 恋愛禁止。ほんとうにそうだったら、皆はどうしていただろう、わたしは、どうしていただろう。誤解を恐れて、今みたいには一緒にいられなかっただろうか。しかし、おかしなはなしだ。だって、人をすきになる気持ちは、禁じられたって止められるものではない。たぶん。

「男女の友情って、ないのかな」

 わたしの疑問を三人がそれぞれの言葉で否定したのは、ほぼ同時であった。

「まさか」
「あるからしょっちゅう遊んどるんじゃろ」
「ばかだなあ、おまえ」

 丸井くんがわたしの頭をわしわしと撫でまわす。仁王くんは食べ飽きたのか、頬杖をつきながら、果物やパンケーキを隣の幸村くんの口へ運んでいた。口元がゆるく弧を描いている。

「ふたりとも、いい機会だから彼女をたくさん褒めてやって。俺が言ってもまったく響かないんだ」

 幸村くんはそう言ってくすくすと楽しげに笑った。肩の上で波打つ髪の毛も、ふわふわと揺れる。幸村くんは、ほんとうによく、わたしのことを褒めてくれる。ごくスマートに。なんでもないこと、というように、さらりと。
 その理由に切り込んでみた日のことを、よく覚えている。関東大会目前の、六月の終わりごろのことだ。



 イヤフォンを片側だけつけて、わたしはその日のトレーニング風景の映像を見ていた。準備室の作り付けのデスクは日入りの悪い窓に面していて、非常によいぐあいに手元を照らしてくれる。明る過ぎないのが好ましい。電気をつけないままここで作業をする時間が、わたしはとてもすきだ。

 モニターのなかには姿を認められなかったが、カメラの近くにいたらしい幸村くんの声が、耳にダイレクトに流れ込んできた。電子機器を通すと幸村くんの声は、じかに聞くよりもっとやさしくなる。
 場面は切り替わり、今度は他校との練習試合の風景になる。ピックアップすべきところはすでにさらってあるので、そこまで飛ばしてしまおうとシークバーをスライドさせると、映像は幸村くんの横顔という画からふたたび流れはじめた。

「ずいぶん集中してるね」

 今度はイヤフォンをしていないほうの耳から、幸村くんの声が届く。先ほどの録画映像で聴くよりも、芯のある声だ。声の方向へ顔を向けると幸村くんの端正な顔が鼻先の触れそうな距離にあったため、わたしは驚きのあまりひゅっと息を飲み、そのあとは声も出せなかった。

「顔、真っ赤だよ」

 後ろめたいことなどないはずなのに、こっそりと覗き見をしていたかのような気になって、どきどきしてしまう。生で見る幸村くんは、映像で見るよりも、さらにきれいだ。

「最近どう?疲れた顔をしているけど」
「だいじょうぶ。毎日楽しくやってるよ。幸村くんたちのおかげ」

 幸村くんはこちらを見つめたまま口を開かない。わたしの言葉の続きを待っているようだった。「ええと」と呟いたが言葉が続かなかったため、そのまま少しのあいだ、わたしたちはお互いを見つめあう。彼の瞳を見ると、わたしは嘘がつけない。

「あの、でも、不安なの。少しだけ」

「不安?」

「うまくやれているかどうか。マネージャーはひとりだけだから、なにが正解なのかわからなくって。なにをどこまでがんばれば正解なのかなって、ちゃんとできているかな、なじめているかなって。少しだけ」

 部員が持ち回りでやっていた雑務を引き取っただけなので、わたしが日々行なっていることは、無論、皆がこなせることである。いたほうがいくらか便利、という身分のわたしは、はたしてどんな顔をしてここにいればよいのか、たまにわからなくなってしまう。

「じゅうぶんやっていると思うけど。皆、ずいぶん助けられているよ。プレーヤーが自らの役割に専念できるようになって、部全体のモチベーションもパフォーマンスも格段に上がってるんだ」

 幸村くんは、ミーティングテーブルのわきからキャスター付きの椅子を持ってくるとそれに腰を下ろして、わたしの顔を覗き込むように首を傾ぐ。

「信じていないって顔だ」

 整髪料だろうか。すずらんのような、清潔で可憐な甘いかおりがする。ジャスミンのようなバルサミックな華やかさも認められた。ホワイトフローラル、と片付けてしまうにはもったいない、複雑で優雅なかおりだった。

「幸村くんはいつも褒めてくれるね」

「きみはいつも、自信がないって顔をしているだろう。だから、俺がきみのいいところをたくさん証明しようと思って」

 なんでもないこと、というように、幸村くんは言う。

「自分を信じられなくても、きみは、きみを肯定する俺を信じればいい」

 わたしはゆっくりと瞳をまたたかせながら、幸村くんを見つめ返した。
 幸村くんの言葉を思い出す。「わかりやすくて助かる」とか「きみのおかげだ」とか、彼が日々送ってくれる、たくさんの言葉を。

 日々しゃかりきにがんばる皆を見て、なにかに打ち込む人々を見て、わたしはいつも、少し恥ずかしくなる。後ろめたい気持ちになる。ぼんやりと生きてきた。自信がないのは、自信を持つだけの理由がないからだ。


 部活を終えたあと、わたしは幸村くんの自宅の庭の、四坪ほどもある温室のなかにいた。コンクリート引きの床の上には部分的にラグが敷いてあり、入り口でスリッパに履き替える必要があった。壁面はプラスティックシートではなく、きちんとガラス張りになっており、真っ白な金属フレームもうつくしい。
 足元では大小さまざまなプランターに色とりどりの花が植わっている。ハンギングバスケットのメインは紫陽花で揃えられていた。
 立派なイーゼルには描きかけのカンヴァスが立てられていて、そのわきのワークテーブルにはたくさんの画材が置かれている。油彩絵の具。何本もの筆。月あかりをうけて光る、ペインティングナイフ。

「ようこそ、俺のアトリエへ」

 間接照明のスイッチが入れられて、室内があたたかな光で満ちた。幸村くんに促されて、ソファベッドへ腰を下ろす。高く伸びたフレームには厚手のシフォンのカーテンが掛けられており、ガラス張りの温室のなかで、ここだけは目隠しができるようになっている。

「すごい……! 秘密基地みたい!」

「よろこんでもらえてよかった」

 室内をひとしきりを見学したあとは、隣り合って話しをしたり、幸村くんの描いた絵を見せてもらったり、おもてへ出て、彼の自慢のガーデンを見せてもらったりした。以前ふたりで出かけたときに連れ帰ったばらは、ちいさなプランターに植え替えられてアトリエ内のチェストの上に飾られている。
 花や、本や、それぞれのすきなうつくしいもののはなし。話題は尽きなかった。わたしも幸村くんも、よく笑い、よく喋った。

「ここは特別な場所なんだ。きみ以外には、俺と家族しか入ったことがない」

「そんなに大切な場所に、わたしなんかを連れてきてよかったの?」

「きみに気持ちを伝えるには、今は言葉より、こっちのほうが適しているかなって思って」

 ほのかな星あかりに手のひらを透かしながら、幸村くんは言葉を紡ぐ。

「きみをたいせつな仲間だと思っているし、その動きも、その努力も、評価している。義務感で気にかけているわけではないよ。今は大事な時期で、あいにくそんな暇はないからね。わかってくれたら、うれしいんだけど」

 幸村くんの言葉は、さらさら、さらさら、流れ星のようにわたしの上に降った。天井を仰ぐと、硝子越しに、降るような星空が見えた。


 あれから何度か幸村くんのアトリエを訪れた。芸術鑑賞会の感想を言い合ったり、花殻の摘みかたを教えてもらったりして、ふたりで過ごす時間はごく穏やかに過ぎた。彼は博識で、たくさんのことを教えてもらったけれど、たとえば料理──とはいっても、その種類ではなく、作りかたのほうである──のことなんかはわたしのほうが詳しかった。

 わたしという人間は、あいかわらずぼんやりとしており、自信も持てないままだけど、幸村くんや部活の皆と過ごす時間がすきだから、今まで生きてきたどのときよりも、巡りくる日々を愛しく思う。
 わたしたちテニス部は、来月に全国大会を迎える。