7:ヴィーナス

 試合前、あるいはさなかの、祈るような瞳を見ると、安堵できた。彼女が祈るのは、俺たちの勝利ではない。結実が勝利によってのみもたらされるものだと考えていないからだ。ただひとり、彼女だけは。

「実りある試合になりますように」

 はじめて聞いたとき、なんて彼女らしい言葉なのだろうと思った。努力を強要しない、勝利を強要しない、ただ俺たちが魂へ持ち帰ってこられるものの多い戦いになるようにという、やさしい祈り。
 実りのある試合になりますように。
 彼女はほほえむ。実りある試合。たとえ勝利を結べなくとも。

 プレーヤーとは、つねに非情でならなければならない。王者の誇り。その誉を守るだけでは飽き足らない。神話をただ塗り替えるだけなど、つまらない。
 まったく新しいステージで、新たな神話を紡ぐのだ。無敗の先に光るもの。俺たちの神話。それがきっと、このコートを愛しながら去っていったすべての者へのはなむけであり、俺たちの果たすべき義務である。そう、信じている。


 全国大会は真夏の、気の遠くなるほど暑い日に行われた。照り返しの少ないオムニコートも、信じられないくらいの熱気に包まれて、汗は次から次へと流れた。
 勝利はすとんと俺たちの腕のなかに落ちてきた。達成感がなかったといえばまったくそういうわけではなかったが、当然の結果であると思わざるを得なかった。自信のあるテストの回答を見たときのような、それはある程度わかりきった感動であった。それだけの努力をしてきた。
 ここからはじまる、はじめられる、という高揚感は勝利の喜びよりもはるかに大きく、ちりちりと熱く胸を焦がした。

 駆け寄ってきた彼女が、その勢いのままぎゅうと強く俺に抱きつく。ひどく汗をかいているため抱き返すのもためらわれる、と両手を軽く上げたまま考えているうちに、その身体はするりと離れ、今度はきらきらと輝く瞳が俺を見上げた。彼女の瞳はいつも、星を閉じ込めたように光る。夜の星の、濡れた輝き。

「幸村くん……! お疲れさま、ほんとうに、すごかった……!」

「ありがとう。汗をかいているから汚いよ」

「汚くなんかないよ。ほんとうにすごい、幸村くん」

 俺のポロシャツの裾を握り締めながら、彼女はすごい、すてき、と繰り返した。俺が最後に勝利を無邪気に喜んだのは、いつだろう。いつかまた、そんなふうに勝利を喜ぶときが、来るのだろうか。
 他人の存在を、強さの理由にも、弱さの理由にもしたくはなかったが、勝利のために非情になるときも、自分を追い込み続ける日々も、彼女が俺たちを強く思ってくれることは、非常に尊いことであると感ぜられた。
 実際、彼女をスカウトしたのはそういった役割を期待したからである。底抜けにやさしく、繊細で、勝利のために猛攻を続けなければいけない俺たちの、唯一の盾となってくれる者。俺たちを、俺たちのこころを、抱き、守ることを考えてくれる者。

「ありがとう」

 無邪気に喜べない俺の代わりに喜んでくれること。勝利に固執する俺たちの代わりに、勝ち負けだけがすべてでないと思っていてくれること。俺たちのこころの健康を祈ってくれること。そのすべての感謝の意で、もう一度礼を告げると、彼女はとろけるような笑顔を渡してくれた。

「でも、喜びすぎるのはまだ早いよ。夢はまだ終わりじゃない。これからも続いていくんだ、きみを連れて」

 彼女の瞳が、きらりと輝く。ぱたぱたとまたたく瞳の奥に潜む、強い好奇心の輝きだ。普段は穏やかな彼女の陰に稀に顔を出す、強い意志のいぶきを、俺は好ましく思っている。



 晩夏。アトリエには物が増えた。クッションがひとつ。スケッチブックがひとつ。ひと揃いのちいさな軍手。ネイビーのリボンをあしらった、ミモザ柄のエプロン。はじめて招いた夜以来、彼女は度々ここを訪れるようになった。近ごろはガーデニングにも興味を示しており、あれやこれやと聞いてくるのがかわいらしい。

「寄せ植えのプランターの手入れを一緒にするのはどうかな。一緒なら、きみも気負わずにできるんじゃない?」

「いいの?」

「もちろん。季節が巡ることを、きっともっと楽しめるようになるよ」

 わあ、と歓喜の声を上げて花の咲きこぼれるような笑みを浮かべた彼女は、その日、ガーデニングの本を二冊持って帰った。

 彼女は、花が咲くことをほんとうに喜んでくれる。関心を持って見てくれる人がいるというのは、手入れをしている者からすれば、実にうれしいことであった。


 それから、ふたりで話しをしていくうちに、四季折々のたくさんの予定が生まれた。彼女は「楽しみがたくさん増えてしあわせ」と声を弾ませた。

 秋ばらが咲いたら、ジャムを作ろう。すみれは砂糖漬けにしよう。寒くなったら、アトリエのギャザリングリースを、たくさんのハボタンで作り替えよう。ミモザとスターチスは、スワッグに。
 彼女の笑顔が目に浮かぶ。ほどけるように、ゆっくり。花咲くように笑う人。
 たとえば朝の部室で、ブラインドを開けながら彼女が「おはよう」とほほえむとき、一日のはじめにその笑顔を見られたことを、とてもうれしく思う。