ボーダー本部内に形ばかり設けられた外務・営業部室は、実質、唐沢が本部に足を運んだ際の休憩室になっている。最初期の外回り三昧が落ち着き、ようやく設けられたこの部屋の主人になって一年以上が過ぎたが、未だに馴染みがなかった。
開け放した窓から風が入り込み、カーテンを揺らしている。唐沢は今まさに部屋を出ようとしていた青年に声をかけた。
「傘を持っていったほうがいいよ、迅くん」
怪訝そうな視線が向けられる。迅の手はまだドアノブにかかったままだった。疑問が素直に現れている。そういう仕草はまだ幼さがあって、唐沢は椅子に座ったまま微笑んだ。
「玉狛に戻るんだろう? 雨が降る」
「……そんな未来は――」
迅の言葉が不自然に途切れて、その虹彩が一瞬、煌めいたように見えた。ぱちぱちと瞬きをした彼は、唇に笑みのようなものを乗せて唐沢を見る。
「今、視えました」
「そこにある傘、使っていいよ。買い置きしてるんだ」
扉近くの傘立てには数本の傘が入っている。迅はそれを見遣ってから、けれど手を伸ばさず唐沢に視線を戻す。
「どうして分かったんです?」
「ラグビーは雨でもやるからね、敏感なんだ」
「それは……」
探る瞳が唐沢に向けられていた。唐沢と迅はあまり相性が良くない。いや、ある意味では良い。けれど、互いに油断ならないという意味では、やはり良くない。似ている、と言えば迅に失礼かもしれないが、近しいものは感じていた。相手の言葉ひとつひとつを拾い上げて、そこからより情報を得ようとする。暗躍が趣味というのも頷ける性質だった。どちらが先に身についたのかは知らないが。
「きみの予知ほど絶対なものじゃないけどね」
「おれの予知も、絶対じゃないですよ」
「それは失礼」
「……傘、お借りします」
「どうぞどうぞ」
紺色の紳士傘を抜き取って、迅は唐沢に苦笑を向けた。
「さっきの、おれが菊地原だったらウソかホントかわかるんですけどね」
「俺が彼でもきみのウソは見破れないだろうね。動揺なんてしてくれないだろう?」
「……唐沢さんって、ほんと……」
苦笑が引きつって見えたのは気のせいではない。まだやり込めることができることに、大人気なく安堵した。それもこれも大人ぶる迅が悪いのだ、と告げる権利はないだろう。迅を大人として扱っているのは唐沢たちだ。
「これは例え話ですけど――」
「ん?」
「例えば、ウソを見破るサイドエフェクトなんてものがあったら、どうします?」
「未来視、感情受信体質、強化聴力に続く、非常に有用なサイドエフェクトだと評価するかな」
迅の未来視、影浦の感情受信体質、菊地原の強化聴力。それらのサイドエフェクトは、なにも戦闘にだけ役立つものではない。迅は言わずもがなとして、影浦の感情受信体質も、相手の本音が突き刺さる。菊地原の強化聴力は相手の生理反応さえ追えるというから、心音の変化から感情を読み取ることも可能だろう。実に交渉向きのサイドエフェクトだ。当人たちにその思惑があるかはわからないが、そのうち上に近づけば利用する気でいた。影浦に関しては本人の性格から交渉には向かないが。
「でも、本当にそんなものがあったら、おれも唐沢さんも立つ瀬がなくなりますね」
唐沢も、迅も、嘘つきだから。嘘つきがために、嘘に敏感で――重宝されている。
言外に含まれた意図を汲み取って笑った。挑戦的な、けれど曖昧な言葉。その裏を暴きたくなるから、やはり唐沢と迅は似ているのだろう。
「現れる未来が視えたかい?」
「……いいえ」
迅はにやりと笑った。その視界を唐沢は伺い知ることはできない。嘘を見破るサイドエフェクト。もしもそんなものが実在するならば、それはボーダーという組織を、組織として強くすることに役立つだろう。ひいては、その役目を担う唐沢の。
「唐沢さんは分かりそうですけどね。嘘か本当か、サイドエフェクトがなくても」
「分かっていたら、きみにこうも悩まされることはないよ」
みえているのかいないのか。全ては迅だけが知っている。
唐沢と迅はよく似ていると、やはり言えるだろう。言葉の裏を読もうとし、相手を騙ろうとし、真実と詭弁をうまく使い分ける。大きな組織が動く裏で、ひそやかに動いている。
けれどもしも本当に、嘘を見破るサイドエフェクトがあったとして。それが本当に、唐沢や迅の立場を脅かすことはないだろう。嘘をつかずに利用する方法を、きっと互いに知っている。
「……で、本当の理由は何かあるんですか?」
「何の?」
「雨が降るのがわかる」
「ああ……」
そういえば、そんなことからこの会話は始まったのだった。唐沢はすこし考えて、一度伏せたことをやはり明かすことにした。元々、迅に語りたくない理由があるわけではなく、ちょっと煙に巻いてみたくなっただけだ。ここらで暴かれてやるのが年長者というものだろう。
「痛む……疼くんだよ、古傷が。雨が近くなるとね」
左の脇腹に、痛いというにはかすかな違和感がある。もう随分と昔の傷のはずなのに、それは雨が近くなると主張する。雨の日に負った傷だからというのは関係しているのだろうか。
「……それ、太刀川さんには言わない方がいいですよ」
「一応聞くけど、どうしてだい?」
「『なにそれかっけぇ』って、言い始めるので」
「予想通りの理由だ」
くっ、と笑った唐沢に、迅も深く息をついて頬を緩めた。今日はこれで終わりだ。どちらからとなく理解する。
「お大事に、唐沢さん」
古傷とは言ったけれど、迅はそれを告げて扉を開ける。ありがとう、と返して、唐沢は部屋を出て行く迅を見送った。
つき、と、脇腹の違和感が強くなる。窓の外を見れば、ぽつぽつと降り出したところだった。部屋の中が濡れないように、窓を閉める。
脇腹を貫いたのは鉛の雨――銃弾だった。撃たれたから嫌いなのか嫌いなものに撃たれたのか、その境ははっきりとはしていないけれど、唐沢が撃たれたという事実は今もなお残っている。人前でシャツを脱げないくらいには、露骨に。
前職を思えば、今の唐沢は平和な場所にいる。迅との腹の探り合いさえも、唐沢にとっては遊びのような、楽しみの一つだ。そこに命の削り合いや、賭けはなくて、だから安心して意味深長な言葉を交わすことができる。
まだ銃はお嫌いですか。
いつか耳にした言葉が頭の中で響く。嫌いだとも。心の中で答えた。
脇腹に残った醜い傷痕は楔にも似ていた。唐沢を向こうの世界へと留める、こちらの世界へは逃さない、そういうものだった。銃痕が残る限り、唐沢と向こうの世界の縁は途切れないだろう。途切れさせるメリットもないので、別に構いやしないのだが。
ただ、向こうの世界と繋がっていれば、こちらの世界に染まりきることもない。こちらの世界で、肌を晒して誰かと親しくなることも、ないだろう。向こうの世界のことは明かせない。
――別にそういう相手がいない以上、大して気にしてはいないけれど。
「……さて、そろそろ行くかな」
外回りの時間だ。いつまでも部屋に閉じこもっているのは、性に合わない。唐沢は扉近くの傘立てから適当な傘を取り出して、部屋を後にした。