8:潮汐

 元日の早朝、腰越の海岸はたくさんの人々で賑わっている。あたりはすでに薄明るく、世界は今年はじめての太陽を迎えようとしていた。幸村くんは暗いバーガンディ色のチェスターコートに、マスタードイエローのたっぷりとしたマフラーを巻いている。

「すごい人混みだな。大丈夫かい」

「うん、平気。幸村くんも大丈夫? 人混みは平気?」

「平気だよ、ありがとう。はぐれないように気をつけないといけないね」

 この後は一度帰宅し、昼からは真田くんと柳くんも交えて、鶴岡八幡宮へ初詣に行く約束をしてある。これは、武運の神さまの力にあやかるという意味で歴代のメンバーも行ってきた恒例行事であり、前々から決まっていた予定だ。誰かが代表して参拝し、授かったお守りを部室に飾ればよいとのことだったので、今年はわたしが引き受けることにした。ちょうど近くにいた一年レギュラーに声をかけたところ、三人とも二つ返事で同行を請け合ってくれたというわけだ。
 一方で、初日の出を見るのは一昨日の夜に急きょ決まったことで、これは幸村くんとわたし、ふたりの約束だった。ふたりなのは、ふたりきりがよいと思ったからではなく、ほかの人を誘う必要性を特に感じなかったからである。
幸村くんといっしょにいるときの極めて澄んだ空気感が、わたしはとても、だいすきだ。

「片瀬のほうや江ノ島はきっともっと混んでいるだろうし、こっちにしてよかったね」

「そうだな、あ、ほら、見て」

 幸村くんに促され、東の空へ視線をやると、なだらかなカーブを描く山の向こう側から黄金色の光がせり上がってくるのが見えた。日の出の感動に人垣は大きくうねり、幸村くんの腕に縋りつくかたちになってしまう。思わず顔を見上げると、やさしいほほえみが返ってきた。冬の海岸へ行くのでわたしは手袋をしていたし、コートの生地は厚く、その下の身体はきっと冷えているため、それはまやかしにすぎないのだが、頬に、手のひらに、幸村くんのあたたかな体温をしっかりと感じたような気がした。

「そのままちゃんと掴まっていて」

 ちいさく頷いてその腕に身体を寄せたまま、わたしは燦然と輝く朝日を見た。早朝の海岸の澄んだ空気は、幸村くんの涼やかで甘いかおりと混ざりあい、わたしの肺を清爽な冷たさで満たした。


 帰り道に蝋梅を見つけた。蝋をひいたような不思議なテクスチャの花びらの、透けるようなイエローが、朝を迎えて間もない静かな世界を可憐に彩っている。かおりが非常によく、触れると溶けてしまいそうな繊細なうつくしさの蝋梅は、わたしも幸村くんも特別に気にいっている花のひとつだ。

「いいかおり。新年からかわいいお花がいっしょに見られてうれしいな」

「うつくしいのに俯き気味で咲くのがいじらしいし、花言葉が、慈愛、慈しみ、奥ゆかしさというところもいいよね。きみみたいだ」

 ストレートな褒め言葉に、わたしはどう反応したらいいかわからない。顔じゅうが耳まで熱くなるのがわかる。幸村くんは、ほんとうに格好よくなった。わたしやほかの多くの人たちとは土壌が違うのだ。みるみるうちに体つきが変わった。まなざしは変わらない。射抜くような涼しい瞳。ほほえんだときの瞼の、くちびるの、やわらかい曲線。
 幸村くんにはわたしを困らせて喜ぶ悪癖がある。抗議をすれば「そんなつもりはない」と、彼は笑うだろうけれど。

「久しぶりにゆっくりできた気がするな」

「そうね、幸村くん、ずっとがんばっていたから。プレッシャーを楽しむタイプでもないと思うし、無理はしすぎないでね。神の子だって人の子だもの」

「神の子も人の子か。きみらしいな」

 幸村くんがちいさく声を上げて笑う。笑うとき、顎に指を添えるのは彼の癖だ。

「せめて、わたしの前では等身大の幸村くんでいてほしいの。役割とか、責任とか、そういうものから解き放たれて。わたし、みんなにとってそういう存在になりたいな。だって、ずっと臨戦態勢だと、つかれちゃうでしょう」

 わたしの言葉を受け取ると、幸村くんは慈しむように瞳を細めた。冷たい風が彼の髪の毛を揺らす。ジャスミンにすずらん。その陰にひそむ、ヴァニラとローズ。その奥にはやわらかな白檀のかおり。このかおりが、ヘアオイルにほんの少量のヘアワックスを混ぜ込んでできているのだと、今のわたしは知っている。

「せっかく咲いた花を摘み取りたいと思うのは、なぜだろうね。目の届くところに置いておきたくて、たまらなくなるのは」

 そうこぼす幸村くんの横顔は、とてもうつくしかった。来年も、その先もこの人を見つめていたい。わたしは漠然とそう思う。




 昼すぎ、わたしたちは参拝を終えて、大混雑の雪ノ下にいる。

「皆はなにかお願いした?」

 雑踏に負けないよう、大きめの声でわたしが言うと、隣を歩く柳くんがちいさく笑った。わたしは幸村くんと柳くんのあいだを、守られるように挟まれて歩いている。真田くんは幸村くんを挟んで隣にいるが、体格がよいので、その姿はここからでもきちんと見ることができた。柳くんと真田くんは身長も体重もあまり変わらないのに、筋肉のつき方が違うのか、元々の骨格の問題か、まったく違うというふうに感じる。

「どうやら勘違いをしているようだな。本来参拝とは、願いを託すためではなく、神へ日々の感謝を伝え、己の精進や決断を誓い、その加護を与りたいと祈願するものだ。己自信と向き合う場所、誓いを立てる場所というのが正しい」

「そ、そうなの? どうしよう、恥ずかしいことしちゃった」

「罰は当たるまい。正月くらいよいだろう」

「同感だ」

 フォローしてくれた真田くんの言葉に、柳くんもやさしく頷いてくれる。幸村くんは屋台で購入した銀杏を、慌てふためくわたしの口へ運んでくれた。ちょうどよい塩気でとてもおいしい。銀杏は一度にたくさん食べるとお腹を壊してしまうからという理由で、幸村くんが代表して管理──といっても、気まぐれに皆の口内へ運ぶだけである──をしている。
 ほかにも境内にはたくさんの出店が並んでおり、わたしは米麹の甘酒を買って飲んだ。甘酒はやさしい、お汁粉のような味がした。

「きみも、すっかりマネージャー然としたね」

 授かったお守りを眺めていると、幸村くんの声が降ってきた。マネージャー然というのが具体的にどのようなことであるかはわからなかったが、今はわたしも自分自身を、たとえプレーヤーでなくとも、皆の一員であると感じている。それはこの環境に慣れたためと、なにより、皆がこうして思いを言葉にして渡してくれるからだ。
 わたしは皆のことを誇りに思う。そして彼らのやさしさが決して損なわれないよう、戦いにゆく皆の大切なものを、束の間、預かり守る役目であると思っている。

 幸村くんの言葉からややあって「頼もしく思っている」と真田くんが言った。柳くんと幸村くんはほほえむのみだったが、その瞳のやさしさに、確かな信頼を感じる。わたしたちはもうすぐ後輩を迎えて、二年になる。春になり、季節の巡りはいずれ別れを運んでくる。ずっとこのままでいられればいいのに、と思う。それがこどもじみた願いであると、わかってはいても。


 わたしたちはコンビニエンスストアで温かい飲み物を買い、海辺の公園でしばらくのあいだ会話を楽しんだ。夕飯はそれぞれの家で食べることになっていたので、そろそろ切り上げようかと三人が立ち上がる。後に続こうと、スカートの後ろを払いながら腰を上げたときだった。幸村くんがこちらを振り返りながら言う。後ろで指を組んでおり、なにやら楽しげに見えた。

「そう言えば、明後日なんだけど、真田の家で書初めをすることになったんだ。よかったらきみも来ないかい」

「すてき! わたしも行っていいの?」

 嬉々として聞き返すわたしに向けられたほほえみの、ほんの少し勝気なニュアンスに、思わずどきりとしてしまう。

「きみがいなくちゃ、はじまらないだろ」

 日暮れの準備をする海原の潮騒にも紛れない、透き通ったまっすぐな声。声に色があるとするなら、幸村くんの声はきっと、薄暮の空の、すみれを差した複雑なブルーだ。タンザナイトのようにうつくしいグラデーション。夜の予感。あるいは朝の。変わりゆくものを見守る、強さとやさしさの色。

 満ちてゆく。満ちて、満ちて、少しも引かない潮のように、わたしのこころはずっと、ずっと、なにかに胸を高鳴らせている。皆と出会ってからの満ち足りた日々。わたしはこの幸福が怖くもある。もらうばかりで、満ちるばかりで、うれしいことばかりを知ってしまって、いつか決壊のときが訪れるのではないかと。
 どんなことにも満ち引きがあると心得て、注意深く生きてきたつもりなのに、わたしは今、気がつけば幸福の絶頂に立っている。それはやはり、考えれば考えるほど、おそろしいことだった。